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2013/01/20 Sunday

 ケープタウン決意表明(18)

最終回です。

 

結び

 

 ケープタウン決意表明もいよいよ結びとなりました。全体を振り返るようなことばが結びに書かれています

 「神はキリストにおいてこの世をご自分和解させた」(2コリント5:19)はケープタウンにおける会議テーマのみことばでした。そこには、キリストの教会が、「この世に対する神の和解の愛の大使となる」ことへの召命を頂いていることが表されています。そして、会議のものも、このテーマで開かれ、そして教会へのイエスの臨在の約束通りに(マタイ18:20、28:20)、主の臨在のうちにその会議が行われました。会議のものは、聖書講解、全体講演、グループの話し合いなどがもたれましたが、その話し合いの中でくり返し語られた二つのテーマがありました。それは弟子として生きる事と和解です。二つのテーマ決意表明は次のようにまとめています

 

・  徹底的で従順弟子としての生き方必要性。これは成熟に至らせるもので、数の成長だけでなく質における成長に至らせる。

・  徹底的な、十字架を中心とした和解必要性。これは一致に至らせるもので、信仰希望における成長と共に、愛における成長に至らせる。

 

 この世に対する神の和解の大使として教会が生きるために、つまり、宣教の民として生きるために不可欠なのが、弟子として生きる事と和解です。残念ながら、キリスト者生き方が薄っぺらいものであって、キリスト弟子として生きていないという現状が世界中蔓延しています。日本でもそうでしょう。また、和解が教会の中にさせなされていませんからキリスト者がばらばらになり、愛に欠けている現実があります宣教を妨げている原因の中心にあるのは、既に述べてきましたが、弟子として生きておらず、和解現実としていない教会そのものなのです。

 これらのテーマは、現代の教会が患っている問題そのものを指摘していると共に、キリストが教会に対してくり返し、強調して語ったことでもあります

 まず、弟子として生きなさい。これが第一の命令です。マタイによる福音書では、次のように書かれています

 

わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(28:18−20)

 

すべての国民の中にイエス弟子を作りなさいという命令が書かれています弟子はまさにその生き方において、イエスのことばに従う存在です。「弟子訓練」という名前で時に矮小化されるような弟子ではありません。弟子が質において成熟すること、それが大切なことです。

 次に、イエス弟子であることを世界中が知るために、互いに愛し合いなさい、という第一の手法です。

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。(ヨハネ13:34−35)

 

互いに愛し合うことがまさに宣教手法です。そして、和解をととして、合いにおける成長が求められます

 このようにして、二千年前に、キリストが語られたことを、2010年10月、ケープタウンに集った者たちが聞きました。決して驚くべきことではありません。私たちは主である方、イエスのことばを確かにあの会議で聞いたのです。

 

A. 弟子を作りなさい

 

 弟子として生きるとはどういうことでしょうか。弟子を作るとはどのような人を育てることなのでしょうか。

 それはなによりもまず、キリスト者と呼ばれる人、キリストの名を自らのつけている人に対する以下の要求です。

 

自分十字架をとり、自分放棄し、謙遜と愛、誠実、寛容、しもべとして生きる道においてキリストに従うことによって、彼のようになりなさい。

 

キリストの従う」、それも生き方において従う。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)への応答です。そのような生き方から弟子を作るという宣教のわざが始まります。ですから弟子となることこそ、宣教の最も基本的なレベルです。果たして、私たちはこのことばの通り、イエス弟子となっているでしょうか、弟子への道を進んでいるでしょうか。

 

B. 互いに愛し合いなさい

 

 ヨハネによる福音書において、イエスは三度、「互いに愛し合いなさい」と言われています

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(13:34)

 

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(15:12

 

互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。(15:17)

 

そして、大祭司の祈りにおいて、一つになるようにとくどくどと祈っておられます

 

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。(17:21−23

 

そして、互いに愛し合い、弟子たちが一つになることは、先にも述べたように宣教的なわざです。弟子たちを通して、世界イエスを送られた神を知るに至るからです。わたしたちの教会も、このことに集中することがなによりも求められるのではないでしょうか。私たちの歩みが、世界宣教を助けも妨げもし、そしてイエスが神であることを人々に知らしめることを助けも妨げもするのです。

 「互いに愛し合いなさい」という教会への招きは、イエスからだけのものではありません。使徒たちも同様に、何度も呼びかけています(エペソ4:1-6、コロサイ3:12-14、1テサロニケ4:9-10、1ペテロ1:22、1ヨハネ3:11-14; 4:7-21)。ですから

 

なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。(1ヨハネ3:11)

 

とあるように、イエス弟子たちがその一番最初から聞いているその教え、生き方に従う決意を、そのような生き方への献身を私たちはしようではありませんか。それこそが、宣教への献身です。

 

 最後の文章はわたしたちの祈りです。私たちが愛する主のため、そして主のゆえにわたしたちが仕えようとする世のために、この祈りを捧げようではありませんか。

 

父と子と聖霊なる神の御名によって、そして神の限りない憐れみと救いの恵みに対する信仰を唯一の土台として、私たちは心から切望し、祈る。聖書にもとづく弟子としての生き方によって、改革が起こり、キリストのような愛によって大変革が起こるようにと。

2012/12/31 Monday

 ケープタウン決意表明(17)

 いよいよ、最後の一つ前。本文としては、これが最後です。

 

IIF. 宣教の一体性を目指す、キリストの体の内部における協力

 

 エフェソの信徒への手紙2:14−18において、クリスチャンの一致について見事に描かれています

 

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

 

ここでは二つの和解平和)が描かれています。それは「神との和解」と「お互い(特にユダヤ人異邦人)の和解」です。しかし、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ」(2:16)とあることからわかるように、神との和解とお互いとの和解とは一つの出来事であり、分離することはできません。十字架という一つの出来事によって、神との和解が成立し、ユダヤ人異邦人からなる和解された神の民が生み出されたからです。

 この十字架によって実現した二重の和解現実こそが、クリスチャンが一体となって生き、協力して働くことを可能とする土台なのです。この土台を信仰をもって受けとめ、全力を注いで協力して働くならば、そのような教会は十字架のもつ「神との和解、お互いとの和解」の力、人間には生み出すことができない、神由来の、そして私たちの時代と文化と全く対抗するような力を証しすることができます

 しかし、実際はどうでしょうか。協力することができない、不一致をさらけ出しているのが、現代の日本の教会ではないでしょうか。かつては「一致していた」とよく言われますが、それはこの「二重の和解」による一致ではなく、声の大きなボスを中心とした一致でした。そのようなボスが消えてしまった現代、教会は一致して協力することができなくなっています。しかし、それは同時に、本当の意味でのこの「二重の和解」に立った一致を求めることができる時代となっている可能性も示しているのです。

 

1. 教会における一致

 

 現代世界は明らかに分断されています民族宗教、国家、歴史、あらゆるものが分断の源となっています。そのような世界に対して、「分断された教会」はメッセージを語る事ができるでしょうか。たとえ、和解メッセージを語ったとしても、私たちの生き方がそれを否定しているのです。宣教真実性と有効性が大きく阻まれているのは、実は「教会が和解された者としての一致のうちにいきていない」からではないでしょうか。

 では、教会の一致を求める私たちは、今、何をするべきでしょうか。

 まず、現状、教会や団体が分断されており、それらが分断を招きやすい性質をもっている現状を嘆くことです。それとともに、エフェソ4:1−3にあるように歩むべきです。

 

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。

 

二重の和解という神の招きにふさわしく歩むように「努める」ことです。柔和と寛容と忍耐が必要です。キリスト十字架で生み出して下さった「平和のきずな」を実現するために歩むことが不可欠です。この招きへの従順こそ、何よりも分断を嘆いている教会に求められていることです。

 それとともに、教会の本質的な一致は「霊による一致」であることを認識する必要があります。見えるところで同じになることが一致ではなく、聖霊によって結び合わされた一つの神の民として、お互いがそのからだに必要不可欠であると認め続ける点における一致です。同じようになる必要は一切ありません。しかし、実際に目に見えるあらゆることで一致すれば、共に進むことができれば、宣教の上で力となり、福音は広く人々に認識されるでしょう。このような「証しと宣教のために、可能な限りどこででも、和解と一致の回復に至る道を追求」し、分断するという誘惑に抵抗すべきです。

 

2. 世界宣教におけるパートナーシップ

 

 日本のプロテスタント教会を見る時に、その信徒の数が少ないにもかかわらず、そこに200余の教団、教派が存在している現実に驚きます。なぜ、これだけの教団、教派が誕生したのでしょうか。そこにはいろいろな歴史がありますが、海外から宣教師が、それぞれの海外のそれぞれの教団、教派から派遣されてきて、それぞれの宣教師が独自の教団を形成していったことにも、その理由の一つを見出すことができます。これは、「自分自身の(民族、教派、神学などにおける)アイデンティティを優先させ、それを守るような仕方で宣教に従事してきた」という現実を映すものだと思います。厳しい言い方かも知れませんで、唯一の主であり、主人であるイエス・キリストに自らの意欲や好みを従わせることをせず、これらを優先してきた結果である、と非難されても、しかたがないでしょう。キリストがすべてのすべてであり、すべての中心です。そのように信仰告白するお互いが、戦力、実践、一致においても、主イエス・キリストに対する共通の服従の姿を実現する必要があります。もちろん、「一つの教団になればいい」という単純なものではありません。教団、教派が違ったとしても、世界宣教において適切なパートナーシップを結び、共に主に従っていく必要があるのです。

 もうひとつ、現代世界宣教の変化について知っておくことが必要です。かつては欧米諸国から非欧米諸国へと宣教師が遣わされてきました。このパターンしかなかった、と言っても間違いではないでしょう。しかし、いわゆる南側諸国(アジア、アフリカ、ラテンアメリカ)におけるキリスト教の振興にに伴い、そこからも数多くの働き人が世界宣教に遣わされていくようになりました。しかし、これは、世界宣教責任が「世界のある地域の教会から別の地域の教会に渡った」ということではありません。下手をすると、かつて欧米諸国が持っていた「われらこそが世界宣教を進めることのできる唯一の国、民族である」という態度が、単に他の国に移っただけにすぎないからです。むしろ、私たちが知らなければならないのは、「どの民族グループも国も大陸も、単独では大宣教命令を完遂するという独占的な特権は主張することはできない」という事実です。それは神だけがなしうることです。そして、世界中のあらゆる諸国が、それぞれに与えられている賜物に応じて、パートナーシップを結びつつ、世界宣教へと進むべきなのです。ですから、たとえ、日本のキリスト教は小さなものであったとしても、パートナーシップを結びつつ、世界宣教に携わる特権責任が与えられているのです。

 それでは、世界宣教におけるパートナーシップを実現していくために、なにが求められているのでしょうか。

 まず、お互いが「キリストに服従する者として、疑いの心や競争心や誇りを捨て去り、神が用いておられる人々から喜んで学ぶ姿勢をとる」ことです。わたしたちの招きは、一つに結び合わされることへの招きであり、お互いを認めて受け入れる招きです。神のみこころである世界宣教のために共に働くように招かれています。その招きにふさわしい生き方、実に学ぶ姿勢こと、なによりもひつようです。

 つぎに、これまで海外宣教の際に起こった悪しき歴史を覚える必要があります。それは、資金力のある者が意志決定を行ってきた、という事実です。その思慮に欠けた資金注入によって、教会は堕落し、分裂し、宣教地における信頼を失ってきました。資金力のある人の好みが押しつけられ、宣教地の現状とは乖離した宣教がなされてきてしまいました。しかし、このような状態は、聖書が描いている宣教におけるパートナーシップではありません。受けることと与えることにおいても相互依存です。喜んで受け、それを用いる人々とがいないならば、真の意味で与えることなどできないからです。諸国がキリストにある友、真実パートナーとなることができるよう、敬意と尊厳をお互いに抱きつつ進むことができるように、リーダーは求められているのではないでしょうか。

 

3. 男女のパートナーシップ

 

 神は人を男と女創造されました。そして、男と女という共同体として、被造物を神のかたちとして治める使命を与えられました(創世記1:26−28)。そして、創世記3章において、神に対して背く際も、男女が共に主の背いています

 

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。(創世記3:6)

 

テキストに記されているように、男はずっと女と共にいて、女とヘビとの会話を聞いており、共に誘惑を受け、共に神に背くことを決めています。そして、キリストのわざは、信仰によって、男と女に等しく救いを与え、一つの民としています

 

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリストイエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ3:28

 

そして、約束された聖霊も、ペンテコステの日に、男女共に等しく与えられています

 

神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。(使徒2:17−18)

 

このように、男女共に、神から使命を与えられ、神に背き、キリストによって神の民とされ、聖霊が注がれています

 ですから、性の違い、そして結婚に関する状況の違いにかかわらず、すべての神の民が、「キリストの賛美と栄光のために、他の人の利益となるように神の賜物を用いる責任」があります

 

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。(1ペテロ4:10−11)

 

それを言い換えるならば、「私たちは皆、神によって教会が召されている奉仕の全領域のために、神が与えてくださったすべての賜物を、すべての神の民が行使できるようにする責任も負っている」ことを意味しています。あの人には賜物を行使することはできるが、別の人はそれができない、というような状況を作り出してはいけないのです。ある人の働きを尊ぶ一方で、他の人の働きをさげすんではいけないのです。パウロはテモテ

 

あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。(1テモテ4:14)

 

自分の賜物を軽視しないようにと忠告していますが、これはすべてのキリスト者に対しても、同様であるべきなのです。そして、

 

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。(エペソ4:16)

 

とあるように、キリストからだ全体を成熟させるため、他者に仕え、他者としっかりと結び合うために召されているのです。ですから、賜物を用いることは地位や権利を要求するものではなく、神から委ねられた責任です。そして、すべての神の民にこの召しと責任が与えられています。まさに、「全教会が全世界に仕える」ことが聖書の語る宣教ビジョンです。

 このことを受けて、マニラ宣言では次のように述べています

 

御霊の賜物は、男女の区別を問わずすべての神の民に与えられていることを確認し、福音宣教におけるすべての神の民の協力は、共通の利益のために歓迎されなければならないことを確認する。

 

教会における様々な協力の側面がありますが、男女のパートナーシップがここで語られていることに注目していただきたい。世界の教会の中で、意見の違いが明らかに見られる分野の一つの男女のパートナーシップの問題があります特に女性がどのようにその賜物を行使するのか、について意見が分かれています

 教会の歴史を見るとき、ケープタウン決意表明にあるように、「女性たちが男女双方のために神の務めをなし、世界宣教に莫大な犠牲的貢献をしてきた」事実見出します。そして、このことはあらゆるひとが同意できることです。しかし、聖書に忠実であろうとする人々のあいだで、女性が教えることや説教することを否定する否定する人たち、教えることや説教することを認めるが、男性の飢えに単独で権限をもつことを否定する人たち、そして、女性男性双方が、与えられた霊の賜物を行使することができると示唆する人もいます。様々な聖書の箇所をどう理解し、どう解釈するか、その幅が広いことが問題の原因です。日本の様々な教会においても、この点では意見の違いが見られます

 ケープタウン決意表明はこの違いが簡単になくなるものではない、ということを理解しています。ですから、論争している人たちの間で糾弾するのではなく、受け入れ合うことを、聖書を共に注意深く研究することを、痛みには思いやりを、不正には適切な対応を、兄弟姉妹のうちにみられる聖霊の働きへの抵抗心には悔い改めを求めています。そして、何よりも、キリストのしもべのすがたを映す者となるように求めています。その上で、ケープタウン決意表明は、女性がより用いられること、もっと広く奉仕の機会が与えられること、彼女たちが神の召しに従うことができるように道を開くことを求めています

 

4. 神学教育宣教

 

 コリントの教会においては、分裂をひき起こす可能性のある論争がありました。それは、パウロにつくか、アポロにつくか、という問題でした。そこで、パウロは次のように語っています

 

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。(1コリント3:6)

 

ここでパウロ宣教を行い、教会を生み出した働き人です(植える)。その後、アポロがそこに来て、教会を育成していきました(水を注ぐ)。神のわざとしてのこの二つの働きには密接なパートナーシップがあることをパウロは強調しており、どちらかの優位を主張してはいません。事実、コロサイ1:28を見ると、

 

このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています

 

パウロ自身も教えの働きに加わっています。同様に、マタイ28:19−20において、

 

から、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

 

と語り、弟子を育てることの中に、神の民の入り口である洗礼を授けることと神の民としての成長に必須イエスの語られたことを守るように教えることの両者を含んでいます。ですから伝道神学教育は分かつことができないものであり、両者共が宣教に欠くことができないのです。

 神学教育には二つの目的があります。ひとつは、「牧師・教師として教会を導く人々を訓練する」ことであり、神のことばの真理を教えることができるように整えることです。もう一つは、「すべての神の民を整える」ことであり、彼らが神の真理をあらゆる社会的文脈の中で理解し、適切にそれを伝える宣教のつとめに携わることができるようになるためです。このことを通して、神の宣教に仕える教会の宣教に仕え、そのために教会の宣教を力づけ、教会の宣教と共に歩むのです。ですから神学教育とは、単なる知的教育聖書を教える、教理を教える)だけではありません。ケープタウン決意表明は、「神学教育は霊の戦いに取り組む」とあるように、包括的な、神の国のために進む戦いです。まさ、

 

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ・・・(2コリント10:4−5)

 

とあるように、神の力による神学教育なのです。

 神学教育に対して、具体的な提案は四つあります。まず、神学教育宣教であるということ。つまり、神の宣教にたずさわる教会の宣教のための働きであり、単なる学術的な働きに収束してはなりません。つぎに、神学教育はあらゆる宣教の取り組みと、地域にかかわらずパートナーシップを組むこと。三つめに、それぞれの神学教育がかかわる教会が直面している必要と機会に役立つことはなにかを、宣教観点からチェックすること。最後に、神学教育の中心には聖書を中心に据えるということ。伝道者はそのメッセージ権威の源は聖書であることを確認しなければなりませんし、キリスト教神学の中核には聖書研究があります。それゆえに、牧師・教師がなにより聖書を説き明かし、教える働きに整えられるようにと神学教育は専心すべきです。

2012/11/04 Sunday

 ケープタウン決意表明(16)

 今回は長い部分です。教会では三回にわけて行いました。CTCのなかでも最も気合いが入っている部分といっても間違いはないでしょう。

 

IIE. キリストの教会を謙遜と誠実と質素へと呼び戻す

  

 ケープタウンにおける宣教会議では、エフェソの信徒への手紙を共に学びました。そして、本書では「歩く」ということばが頻繁に用いられていることに気がつきました(エフェソ2:2; 2:10; 4:1; 4:17; 5:2; 5:8; 5:15)。たとえば、

 

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、(4:1)

 

とあります。ここでの「歩く」というのは、単に歩行することではありません。「生き方と日常の行動」を表す比喩です。

 

1. 神の新しい人類として、他とははっきり異なる歩き方をしなさい

 

 パウロは、ほぼ異邦人から構成されているエフェソの教会に対して、次のように命じています

 

そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。(4:17)

 

異邦人であった彼らが、異邦人と同じような生き方ではない、別の、神の民としての生き方をするように強く勧められていることがわかります。つまり、神の民は、異邦人の道、つまり「他の神々の道」を歩むか、「主の道」を歩むか、どちらかしかありません。そして、「主の道」という生き方を選ぶ勧めが強く語られています

 世界宣教を妨げている最大の問題はなんでしょうか。もちろん、世界の様々な政治、経済、文化、社会、宗教、自然的な要素もあるでしょう。しかし、最大なのは「諸国を祝福する手段となるようにと神が造り、召された民」の中にある問題、それも「神ご自身の民の中にある偶像崇拝」だとケープタウン決意表明は語っていますクリスチャンの中に偶像崇拝がある、と言われた驚かれるかたも多くあるでしょう。神棚や仏壇などない、神社仏閣に拝みなど行きはしない、異教的な習慣から離れている、だから偶像崇拝などしているわけはない。そのように考えるでしょう。しかし、他の宗教の神々以外にも、「周囲の人々の偽りの神々」は存在ます。そして、クリスチャンは、気がつかないうちにこのような偽りの神々を追いかけているのです。

 それでは、「クリスチャンの中の偶像崇拝」とはどこにあらわれるのでしょうか。それはクリスチャンの「歩み」、つまりその行動です。クリスチャンの行動とクリスチャンでない人の行動の間に何の違いもないとしたら、クリスチャンは実質的に「偶像崇拝」に生きているということができるでしょう。汚職、貪欲、性的混乱、離婚、宗教的慣習の取り扱い、人種が違う人への態度、大量消費、社会的偏見。これらの点において、クリスチャンクリスチャンでない人の行動の間に何の違いもないとしたら、キリスト教になにができるのか、と世界の人々は当然思うでしょう。

 ですから、ケープタウン決意表明は、わたしたちにいくつかのチャレンジをしています

 まず、「周囲の文化の偶像崇拝に巻き込まれている現実があることを直視」することです。わたしは無関係だ、と逃げることはできません。むしろ私たちが意識する、しないにかかわらず「崇拝している」偽りの神々を認識し、それを明るみにだす必要があります。さらに、このような偶像崇拝は個人の中だけではなく、教会にもあります。それを認識し、明るみにだすことも必要です。ですから、「預言者的な識別力」が必要となります。アモスやホセアが指摘したように、指摘すべきです。そして、それを認め、悔い改める勇気、偽りの神々を、まことの主であるイエスのみ名と権威において捨て去る勇気が必要です。そのために、祈り求めなければなりません。

 さらに、聖書的な生き方なしに聖書宣教はありえません。偶像を捨てるだけではなく、新しい生き方を身に纏ってはじめて、宣教に携わることができます。そのようなこの世とは根本的に異なる生き方をすることを追い求める必要があります。ですから

 

真実の義と聖という点において、神にかたどって造られた、新しい人を身につける(4:24、私訳)

 

ことにおいての献身が、自らに、そしてすべてのキリストを告白する人に求められています

 

2. 愛にあって歩み、性の混乱という偶像崇拝を捨て去りなさい

 

 この部分では特につの観点から偶像崇拝とそれに伴う行動が描かれています。一番最初に取り上げられているのは、「性の混乱」という偶像崇拝です。

 

あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。(エフェソ5:3-5)

 

ここで言われている「みだらな者」は性的な不品行を行っている人のことを指しています。性の混乱の問題を理解する上で、まず適切な性的な関係とはなんであるか、聖書から教えられることが大切です。

 創世記2章で描かれている意図された結婚の姿は、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)とあるように、「一人の男と一人の女」の献身的で、排他的で、忠実な関係によって成り立ちます。そして、結婚を通して「二人は一体」となり、「自分の生まれた家族とは別の新たな社会的単位を形成」するようになります。さらに、「一体」という事実を表現する性的な交わりも献身的で、排他的で、忠実な「一人の男と一人の女」の結婚という絆の範囲内です。なお、エフェソの信徒への手紙を見ると、この結婚による一体性は、比喩としてキリストと教会の関係を反映していますし(エフェソ5:22-33)、さらにはユダヤ人異邦人キリストによって一つとされたことをも表しています(2:15)。

 残念ながら、意図された結婚の姿は、現実世界の中で、見せかけの愛、そして性の混乱という形でゆがめられています。様々な形での婚前または婚外の性的行為を通して、性は混乱しています。性という名の神に仕える偶像崇拝と呼んでも間違いないでしょう。しかし性の混乱そのものの最大の問題は、そのようなことによって人は「被造物と救済における神のみこころと祝福からそれて」いるのです。その結果、結婚は崩壊し、家庭は崩壊し、社会は衰退していきます。孤独を埋めるための安易な性行為が一般化したり、性行為を通しての搾取が、たとえば人身売買などを通して行われていきます。そして、これらが教会内部の深刻な問題となっており、リーダーシップが性の混乱を通して、つまずいていくのです。これは世界の教会の現実であり、もちろん日本の教会の現実でもあります。単純化はできませんが、落ち着いてきたとはいえ、相対離婚率(離婚件数/婚姻件数)は2013年で35%、人口千に対する比である離婚率は1.86となっています。この背景には、性の混乱による結婚の崩壊があることは明白でしょう。

 私たちを取り巻く世界の現況とそれに影響されて、なんら変わらず、異も唱えない教会の現況を覚える時、深い自省ときづきをいただき、そして、あえて性の混乱という偶像崇拝に生きている文化に教会が異を唱えていく必要があります

 そのために、牧師はどうあるべきでしょうか。(1)性に関する会話を教会でもする。その中で、健全な関係、神の計画を伝え、社会の現実クリスチャン現実を率直に認めていく。(2)神の基準を教えつつ、性的誘惑と罪に弱い者であるという認識を持つ。(3)性的関係における忠実さにおいて、聖書の基準に従っていることにおいて模範となるよう努力する。

 教会の一員はどうあるべきでしょうか。(1)忠実な結婚関係と健全な家庭生活を強めるために教会と社会において働く。(2)結婚して、子どもを育てている、ということだけがあたかも標準であるかのようにふるまうのではなく、独身者、配偶者を亡くした人、子どものいない人の存在を認め、育み、このような人たちの賜物を用いる。(3)様々な性の混乱(ポルノグラフィー、不倫、無秩序の性関係)に抵抗する。(4)同性愛関係へと人々をひきつけるこころの奥底にある問題を理解しつつ、それに取り組む。愛とあわれみと正義をもって人々に手を差し伸べ、同性愛者への憎悪、ことばでの暴力、暴行、迫害を拒絶、糾弾する。(5)神の恵みによってあらゆる人のあらゆる状況も、変化と回復の可能性があることをこころに留める。

 

 性の混乱と密接に関わりつつ、しかし、一概に同一視できない現代の問題として、HIV/AIDSがあります。全世界で3400万人の感染者がいます。新規感染者が減ってきているとはいえ、2010年で270万人の人が新たに感染しています特に、サハラ以南のアフリカでは、世界の人口の12%しか占めていないのに、全患者の68%をしめているのです。特に、南アフリカは世界最大のHIV養成者人口(560万人)を抱えています。その中には、教会に集う人も数多く、AIDSを発症した親が死亡したために孤児となった子どもたちも数多くいます。かつては死に至る病と考えられていたHIV/AIDSでしたが、近年は治療方法が確立し、適切な治療を受け続けるならば、感染の危険性はあっても、一種の慢性疾患と見なせる程度までは来ています。そうであったとしても、HIV/AIDSに対して、教会は全人的な福音の応答をする必要があります

 ケープタウン決意表明は、HIV/AIDSの無視することのできない現実を踏まえて、どのような取り組みをなすべきか、いくつかの提案がなされています

 まず、すべての牧師が、先に述べた性の混乱という偶像崇拝に対して異を唱える行動をすると共に、HIV/AIDSが確かに「結婚の枠外での複数の性的関係を結ぶことが広く行われている事実」をその感染の急速な拡大のいくつかの理由の一つであることを覚えるべきです(さらに、ひとつの理由が薬物使用のための注射器を介したものです)。その一方で、HIV/AIDS感染者への「糾弾、敵対行為、烙印を押す行為、差別」を拒絶し、告白すべきです。教会がこのような行動に加わりやすい傾向を覚えなければなりません。このような行動は罪であり、キリストの誉れを貶める行為です。「裁くには遅く、人の地位を回復させることと赦すことにおいては早くあるべき」です。それとともに、HIV/AIDS感染者の多くの人々が自分の落ち度によってではなく、他者の世話をすることによって感染している事実認識する必要があります(他者の治療のため、輸血のため、配偶者からの伝染など)。三つめに、実際的な支援を、特にHIV/AIDSの被害が最も大きい地域にいる兄弟姉妹のかたわらにあって支えることが大切です。

 

3. へりくだって歩み、権力に対する偶像崇拝を捨て去りなさい

 

 ケープタウン決意表明では、これからつの偶像崇拝について語ります。それらは、権力、成功、貪欲です。その一方で、それとは正反対の歩みとして、謙遜(humility)、誠実(integrity)、質素(simplicity)を推奨しています。これら三つの歩みの英語の頭文字をとり、HIS(「彼の」つまり「イエスのもの」)と呼ぶことがあります

 

 堕落と罪の現実に溢れるこの世界に生きる中で、権力が誤って用いられることをくり返しみます。力ある者が他者を虐待し、他者が生み出したものを情け容赦なく搾取する実情を見ます。この権力は、時として、ある性別、ある人種、ある社会的地位に基づいて与えられると考える場合が多く、性別、人種、社会的地位の優越性が主張され、それゆえにそうでない者たちが虐待され、搾取されることがままあります世界でも、そして日本でも、女性差別、人種差別(アメリカの奴隷制、南アフリカのアパルトヘイト、ナチのユダヤ人虐殺など)、社会的地位による差別(インドでのカースト制、母子もしくは父子家庭への差別、独身者への差別など)を見る事ができます。これらの差別とそれに伴う権力の乱用は、偶像崇拝の聴講であることをキリスト者は覚えるべきです。

 このような現実に満ちた世界に生きていたパウロは、ですから、次のように命じています

 

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(エフェソ5:21)

 

キリストのゆえに互いに仕え合うべきである」。謙遜をもって、互いに従いあい、互いに愛し合う、そのような関係が夫婦(エフェソ5:22−33)、親子(6:1−4)、社会的経済的人間関係(6:5−9)においてあふれることこと、キリスト教会の信頼性を確かなものとする生き方です。そして、ケープタウン決意表明は、それが現実になり、人々によって生きられることを願っています

 そのために、牧師に、そして教会のリーダーたちに求められていることが、この相互服従と相互愛が実現するように、「信者が理解し、率直に話し合い、実践するのを支援する」ことです。一方的な「命令」によってこのことが実現することはありえません。指導者により一方的な命令という行為そのものが、いつも権力の乱用という危険と隣り合わせであるからです。だからこそ、信者が理解し、話し合い、そして実践できるように支援することに指導者たちはこころを向けることが大切です。そのようにして養われてはじめて、「貪欲と権力と悪用に満ちた世の中にあって、・・・教会が、集う人々の間に親切なへりくだりと私心のない愛が見られる場所となる」のです。

 ケープタウン決意表明は続いて、特に問題となっている夫婦関係についてスペースを割いています特にクリスチャンであるである妻の虐待の問題です。これが、牧師リーダーによってもなされている現実を嘆いています。夫による妻のあらゆる虐待(ことばにより、感情により、身体的に)は一切正当化されません。様々な文化的な違いを受け入れているケープタウン決意表明ですが、夫による妻の虐待の問題に関しては、どのような文化的慣習であっても、どのような「ゆがんだ」聖書解釈に基づくものであったとしても、普遍的に間違っていると主張しています。むしろ、エフェソ5:25−33に描かれているように、「イエス・キリストが教会に対して示した自己犠牲的な愛にならう愛と配慮を持った男性に服従する」という意味で、服従するように命じられている女性ではなく、服従される男性に対して厳しい目を向けていることを忘れてはいけません。

 

4. 誠実に歩み、成功に対する偶像崇拝を捨て去りなさい

 

 神の国の進展を教会のうちに見るわたしたちの働きにおいても、世の中の成功と結果を重んじる傾向が入り込んでいます。それは、決して、最近始まったばかりのものではなく、イエス弟子たちのあいだにも見出されてきた者でしょう。残念ながら、成功と結果を求める余り、誠実に歩むことが犠牲になってしまっています。会員数や出席者数、救われた人の数、ささげられた献金の額がゆがめられ、誇張され報告されている現実に私たちは気がついています。しかし、聖書はなんと言っているでしょうか。

 

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――(エフェソ5:8−9)

 

正義と真理のうちに歩む、誠実に歩む事こそ、光の中を歩む、光の子の歩みなのです。

 このようにして、成功とそれをあらわす結果を重んじるという偶像崇拝に陥った結果、誠実であることを失った教会に対して、ケープタウン決意表明は、そのような偶像崇拝を捨てなさい、と命じています

 具体的には、教会のリーダーに対して、「完全に真実であることから少しだけはずれるという誘惑」に抵抗するように述べていますちょっとした歪曲、操作、誇張。「少しだけ」現実とは異なった値を出すことによって「結果が出ていることを示す」という誘惑にリーダーは晒されています。だからこそ、たとえ数値がリーダーの「失敗・無力さ」をあらわすようなものであったとしても、それを真実に示す誠実さが求められています

 さらに忘れてはいけないのは、「成功と結果」を教会と宣教リーダーが求めるのは、彼らの背後にあって、彼らの為に資金を提供する人々、つまり献金をもって支えている人々が、同様に「成功と結果」を求める傾向があるからです。ですから、彼らに対して、「適切な説明責任必要だが、その範囲を超えて、数値化された成果や目に見える結果を非現実的な程度にまで要求することはやめるように」と決意表明は語っています。働き人が透明性を失ったり、説明できないようなことをすることを一切許容してはいません。しかし、成功と結果のみを求めて資金を提供し、そうでなければ資金を止める、というような態度で現地での働き人に対して誤ったプレッシャーをかけることが間違っている、偶像崇拝であることに気がつくべきです。

 

わたしの神よ、わたしはあなたが人の心を調べ、正しいものを喜ばれることを知っています。わたしは正しい心をもってこのすべてのものを寄進いたしました。また今、ここにいるあなたの民が寄進するのを、わたしは喜びながら見ました。(1歴代29:17)

 

献げ物はあくまでも心を知られ、正しさ、誠実さを喜ばれる主への献げ物であることをいつも心にとどめるべきです。

 

5. 質素に歩み、貪欲に対する偶像崇拝を捨て去りなさい

  

 エフェソ5:5の次のみことばが、偶像崇拝の本質を的確に指摘しています

 

すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。

 

貪欲こそ偶像崇拝の本質といっても間違いないでしょう。そして、この貪欲が巧妙にイエス・キリスト福音を侵食して登場しているのが、「繁栄の福音」です。

 繁栄の福音とは、ケープタウン決意表明によれば、「信者は健康と富という祝福を得る権利を持ち、信者は信仰の肯定的告白と、金銭または物質の捧げものによる『種まき』を通して、これらの祝福を入手することができる、とする教え」を指します。それは今や、世界中の多数の教派の中に広がっています。この教えには、いくつかの大きな問題点があります

 (1)神の奇跡的な力が、あたかも信仰告白と献げ物によって入手できると考え、機械的に神を扱う点。神をなんらのテクニック(ことば、行為、才能、物体、儀式など)によって自由自在に操ることができると考えている。

 (2)霊的な祝福が物質的祝福によって測定可能であると教える点。抑圧、ごまかし、汚職によっても富が得られる。逆に、貧困、病気、若くして死ぬことは敬虔な信仰者にも訪れる。霊的な祝福は、迫害に直面している最悪の状態の中にもあるが、それを一切否定している。

 (3)繁栄の福音を盛んに勧める人々のライフスタイルが倫理的ではない点。伝道ではなく、軌跡が追求される。悔い改めが説教者の属する組織への献金にすり替えられる。

 (4)繁栄の福音が貧困層の中で特に語られているが、それが貧困に対する持続的な解決を提供しない点。むしろ、貪欲に継続して押し流されて、永遠の救いのメッセージから人々を遠ざけてしまう。

 もちろん、神は奇跡的な力をもち、その力への期待に満ちて生きることはすばらしいことです。聖書には、目に見える祝福を神の祝福の一側面として含んでいるところもあります。神の力と勝利を聖書はほめたたえています。病気のいやしと貧困と苦しみからの持続的な解放がもたされるように祈っていますキリストの名によってこれらのことがなされることを肯定します。しかし、繁栄の福音はバランスの取れた、聖書に基づくキリスト教とは相容れません。

 わたしたちは注意深く繁栄の福音を検証する必要があります。その聖書解釈聖書全体の文脈の中で、バランスよく解釈されているか見直すことが必要です。さらに、貧困が存在する場に関わり、そこに正義と持続的な改革がもたらされるように、思いやりと行動をもってキリスト者は働く必要があります。そして、何よりも、私たちひとりびとりが、自己の利益の追求や貪欲という偶像崇拝から解放され、自己犠牲と惜しみなくささげる者となりましょう。消費主義社会の真ん中で、終わる事なく貪欲を追求する社会の中で、むしろ質素を私たちの生き方の基本とさせていただきましょう。

2012/08/25 Saturday

 ケープタウン決意表明(15)

 

IID. 世界宣教のためにキリストのみこころを見分ける

 

1. 福音が伝えられていない人々および宣教の取り組みがなされていない人々のグループ

 

 神のみこころは、なによりもまず、世界のすべての人々が「神の愛と、イエス・キリストによる神の救いのわざとについての知識を容易に得られるようになること」です。知ることなしに、信じることはできません。そして、知識を得ることが困難であるならば、信じることへの道は遠いでしょう。しかし、現実はどうでしょうか。クリスチャンの証しを通して、この福音についての知識にアクセスできない人々のグループが何千もあります

 世界の人々をその民族と言語によって分類することができます文化的、民族的、言語的な障害のない人々の一団を「人々のグループ」(people group)と呼ぶことにしましょう。世界には、福音が伝えられていない人々のグループ、つまり、「知られている信者が一人もなく、信者の中に教会もない」グループが数多くあります。www.finishingthetask.comの統計によると、四万人以上の人口をもつ「人々のグループ」のうち(世界中にはもっと人数の少ない人々のグループが数多く存在ます)、クリスチャンがおらず、フルタイムでそこで働いている人々がいない人々のグループは476もあります。このうち326は、働き人を送るという意思表示が宣教団体等でなされてはいますが、実際には送られてはいません。

 このことは何を表しているのでしょうか。それは、教会の持つ、人的および物質的資源のごくわずかな部分しか、福音が伝えられていない人々に当てられていない現実です。残念なことに、彼らは福音についてなにも知りませんから福音を携えてくださいと招くことはありません。この現実は、私たちに対するイエスの命令(マタイ28:18−20)に対する不従順への叱責であり、霊的な意味での不公平のあらわれで有り、無言のマケドニアの叫びしです。

 

その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。(使徒言行録16:9−10

 

 この現実に対して、ケープタウン決意表明はいくつかの提言をしています

 まず、私たちがこのような現実認識していないこと、彼らと福音を分かち合う思いに欠けていることへの悔い改めへの招きです。現実を知り、祈り始めることがまず大切です。

 次に、まだ福音を聞いたことがない人々の所へと行くことです。ただし、ただそこに行けばいいのではありません。(1)「彼らの言語と文化を深く理解する」、(2)愛と犠牲をいとわない奉仕によって福音を生きる」、(3)「言葉と行動で主イエス・キリストの光と真理を伝える」、(4)「聖霊の力によって彼らを驚くべき神の恵みに対して目ざめさせる」の四つがあげられています福音を伝えるのは、そこに行って、手当たり次第に人をつかまえ、福音メッセージを語ればいいのではありません。自分が異なる文化と言語から来た存在であることを踏まえた上で、相手を相手の枠組みの中で理解し、福音を語るまえに福音に生きることが大切です。さらに、証しも言葉によるものだけではなく、「行動」が必要である。相手を理解し、福音を生き、福音を語る。この方策はどのような文化においても必須ではないでしょうか。さらに、この福音宣教は、私たち人間の働きではありません。神のわざです。ですから聖霊が彼らの心を目ざめさせるようにと祈り、働くことが必要です。この方策理解は、日本というまだ福音が届けられていない地域においても、まったく同じではないでしょうか。

 三つめと四つめは聖書の重要性です。まず、母国語で聖書を持っていない人々のために聖書翻訳をすること(たとえばウィクリフ聖書飜訳協会の働きなど)です。これは時間のかかるプロセスですが、必要です。それと同時に、「聖書を文字とする」という状況では、文字のない民族の場合、文字を作るところから作業を始める必要があります。しかし、そのような民族の多くは、口述文化が豊かですから、むしろ「語り」によって聖書の内容を知らせることも大切です。

 四つめに、教会内における聖書の内容に関する無知の根絶です。日本の教会においても、聖書の内容に対する無知は深刻な問題ではないでしょうか。まず、聖書を教えることの必要性をしっかりと確信することが大切です。

 

そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、(エフェソ4:11−12

 

とあるように、キリストは教会に、賜物として神の言葉をとき、教える人を与えてくださっています。そのような人を見出し、励まし、訓練し、支援する必要があります。それは、同時に、教えるという行為が、牧師だけのもの、謝儀をいただいている人だけのもの、講壇だけのものという「聖職権主義」に陥らないように心することも意味ます。教える賜物を持っている人であるならば、どのような人であったとして、その人の賜物を認め、神の言葉を「正しく取り扱うことができるように整える」必要があります。単に認めるだけではありません。教える賜物を持った人を訓練し、適切に教えることができるように整えるのも、教会の大切な働きです。さらに、先端技術を有効に活用に、デジタル機器を用いた聖書の学びの手法の発展も必要でしょう。今の子どもたちが豊かに聖書を学ぶことができるようになるために、知恵を用いることは大切です。

 最後に、宣教は様々な側面があり、宣教入り口は様々なものがありえます。しかし、私たちの宣教はいつも、「神の愛と恵み、そしてイエス・キリストによる神の救いの業の体現であると共に宣言」です。ですから、このような働きの中心には、いつも、「神の愛と、イエス・キリストによる神の救いのわざ」についての宣言が含まれています。つまり、福音の宣言をなす伝道宣教のすべての領域の中心にあります。そのことを忘れずに働きを勧めていきましょう。

 

2. 口述文化

 

 日本は世界に希を見る、文盲率の低い国です。ですから、文字がない、読み書きができない、ということなどありえない、と感じやすいでしょう。しかし、世界を見る時、ケープタウン決意表明にあるように、「世界人口の過半数は口述でコミュニケーションを取る人々」です。そして、その半数は、先の述べた福音が伝えられていないグループに属し、さらにその中の三億五千万人は母国語に訳された聖書がまだ一節もありません。とうことは、「すべての人々に福音宣べ伝える」ためには、このような口述でコミュニケーションをとる人々に対して、彼らの現実に即した手段を用いるために知恵を用いることを意味ます。このような世界現実を知る時には、世界宣教に関わる場合、口述文化を踏まえた戦略も行っていく必要があります。そして、そのようなところへ行って、福音を伝える働き人の育成も必要となります

 この現実を踏まえて、ケープタウン決意表明では、五つのことを勧めています

 まず、読み書きだけではなく、口述による訓練を重んじること。次に、語りによって聖書福音宣べ伝える、それも母国語で語るストーリーバイブルの制作を行うこと。ケセン語訳の聖書が注目を集めていますが、なによりも自分の馴れ親しんだ言葉でき聖書福音を聞くことができるようにすることは大切です。さらに、あらゆる訓練が口述によってできるように、それだけではなく、「話術、ダンス、アート、詩、詠唱、演劇」といった様々な手法を用いて、聖書のストーリーを伝達することができるようになることも大切です。考えてみれば、中世の教会の窓ガラスに掲げられていたステンドグラスは、文字が読めない人々に聖書のストーリーを視覚に訴える伝達手段でした。四つめに、口述文化の民の多くが南側諸国にあるからこそ、彼らを助けて、彼らが自らの近くにいる口述文化に生きる民と関わりを持つことができるようにすること。最後に、神学校においても、宣教を考えるにあたって、口述的方法の体得が必要であること。

 口述文化の問題は、日本にいる限り、海外宣教にかかわらないと関係ない、と思いがちです。しかし、日本の文化も読み書きによるコミュニケーションから、語りや映像によるコミュニケーションに移りつつあります。その現実を覚えるとき、「あらゆる人に福音を伝える」使命をいただいている教会は、それぞれの人にふさわしい福音伝達の方法を絶えず研究する必要があります。 IID. 世界宣教のためにキリストのみこころを見分ける

 

3. キリストを中心とするリーダー

 

 教会の規模が表面的に大きくなっていたとしても、いろいろなところでもろさを抱えることがよくあります。そこには様々な理由がありますが、その教会のリーダーに関わる理由も多くあります

 まず、リーダー弟子訓練されていないという問題です。リーダーとしての資質のある者を見出して、その人を訓練して、キリスト弟子、つまりキリストに似た者となるように整える、という発想を私たちは持ちがちです。しかし、あるべき姿は逆です。キリスト弟子としてキリストに似た者へと整えられ、成熟した者が、教会におけるリーダーとなっていくべきなのです。マタイによる福音書において、イエスが語られたのは、

 

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18−20)

 

です。つまり、弟子たちがイエスの姿を見、イエスの教えを聞き、それに生きることによって、イエス弟子となったように、すべての民をイエス弟子とすることが大切です。リーダーを育てるのが最も大切な働きではなく、キリストに似た弟子を育てることこそ、教会が最も求められていることです。

 リーダー弟子訓練されていない結果、なにが起こるのでしょうか。「多くのリーダーがその地位を世的な権力や、尊大な地位や私腹を肥やすことに利用」するようになります。最近でも、東南アジアの巨大教会の牧師が教会の資金を流用した、ということで告発されたというニュースが流れました。日本においても表には出なくても、同様のケースが多々ありますリーダーとしての知識やテクニックや技術はよく知っているでしょう。しかし、「敬虔な人柄」「キリストに似ている姿」が欠落しているのです。

 このような問題があることを、聖書もよく分かっています。ですからパウロはテモテに1テモテ3:1−13でリーダーとなるべき人(監督[3:1−7]、奉仕者[3:8−13])について言及していますが、そこで彼らに求められていることは、リーダーとしての知識やテクニックや技術ではありません。「しもべの心、謙遜、誠実、純潔」です。「貪欲でなく、祈り深く、神の霊に依り頼み、人への深い愛を抱く」人です。キリストに似た人柄を通して、リーダーキリストの誉れを表すことこそ、最も大切なのです。

 さらに、1テモテ3:1−13で取り上げていることで、忘れがちなのが、「よく教えることができる」(3:2)点です。「神の言葉を神の民に教える能力」は、教会を強くするために必要であり、弟子訓練の最善の手段です。

 このように、キリスト弟子であるリーダーを育て、教会を強くしていくために、具体的に取り組むべきことはなんでしょうか。まず、「新たに信じた者を教え育てる」ことです。長期的におこなうことが大切でしょう。次に、リーダーのために祈ること。「聖書的な意味で忠実で従順リーダー」、つまり敬虔でキリストに似たリーダーを神が増やし、守り、励まして下さるように祈る事です。逆に、み名を汚しているリーダーに対して、神の叱責、排除、悔い改めへの導きがあるように。そして、キリスト弟子として仕える新しい世代のリーダーが起こされるように。三つめに、リーダーは「自分のもろさを認識し」、アカウンタビリティ・グループ(説明責任のある小グループ)に自分を委ねること。世的な権力、金銭的な富、性の誘惑という現実とそれに対する弱さをリーダー自身が認め、そこから自らを守る手段を講じることが必要です。最後に、神学校教育リーダー養成プログラムが、「知識の伝達や実績の評価」に重点を置くのではなく、「霊的育成と人格形成」に重点を置くように働きかけることです。神学校で教えている者として、なによりもこの点は身にしみます

 

4. 都市

 

 日本の人口の変遷を見ても、1945年以降、大都市部(関西、東海、南関東)の人口は約3倍になっているのに対し、地方部の人口は1.5倍に留まっています特に、戦後、1975年頃まで、地方から大都市圏へ人口が数多く転入しています(毎年、数十万人のレベルで地方から都市部へ流出)。このような都市化のトレンドは、日本だけではありません。世界においても、その人口の半分は現在、都市に住んでいます。1950年には人口の30%がであったのに、2005年には50%まで増加しているのです。

 それでは、都市にはどのような人が住んでいるのでしょうか。「(1)次世代を担う若者、(2)移住してきてまもない、最も福音が伝えられていない人々、(3)文化形成の担い手、(4)最貧の人々」です。(2)は日本においては少ないかも知れませんが、現在発展途上にある多くの国では事実です。そして、都市において、教会はこれらの人々に仕える必要があります

 教会は、これが「神の支配の手」であると認める必要があります。都市化の問題もありますが(旧約聖書はいろいろと書かれています)、それでも神がそれを許しておられるのです。ですから、「聖なる識別力ときりすとのような思いやりをもって都市を愛する」ことが大切です。そして、適切で柔軟な宣教手法をもって、都市に向き合うべきでしょう。都市における若者伝道のために手助けしていくことも大切です。

 

5. 子ども

 

 子どもは危険にさらされています世界に住む20億人の子どものうち、約半数は貧困による危険に、数億人は繁栄による危険にさらされています。日本の子どもたちのほとんどは、生きるために必要ものはなんでも持っているでしょうか、「生きる目的」と「希望」を持っていないのではないでしょうか。この現実を覚える必要があります

 さらに、子どもと若者は、「明日の教会」だけではありません。「今日の教会」でもあります

 若者は、宣教の主体として大きな可能性を秘めています。影響力を発揮しますが、予備軍に留まり、活用されていません。神の声に対して敏感ではあり、応答する意識は高いのです。ですから若者にそのような機会を与えることが教会には必要です。外を見る、世界を見る、ということを通して、神の声を聞く機会を与えることを教会はもっと考えるべきではないでしょうか。

 子どもたちと若者たちが生き生きと、神に用いられるようにするためにも、彼らの発揮する「新エネルギー」を教会は受け入れ、彼らの「霊性」に耳を傾け、大人の合理主義で彼らを抑圧しないように注意すべきです。

 教会はもっと子どものことを真剣に考えることが必要です。神が子どもに対してどのような愛と目的を持っておられるのか、さらには子どもを通してどのような愛を示し、どのような目的を果たされようとしているのかを真剣にみことばから求める必要がありますイエスはだれが一番偉いかと議論し合っている弟子たちに対して、次のようになさっています

 

そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:36−37)

 

子どもという存在を真剣に考え、彼らを通してイエスが何を語ろうとしているのかを再発見することが教会には求められています。さらに、教会は子どものミニストリーのために人材訓練と資源提供が求められています。そして、彼らの家族と彼らが属する共同体とともに活動することも大切です。子どもへのミニストリーは「世界宣教の死活要素である」というケープタウン決意表明の言葉に耳を傾けるべきです。最後に、子ども虐待に対して、それを明るみに出し、抵抗し、反対する行動が教会には必要です。見えないところで、「暴力、搾取、奴隷制、人身売買、売春、性差別、民族差別、商業取引の対象とすること、そして故意の放置」が行われています現実を知り、明るみに出し、そこからの解放のために祈り、働くことが大切です。

 

6. 祈り

 

 具体的な世界宣教の働きにおいて、忘れてはいけない優先事項は、祈る事です。この「召し、命令、賜物」を覚え、宣教にとって「不可欠な土台であり情報源である」ことを覚える必要があります。「情報源」という点も覚えるべきでしょう。祈りによって、私たちは世界現実に目が開かれていくのですから

 祈るポイントは、ケープタウン決意表明において語られてきた内容です。(1)世界のすみずみに働き人を神が送られるように、(2)あらゆる人々が神のもとに引き寄せられるように、そのために福音の告知とキリストの愛のわざが具体的になされるように、(3)神の民の人格と行動と言葉によって神の栄光が表されるように、キリストの名のために苦しみつつも、まさに神の民がその歩みを通してキリストの名が知られ、賛美されるように、(4)神の国がくるように、神の民がその歩みを通して、正義と被造物管理平和を実現していくように。このような祈りを通して、

 

この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。(黙示録11:15)

という黙示録の賛美が現実となる日を待ち望んでいきましょう。

2012/07/05 Thursday

 ケープタウン決意表明(14)

IIC. 他の信仰を持つ人々の中でキリストの愛を生きる

 

1. 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」には他の信仰を持つ人々も含まれる

 

 先に、(I-7-D)において、イエス弟子として、わたしたちは、他の信仰を持つ人、私たちを憎む人、私たちを中傷し、迫害する人、私たちを殺そうとする人さえも愛するようにと招かれていることが述べられました。特にここでは、キリスト教信仰以外の信仰を持つ人々に焦点を当て、彼らを愛することを考えましょう。

 キリスト者の人口が一%未満である日本に生きる限り、わたしたちは他の信仰を持つ人と関わる事なしに歩む事はできません。そして、そのようなひとりびとりを「隣人とみなす」だけではなく、そのようなひとりびとりの「隣人になる」ことは当然、わたしたちがなすべきことです。日本人の数多くがそうである「無宗教な」人々に対しては、問題なくできるでしょう。しかし、その隣人が、たとえば「オウム真理教の信者」であったらどうでしょうか。イスラム教徒であったら、どうでしょうか。「キリスト教を徹底的に排除すること」を旨とした信仰に生きている人であったらどうでしょうか。その時にも、「あなたがた自身のように愛する」というみことばに生きる事ができるでしょうか。

 どのようなケースであったとしても、決意表明にあるように、「物腰は柔らかいが無批判ではなく、見分ける力を持ちつつ易々とだまされず、私たちが直面しうるどんな脅威にも注意を払いながら恐れに支配されないよう」関わるべきです。攻撃的ではなく、しかし適切に他の宗教の問題点を理解し、見分けることが大切です。時として、他宗教の方々がわたしたちにとって脅威になることがあるかも知れません。しかし、そうであったとしても、恐れに支配されずに関わる必要があります

 さらに、他の信仰を持つ人々への伝道について、「愛をもって」取り組むことが大切です。イエス・キリスト福音がどれほどすばらしいものであったとしても、キリスト教への回心を強要することは間違っています。一見、回心したかのように見えますが、そのような伝道方策は、「自分の仲間、自分宗教自分の教派」という「自分中心」の働きであり、「自己犠牲キリストの愛」とは全く関わりはありません。むしろ、パウロ使徒言行録の中でおこなっているように、正直で、率直で、筋の通った議論の中で福音を表明しつつ、それを聞いた人がどのような決心をするかはその人たちに委ねることが大切です。神の霊が働いて、信仰を生み出して下さる、その時をマツ必要があります

 

 このような立場で、他の信仰を持つ人を愛するわたしたちは、いくつかの行動指標を持つことができます

 まず、1ペテロ3:15-16がわたしたちの証しの大原則です。

 

あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。

 

わたしたちが細心の注意を払い、倫理性を守り、強制せず、欺かず、むしろ敬意を払って証しをする時、そのような形で隣人への愛を示すとき、そのような証しの方法そのものキリスト福音のすばらしさの証しとなります

 さらに、他の信仰を持つ人と交友を持ち、「愛と善意ともてなしの心」を示していくことを忘れてはいけません。そして、何よりも彼らの信仰を正しく理解することが大切です。そうすれば、虚偽を流布することもないでしょうし、メディアやあおり立てる人々の偏見、嫌悪、恐怖に振り回されることもなく、むしろそれらの過ちを見抜き、抵抗できるでしょう。「長いものに巻かれてしまう」傾向の文化に生きる私たちだからこそ、特に最新の注意を払うべきです。たとえば、あなたはイスラム教を正しく理解しているでしょうか。日本では希でしょうが、世界の多くの国で暴力的な攻撃を他の信仰の人々から受けることがあります。そのような中であっても、キリストが歩まれたように、暴力と復習を拒絶し続けることが大切です。そして、福音の真理に対する確固たる確信を持ちつつ、敬意を払って他の信仰の人のことばに傾聴することが必要です。そのような隣人愛に満ちた対話を通して、キリスト福音のすばらしさがむしろ証しされていくのです。

 

2. キリストの愛は、福音のために苦しむこと、時には死ぬことをもわたしたちに迫る

  

 宣教の歴史を振り返っても分かる事ですが、キリストの証人として宣教にたずさわるとき、苦しみを避けて通ることはできない。旧約聖書預言者たちがそうであり、使徒たちもそうであった。苦しみの中にあったパウロは次のように語っている。

 

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だからキリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(2コリント12:9-10

 

苦しむ用意なしに宣教にたずさわることは、間違っています。むしろ、マニラ宣言では「殉教は、キリストが特別に栄誉を与えると約束された、証しの形態である」と語り、殉教が神の特別な栄誉であるとまで言っています。敵意に満ちた背景でも、主の召しに忠実にイエス・キリストを証し、その代償として受けた迫害であるからです。そして、宣教者の苦しみを通して、不思議なことではありますが、キリスト福音は拡大していくのです。さらに、愛する者の殉教を経験したり、拷問や迫害に耐えつつも、そのような人々をも敵として憎むのではなく、むしろ隣人として愛し続けている人がいます

 ですから現代日本に生きる私たちは、「安逸と反映」のなかで眠り続けるべきではありません。福音のために苦しむことを迫るキリストの招きの声に耳を傾け、それぞれの所で証しに生きる必要があります

 さらに、世界中におられる福音のゆえに苦しんでいる人々の証しを涙と祈りをもって聞き、心に留め続ける必要があります。そして、決意表明にあるように、祈るべきです。敵意に囲まれた中での証し人たちの上に「あわれみと勇気」が与えられ、福音が「実」を結ぶようにと。さらに、苦しむ人と共に悲しみのみならず、逆に拒絶し続ける人々に対する神の悲しみを心に留め、彼らも神との和解を見いだすことができるようにと祈り求めます

 

3. 行いにあらわれる愛は、恵みの福音を体現し、福音の推薦状となる

  

 わたしたちがキリストの香りを放つのは、わたしたちが他の信仰を持つ人々の中で、神の恵みの香りに満たされ、生き、仕えることによってです。そのことにより、人々はキリストの香りを嗅ぎ、神がよい方であることを味わい知るのです。クリスチャンの愛に満ちた生活奉仕を通して、キリスト福音は他の信仰を持つ日々との間で魅力的になっていくのです。理屈ではなく、まさに生き方です。

 しかし、名誉を重んじる文化において、恥はそのまま復讐へと進んで行きます。しかし、傷つくことをおそれず、自らを捧げ続ける神の愛と恵みは、そのような文化の中で全く異質なものとして受けとめられます。そして、時には「不快」とさえ思われるのです。しかし、飢え渇いている者は、異質であってもこの恵みを味わっていくのです。最初は、やっぱり不快でしょう。しかし、チーズのように慣れ親しんでいくとき、その魅力から離れることができなくなっていくのです。それがキリストのかおりです。

 だからこそ、困難の地から逃げるのではなく、そこで長期間にわかって生活し、愛し、仕えることへの献身へとわたしたちは招かれています。それは生涯を通じて、はては死に至るような忍耐と持久力を求めるでしょう。しかし、そのかおりはかならず世界中にあふれるのです。

 

4. 愛は弟子としての生き方の多様性を尊重する

 

 「インサイダー運動」は、イスラム圏やヒンズー圏に見られる運動です。これらの社会的文化的な出身共同体の内部で生活し、様々な儀式を執りおこないつつも、イエス聖書を中心とした交わり、教え、礼拝、祈りを小グループで行っている人々の群を指しています。これらの社会では、共同体の結びつきが強いために、キリストを信じ、別のキリスト者共同体を作り上げるとそれまで所属していた共同体の結びつきや家族から全く分離してしまう、という結果に陥ります。教会があたかも家族の一員を盗み取ったかのように見られ、結果的に福音宣教の機会が失われて行くでしょう。家族が皆、キリスト者となったとしても、その家族が住む共同体という社会から分離するのではなく、イエスの主権と聖書権威の元に行きつつ、生まれてきた社会で生き続けようとするのです。

 このような運動の利点は、社会的文化的な出身共同体にとどまり続けることが可能であるという点です。その一方で、混合主義(シンクレティズム)に陥り、もはやキリスト教とは呼べない形態の信仰となる危険性があります。そのために、「インサイダー運動」は様々な評価が与えられています。日本での状況を思い浮かべつつ、考えてみてください。田舎の共同体の祭りと葬儀という儀式を行いつつも、イエスを主とし、聖書権威の元に生きるのです。そのような生き方をしている人々をクリスチャンと呼ぶことが可能なのでしょうか。日本に於いては、国家神道の元にキリスト教会が下ってしまった戦前の経験があり、日本における「インサイダー運動」が可能なのか、疑問の声をあげる人もいます。ただし、混合主義は、どのような文化であったとしても、その文化の中で自分信仰を表現する際に直面する危険ですから、インサイダー運動のみが危険だとは言えません。

 ケープタウン決意表明は、インサイダー運動のもつ問題点を見いだしつつも、神がそこに働いている可能性を十分に踏まえて、性急な推進と性急な糾弾のどちらをも戒めています。むしろ、使徒言行録において起こった、異邦人が神の民に加えられた現実に対するバルナバの行動から使徒11:19-24)、(1)神に立ち帰ろうとする異邦人を悩ますことなく(使徒15:19)、そのために助けの手を述べること、(2)信仰の弱い人を受け入れ、神のなしておられるわざに驚きを持ちつつ、様々な視点存在を認めて、非難の応酬に走ることがないように、対話の道を選ぶことを勧めています

 

5. 愛は散らされた人々に手を差し伸べる

 

 現代はこれまでにないほど人々が移動する時代です。二億人の人が、出身国ではない地に住んでいると考えられます。そのような人を「ディアスポラ(散らされた人々)」と呼びます

 ディアスポラの民が世界に散らされているのには、様々な理由があります。ある者は自分からすすんで他国へと移住していきました。しかし、移住せざるをえなかった人々も数多くいます。職を求めて国を移動する人がいます(経済的移住者)。戦争や自然災害のゆえに、同じ国内の別の地に移動せざるをえなかった人も多くいます。また、国外へと、難民として移動していった人々もいるでしょう。あちこちで起こった民族浄化運動のため、抹殺を逃れて移動した犠牲者たちもいます宗教の違いを原因とした暴力や迫害から逃亡した人もいるでしょう。干ばつ、洪水、戦争が生み出した飢饉のために自らの国を逃れた民も居ます(ヤコブとその家族)。農村部の貧困が原因で、都市に流入している数多くの人々が存在ます

 このように、原因は様々なですが、現代は人々が移動する時代です。このような時代の動きは、神の宣教目的のうちにあることを確信をしますが、そこに悪や苦しみが存在することも事実です。あたかもヨセフが語ったように、

 

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。(創世記50:20)

 

というケースが世界中にあふれています

 さて、日本人について目を向けるならば、114万人(2010年)が海外に長期滞在しています。北米に39万人、中国に13万人、続いてオーストラリア、英国、ブラジル、カナダ、タイ、と続きます。彼らへの伝道は積極的になされており、信仰をもって帰国するもの、求道の思いをえて帰国する日本人は年間1600人ほどいます。ところが、そのうちの80%は数年のうちに教会から離れます

 このような現状を考えるとき、ディアスポラの存在はチャンスであると考え、その機会を大切に用いる必要があります。そして、自国民でディアスポラとなっている人に他国で仕える、もしくは自国にディアスポラとして来ておられる方に仕える働き人の訓練と養成が大切になってきます

 さらに、クリスチャン以外の宗教的背景を持つ移民の人々をクリスチャンがことばと行いをもって受け入れることが大切です。「見知らぬ人を愛し、外国人の主張を擁護し、囚人を訪ね、もてなしの精神を実践し、友情を築き上げ、家に招き、助けと世話を提供する」というケープタウン決意表明示唆されている行動は、聖書に一貫して示されているものです。

 

寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記19:33-34)

 

また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカ14:12-14)

 

私たちがキリストの愛をことばと行いによって証しする時、ディアスポラの民が福音に出会うことが可能となります。その中には、自国にいたならば決して福音に接することができなかった人もいるでしょう(イスラム圏など)。しかし、ディアスポラとなったからこそ、クリスチャンを通して、福音にであうことが可能となるのです。

 逆にクリスチャンがディアスポラとなることもあるでしょう。自らが選んだ状況でなかったとしても、そこに神の御手を見いだすことが大切です。そこで、キリストを証し、エレミヤが捕囚の民に語ったように、その地の幸福を祈り求めるべきです。

 

わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。(エレミヤ29:7)

 

さらに、受け入れ国の教会はディアスポラの民と共に、互いに聞きあい、学び会い、福音宣教のために協力していくことが大切です。日本で、わたしたちはどうでしょうか。

 

6. 愛はすべての人々の宗教的自由のために働く

 

 キリスト者は、迫害の中で十字架の道を従うように招かれていますキリストのために自分権利が不当に取り扱われるたり、失われたりすることさえも辞さずに歩むように招かれています。しかし、それは、他者がそれぞれの宗教に生きる自由を擁護することとは全く矛盾しません。人権を侵害している人たちの声なき声を聞き、彼らの権利のために働くこととも全く矛盾しません。もちろん、他の信仰が真理であると是認することはありません。しかし、その信仰に生きる人々が、自らの信仰を守って生きることを擁護しないことと直結はしません。むしろ、キリスト者は、他者が自分宗教を信じ、それに生きる自由を擁護する者となるべきです。

 ですから信仰のゆえに迫害を受けている人々のために、彼らの信教の自由という権利を主張することはたいせつなことです。政府へと働きかけることも必要でしょう。

 もちろん、私たちはなによりも善良な市民として、その国のしあわせを求めるべきです。さらに、権威者に対しても、次のように言われています

 

主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。(1ペテロ2:13-17)

 

権威ある者のために祈り(1テモテ2:1-2)、税を納め、善を行い、平和で静かな生活を送ることを追い求めるべきです。様々な問題のあるローマ皇帝に対してもそれに従うことを求めているのですから現代の多くの国に於いても、そうです。

 しかし、国が自らを神よりも高くし、神か、国家か、と選ばせるように強要するとき、私たちは彼らのもつ偶像崇拝の本質を見抜き、国家に対して「いいえ」を言わなければなりません。助産婦たちがファラオに逆らったように(出エジプト1:15-21)、ダニエルがダリヨス王の命に背いたように(ダニエル6章)、迫害と十字架が待ちかまえていようとも、わたしたちはイエスこそ主であると告白し、その告白に生きるべきです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒5:29)というペトロと使徒たちの告白は、私たちの告白です。

 なお、すべての人の宗教的自由のために働きつつも、私たちの願いは、すべての人が主イエスを知り、自ら進んで彼を信頼し、神の民とされることです。

2012/05/25 Friday

 ケープタウン決意表明(13)

II B. 分断され、損なわれた世界にあって、キリスト平和を築き上げる

 

1. キリストがもたらした平和

 

 ケープタウン決意表明の中心にあるみことばは、

 

神はキリストによって世を御自分和解させ(2コリント5:19)

 

です。しかし、キリストによる神との和解は、必然的にお互いとの和解へとわたしたちを導きます。なぜならば、

 

実に、キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソ2:14)

 

であるからです。そして、特に聖書の文脈においては、ユダヤ人観点からすると、最も大きな分断はユダヤ人異邦人の間に存在しました。しかし、この分断は、キリストによって取り払われ、そこに平和が到来しました。

 

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(2:14−16)

 

そして、異邦人ユダヤ人が、キリストイエスにおいて、ともに同じ約束にあずかるものとなるのです。

 

すなわち、異邦人福音によってキリストイエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。(3:6)

 

ですから、そのことが命令されています

 

平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(4:3)

 

 このように異邦人ユダヤ人の一致が勧められていますが、それは単に起こるべきことにとどまらず、実は全被造物が一つのされる、その出来事にひな型なのです。

 

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものキリストのもとに一つにまとめられるのです。(1:10

 

ですから、アブラハムに語られた福音は、被造物の完成のために神がなされた大きなわざへと世界を動かすような力があるのです。

 

聖書は、神が異邦人信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。(ガラテヤ3:8)

 

 キリストにある和解は、二つのことをわたしに考えさせます

 まず、ユダヤ人伝道についての問題です。メシアであるイエスを通して神との和解が実現したと言うことは、パウロが繰り返して宣言しているように、ユダヤ人も「十字架においてのみ、そして十字架によってのみ」神に近づくことができます

 

ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(ローマ10:13−14)

 

ですから、ユダヤ民族の中で主を証しする働きをするメシアニック・ジューを受け入れ、励まし、彼らのために祈る事は大切です。

 もう一つは和解と正義の問題です。人々の間の真実で継続的な和解のためには、正義の確立が必要です。過去と現在の罪を認めること、神の目で悔い改めること、傷つけられた人々に対して自らの罪を告白し、赦しを求めること、そして与えられた赦しを受け取ることが必要となります。また、暴力や抑圧によって害を受けた人々への正義と回復の実現を求めることも必要です。教会は、和解の実現の為に、その務めに加わり、さらにそのための闘いに献身的な努力が求められます。教会は「平和をつくりだす者」となる継続的な努力が必要です。

 

2. 民族紛争におけるキリスト平和

 

 キリストがもたらす平和の切なる実現が求められる今日的な領域の一つは民族紛争です。

 この世界には多種多様の民族存在ます。その多様性は、決して堕落の結果ではなく、創造における神の賜物であり、計画です。

 

神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。(使徒17:26)

 

従って、民族の多様性はそのままのこされたままで、ひとつの神の民とされる日の到来を私たちは待ち望んでいるのです。

 しかし、民族的な多様性を認めず、また、自分が神から与えられている「民族」というアイデンティティを軽視してきたのも事実である。それと同時に、自らの民族に対する忠誠心が罪によって損なわれおり、誤用されてきたのも事実である。このことを覚える時に、「あがなわれた者」というアイデンティティが何よりも重要視するとともに、そのもとにある限りにおいて、民族というアイデンティティを尊重することを忘れてはならない。日本人としてのアイデンティティを重んじすぎて、キリスト福音に反する行動をすることしてはならない。そして、キリスト者からといって、日本人であるということを捨ててはならない。

 さて、民族の紛争の歴史を見る時に、キリスト者がそのような出来事に大きく関与してきた現実を見る。また、大部分の教会は民族の紛争に対して沈黙してきた。人種差別、奴隷制度、ユダヤ人逆去る、アパルトヘイト、民族浄化、教派間暴力、パレスチナ人の苦難、カースト制度、部族の集団虐殺など。たとえば、韓日併合時に神社崇拝を勧めた日本の教会、アパルトヘイトを推進したオランダ系改革派教会(その指導者に名を釣られていたのは日本でもよく読まれていたアンドリュー・マーレー)、1994年にルワンダで起こったフツ族によるツチ族の殺害において、国民の大多数を占めたクリスチャン(カトリック、プロテスタント)がまさにこの殺害の片棒を担いだ事実を忘れてはいけません。このような行動が平和福音の証しを著しく骨抜きにしてしまったのである。だからクリスチャンがそのような暴力、不正、抑圧に参画しているところで、嘆きと悔い改めを呼びかけるべきです。沈黙、無関心、中立主義、神学による正当化は悔い改められるべきです。そのためにも、福音が置かれている文脈に深く根ざし、不正の根底にある世界観と制度に異議を唱え、変革するために働く必要がありますキリストの命令に従って歩む弟子の誕生なしに変革は進みません。

 そのためにすべきこととして、(1)福音のもつ和解の力を深く理解する、十字架においてイエスは敵意を破壊したという神学をも育てること。(2)和解のライフスタイルをもつ(赦しと不正への異議申し立て、和解のために行動し、相手方へのもてなしを行う、暴力という状況の中で、苦しみと死をもいとわない、長期的ないやしに取り組み、教会が癒しの場を提供する)。(3)キリスト十字架と復活の勝利においてのみ、権威を持って、紛争の原因となっている悪に対峙することができることを覚えて、希望の灯となり、希望の担い手となること。

 

3. 貧しく抑圧された人々のためのキリスト平和

 

 信仰告白(パート1)の7−Cにおいて、私たちが愛する「神の世界」には、ここで言われている「抑圧された人々と貧しい人々」が含まれています。ですから信仰告白に則って、私たちは具体的な行動を起こすように招かれています

 

奴隷制度と人身売買

 200年前、イギリスにおいてウィリアム・ウィルバーフォースが奴隷貿易を廃止するために尽力しました。そして、1807年に奴隷貿易が禁止されました。そして、彼が健康を害して庶民院を退いた後は、この働きはトーマス・ファウエル・バクストン(B・F・バクストンの祖父)に継承されました。その後、奴隷制度の廃止はアメリカ合衆国へと広がっていきました。しかし、残念なことに、現在でも数多くの人が奴隷とされています(2,700万人と推定される)。インドで、特にカースト制による最下層ダリットの抑圧は現実です。そして、残念なことに教会も自身の内側に不平等と差別を持ってしまっています。さらに、特に女性と子どもが世界中のあちこちで人身売買されており、性産業の奴隷、強制労働、徴兵という形で虐待されているのです。

 この現実を覚える時、人身売買と奴隷という悪と戦うことを求められています。それは、「捕らわれている人に解放を」(ルカ4:18)というイエスの働きの警鐘であり、解放を求める人々の声に応えることであり、このような制度を構造的に支えている社会的、経済的、政治的要因に取り組むことでもあります

 

貧困

 貧困も世界現実です。そして、神は貧しく、必要を抱えている人の側に立っておられます。ですから、「制度的な経済的正義」が行われるように働くと共に、個人的には「思いやりと尊敬と気前の良さ」に生きる必要があります。それは、初代教会がしてきたことです。

 

信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。(使徒4:34−35)

 

また、パウロ異邦人によってなされた教会において一生懸命になしてきた働きでもあります

 

また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。(ガラテヤ2:9−10

 

 そのために、具体的にするべきことはなんでしょうか。国連では「ミレニアム開発目標」を定め、そこでは八つの目標が示されていますhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/doukou/mdgs/about.html)。そこでは、極度の貧困と飢餓の撲滅のみならず、それと並行して、初等教育の普及、女性の地位向上、乳幼児死亡率の削減、妊産婦の健康改善、HIVなどの疾病の蔓延防止、環境の持続可能性、開発のためのパートナーシップがあげられています。また、世界の教会はミカ・ネットワーク(http://www.micahnetwork.org/)を立ち上げ、同様の目標に取り組んでいます(日本からの参加団体はなし)。このような働きに教会が参加することも大切ではないでしょうか。それとともに、特に日本の場合、いきすぎた富と貪欲を問いただすこと、消費主義という偶像崇拝に異議を唱え、富ではなく、神に仕える者として進むべきです(「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」[マタイ6:24])。止める我々に求められている悔い改めをしっかりと認識する必要があります

 

4. 障がいのある人々のためのキリスト平和

 

 日本においても障がい者は様々な困難を抱えておられる。しかし、それ以上に世界に住む6億人を上回ると推定される障がい者の過半数は、後発開発途上国に住み、最も貧しいグループに属しています。身体的もしくは精神的な機能障害に加えて、社会的差別、不公平を味わっている現実を忘れてはなりません。それゆえに、障がいのある人々に仕えるとは、医療社会的対策のみならず、阻害の廃止と平等のために戦うことを含んでいます。そして、お互いの間に友情、尊敬、愛、正義が生まれることこそ、教会が進むべき道です。

 人間的な観点から見るときに、障がいという固定観念に私たちは冒され続けます。むしろ、「人間的な観点から人を見ることをしない」(2コリント5:16)という視点に立ち、皆が神から賜物を与えられていることに気がついていくべきです。障がいのある人々に仕えるだけではなく、彼らが与える働きを受け取ることも大切なのです。そして、障がいのある人々もそうでない人同様に宣教への召しがある事実を教会は受けとめるべきです。

 残念ながら、障がいを「個人的な罪」「信仰の欠如」「願いの欠如」と考える人々がいる。しかし、これは間違っていますイエスご自身が次のように語っておられるからです。

 

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:1−3)

 

このことを心に留めましょう。そして、障がいという障壁で戦っている方々に、罪の意識とかなわない望みという重荷を課してはなりません。むしろ、教会こそが、障がいのある人々が受け入れられ、同じ主の前に立つ者として等しくあることが感じられる場となるように祈り求める必要があります。そして、障がいのある人々の必要を擁護していく務めを教会は負い続けます

 

5. 苦しんでいる被造物のためのキリスト平和

 

 信仰告白(パート1)の7−Aにおいて、私たちは神の被造物であるこの世界を愛することが告白されています。従って、被造物を愛する具体的な行動が求められています

 人は神のかたちに造られ、それゆえに地を治める使命が神から与えられていました。ですから、神のよい被造物が与えてくれるその豊かな富を、自分たちの好きなように用いるのではなく、よき管理者として用いなければなりません。そして、それはすべての被造物の所有者である神をおそれつつ、行使するする必要があります。さらに、「全被造物にとっての創造者、所有者、日々支えて下さる方、あがない主、相続人」であるイエス・キリストのために、この業を行います

 しかし、現実はどうでしょうか。様々な生物が消えていき、地球資源が乱用され、破壊されています。理由の如何に関わらず、確かに気候は変動しています。気候変動は、私たちの住む日本においてもいろいろな影響を及ぼしていますが、それが極端な形で影響を及ぼすのは、貧しい諸国です。ですから、富む地域に住む私たちは、大きな影響を受ける人々と同等の切迫感をもって取り組む必要があります

 そのために、破壊と汚染の原因が、私たちの消費主義ライフスタイルであることを覚え、それを放棄すること、政府が政治的な都合よりも道徳的債務を優先させるように働きかけること、そして地球資源の適切な使用に取り組み、環境保護や支援活動に従事しているクリスチャンの働きが、宣教的な召命であることを認めることが大切です。被造物保護のために働くこと、それもまさにキリストからの召命、宣教的な召命なのです。そして、日本においては、福島第一原発事故後の地域が放射能によって汚染された現実を踏まえつつ、この問題への対応についても、宣教的な召しであるとの認識から考えるべきです。

2012/04/22 Sunday

 ケープタウン決意表明(12)

 パート1が終わりました。パート2の解説を書いております。すこしはしょっていますが、お読み下さい。なお、

ケープタウン決意表明

ケープタウン決意表明

をお買い求めになって、読むと、もっと言いですよ。宣伝でした。

 

パートII

私たちが仕える世のために:ケープタウン行動への呼びかけ

 

序論

 

 ケープタウン決意表明のパートIは、「愛」という動詞を中心にして、宣教的な観点から信仰告白が述べられていました。続いて、パートIIは、行動への呼びかけが記されています信仰告白と行動への呼びかけは、全く二つののものではありません。むしろ、「神との間の私たちの契約は、愛と服従を一つに結び合わせる」とあるように、神との契約のもとにある私たちは、神を愛するがゆえに、神に従っていく存在です。行動に表される従順のない信仰告白は無意味であり、キリスト者の行動は神がどのような方であるかという信仰告白に深く根ざしているからです。

 ですからパウロ

 

あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。(1テサロニケ1:3)

 

と語り、信仰によって生み出される働きと、愛によって促される労苦を評価しています。それは、パウロのみではなく、神ご自身も評価されているでしょう。なぜならば、愛と結び合わされた服従こそ、私たちが新しく造られた目的からです。

 

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリストイエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(エフェソ2:10

 

 さて、パートIIは、2010年の第三回ローザンヌ世界宣教会議の主要の6つのテーマに従ってまとめられています。そして、全世界キリスト教会に差し迫っている課題がここであげられると共に、どのような優先順位をもってこれらに取り組んでいくか、大きな枠組みを提供しようとしています。しかし、これらはあくまで枠組みであって、普遍的なものではありません。それぞれの地域にあった優先順位があることも明白だからです。

 6つのテーマとは、「キリストの真理」「キリスト平和」「キリストの愛」「キリストのみこころ」「キリストの教会」「キリストからだ」です。それぞれのテーマのもとで、いくつかの異なった(時には相互関係が明確ではない)問題が取り上げられています。ここでは、そのすべてについての解説を加えるのではなく、特に注目しておきたいいくつかの点について述べるにとどめます

 

IIA. 多元的でグローバル化した世界にあって、キリストの真理を証しする

 

1. 真理とキリストの人格

 「真理」は一般的に、「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の道筋」と考えられています。しかし、イエスご自身が次のように語られているところから、真理について私たちは考え直さなければなりません。

 

わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)

 

キリストご自身がこの宇宙において「真理」です。つまり、真理とは単にことばで述べられる、「物事の道筋」だけでなく、キリストという人格そのものです。また、聖書の語る真理とは、いつの時代も、どの場所でもそうである(普遍的)でありつつ、それぞれの時代や文化という文脈に沿って考えられるべきものです。そして、真理そのものは最終的に明らかにされるものであると同時に、今、ここに存在ます。「キリストご自身が真理である」という聖書の主張は、私たちの真理理解を再検討するべき事を教えています

 真理であるキリスト弟子である私たちは、ですから「真理の民であること」を求められていエーエムス。つまり、真理を「知っているだけ」ではなく、「真理に生きる」ことが求められています。私たちが真理に生きるとき、私たちの「顔のうち」、つまり生き方のものから真理であるキリストを見いだすことができます。しかし、単に「真理に生きる」ことだけにとどめていては不十分です。「福音の真理をことばで語って告知する」ということばによる宣教を軽視してはいけません。ただし、「真理に生きること」と「真理を語る」ことが一致して初めて、宣教は前進します

 聖書福音という「真理」は、決意表明のパートIで学んできたように宇宙規模の大きさをもつ、大変豊かなものです。単なる個人的な救済としてでもなく、他の神々や人間の知識が与えるものよりもすぐれた問題解決法としてでもなく、「キリストにおける神の全宇宙に対する計画」として提示する必要があります。多くの人は、自分の問題の解決や必要を満たす、という個人的な観点からキリストのもとに来るでしょう。しかし、キリストが真理であることを見いだし、その真理が全宇宙への広がりを持っているものであることを見いだしたならば、キリストのもとに留まり続け、その福音宣教者となっていくでしょう。

 

2. 真理と多元主義が提起する課題

 様々な宗教が混在する日本に生きる私たちにとって、様々な宗教がそれぞれの真理を主張することはなじみ深いことです。そして、ある意味で、幸いなことに、それぞれが主張する真理は時に競合しますが、多くの場合、それぞれの主張を尊重して、共存しようと努めてきました。

 その一方で、現代の哲学者たちは、絶対的真理や普遍的真理はありえないと考えます。真理は、特定の時代の特定の文化が決めるもので、どれひとつをとっても、絶対ではない、という「相対主義」を語ります。寛容は勧めますが、先進諸国ではむしろ「信仰に則った真理」が抑圧されるということも起こっています

 福音宣教は、いわゆる普通の人だけを対象にしたものではありません。高度な知的なレベルで真理を考える人たちへの福音宣教も大切です。そのようなレベルの人とも渡り合って、福音の真理を語る事ができる人が教会に育つことも必要です。また、すべてのキリスト信者が、日常の中で真理を語り、この世界の様々な出来事とキリストの真理をもって対話できるように、備えられることも必要です。

 

3. 真理と職場

 「聖書は、私たちが様々な召しにおいて神に仕えるという意味で、私たちの職業生活全体をミニストリーの領域内に含めている」。この文章は大切なことを語っています。教会の中には聖俗分離という間違った考えが浸透しています。それゆえに、牧師信徒が極端に分離されたり、宗教活動とその他の活動の完璧な分離が求められ、世俗の仕事は霊的な価値が低いものと考えられるのです。しかし、聖俗分離は間違っています。全生活の主である神は、パウロを通して、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:23)と私たちを招いています。すべての仕事は主に対するささげものとして、なすべきです。

 職場こそがクリスチャンでない方と人間関係を最も多く持つ場所であり、仕事自体が私たちの時間を費やす大切なものです。しかし、教会はそれを怠ってきました。そして、「全生活キリストの支配下に置く」ことを怠ってきたのではないでしょうか。ですから、職場でどのように歩むか、職業をどのように考えるか、今こそ問うべきでしょう。

 教師や宣教師は、キリストからだの一部にしかすぎません。宣教は彼らだけがする働きではありません。むしろ、それぞれのキリスト者が、神から働くように召された場所こそがミニストリーと宣教の場です。そして、そのように取り組めるように教会は人々を助ける必要があります。つまり、あらゆるキリスト者が、「聖書的な世界観に立って、宣教にとって有効なやり方で、生活し、思考し、働き、話すこと」ができるように訓練することが大切です。また、そのような方々こそが従来の宣教師たちが行くことのできない所に行くことができ、「テントメーカー」として働くことができます。テントメーカーを世界宣教の戦略に組み込むことも大切でしょう。これは、単に閉ざされた諸国に対する宣教だけを意味しているわけではありません。地元の共同体でも、そのような場所があるのではないでしょうか。ですから、教会は、職場という宣教地へと信徒ひとりびとりを送り出す意識を持ち、そのために取り組むことが大切です。

 

4.ではグローバル化したメディアに対して、批判的でありつつ、創造的な取り組みの必要が語られています。また、5.では芸術は神の美しさと真理の側面を映し出す場であるにもかかわらず、それが未開発であることを覚えて、芸術を宣教の為に積極的に巻き込んでいくことが求められています。7.では政府や教育の場でのキリスト者必要性と汚職に対する抵抗の必要性が語られています

 

6. 真理と先端技術

 あらゆる先端技術の進歩の中で、これらの技術が人間性を操作、歪曲、破壊するために用いられるのではなく、人間性を保護し、それを実現するために用いられるように教会は行動することが求められています。先端技術の分野で働いている者を励まし、その内容について知り、クリスチャンとして正しい知識に基づいて批評できるようになることも大切でしょう(原子力発電の問題など)。新技術が登場してきたとき、それを検討し、公共政策の方向付けに影響を与えるようになることも大切です。そして、人命の固有さの尊厳と神聖性が尊重されるように勧める必要があります

2012/02/29 Wednesday

 ケープタウン決意表明(11)

10. 私たちは神の宣教を愛する

 

 世界宣教キリスト教のものであると言っても、言い過ぎではありません。何よりも、イスラエルの神である主、イエス・キリストの父なる神は、宣教の神だからです。そこで、「神の宣教」についてまず考えてみましょう。

 聖書が私たちに明らかにする(啓示する)のは、神ご自身ですが、それとともに、神ご自身の宣教を証ししています。神ご自身の宣教のみわざはまず、十字架による全被造物の和解です。

 

その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分和解させられました。(コロサイ1:20)

 

そして、神は全被造物を一つとするご計画を持っており、そこに向けて、世界を動かしておられます

 

神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エフェソ1:8−10

 

しかし、当然、問題が数多くあるのは事実です。そこで、神はこのご計画を通して、様々な問題を解決しようとしておられます

 まず、「罪と悪によってそこなわれた被造物を、もはや罪も呪いもない新しい被造物に造り変える」わざです。万物の更新とも言われるこのことこそが、神のご計画の究極的目標です。しかし、このためには地上に散らばっているすべての国民を祝福し、本来あるべき「神のかたち」へと造りかえる必要があります。そこで、神は、「地上のすべての国民を祝福するというアブラハムへの約束を、救い主でありアブラハムの子孫であるイエス福音を通して成就する」のです。神がイエスを通してなされたみわざを通して、まず、祝福が全世界に拡がります。しかし、単に祝福が拡がるだけではありません。先ほど述べたように、すべての人類は「造り変えられ、集められる」必要があります。そこで、神はイエス十字架のわざ、あがないのわざによって、「神の裁きにより散らされている国々から成るばらばらの世界を、・・・新しい人類へと造り変え」、さらに「私たちの神と救い主を礼拝するために集められる」のです。神が教会を生み出して下さったのです。祝福とあがないと同時に神が行うのは、神による支配の完全な確立です。そのために、神はキリストを再び送り、「生命と正義と平和による永遠の支配を打ち立て」、その一方で「死と腐敗と暴力による支配を打ち砕き」ます。その結果、神がわれらと共に住み、この世は主とそのキリストとの王国となり、神の永遠の支配が実現するのです。そこに生み出されるのが、新しい被造物の創造、新天新地の到来です。

 このようにして、イエス福音による諸国民への祝福、十字架のわざによる新創造と召命、キリストの再臨による新しい支配の到来を経て、ついにインマヌエルが実現する、すべての被造物の更新が実現するのです。そして、これらすべてのわざをなさるのは神です。神がそのご計画に従って、全被造物を造り変えることこそ、「神の宣教」です。いわゆる「世界宣教」は「神の宣教」のすべてではありませんが、確かにその大切な一部分を占めています。そして、神の宣教と密接に結びついている教会、人類の歴史、究極的な未来は、当然、世界宣教に密接に結びついています。そして、この神の計画こそ「福音」です。

 

A. 神の宣教への私たちの参画

 

 このように見ていくと、宣教とはまずなによりも「神がなさる神のみわざ」です。「宣教とは人間がすることである」と考えているとしたら、その考えは捨て去るべきです。

 それでは、神によって集められた神の民、教会が神の宣教において負うべき役割はないのでしょうか。いいえ。「神はその民を、神の宣教を共に担うために召している」のです。つまり、神の宣教に参加し、その一部を担う役割を負うことこそ、わたしたちの宣教なのです。あくまでも主体は神です。わたしたちが主体ではありません。神の宣教に由来するのが私たちの宣教です。

 宣教的な存在である教会について、いくつかのことが記されています。まず、「すべての諸国の教会は、救い主イエスを通して、旧約聖書における神の民から連続するもの」です。イスラエルが教会に置き換えられたのではありません。むしろ、イスラエルという神の民に教会が加えられたのです。ですから、アブラハムへの召命、諸国民の祝福と光となる使命、律法預言者によって整えられる必要、「罪と苦難の世にあって聖さと思いやりと正義に満ちた共同体となる」招きはイスラエルを対象としているのと同時に、神の民である教会をも対象としています

 次に教会は、あくまでもイエス・キリストによるあがないと聖霊の力によって存在するものです。宣教の主体である神によって存在させしめられたものであり、神抜きでは存在し得ないものです。その一方で、神を礼拝し、神に栄光を帰し、神の宣教に参画するという特別な目的存在しているのも事実です。つまり、神のよって生み出され、神との関わりの中で歩み続けるのが教会です。

 このようにして、教会の宣教についてケープタウン決意表明は次のようにまとめています

 

私たちの宣教は全面的に神の宣教に由来し、神の全被造物をその対象とし、その中心は十字架のあがないの勝利に根ざしている。

 

このような宣教の使命を神からいただいている教会に属し、その民の信仰を公に言い表し、その宣教を共に担うのがキリスト者です。教会から離れたキリスト者は、ですから、一人だに存在しません。

 

B. 私たちの宣教の統合性

 

 私たちが参画する宣教とは、どのようなものでしょうか。個人がキリストのもとに来て、神との和解を受け取るために、キリストを救い主また主として告げ知らせること、いわゆる「伝道」がわたしたちの宣教でしょうか。それとも、公正と正義をこの世界に満たすために、社会的、政治的に関わっていくこと(いわゆる社会的責任)が宣教なのでしょうか。これまで、福音派の教会は伝道、社会派の教会は政治的、社会的活動、と宣教を完全に二分して考えていました。しかし、これが正しいあり方でしょうか。ケープタウン決意表明のこれまでの学びは、わたしたちに何を教えるのでしょうか。

 私たちの宣教の源は、神の宣教、すなわち全世界の救いの為に神がキリストのおいてなして下さったわざです。そして、この良い知らせをすべての国民に知らせることがわたしたちの伝道の務めです。表面的に考えるならば、「伝道をすればいいではないか」と思うかも知れません。しかし、「神がキリストのおいてなしたわざ」は「罪と苦難と不法と被造物の秩序破壊に満ちたこの世界」のために、この世界の中でなされたものです。つまり、この世界に対して、神が福音を述べ伝え、献身的に自らを献げて導かれた来たように、教会も取り組むべきです。そう考えるならば、いわゆる伝道社会的、政治的参与の両者が含まれていない働きは、神の宣教に参画する私たちの宣教と呼ぶことはできないでしょう。

 しかし、伝道社会的責任は、二つの全く別の要素ではありません。福音を告知するならば、福音によって変革され、それは社会的に影響を当然及ぼします社会的な影響が及ぼされない変革などありません)。そして、変革の証しとして社会への関与は当然、福音の告知を行い、そのような場を提供するでしょう。本来、分割してはならない統合的な宣教を、私たちは歴史の中で誤って分割してしまったのです。

 ですから、教会に神が求めているのは、「宣教のすべての次元において統合的で、生き生きとした実践をすること」です。すべての諸国に福音を告知し、愛と思いやりを持って必要を抱える人を助けることによって神のご性質を反映し、神の国の価値観と力を示すことこそが、私たちの宣教です。

2012/02/15 Wednesday

 ケープタウン決意表明(10)

9.私たちは神の民を愛する

 

 徹底的な神のわざを物語った福音(神が約束され、イエス・キリストを通して遂行された)に巻き込まれ、福音の力によって変革された私たちは、単に「キリスト教」という宗教を信じている「信者」ではありません。聖書が語っているように、私たちは「神の民」です。ケープタウン決意表明を見ると、神の民にはいくつかの特徴があります

 

  1. 神の民は神が「愛し、選び、召し、救い、聖なるものとされた」存在です。福音がそうであるように、神の民も神のわざが生み出したものであり、人間が造りだしたものではありません。ですから、神の民は、神ご自身のものであって、他の何かに所属するものではありません。
  2. 神の民は「一つの民」であり、「あらゆる時代のあらゆる国々の人々」によって構成されています。ですから、この神の民の一員に加えられた私たちは、物理的に孤独なことがあったとしても、実際には数多くの仲間に囲まれています
  3. 神の民には使命があります。それは、「新創造の一員としてキリスト栄光を分かち合う」ことです。福音物語る神のみわざによって実現した新創造現実に私たちが生きることによって、私たちを通してキリスト栄光が諸国の民に伝えられるのです。

 

 神の民とされた私たちが、キリスト栄光を分かち合うという使命を果たすために求められているのが、「互いに愛し合う」ことです。

 

愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。(1ヨハネ4:11)

 

それは、神に対して反逆と反乱を繰り返してきた私たちを神が愛された、その事実を受けた上で、私たちに求められている生き方です。つまり、「神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)の主の命に応えて、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」(5:2)ように、「愛によって歩む」、すなわち「愛の生活を生きる」のです。

 「互いに愛し合うこと」は教会でくり返し語られてきました。そして、わたしたちはそのことをよく知っています。しかし、現実にはできない、と言いがちです。しかし、決意表明はお互いに対する愛を大変厳しい表現で表しています。「神の家族におけるお互いに対する愛は、単なる好ましい選択肢ではなく、逃れようのない命令である」。「できればいいね」という努力目標ではありません。ご自身のわざである福音でわたしたちの巻き込み、新しく造られた神からの逃れようのない命令です。福音に対して従っているならば、この世界キリストが王として支配していると信じているならば、まず第一に取り組むべき事こそ、「互いに愛し合うこと」なのです。神の民に求められている修行こそ「互いに愛し合うこと」です。神の民が互いに愛し合うことを通して、世界宣教は力強く進められて行くのです。逆に言うと、宣教が進められていない最大の原因は何か、と問われるならば、わたしたちが「互いに愛し合う」という、神からの逃れようのない命令から逃げ続けているからでしょう。

 それでは、具体的に「神の民を愛する」とはどのようなことを行うことでしょうか。「互いに愛し合う」ことの特徴は何でしょうか。

 

A. 愛は一体であることを求める

 

 愛の特徴は、まず、「世界の根深い分断の障壁を越え、人種、肌の色、性別、社会階級、経済的特権、政治的連帯といった障壁を越えて、キリストを信じる者たちが愛によって1つとなる」ことです。人と人との結びつきを引き裂き、一つとなることが不可能であるかのように見せる様々なものを乗り越える時、宣教が前進します。言い換えるならば、神の民がイエスの「弟子であることを、皆が知るように」なり(ヨハネ13:35)、この世界は神がイエスを「お遣わしになったことを、信じるように」なるでしょう(17:21)。

  このようにして、健全な協力関係(パートナーシップ)が誕生した時(なあなあですます温情主義、与えるだけ・受けるだけという不健康な依存ではない)、「深い相互愛と相互服従と思い切った経済的分かち合い」、つまり現実に見える形での「互いに愛する」ことが実現していく時、キリストの御名があがめられ、神の宣教は前進します。これは、世界の教会において、また日本国内の教会においてもそうです。

 

B. 愛は率直さを求める

 

 「互いに愛し合う」ことは、「愛に根ざして真理を語る」(エフェソ4:15)ことにおいても現れる。つまり、キリストの御名があがめられず、神の宣教を押しとどめている教会の中にある醜さをごまかし続けているならば、それは「互いに愛し合う」という命令に応答してはいません。逆に、預言者イエスご自身は、神の民の偶像崇拝や契約不履行を率直に指摘し続けて来ました。この指摘は、単なる攻撃ではありません。(1)神の民が自らの行動について悔い改め、(2)それゆえに神からのゆるしをいただき、(3)結果として、神の宣教にもう一度従事できるように回復されるためです。このことが、現代の教会において行われない限り、世がキリストに引き寄せられることはなく、神の宣教は前進しません。

 

C. 愛は団結を求める

 

 神の民が互いに愛し合うということは、お互いが切れることのできない絆でしっかりと結び合わされることを意味ます。ですから

 

つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(1コリント12:26)

 

ということが起こります信仰とその証しのゆえに迫害を受けた神の民を覚える時、共に痛み苦しむのです。つまり、黙示録においてヨハネがアジアの教会の民と共に経験していることを、わたしたちも世界の神の民と共に経験するのです。

 

わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。(黙示録1:9)

 

そのために、情報を集め、その人々のために祈り、支援の運動を行うことができます。そのようなプロセスを通して、「共に苦しみにあずかる」のです。

 しかし、「共に苦しみに与る」とは単なる同情ではありません。苦難の中にある教会から、実は多くのことを学ぶことができます。富と自己充足のゆえに、安心しきっている教会は、富んでいるようで、実は貧困を味わっています。ラオディキアの教会のようです。

 

あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。(3:17)

 

 共に苦しむことを経験することは、実は、戸口で戸をたたいているイエスを迎え入れて、共に食事をすることに等しいのです(3:20)。神の民と共に苦しんでいるイエスご自身とその苦しみを共有することになるからです。

 

 このようにして、あらゆる分断を越えて一つとなり、愛をもって真理を語り合い、共に苦難に与る時、和解を経験した神の民である教会は、「神の国の今ある最も色鮮やかな表現」をこの世界に示すことができます。そして、そのような神の民の生き方を通して、

 

生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。(2コリント5:15)

 

というみことばを、私たち自身が体験するのです。互いに愛し合うことこそが、私たちの為に命を捨てて下さった方のために生きる事だからです。

2012/01/12 Thursday

 ケープタウン決意表明(9)

8. 私たちは神の福音を愛する

 

 キリスト者、すなわちイエス弟子である私たちは、「福音の民」、つまりすばらしい知らせによって生み出された神の民である福音がなければ、われわれは存在しない。

 しかし、福音とは何であろうか。「イエス・キリストを信じれば、あなたは罪から救われて、天国にいけます」を福音であるわたしたちは理解しがちである。しかし、それは厳密には正しくない。人間の罪の現実についての証しは福音のものではない。「福音の背景」にすぎない。人間の応答(たとば、信じること)とそれに伴う確信(救いの確信)などを「福音」の一部に入れてしまいがちだが、そうではない。それは「福音が私たちに約束するものである。さらに、信仰によって私たちが造りかえられることも福音のものではない。それは、「福音が生み出す変革」である福音とは、あくまでも「神の福音」であって、「イエス・キリストを通しての神の救いの業」である

 

A. 私たちは悪い知らせに満ちた世界にあってよい知らせを愛す

 

 まず、「福音の背景」であるこの世界現実、悪い知らせに満ちている現実を見てみよう。創世記3章にこの世界現実の姿が描かれている。ここに描かれているのは、神に反逆する人間である。神の権威のもとにあることを拒み、むしろ自らが「神のように善悪を知るものとなる」(3:5)ことを願って、「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない」(3:3)という神の言葉に背いている。これは、最初の夫婦が行った過去の記録だけではない。今、この時代に生きる私たちも、同じように、神に反逆し、神の権威を拒絶し、神の言葉に背いている。そして、神の臨在の地であるエデンから追い払われ(3:23)、神から遠ざけられ、男女間が「お前は男を求め、彼はお前を支配する」(3:16)となることにより他の人々との関係が疎遠となり、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(3:17)とあるように、創造された秩序から人間は疎外されるものとなった。

 この悪い知らせに満ちている現実の中にとどまっているのならば、どうなるのだろうか。

 

イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエス福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。(2テサロニケ1:9)

 

とあるように、終わりの日には刑罰が待ちかまえているばかりである

 ここで注目しておきたいのは、罪の結果と悪の力は実に広範囲にわたって被造物に拡がっている点である。ケープタウン決意表明が語っているように、

 

罪の結果と悪の力は、人間の人格のあらゆる次元(霊的、肉体的、知的、関係的)を堕落させてきた。それらは、歴史上のすべての文化と全世代にわたり、文化的、経済的、社会的、政治的、宗教的な実態にしみ込んできた。それらは人類に対しては測り知れない不幸を、神の被造物に対しては測り知れない損傷を引き起こしてきた。

 

悪い知らせと関わりのない所は一箇所もない。私たちはこの影響を軽く扱いがちである

 

B. 私たちは福音が語るストーリーを愛する

 

 それでは、「福音」とはなにか。(1)まず、神はアブラハムに対して約束をされた。彼の子孫を通して地上のすべての国民を祝福する(創世記12:3)というものである。(2)次に、神はダビデに対して約束をされた。彼の子、約束されたメシアである王を通して、神の王国を打ち立て、世界の救いの為に行動するというものである。このダビデへの約束をパウロは次のように言っている。

 

キリストイエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、・・・(ローマ1:1−3)

 

(3)そして、ナザレのイエスの生と死と復活を通して、神はこの約束を成就された。この福音(1コリント15:1参照)をパウロは次のように語っている。

 

キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(1コリント15:3−5)

 

しかし、イエスを通してなされた神の業は、単にその死と復活だけではない。イエスの生涯と死と復活を綴ったものであるマルコによる福音書が「神の子イエス・キリスト福音の初め」(1:1)で始められていることからわかるように、「ナザレのイエスの生と死と復活という歴史上の出来事」すべてが福音であり、それは四つの福音書に綴られている福音のストーリーである。これらはすべて神の福音、神がなしてくださったことである

 しかし、神の福音は私たちには無関係ではない。私たちを巻き込んでいる。(1)十字架において、神は私たちの罪が受けるべき裁きを自分の身に引き受けられた(2ペテロ2:24)。さらに、(2)イエスを通してなされた神のわざにおいて、神はサタンと死とすべての悪の力に勝利され、その恐怖から私たちを解放された(ヘブル2:14−15)。そして、(3)神と人の和解、人と人との和解を遂行し(エペソ2:14−18)、全被造物の究極的和解を成就された(コロサイ1:20)。これらすべての神の業をまとめて聖書は「神はキリストによって世を御自分和解させた」(2コリント5:19)と語っている。

 このように、すばらしい知らせ、福音は、徹頭徹尾、神のわざである。神が約束され、イエスを通して実現された。そして、神が悪い知らせに満ちたこの世界を変えられたのである。神の福音人間が入り込む余地はない。

 

C. 私たちは福音がもたらす確信を愛す

 

 それでは、この神の福音は私たちに何を約束しているのだろうか。それは「キリストを信頼することにより与えられる救いと永遠の生命についての全面的確信」である

 

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリストイエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38−39)

 

このみことばに語られている救いの確信を、福音は、キリストを信頼するものに約束している。

 救いとは、信仰によって義とされることであり(ピリピ3:8−9)、神との平和であり(ローマ5:1)、もはや罪と定められないことであり(ローマ8:1)、罪のゆるしであり(コロサイ1:13-14)、新しく生まれることであり(1ペテロ1:3)、神の子としての身分を与えられた、キリストとの共同の相続人となることであり(ガラテヤ3:26−4:7)、神の家族の一員に加えられることであり、ついには神の住まいとなることであり(エペソ2:19−22)、いのちをあたえられることである(1ヨハネ5:12−13)。神の福音はこれらすべてを、キリストだけに信頼する者に約束している。なお、これらの約束のほとんどは、神との新しい関係の構築であり、神から遠く離れていたものが、神のすぐ近くに置かれるという約束である

 

D. 私たちは福音が生み出す変革を愛する

 

 パウロ福音について次のように語っている。

 

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。(ローマ1:16)

 

神の福音は神の力である。それは人と世界を変革する。福音が与える約束に信頼する者は、単に信仰を持つだけではない。その信仰従順という形で現れていき、私たちの人生を必然的に変革する。このように、神の福音は、その人の生き方を新たなものへと造りかえていく力を持っている。信仰従順を生み出す力を持っている。ですからパウロ異邦人、すなわちすべての国民が信仰を持つだけではなく、「信仰従順」へと至ることを目標とする宣教にたずさわっていたのである(ローマ1:5; 16:26)。それは、神の約束を信じたアブラハムと同じ姿である(ヘブライ11:8)。

 キリストへの信頼という信仰が必然的に従順を生み出すことは、数多くの聖書が証ししている。たとえば、パウロは、福音がわたしたちの生き方を造りかえることを次のように言っている。

 

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリスト栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:11−14)

 

私たちの救いを成就したその同じ恵みは、私たちが主に従う倫理的な歩みをするように教える。たんに「倫理的に歩め」というものではない。キリストの再臨を念頭において生きるならば、その生き方は必然的に倫理的となる。さらに、イエスへの従順こそイエスに対する私たちの愛の試金石であるヨハネ14:21)。そして、福音はこのような生き方を可能とする、変革の力である