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2013-07-31

枚岡神社

枚岡神社は、大阪府東大阪市出雲井町に鎮座。
河内国一宮です。
延喜式神名帳河内郡枚岡神社四座名神大月次相嘗新嘗」にあたる。

祭神
    第一殿 天児屋根大神
    第二殿 比売神
    第三殿 経津主大神
    第四殿 武甕槌大神
 摂社 若宮社
  御祭神 天忍雲根大神
 末社 天神地祇
  御祭神 天津神国津神

御由緒
 社伝によれば、神武天皇御東征の砌、紀元前三年国土平定祈願のため、天種子勅命を奉じて現社地の東方山上の霊地神津嶽に、天児屋根大神比売神の二柱の神霊を奉祀せられた、その後孝徳天皇白雉元年(650)平岡連等が、現社地に神殿を造営、山上より二柱の神霊を奉遷し、次いで光仁天皇宝亀九年(778)香取鹿島より、経津主大神武甕槌大神を勧請奉斎して以来、四柱の神霊が四殿に御鎮座になっている。悠久限りなき上代勅旨にて創祀せられた故を以って、古来朝廷の尊崇最も厚く大同元年には封戸六十戸を有し、貞観年中に神階正一位を授けられ、同時に春秋の勅祭に預り奉幣を受け、之を以って永例と定められ、更に延喜の制成るや大社として三大祭に案上の官幣に預り、名神祭、相嘗祭の鄭重なる祭祀を受け、殊に春冬の二回勅使を遣わされて厳粛なる枚岡祭を行わせらるる外、随時祈雨祈病大祓等の祈願奉幣に預る等、最高の優遇を受けた。
 中世より河内の国一の宮として御社運益々繁栄し河内一円の諸衆を氏子とし、武家公家、庶民に至るまで根強き信仰を集め、明治四年神社制度が確立されるや、官幣大社に列格され御神威は益々高揚しその後幾多の変遷を経たが、創祀以来二千六百有余年の由緒を誇る大社としての格式と尊厳を保持し、今日に至っている。
 尚摂末社として若宮社、天神地祇社が御鎮座になり、その南方の神苑には数百株の梅樹が植栽され、季節には参拝者の目を楽しませている。

「境内案内」より


二ノ鳥居
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境内
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拝殿
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中門
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[摂社] 若宮社
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[末社] 天神地祇
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2013-07-30

吉田寺

清水山 吉田寺は、奈良県生駒郡斑鳩町小吉田にある寺院。
本尊と多宝塔が重要文化財に指定されています。

■吉田寺の縁起
創立は古く天智天皇の勅願と伝えられ、本堂西側に天皇の妹君・間人内親王を葬るといわれる清水の古墳がある。
永延元年(987)に恵心僧都源信が開基した。
通称「ぽっくり往生の寺」「ぽっくり寺」とよばれている。

■ぽっくり往生のいわれ
孝心の厚かった恵心僧都が、母の臨終の善知識となり、除魔の祈願をした衣服を着せてあげられると、なんの苦しみもなく、称名念仏のなかに往生の素懐をとげられた。
その後、僧都は亡き母の三回忌追善と末世の衆生救済のため、清水の森に生えていた栗の霊木を伐り、一刀三礼、念仏のなかに作られたのが、本尊丈六阿弥陀如来である。
この由来により御本尊前で念仏を称え祈祷をうけると、長く病み患うことなく、腰・シモ・スソの世話になることなく、延年天寿を保ち最後臨終の時にも、痛み苦しみなく、安らかに、阿弥陀如来のお迎えが得られ、極楽往生をとげることができるという信仰が古くからある。

「境内案内」より抜粋


山門
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本堂
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多宝塔
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2013-07-29

辛國神社

辛國神社は、大阪府藤井寺市藤井寺に鎮座。
式内社志紀郡 辛國神社」に比定される。
また、式内社志紀郡 長野神社」が合祀されている。

祭神
 饒速日命
 天児屋根命
 素盞鳴命

 当神社の創設は古く、今から約千五百年前の雄略天皇の時代に創設された式内社であります。
 日本書紀雄略天皇十三年春三月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とあり、この地方を治めることとなった物部氏が、その祖神饒速日命を祀り神社を創設したのが当社の始まりです。社名の由来は異説種々ありますが物部氏の没後、同氏一族の辛國連が、当社に深くかかわることとなり、辛國神社と称するようになったと伝えられています。
 また、史書三代実録には「清和天皇貞観九年二月二十六日、河内国志紀郡辛國神を官社に預る」とあり、平安時代には格式ある官社に列せられています。その後室町時代に 河内守護職であった畠山基國氏が、社領二百石を寄進のうえ奈良春日大社から天児屋根命を勧請合祀し、さらに明治四十一年には近くにあった長野神社のご祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っています。

「由緒書」より


鳥居
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社殿
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春日天満宮
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春日稲荷
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2013-07-28

葛井寺

葛井寺は、大阪府藤井寺市藤井寺にある寺院。
山号は紫雲山
西国三十三所や神仏霊場巡拝の道の札所になっています。

 河内飛鳥時代百済からの渡来者によって繁栄したこの付近も王仁一族の辰孫王が葛井連と改姓し氏寺として創建した葛井宿弥‐葛井給子‐葛井道依‐藤継子平城天皇妃)‐阿保親王在原業平と次々に葛井氏系により伽藍の建設がなされた。勧進帳によると当時は約2卻進の境内に東西両塔がそなわり七堂伽藍を有していた。
 神亀二年(725)聖武天皇が稽文会。稽首勲(春日仏師)父子に命じて千手観世音菩薩を造像させた。その入佛開眼法要には藤原朝臣房前を勅使として僧行基菩薩を導師として勤められ紫雲山金剛琳寺と勅号を下された。
 南北朝時代には後醍醐後村上天皇帰依され楠正行公が正平二年(1347)自軍七百余兵を率いて当寺に屯し細川顕氏七千の兵を破った「藤井寺合戦」 この時大般若経六百巻を書写して守刀一振。非理法権天の菊水旗を奉納し戦勝祈願を行っている。 花山法王(六十五代天皇西国観音霊場巡禮され当寺に奉拝されるや
  参るより 頼みを可くる ふぢい寺
    花のうてなに 紫の雲
 と詠まれました

 永正七年(1510)八月八日大地震により伽藍諸堂倒壊する。
 同年十一月諸国に大勧進し修復に興す。

「境内案内」より


四脚門
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南大門
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境内
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大師堂
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2013-07-27

道明寺天満宮

道明寺天満宮は、大阪府藤井寺市道明寺に鎮座。
神仏霊場巡拝の道の第58番です。

 菅原道真のゆかりの神社で、古墳造営など土木技術に長じた土師氏の氏神として成立したとも考えられる。古くは土師神社と称し、祭神として天穂日命菅原道真菅公の伯母覚寿尼を祀っている。菅公の遺品として銀装革帯(ベルト)や青白磁円硯など平安時代の美術工芸の代表作が伝えられており、国宝に指定されている。
 広い境内には、80種800本の梅林があり梅の名所として知られるほか、三つ塚古墳集濠より出土した修羅の復元品がある。

「境内案内」より


鳥居
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社殿
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元宮 土師社
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白太夫社
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霊符社
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白光社
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八嶋社
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2013-07-26

中宮寺

中宮寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。
神仏霊場巡拝の道の第27番です。

 当時は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現在の東方五〇〇メートル程の所に土壇として残って居ります。昭和三十八年の発掘調査により、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置の伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍四天王寺式であるのに応ずるものと云えましょう。而も其の出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)と同系統のもので、法隆寺は僧寺、当寺は尼寺として初めから計画されたと思われます。国宝菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)は其の金堂の本尊で、天寿国曼荼羅は、講堂の本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。
 その後、平安時代には寺運衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して菩薩半跏像のみ居ますと云った状態でありました。鎌倉時代に入って中興信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅法隆寺宝蔵内に発見して取り戻すなど、いくらかの復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。室町時代のことは殆ど判りませんが、旧地よりその時代の古瓦が出土することから、その頃まで法燈が続いていたようであります。ところが、たびたび火災に遭い、法隆寺東院の山内子院に避難し、旧地への再建ならず、ここに後伏見天皇八世の皇孫尊智女王(慶長七年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡斑鳩御所として次第に寺観を整えたのが今の伽藍であります。
 宗派は、鎌倉時代頃は法相宗、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりましたが、依然大和門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えております。我国の尼寺の数は少なくありませんが、創建の飛鳥時代このかた千三百年余年の永きに亘り、尼寺の法燈を続けているのは実に当寺だけであります。

リーフレット」より


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2013-07-25

法隆寺

法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。
日本人なら誰でも知っている寺院ですね。
参拝時もたくさんの修学旅行生や団体が来ていました。

 法隆寺飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。その創建の由来は「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747)の縁起文によって知ることができます。
 それによりますと、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを請願されましたが、その実現をみないままに崩御されたといいます。そこで推古天皇聖徳太子用明天皇のご遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊薬師如来」を造られたのがこの法隆寺斑鳩寺とも呼ばれています)であると伝えています。
 現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。広さ約18万7千平方メートルの境内には、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、たくさんの宝物類が伝来しています。国宝重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでいます。
 このように法隆寺聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶかがやかしい伝統を今に誇り、とくに1993年12月には、ユネスコ世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています。

リーフレット」より


南大門
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参道
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中門
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金堂と五重塔
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大講堂
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2013-07-24

神岳神社

神岳神社は、奈良県生駒郡斑鳩町神南に鎮座。
延喜式神名帳平群郡の神岳神社に比定される。

須佐之男命を祀る。旧村社。「延喜式神名帳平群郡の神岳神社に比定。同帳金剛寺本はカムヲカと訓ずる。神岳は三諸山神奈備山と同義語で(「万葉集」巻三)、三室山も三諸山のことである。しかし平群郡の神奈備山については、現三郷町龍田大社付近とする説もある。俗に牛頭天王社と称し、本殿は一間社流造・檜皮葺で、築造時期は江戸初期を下らないと推定されている。

「寺院神社大辞典」より抜粋


鳥居
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拝殿
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本殿
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市杵島神社
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稲荷神社
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2013-07-23

廣瀬大社

廣瀬大社は、奈良県北葛城郡河合町に鎮座。
延喜式神名帳広瀬郡の「広瀬坐和加宇加売命神社名神大、月次新嘗」とされ、二十二社の一。

 廣瀬神社は、奈良盆地の多くの河川が合流して大和川となる水上交通の要衝に位置しています。神社西方には明治の中頃まで「川合浜」という船着場があり、物資の集散地として賑わっていました。
 『河相宮縁起』では崇神天皇の時代に創建されたとされ、『日本書紀天武天皇四年(675)条に、龍田の風神とともに祭祀をおこなった記事が見られます。その後、戦国時代に途絶えるまで毎年四月と七月に朝廷より使者が遣わされ、祭祀が行われていました。戦国時代から江戸時代初期にかけて一時衰退しますが、元禄年間に復興し、旧廣瀬郡の総氏神として広く崇敬を受けるようになりました。祭神は主神が大忌神の異名を持つ若宇加能売命で、水の神、水田を守る神、五穀豊穣の神として篤く信仰されています。
 神社に伝わる絵図「和州廣瀬郡廣瀬大明神之圖」は室町時代に描かれたと推定されますが、この絵図には八町四方の四至に鳥居を建てた広壮な姿が描かれています。また、本殿は三殿が並ぶ姿に描かれ、相殿に櫛玉比売命と穂雷命 を祀っています。永正三年(1506)の戦乱により往時の建物は灰燼に帰したと伝えられます。現在に残る最古の建物は、正徳元年(1711)に造営された本殿です。
 この本殿は一間社春日造の様式をよく伝えるものとして、昭和六十三年(1988)三月二十二日に奈良県指定文化財に指定されました。
 毎年二月十一日に行われる砂かけ祭りは「オンダ」とも称される御田植祭で、砂を雨に見立ててかけ合い、五穀豊穣を祈る祭りです。この祭りは河合町の歴史を考える上で重要なものとして、平成二十一年(2009)十二月十一日に河合町指定文化財に指定されました。

「境内案内」より


一の鳥居
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参道
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二の鳥居
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拝殿
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本殿
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日の丸大明神
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日吉社
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祖霊社
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祓戸社
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2013-07-22

龍田大社

龍田大社は、奈良県生駒郡三郷町立野南に鎮座。

式内社「龍田坐天御柱御柱神社二座名神大、月次新嘗」に比定され
二十二社の一に列せられる。

 旧社格は官幣大社である。その祭神天御柱命国御柱命の二神である。
 『延喜式祝詞に、崇神天皇の御代に万民が悪風洪水に苦しんだとき、「吾が宮は朝日の日向う処、夕日の日隠る処の立田の立野の小野に斎き祀れ、かくなせば永長の凶作も豊穣し、悪疫流行も自ら終息すべし」とご神示のあったところから、天皇が立田の宮を創建し給うたと伝えられる。
 さて祭神だが、天御柱命国御柱命は『古事記』などの神話には出て来ない神である。天御柱命の別名は志那都比古神といい、国御柱命は志那都比売神という。志那都比古神は『古事記』上巻の伊弉諾尊伊弉冉尊より生まれた神で、風の神であると書かれている。『日本書紀』の一書には、伊弉諾尊が吹き出した息から、風の神の級長戸辺神(またの名を(級長津彦命)が生まれたとある。
 志那とは、息が長いという意味で、古代の人々は風は風の神の息から起こるものと考えていたので、この名が出たといえよう。だから竜田の神は風の神といえるし、竜田風神・竜田神とも人々は呼んでいた。

「日本の神様読み解き辞典」より抜粋


鳥居
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社殿
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[末社] 白龍神社
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[末社] 龍田恵美須神社
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[末社] 三室稲荷神社
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[末社] 神奈備神社
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2013-07-21

龍田神社

龍田神社は、奈良県生駒郡斑鳩町に鎮座。
延喜式神名帳平群郡の「龍田比古龍田比女神社二座」とされる。

由緒沿革

産土神、風宮龍田神社の御祭神は天御柱大神、国御柱大神の二荒魂と龍田比古之大神、龍田比女之大神、陰陽二柱の皇神である。雨風を鎮め水難、疫病を防ぐ神と楓・桜等の四季を司る神を祀る。五穀豊穣、息災長寿天地萬有厄除の神である 延喜式神名帳所載の龍田地主大神である。他に末社として十二社を祀る。
十代崇神天皇の御代に年穀の凶作が続いた時、帝自ら卜占をもつて占い、天神地祗を龍田山の聖地に祀られた。後聖徳太子が椎坂山で法隆寺建立の地を指示された龍田大明神法隆寺守護神として鬼門除神として法隆寺建立と同時に御廟山(錦ケ丘)南麓の地に移し祀られた。(聖徳太子伝私記より)
中世法隆寺より別当坊三十口を給ふ
龍田三十講、平群四十八郷の産土神として、荘厳なる祭儀を行った神宮である

「境内案内」より


鳥居
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社殿
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境内左手の三社

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事代主神
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白龍大神 市杵島姫命
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廣田神社 粟島神社 祇園神社
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稲荷大明神 楠大明神
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2013-07-20

狹岡神社

狹岡神社は、奈良市法蓮町に鎮座。
延喜式神名帳の添上郡「狭岡神社八座」とされる。

狹岡神社 八座
 中央
  若山咋之神 若年之神
  若沙那蕒之神 彌豆麻岐之神
  夏高津日之神 秋比蕒之神
  久々年之神 久々紀若室葛根之神

狹岡神社 末社
 右側
  天照大神 伊弉諾大神 八幡大神
  住吉大神 春日大神 天満大神
 左側
  事代主神 地主之神 金山彦神

霊亀2年(715年)狹岡神社藤原不比等{娘は聖武天皇后妃光明皇后}が招幣建立
仁寿2年(852年)従五位の下
延喜年間(901年〜923年)延喜式神名帳に記載される。

「境内案内」より


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2013-07-19

法華寺

法華寺は、奈良市法華寺町にある寺院。
神仏霊場巡拝の道 第22番です。

法華滅罪寺縁起略

抑も當寺は人皇第四十五代聖武天皇の御后光明皇后の御創立にして天皇東大寺を建立し給ひ総國分寺として男僧の佛法修行の道場と定められしに倣はせ給ひ茲に女人修行の根本道場を建て皇祖の御菩提と國家平安を祈念せられ天平勝宝五年奈良皇居のほとりに七堂伽藍を造営し給ひ行基菩薩を戒師として御落飾遊ばされ自ら則真と号し給ひて當寺に御坐しまし専ら比丘尼の佛法修行道場と成し之れを総國分尼寺と定め給へり時に天皇行幸あらせられ宸筆紺帋金泥の法華経を納め給ふ困りて寺號を法華滅罪之寺と名付けられしも後世法華寺と略號するに至りしなり

「境内縁起」より


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2013-07-18

宇奈太理坐高御魂神社

宇奈太理坐高御魂神社は、奈良市法華寺町に鎮座。
延喜式神名帳の添上郡「宇奈太理坐高御魂神社大、月次新嘗」に比定される。
残念ながら、門が閉まっていて参拝することができませんでした。。

祭神三座
 高御魂尊(中座)
 天太玉命(東座)
 思兼命(西座)

由緒
延喜式内の大社で月次・相嘗・新嘗の幣に預かっていた。
古文書では、宇奈足とも菟名足とも菟足とも書いている。武内宿祢の勧請と伝えられ「日本書紀」によると持統天皇六年(西暦692)十二月二十四日には、新羅の調を伊勢住吉紀伊、大倭、菟名足の五社に奉るとある。その一社で、この神社神戸正倉院文書の天平二年(西暦730)大和税帳新抄格勅符抄に載っているが、何れも神名は菟名足となっている。
江戸時代には楊梅神社と呼ばれたこともあり、いま「うなたり社」とか「西の宮さん」とか言っているのは近郷だけでの通称の略称である。
本殿は室町時代の遺構を残し、三間社、流造、檜皮葺で、国指定の重要文化財である。
境内一帯は、平城天皇の楊梅宮址とか春日斎宮斎院址とかの学説もある。

「境内略記」より


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2013-07-17

添御縣坐神社(歌姫町)

添御縣坐神社は、奈良市歌姫町に鎮座。
延喜式神名帳添下郡の「添御県坐神社大、月次新嘗」に比定される。

祭神
 速須佐之男命
 櫛稲田姫命
 武乳速命

 当神社は、大和平野中央を貫く古代の下つ道の北端に位置します。そして、大和から歌姫越えで諸国へ旅をする際に、国境に鎮座する手向けの神として尊崇されていました。万葉集左大臣長屋王の詠んだつぎの歌があります。
 佐保すぎて 寧楽の手向けに 置く幣は
   妹を目離れず 相見しめとぞ
 この歌は、大和山城の国境いの神添御懸坐神社を拝し、旅の安全を祈念したものと考えられます。
 当神社は、格のある式内社・御懸社の一つとしてだけではなく、農の神、旅の神として崇敬されてきました。江戸時代には「午頭天王社」「八王子社」として、除災・治病の神としても信仰されてきました。

「由緒書」より


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2013-07-16

文殊院

文殊院は、奈良県桜井市阿部にある寺院。
神仏霊場巡拝の道 第34番です。

 山号は安倍山。有力豪族の安部氏が、一族の本拠地である現桜井市阿部に、氏寺として建立した安倍寺が、安倍文殊院の前身である。その創建は、645年(大化一)にまで遡る。
 崇敬寺ともよばれたこの寺は、大化の改新で初代左大臣となった安倍倉梯麻呂の建立と『東大寺要録』に記されている。



 本尊文殊菩薩は、獅子に乗った総高約七メートルの巨大な像で、日本の文殊像としては最も大きい。四人の眷属を従えた五台山文殊、あるいは渡海文殊とよばれる形式で、「日本三大文殊」のひとつに数えられている。
 文殊菩薩像は、1563年(永禄六)兵火で伽藍が失われたときにも焼失をまぬがれ、1665年(寛文五)に安倍寺満願寺として再興されるにあたって、本尊となった。
 現在の名称に改められたのは、明治神仏分離によって寺院としての存続を決定したおりのこと。廃仏毀釈の嵐のなかで、文殊菩薩像を護り抜こうとの決意からだったという。
 このとき、鎮守として祀られていた白山神社は、ご神体を抜いて大日如来像を安置することで存続がはかられ、現在も境内に建っている。境内にはほかに、遣唐使となった安倍仲麻呂や、陰陽師安倍晴明を祀った堂宇があり、安部一族の氏寺という性格を物語っている。

「神と仏の道を歩く」より


不動堂
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白山
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閼伽井古墳(東古墳
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本堂
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仲麻呂堂 (金閣御堂)
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2013-07-15

西大寺

西大寺は、奈良市西大寺芝町にある寺院。
南都七大寺の一。
平城京の東に東大寺、西に西大寺があった。

 西大寺の創建は奈良時代天平宝字八年(764)に称徳天皇鎮護国家と平和祈願のために、七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まる。造営は翌天平神護元年(765)からほヾ宝亀末年(780)頃まで続けられたが、当時の境域は東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。しかし、その後平安時代に再三の災害に遭い、さしもの大伽藍も昔日の面影をとどめずに哀頽した。
 しかし、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊(1201〜1290)がこの寺に入って復興に当り、創建当初とは面目を新たにした真言律宗の根本道場として伽藍を整備された。いまみる西大寺はほぼこの頃にプランを伝えている。興正菩薩鎌倉時代の南都の四律匠の一人で、当時おろそかになっていた戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行動的に興した人である。したがって、その後西大寺室町時代の兵火などによって多くの堂塔を失ったけれども、興正菩薩以来の法燈は連綿として維持され、現在は真言律宗総本山として、寺宝や宗教的行事によくその寺格と由緒をしのぶことができる。

リーフレット」より


東門
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四王堂
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護摩
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愛染堂
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本堂
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東塔跡と本堂
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2013-07-14

等彌神社

等彌神社は、奈良県桜井市桜井に鎮座。
延喜式神名帳城上郡の「等弥神社」とされる。

鳥見山西麓の能登山に鎮座し、俗に能登宮という。下ツ尾社(下の宮)と上ツ尾社(上の宮)に分れ、上ツ尾社が本社で大日孁貴命を祭神とし、下ツ尾社は本社西下方にあって八幡社(結びの宮)と春日社(磐余明神)を祀る。社伝によると、もとは鳥見山中にあったが、天永三年(1112)五月の霖雨による山崩れのため埋没したので、同年九月に現在地へ移したという。「延喜式神名帳城上郡の「等弥神社」とされる(大和志)。中世には多武峯寺(現桜井市)の支配するところとなり、桜井村庄屋が神事をつかさどった(永正七年九月三日「勧進検断目録」談山神社文書)。鳥見山は神武神話伝承地で、当社は昭和十五年(1940)に県社に昇格、鳥見山中霊畤の顕彰碑が参道南に立てられた。旧社地は本社背後にあり、「庭殿」「白山」「祭場」など霊畤に関する伝説を残す。

「寺院神社大辞典」より


境内図
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境内入口
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鳥居
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参道
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下津尾社
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上津尾社
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以下、境内社


市杵島姫社
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恵比寿社(蛭子社)
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金毘羅
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愛宕
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弓張社
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稲荷
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黒龍社
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2013-07-13

佐紀神社(御前池東側)

佐紀神社は、奈良市佐紀町に鎮座。
延喜式神名帳添下郡の「佐紀神社」の論社。
当社と御前池を隔てた西方にも佐紀神社がある。

祭神 相殿三座

天児屋根命
 文学ニ秀デ君臣ノ問ノ融和シテ
 後此子孫ヲ中臣ト申ス之藤原氏の祖神ナリ
経津主命
 武神ニシテ敬フハ蓋シ此大神ナリ
六御県命
 五穀並植物等ヲ守護シ給フ大神ナリ
 農家ニ尊崇スベシ

御由緒
今ヲ距ルコト千三百余年 天武天皇御宇白鳳三年ノ鎭祀ニシテ即チ神名式ニ記載セル佐紀神社ハ蓋シ當神社ノ事ナリ後第五十九代宇多天皇御宇寛平三年九月下旬始メテ官社ニ列シ春冬二度ノ班幣ニ預リ演昭大僧正ニ台命アリテ超寺ノ別當寺トセラレタリ降ッテ安徳天皇宇治承四年内蔵頭三位中将平重衡ノ兵焚ニ罹リシモ素ヨリ朝家ノ尊崇厚カリシ故中御門左大臣忠公ノ奏聞ニテ文治六年四月ニ再建セラレシモ再ビ天正六年兵火ノ為メ遂ニ狭隘ノ社地トナル詳シクハ社ノ記録ニ瞭然タリ


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2013-07-12

佐紀神社(御前池西側)

佐紀神社は、奈良市佐紀町に鎮座。
延喜式神名帳添下郡の「佐紀神社」の論社。
当社と御前池を隔てた東方にも佐紀神社がある。

 御前池の西、小字西畑に鎮座。池を隔てて東の小字亀畑にも佐紀神社がある。祭神天児屋根命経津主命・六御県命の三座。由緒は不詳であるが、「平城旧社考」によると、亀畑の佐紀神社分祀したものといわれている。鳥居前には「式内佐紀神社」の石標があり、「延喜式神名帳添下郡の「佐紀神社」としている。例祭は一〇月一〇日。

「寺院神社大辞典」より


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2013-07-11

石寸山口神社

石寸山口神社は、奈良県桜井市谷に鎮座。
延喜式神名帳十市郡の「石村山口神社大、月次新嘗」に比定される。

祭神 大山祇神

大山祇神伊弉冉尊の生み給うた山の神にして磐余の大地を守護せらる山の神 水の神として御祭祀になり上古より朝野の崇敬厚く中にも当社は大和大山口神社の一社に数えられ延喜式内の大社に列せられた
近世以来桜井木材業界繁栄の守護神としてその崇敬を高めている

「境内石碑」より


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2013-07-10

若櫻神社

若櫻神社は、奈良県桜井市谷に鎮座。

本殿は東殿と西殿があり、供に式内社
東殿は、城上郡「若桜神社」、
西殿は、城上郡「高屋安倍神社三座名神大、月次新嘗」に比定される。

 本殿には、東殿と西殿があり、東殿が若櫻神社である。
若櫻神社は、伊波俄牟郡加利命の後裔で、若櫻部朝臣・阿部朝臣の祖である伊波俄加利命 合 神倭磐余比古命(後の神武天皇)を祭神とする延喜式式内社である。本殿西側(西殿)に鎮座の高屋安部神社は、安部氏の祖神を祀るとする屋主彦太男心命、大彦命、彦屋主田心命を祭神とする延喜式式内大社である。西殿の高屋安部神社は、本来の鎮座地は更に南400mにあった松本山であって、「霖雨のため一山崩潰社殿破壊し終に若櫻神社の境内に遷座せり」と社伝に記されている。移転時期は不明であるが、18世紀以前と思われる。

 若櫻神社の歴史は古く、一説によると第17代天皇 履中天皇(400-405年)が磐余市磯池に遊ばれたとき、時ならぬ桜の花の散りかかる奇瑞をめでて、その宮を磐余稚桜宮と改め、稚桜部造と稚桜部臣(現 若櫻神社か)を置かれた。といわれている。また、最も古いものでは、『秀真伝』(八幡書店刊)の記述から類推したもので、瀬織津姫神と速秋津姫神天照神の12后の一人とされていて、瀬織津姫神の妹・「若桜花子」が「速佐須良姫神」である可能性もある。その若姫花子は、瀬織津姫神とともに谷の桜内命の子で、「若姫花子」の「若」、「桜内命」の「桜」、「谷」という地名の「谷」からして、この若櫻神社は「若姫花子」と因縁浅からぬ関係にある神社である。という説もある。

神社にあったリーフレット」より


鳥居
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境内
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社殿
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2013-07-09

大神神社(粟殿)

大神神社は、奈良県桜井市粟殿に鎮座。
延喜式神名帳城上郡の「桑内神社二座鍬靫」の論社。

 粟殿集落中央に鎮座。祭神大物主命・天児屋根命金山彦命。旧村社。延宝六年(1678)の石灯籠にも「大神社」と刻し、三輪山大神神社(現桜井市祭神を勧請したという。「延喜式神名帳城上郡の「桑内神社二座鍬靫」に比定する説もあるが、「大和志」は同社の所在未詳とする。

「寺院神社大辞典」より


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2013-07-08

鳥坂神社

鳥坂神社は、奈良県橿原市鳥屋町に鎮座。
延喜式神名帳高市郡の「鳥坂神社二座鍬靫」にあてられる。

他の方のサイトを見ると、鬱蒼としたイメージを持っていましたが、私の参拝時はサッパリしていました。
境外から見ると崩れた跡があったので、鎮守森の一部が崩れてしまったのだろうか?

 集落の北東に鎮座し、豊受比很燭鱆る。近世には「天照太神」と称したが(大和志)、「延喜式神名帳高市郡の「鳥坂神社二座鍬靫」にあてられて改称。旧村社。神社西方には宣化天皇身狭桃花鳥坂上陵、南西方には倭彦命身狭桃花鳥坂墓があり、付近は大伴氏の祖道臣命の居地であった築坂邑(「日本書紀神武天皇二年二月二日)に治定されている。社名鳥坂も桃花鳥坂の遺称とされ、「五郡神社記」に大伴社ともいうとある。現奈良県明日香村越に字鳥坂が残る。

「寺院神社大辞典」より


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2013-07-07

巨勢山坐石椋孫神社

巨勢山坐石椋孫神社は、奈良県橿原市鳥屋町に鎮座。
祭神は、石椋孫神・天児屋根命・倭彦命。
一説に「延喜式神名帳高市郡の「巨勢山坐石椋孫神社」にあてられる。

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2013-07-06

牟佐坐神社

牟佐坐神社は、奈良県橿原市見瀬町に鎮座。
延喜式神名帳高市郡の「牟佐坐神社大、月次新嘗」とされる。

祭神
 高皇産霊命
 孝元天皇
由緒沿革
日本書紀天武天皇紀は安康天皇の御代牟佐村(現見瀬町)村主 青の経営であった。
当時の祭神は生雷神(即ち雷公)であり江戸初期まで榊原(境原)天神と称されていた。
享保の頃に菅原道眞公を祭神としたが明治に至り古道再び明らかにと天津神である高皇産霊命を奉祀して今日に至る。
境内は孝元天皇即位された宮地と伝えられている。

「由緒書」より


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2013-07-04

東大谷日女命神社(畝傍町)

東大谷日女命神社は、奈良県橿原市畝傍町に鎮座。
式内社高市郡 東大谷日女命神社」にあたる。

 当社の創造は不明であるが徳川時代に於いては、氏神 熊野神社として明治十一年頃まで熊野権現をお祀りされていた。その頃の祭神は、伊弉册尊だった。
 明治二十年頃から、当社を式内社東大谷日女命神社とし、祭神を、神功皇后へ変えたが、その後、姫蹈鞴五十鈴姫命に再度の変更。明治三十五年、社名を東大谷日女命神社に変更した。

「境内案内」より

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2013-07-03

橿原神宮

橿原神宮は、奈良県橿原市久米町に鎮座。
日本初の天皇 神武天皇即位したとされる地に、明治時代に創建された神社

祭神
 神武天皇
 皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命

由緒
神武天皇天孫降臨の地日向を発して大和に入られ国内を統一して畝傍山の東南橿原の地に皇居を営み即位の礼をとりおこない日本建国の基礎を築かれた
明治の時代になり神武天皇の御聖徳を景仰してこの橿原の宮跡に橿原神宮創建の請願が民間有志から起り明治天皇にはこれを御嘉納になり明治二十三年四月二日御鎮座になった

社殿
創建に際し明治天皇の思召により本殿として京都御所賢所 拝殿(現在の神楽殿)として神嘉殿の献進があり現在本殿は重要文化財となっている
昭和十五年紀元二千六百年記念事業として宮域整備拡張事業が行われ 幣殿 内拝殿 外拝殿 回廊その他附属建物が新たに造営され現在に至った

神苑
境内地は五十万平方メートル(十五万余坪)からなり表参道北側の森林植物園その他緑苑は紀元二千六百年当時全国各地から奉献された樹木約八万本が植栽され延二十万人の勤労奉仕隊によって造成された

「境内由緒書」より


境内図
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第一鳥居
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第二鳥居
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南神門
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境内
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外拝殿
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外拝殿から内拝殿
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2013-07-02

久米寺

霊禅山 久米寺は、奈良県橿原市久米町にある寺院。
仏塔古寺十八尊、西国四十九薬師などの札所です。

当寺は推古天皇の勅願により用明天皇の皇子聖徳太子の御弟君にまします来目皇子の御建立された寺院であります。
皇子が七才の御時、眼病を患い給いしとき、御兄君聖徳太子のおすすめで、ここにおいて衆病悉除の薬師如来の願力を頼み、三十七日丹精無二の祈願を成し、二十一日満願の暁き、不思議なるかな二十五菩薩と御供に一寸八分閻浮陀金の薬師瑠璃光如来天より皇子の左の御手に御降臨あらせられ、皇子の両眼は如来の大慈光明に照らし給ひ、両眼忽ちに平癒あらせられ故に皇子自ら吾は来目皇子と称し、金堂講堂鐘楼経蔵大門五重塔等造営ありて伽藍となし、皇子の御名を取りて来目の精舎と来目皇子七堂伽藍創立以前に武人の始祖大久米部之命の末孫等久米部の氏寺として、小寺院建立ありたり。即ち久米寺と称し、その後養老二年印度摩伽陀国善無畏三蔵は十善帝王の位を捨て、遠く天竺より我朝に来り当寺に寄留して日本最初の多宝大塔を建立し、三粒の佛舎利と大日経とを塔柱に納め給う。
大日二年十一月八日弘法大師は諸大弟子と宝塔内において経王を講讃し、はじめて真言密教宣布し給う。
真言宗を日域に弘め給う密教弘演の根本傅燈の聖地である。後に久米寺と改称せられる。

「境内案内」より


山門
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本堂
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多宝塔
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2013-07-01

久米御縣神社

久米御縣神社は、奈良県橿原市久米町に鎮座。
式内社「久米御懸神社 三座」にあてられる。

祭神
 高皇産霊命
 大来目命
 天槵根命

 この神社は『延喜式神名帳』(927年)の「高市郡式内社小社」に載る「久米御懸神社 三座」にあたる。
 創建はあきらかではないが、来目(久米)に関わる伝承は『古事記』『日本書紀』の神代までさかのぼり、神武東征の伝説に八咫烏の導きで大和入りする時に活躍し、その功により、「大来目シテ、畝傍山、以西ノ川辺ノ地ニ居ラシム。今、来目邑と号く。」との記載がある。『日本書紀』「(第十一代天皇)垂仁二十七年紀」に「屯倉を来目邑に興す」とみえ、久米村の地に王家の米倉がもうけられており、久米氏の租神として奉斎されたこの神社は、かなり古い時期にまでたどることができる。 久米氏の退潮により神社も衰えたが、のちに同地に建立された久米寺の寺域の一画に、鎮守として天神社または久米宮が創建された。以後、平安時代から江戸時代まで、西座・東座・九月座の宮座が中心となり奉斎されてきた。 明治元年(1868)、寺社の混同が厳禁となり、全面的に神社は久米村により奉斎され、創建当初の久米御懸神社と改めた。 例祭は十月十五日であったが現在十月の第二日曜日となっている。 尚本殿に向って左の境内社は 誉田別命 天児屋根命 大日霊貴命を祀り、向って右は熊野神社伊弉冉命)を祀る。
 また、境内地樹林のなかに臥龍石と称する巨石があり干ばつの時これを動揺するば降雨あるとの伝説を伝える。

(注)
御懸(みあがた) 朝廷の直轄領
屯倉(みやけ) 朝廷の御田からの穀類を蔵する倉庫
延喜式神名帳 九二七年に朝廷の制度を記された書物。その中に全国の神明が記される。

「由緒書」より


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