2008-04-06
第2章 白いブリーフ -7-
野間がしきりにメモを取っている。
「そのBVRの白いブリーフ、Mサイズは月にどれくらい売れるんですか」
「まあ、一枚2500円もしますから、そうそう数は出ませんけど」
店員用の控室で、女子店員は落ち着きなく答えた。「いったいなんの調査なんですか」
「失礼しました。この老婦人はお客さんにいますよね」
岡村は港頼子の写真を店員に見せた。
「ああ、この方はお得意さんです。2か月に1度ぐらいお見えになって、肌着と一緒に買っていかれますけど」
岡村と野間は眼でうなずいた。
マスコミや警察が血眼になって、真一の行方を捜しているころ、岡村たちは白ブリーフについて、丹念に調べまわっていた。真一のブリーフは、ここ渋谷の東西百貨店で、母の頼子により買われていた。
最初に犠牲者・飯田浩二のはいていたブリーフは鑑識の結果、間違いなく真一が着用しているものだった。しかし、2枚目以降、竹芝ふ頭のマッチョ水死、3人目の鈴木由紀子のブリーフからは、真一の痕跡はなかった。
「おやっさん、誰がハンカチをはめているんでしょうね」と昨日、新宿のしょんべん横町で、ホッピーを飲みながら、野間は岡村に問いかけた。
「わからん。まったく、謎だ。ただ…」岡村はレバカツを口にほうりながら言った。「白ブリーフについては、もう少し調べておきたいな」
「白ブリーフ遺体すり替え殺人」特別捜査本部は、竹芝の中年男殺人、松本市の鈴木由美子殺人が加わり、「白ブリーフ連続殺人事件」特別捜査本部と改名され、新宿北署、湾岸南署、長野県警の合同捜査となった。捜査本部は新宿北署にあったが、やはり縄張り意識の強い集団の寄せ集めであるなどの理由で捜査は混迷を極めていた。
BVRの白ブリーフは外国ブランドで、国内のよくある白パンツとは一線を画す。BVRを好むのは、ファッションに興味のある若い富裕者層と、一部の同性愛者、SM嗜好の人物に限られているという。真一の場合、目の肥えた母がデパートで見つけ、それからリピーターになったと考えられる。おそらく真一自身も気に入っていたのだろう。
「しかし、これ、おしっこしなくいなあ」と野間がぼやくのは、デザインを重視しているあまり、いわゆる「社会の窓」と呼ばれる放尿口が狭いということ。
「ああ、それはデザインですから。みなさん、ずり下げて用を足されているようですよ」と若い女店員は、調子に乗って答えた。
「これは全国で販売されているのですか」や岡村が尋ねる。
「ええ、うちの百貨店では確か…ただ、大都市中心ですよ。このテのパンツは」
「東京都内では?」
「ええ、全店舗でご用意させていただいていると思いますが」
「最近、大量買いは?」
「さあ、そこまでは…」
「どの店舗でいちばん売れるのですか」
「いやあ、そういうことは、会社のほうを通していただかないと…」
そろそろ潮時だった。調子づいていた女店員もいらだちを見せ始めている。
「ありがとうございます。参考になりました」
「はっ、どうも。でも、最近は、現物そっくりのレプリカも闇で売られていて、私たちも困っているんですけどね」
ぼそっと、女店員が言った言葉に岡村が食いついた。
「レプリカ…どこ製ですか」
「えっ。たぶん中国製とかじゃないですか」
「どこで、手に入ります」
「さあ…でも、変わった趣味の方が多いので、たぶん歓楽街とか…たしか、歌舞伎町にそういう店があるとかないとか」
岡村は会釈をして、その場を立ち去った。野間が後を追う。
「おやっさん!」
「そうだ。もし、後の2枚が新宿のレプリカだとしたら。一連の事件の首謀者は、新宿近辺にいる可能性が高い。もうほかの連中にはとやかく言わせない。おれたちのシマの問題はおれたちで解決する」
岡村は階段を駆け降りた。
「おやっさん、どこへ?」
「まずは、松屋で腹ごしらえだ」
野間は追ったが、岡村が階段を駆け降りるスピードは尋常ではなかった。
第2章 白いブリーフ -6-
「スコッチ先生、ゆ、由起子先輩がっ、あああ」
真一は狼狽していた。
「おい、真一、落ち着け。まず、死体には触るな。毛布とかもかけるな。そして、一度、部屋を出ろ。まず、ワイパックスとヒルナミンを飲むんだ。さあ、いますぐやりなさい」
真一はリビングに向かい、ポケットから常用薬を取り出し、水とともに薬を飲み下した。
「はあはあ、先生。飲みました」
パニックになると、真一は携帯電話でスコッチの指示を受けることになっている。
「いいか、今度の事件は、前回のとは違うぞ。おまえは当事者で、第1発見者だ。警察への通報はしない方がいいだろう。落ち着いて来たか」
「ええ。でも、大好きな由起子先輩がこんなことになってしまい」
真一は泣いていた。
「犯人の目星は」
「あるわけないですよ〜」
「由起子は夕べ何か言っていたか」
「そういえば。今朝、事件に絡んだことで何かおもしろいものを見せてくれるとか」
「どの事件だ?」
「さあ、わかりません」
「いいか、デジカメをもっているだろ?」
すっと、うしろから、キノコがデジカメを差し出した。いつのまに、起きて状況を知ったのだろう。
「まず、デジカメで室内を撮影しろ。そして、死体もよく撮ってくるんだ」
「でもお・・・」
「真一っ!」スコッチは声を荒げた。「おまえが刑務所に入るかどうかの瀬戸際だぞ。刑務所の便所には、おまえは、耐えられないぞ」
「はいっ。すみません」
真一は震える手で室内の写真を撮り始めた。不思議な部屋だった。赤いカーテンにベッド以外は何もない。シンプルな部屋。
「由起子先輩、すいません」と言って、クローゼットを開いた。そこにはなつかしい夏服がたくさん並んでいた。それらは真一と過ごした婦人家庭部時代に身につけていたスプリングコートやワンピースなどがつるされていた。ふと、真一は衣装の列の端に不思議な服を見つけた。白衣と少女のようなロリっぽい服。先生・・・コスプレ!? 真一は首を傾げた。
そして最後に、由起子の写真を撮りおさめた。死体とはいえ、ピンクに染め上げられた由美子の死体はエロティックであった。
ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、由起子先輩の死体を陵辱している。自分の下半身に熱をのびている自分に心底、驚きと屈辱と自己嫌悪を感じた。
「先生、撮り終えました」
「んー。ご苦労」
スコッチは恵比寿のマンションで、葉巻をくゆらせている様子だった。
「じゃあ、そこから速やかに立ち去りなさい」
「警察には連絡は」真一はこだわった。
「だめだ。するな。今はむしろ、君の命が危ない。早く、こっちへ戻って来なさい。だけど、中央高速は使ってはだめだ。軽井沢か名古屋に出て、高速を使わずに深夜に戻って来なさい。
真一とキノコは証拠となるワインの瓶やゴミなどを回収してバックにつめた。室内のあらゆる指紋も拭き去った。そんなことで、真一がここに来たことを隠せるかどうかはなからないが、できるだけの処理はしたと思う。
最後に真一は由起子に別れの挨拶をして、夜中に部屋を出た。
立川市にある新しい潜伏場所に着いたのは明け方だった。スコッチが用意してくれた部屋だ。国道から一般は入った一戸建てだ。しばらく真一はここから深夜しかでられないだろう。
キノコが大きな寝室を、真一が6畳間を使うことにした。6畳まで荷物の整理をしていた真一に、大人しいキノコがいかつい声で、呼びかけた。「真一さんよお」。
キノコは部屋の入り口から、手招きをした。呼ばれるままにリビングに行くと、だだっ広いフローリングの真ん中に、新聞紙が敷かれ、缶コーヒーとチーズケーキが2人分用意されていた。コンビニで買って来たのだろう。
「お口には、あわねえと思いますが」
「キノコさんっ」
真一はむさぼるようにチーズケーキをかじった。国内の有名店のチーズケーキを食べ尽くしている真一だったが、このケーキがいままで食べたチーズケーキの中で、なによりもいちばんうまいと、泣きながらむさぼり続けた。
2008-04-05
第2章 白いブリーフ -5-
真一は毎朝6時30分に起きる。これは小学校時代からの習慣である。
朝起きて、顔を洗って食卓に行くと、そこにはいつも母と妹の奈緒が笑顔で待っていた。ミルクとオレンジジュース、そして焼きたてのパンケーキ。それに、メープルシロップをたっぷりかけていただく。それは真一の至福の時間だった。記者の仕事をはじめて、深夜勤務が多くなり、真一は母たちの家を離れ、近所にマンションを借りた。しかし、けっきょく、朝食だけは、実家に戻り母たちとともにした。
この日、真一は6時30分21秒で起き上がった。
前の晩、松本市郊外にある由紀子のマンションで、3人は大いに飲んだ。
少々、二日酔いである。ああ、頭が濁っている。と真一は思った。
キノコは隣の部屋で寝ているはずだった。一人暮らしなのに、由紀子は4LDKのマンションに住んでいた。
とりあえず、顔を洗いたかった。由紀子の家の構造がどうなっているかわからなかったが、とりあえず、キッチンまでいけば、水が使えると思った。
室内はしんとしていた。キノコも由紀子もまだ寝ているようである。
僕が一等賞だ、くすくすっと笑いながら、真一はキッチンに向かった。
ところがキッチンがどこなのかわからない。昨夜は3人でワインを3本あけている。
真一は廊下の奥にあるドアを開けてみた。
そこは赤いカーテンが窓を覆っていた。女の部屋を直感的に感じ取る真一は、そこが由紀子の部屋であることはすぐにわかった。
「あっ、ごめんなさい」と言って、ドアを閉じようとしたその瞬間、ベッドに横たわる女の裸体が目に飛び込んできた。
うわっ、女の裸体を久しく見ていない(というか、ほとんど見たことのない)真一は思わず凝視してしまった。
由紀子の裸体を見たいという欲望がかすかにあったのかもしれない。
姉のように、母のように慕っていた女の乳房が、そしてこんもりした陰毛がそこにあった。
赤いカーテンからの光が、由紀子の肢体をピンク色に染めていた。
真一はわなわなと震えた。そして次の瞬間、体が凍りついた。
それは白目をむいた由紀子の死体だった。首に赤いリボンが巻かれていた。
そして手には、白いブリーフが握られていた。
第2章 白いブリーフ -4-
「1枚、2枚、3枚・・・ああ、7枚」
港真一は馬刺の切れ端を数えて絶句した。
「これじゃあ、由起子先輩とキノコさんと僕の3人では馬刺の数が割り切りれないよ〜」
真一は頭を抱えた。
松本市とある料理店。
「もともと松本は馬刺で有名なんです。おいしい店はいっぱいあるけど、最近は、輸入肉を使う店もけっこうあるとか聞きました。でも、ここの肉はおいしいですよ。おいしければ、国産でも輸入でもかまわないというのが僕の持論です」
由起子はくすくす笑いながら、真一の主張を聞いた。
「ホワイティ、かわらないわね。こんな事件のさなかでも」由美子は昔の恋人でもながめるように真一を見つめた。
「で」少し真顔になって、由起子は真一に尋ねた。「なんで、私を尋ねて来たの?」
「へっ!?」真一は驚いた。「理由なんかないですよ」。
「危険を冒してまで?」
「危険に値する、人、ですから」
「まっ。あいかわらず、かわいいのね」
由起子が顔を赤らめた。そんな由起子をながめながら、キノコは揚げ出し豆腐をもくもくと食べている。
「そんなあ。照れますよお」
「ところで」由起子は話題を変えた。「キノコさんは恋人?」
げほっ、と真一はむせた。
「彼女はスコッチ先生の患者で、僕のアシスタントです。というよりは、僕のパートナーですよ」
「ほら、やっぱりパートナーさんをつれてくるぐらいだから、何か理由があるわけでしょ」と由起子は探るような目つきをした。「私はもう第一線から外れているの。何も新しい情報はないわ。といっても、もともと本社でも単なる料理記者だったんだから、話すことは特別にはないわ」
「ああ、先輩、変な勘ぐりをしないでくださいよ・・・でも」
「でも?」
「においがしたんです」
「におい?」
「あはは。ええ。おいしいオニオングラタンスープのにおい、みたいな。食べたいものをイメージすると、その手のにおいが頭の中をかけめぐるんですね。インスピレーション、というか」
この子ったら・・・由美子は息をのんだ。
「びっくり。私を食べたいの?」由美子ははぐらかした。
「いえ! そんなとんでもない!」今度は真一は顔を赤らめた。「ただ、会いたかっただけでよ。ていうか、会うべき人という気がして。キノコさんも賛成してくれたんです。キノコさんは巫女さんですよ。迷ったら、キノコさんに聞くべきですよ。ね、キノコさん」
「じゃあ。今夜2人を私の家に招待するわ。明日の朝、おもしろいものを見せてあげる。特別に」
由起子は、本社時代によく見せたきりっとした表情で言った。
「わー、わー、なんだろう。フランスのダイニングのスタイルブックの新刊でしょ。僕がほしがっていた」
「あは、ほんとうにあいかわらずさん、ね」
と優しく言って、1枚ばくっと馬刺を食べた。
「これで残り3枚。1人一枚で、割り切れるわね」
第2章 白いブリーフ -3-
毎朝新聞社役員室。河野編集担当副社長、南原編集総局長、野沢社会部部長の3人が沈黙していた。
河野はじっと階下の車の流れを見つめている。ソファーでは南原が腕組みをしており、野沢は入り口近くに立ちすくみ、2人が口を開くのを待っている。
「で」河野は南原と野沢に背を向けたまま言った。「港真一はいま、どこにいるんだ」
「はっ、それが私にも…」野沢は額に汗を浮かべている「現在、調査中ですが」
「警察の動きはどうなんだ」南原が後を追って野沢を責める。
「はっ、新宿北警察署が慌ただしくなってきています」野沢の手帳を持つ手がかすかに震えている。
再び沈黙。
「君は社会部部長になって、何年になるんだっけ?」河野は言った。
「はっ、今年で1年になります」野沢が答える。
「ああ、そうね。例の事件の後だったね」河野がタバコに火をつけた。
「はっ…」野沢はもう答えようがなかった。
「君を経済部から社会部にコンバートした理由はなんだったかな。君はあの時、悔し涙を流しながら、私に誓ったはずだけど。もう一度、チャンスをください、と。」南原は容赦がなかった。
「南原君、まあ」と河野が制した。「君と野沢君は一蓮托生名ことを忘れずに」
「はっ…」今度は南原が沈黙する番だった。
「いいかね」河野は続けた。「君たちは自分の仕事をちゃんとしなさい。これは君たちの首を地方に飛ばすぐらいじゃ済まない問題なんだからね」
「それは重々、承知しております」南原が低い声で言った。
「私がこの社のトップになるか…」河野は相変わらず顔を見せない。「あるいは私たちが命を落とすか、だ」。
深い沈黙が場を包んだ。時計が針を刻む音だけが、室内に響く。
そして、河野は初めて2人に顔を向けた。「鈴木由紀子を監視しなさい」。
「鈴木…」2人は同時に声を上げた。
「鈴木君は確か…松本支局に飛ばしたはずですが…」そう言って、南原は「うっ」とうめいた。「副社長、それは!」
「十分に、可能性は、ある。鈴木が例の情報をつかんでいて、港真一が彼女と接触したら…」
はあああっ、南原は思わず立ち上がった。「野沢君、すぐに長野に行きたまえ」
「はあっ」野沢は慌てふためていて、役員室を飛び出していった。
「我々も、楽観視、し過ぎていたな」河野はソファーに身を沈めながら言った。
「申し訳ございません」南原は深々と頭を下げた。
「全力を尽くしなさい、南原君。君ももっと汗を流さんと」
「承知いたしました。私は、社と、河野副社長に人生をゆだねた男です。私はこれからも…」
河野が手で南原をさえぎった。
「言葉はいらないよ、南原君。結果を見せてくれ」
そう言うと、河野は秘書に電話を入れた。「南原君がお帰りだ。次の来客を通してくれ」。
第2章 白いブリーフ -2-
午前5時。竹橋埠頭。朝もやが立ち込めている。
かすんだ空気の中に、赤いライトが点滅している。
ジョギング姿の若い女が青ざめた顔で、刑事の質問を受けている。
その水死体のおかむら刑事が見ても死後2日は経過していた。
ジョギングしていた女は水際に渦のようにさざ波が立っているのを見て足を止めた。
よく見ると穴子の群れだった。穴子はその死体を争うようにむさぼっていた。
穴子に全身をかじられたボロボロの遺体は、がっしりした中年男のものだった。全身に無数の裂傷があった。
「あー、こりゃ、放置プレーですかね」
ほかの刑事が、口をへの字に歪ませながら言った。
あながち、それも外れてはいないかもしれんな、と老練な刑事は心の中でつぶやいた。その遺体が身につけていたものは、靴下と白いブリーフのみだった。
その情報はすぐに新宿北警察署の岡村刑事のもとにも届いた。
「おやっさん、これって、もしかして…」
新米刑事の野間は力んだ。
岡村は野間の肩をポンポンと叩いて、自分の飲みかけのマグカップを手渡した。
「いいか、この事件は管轄外だ。だが、恐らくホシは一緒だ。おい、すぐにハンカチをもう一度、参考人として、呼ぶ手配をしろ。いいか、マスコミには気づかれるな。やつらはいま、ネタがほしくて血眼になっている」
「それが、おやっさん…今朝からハンカチがマンションから消えました」
野間はくちびるをかみしめて言った。「すんません。おれが張り付いていながら…」
「そうか。いずれにしても、今回の事件は、あのハンカチがカギを握っている。さっそく警部に報告しよう」
「白ブリーフ殺人事件」特別捜査本部の特設電話には、朝からたくさんのタレこみ情報が寄せられ、5人の刑事が対応に追われていた。ほとんどがガセ情報であるが、今はそれも貴重な情報源である。ほとんどが、ハンカチに関するリーク、冷やかし情報だった。
「おやっさん、中央高速の八王子インターチェンジで、ハンカチらしき男の乗車する軽トラを見たという情報が来ていますが。運転していたのはガタイのいい20代の女のようですが」
「八王子?」岡村は眉をひそめた。岡村の脳裏に何かがよぎって消えていった。「山梨・長野方面にハンカチが向う理由はあるか」
野間は肩をすくめて見せた。「すんません。わからんです。しかし、高跳び、とか」
「いや」岡村は遮った。「高跳びなら、何も中央高速を突破する理由もあるまい」
岡村はバッグをつかみ、席を立ちあがった。「おい、行くぞ」
「おやっさん、どこへ?」野間は慌てて、後を追った。
「吉野家だ」ニッと岡村は笑った。「まずは腹ごしらえだ」。
2008-03-31 第1章 -6-/第2章 -1-
第2章 白いブリーフ -1-
それを覆いつくすように、シガーの煙が室内を支配する。
「うーん、葉巻はやっぱりキューバ産に限りますなあ。最近、いろいろ出てるけど、やっぱり最後はコイーバに落ち着く」
甲高い声で、男がソファーに身を沈めている。
ドクトル・スコッチと患者は彼を呼ぶ。精神科医・植村淳一。40歳。独身。
恵比寿の5LDKのマンションに一人で住み、麻布十番の自分のクリニックにジャガーで通う。スコッチのマニアとして、雑誌・新聞への寄稿も多い。クリニックは会員制で、セレブしか相手にしない。一サラリーマンの真一みたいな若造が、スコッチに相手にしてもらえるのは、真一の「舌」の才能をスコッチが信用しているからだ。
スコッチも美食家であり、新しい店を発掘するのが大好きだ。いい店を見つけると、すかさず真一を呼び出す。真一に食べさせて、「美味です」と言わせたい。その言葉を聞くと、スコッチはとたんに得意げになり、シャンパンを開ける。
料亭化学調味料事件の時、主治医であるスコッチは真一にこんなことを言った。
「あれは、真一が正しいから、特別な薬も診断書も出さないよ」
今日もスコッチは上機嫌。一方、真一は青ざめた顔をしていた。
「しかし、よく真一はあの戒厳令を突破してきたな。けっけっ」
いたずら顔でスコッチは言う。
「妹のスーツケースの中に入って、抜け出したんですよ」
真一は薄く割ったボウモアをもらってなめている。
「でも、あなた、閉所はだめじゃなかった?」
「奈緒に開けてもらったときは、気絶していました。ウォークマンを聞いていたのがよかったかも、です」
「何を聞いていたの」
「志ん生、です」
「あら、そんな趣味、あったっけ」
「非常事態ですから」
あっはっは、とスコッチは太い腹を揺らして笑った。ベストのボタンがはじけそうである。
「とにかく」真一は言った。「ぼくはあの事件以来の屈辱を感じています。悔しくって悔しくって、今日はもう20回は手を洗っていますし、靴下は3回取り換えました」
黒装束なのに、真一の靴下は白かった。
「ぼくは、どうしてこんなに、世界から屈辱を受けるんですか。僕が精神病だからですか。妄想があるからですか。幻覚があるからですか。そりゃ、確かに、私の隣席の同僚はロシアのスパイではありませんでしたよ。でも、あの店は化学調味料を入れていたし、少女たちの死体はあった。それに、僕は下着交換の趣味は、ない」
「あー、わかっとる、わかっとる。そう熱くならずに、このレキソタンを飲みなさい。落ち着くよ」
「この事件は、いろいろなことが絡み合っている。あなたが、この事件を解決して、自分の汚名を晴らしたいなら、ここは冷静に事を進めよう。私もとことん付き合うよ」
「ありがとうございます」
少し落ち着いた真一はテーブルの上の燻製をかじった。「これは?」
ふっふっふ、ようやく気づいたか、とばかりスコッチはほほ笑んだ。
「患者の土産のウツボの燻製。意外にくせがないだろ」
「美味、です」
「うはははは。よしよし。まず今日は飲もう。どうせ泊まる場所ないんだろう。しばらくここを使え。よし、飲むぞ。おーい、カラスミを持ってきてくれ」
「はい」
奥で女の声がした。
「あっ、先生、彼女が来ているんですか」
「いや、患者だよ。九州のほうの離れ小島で巫女をやっていたらしい。両親が国会議員を通じて、よこしてきた。ま、住み込み、患者、だな」
「はじめまして」
真一が振り返ると、色白で大顔の娘が小皿を持って立っていた。
白いワンピースをはじき返す少々固太りの腕が頼もしさを感じさせる。
ぽてっとしたピンクのくちびるに真一はうろたえた。「あ、どうも、です」。
「内浦裕美くんだよ。髪を切ったばかりなんだ。六本木で切せれた。服も全部、私が買ってやった。おもしろい子だよ。髪型、マッシュルームみたいで、かわいいだろ。キノコと呼んでやってくれ。治療して、タダ飯食わせるのも癪だから、家政婦に、と思ったが、しばらく、真一の事件解決のサポートにあたってもらおう」
「なにからなにまで・・・」
真一はスコッチのさりげない優しさに涙した。
第1章 13段の階段 -6-
真一は事態を飲み込むのに、1週間を要した。
社から下された1カ月の自宅待機はむしろ、真一にとっては救いとなった。
あの一日で、すべてが変わってしまった・・・と真一は思う。
カーテンはぴっちり閉ざされ、小さな室内灯がともっている。壁際に広がるフラットタイプの水槽には、真一の好きなグッピーとエンゼルフィッシュがゆったりと泳いでいる。グッピーのひらひらした尾びれが美しい。そういえば、スコッチ先生は巨大なアロワナを5匹も飼っている。
買ったばかりのAPPLE POWERBOOK PROのディスプレイを見つめる真一の眼は暗い。
画面には人気急上昇ブログ「ハンカチ護送計画」のトップページが映っている。
そこには、泥まみれのミッキーTシャツ姿で泣きながらパトカーに乗る真一の写真が公開されていた。ブログは真一を擁護していた。
「そもそも、下着交換は一部にとっては高貴な趣味である。数へのこだわり、美食、ゴシックへの傾倒、美少女趣味、Mさんの華麗な美的世界をどうして人々は理解しないのだろう。それはマイノリティに対する偏見であり、この格差社会を助長し、なおかつ、やがてはファシズムへの傾斜を助長する脅威を内包している。われわれは警察及びマスコミに対する抗議行動のひとつとして、彼を模したマスコットがプリントされたTシャツとは白ハンカチ、および白ブリーフを製作しました。これらの販売収益は・・・」
ブチっ。
真一はMacの電源を強制終了させた。
やれやれだ。
真一批判、真一嫌悪、真一崇拝・・・本人とかけ離れたところで、真一という偶像が独り歩きしている。世間は死んだ少女たちや飯田のことはもうどうでもいいかのようである。カーテンの隙間から眼下を見下ろすと、相変わらず週刊誌の記者やカメラマンが真一を張っている。
真一はベッドに身を投げ出して、天井を仰いだ。
あの一日がすべてを狂わせた。
そもそも、何でこんな事態に陥ったのだ。
誰かが自分を地獄に陥れようとしている。
「いや、考えすぎだ」と真一は思い直す。「スコッチ先生なら鼻で笑うところだ」。ともかく、事実を整理してみよう。
(1) 真一は少女売春の元締め・ユカを探していた。
(2) 飯田にユカの所在を聞き、代わりに下着とシャツとハンカチと名刺を渡した。
(4) 百合の花に囲まれた美少女2人の死体を見た。
(5) 階下に降りて警察に電話した。
(6) 現場に戻ると、飯田が真一の白いブリーフをはいて死んでいた。
なにもかもごちゃごちゃだ。
どこから解決していいか、真一にはさっぱり見当がつかなかった。
むしろ、心配なのは自分の心の状態だった。衰弱がはげしい。
食事は妹の奈緒が届けてくれる。母は真一を配慮してか、一日に一回だけ携帯にメールしてくる。
真一はポケットから携帯を取り出し、今朝の母からのメールを見た。
「しんちゃん、すべては時間が解決してくれるのよ。じっとしていなさい。反論したり、戦おうとしては、ダメ。世間は、しんしゃんが思っているよりもっともっと無責任で残酷なところだから。しんちゃんには、母さんと奈緒がいるでしょ。だから、今は何もしないで。再就職先は国会議員の武内先生によ〜くおねがいしているからね。母さんを信じて」
母さん、真一はうめいた。母さんに会いたい。母さんが作る、カニクリームコロッケで家族3人の食卓を囲みたい。奈緒が仕入れてきたワインのグラスをくゆらせながら、宝塚や歌舞伎の話をしながら、ワイワイと楽しみたい。かつてのように。
でも、と真一は思い直す。「ぼくは・・・」。
ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、ぼくは、これから、母さんを悲しませることをするんだ。もう母さんのもとに戻れないんだ。母さん、しばらくさよならだね。
真一は奈緒に頼んで買ってもらっておいた、黒い革のパンツに黒いタートルネックのシャツを着込み、ある場所に電話をかけた。
2008-03-29 13段の階段 -2-/-3-/-4-/-5-
第1章 13段の階段 -5-
「暴走記者、謎の下着交換と疑惑の供述」
「週刊ぶんち」4月28日号にこんな見出しが載った。真一が巻き込まれた謎の遺体すり替え事件は、恰好の三面記事ネタとして連日、タブロイド紙を中心ににぎわいを見せた。特に、真一が一流新聞社の社員だということで、叩き具合は過熱化していった。中には「週刊ぶんち」のように毎週、キャンペーンを組む雑誌まで出てきた。同誌にはさらに次のような内部リークコメントも披露されて泥沼化の様相を呈してきた。
「またかあ、という感じでしたね。彼の虚言癖は社内でも有名でしたからね。1年前の一流料亭の化学調味料使用疑惑記事では、最後まで自説を押し通し、ずいぶんうちの社もあることないこと書かれましたから。最後は直属の女性上司も彼をかばい切れずに、彼女は地方支局へ左遷。まあ、彼女が彼のお守役というか、まあ、あそこも倒錯した溺愛関係にあったから、当然ですけどね。M君が弁当食って口が汚れていたりするとハンカチでぬぐってやったりしていましたから。彼女が左遷されて、M君も島流し。しかし、なぜ、それが社会部なのかは不明ですけど(笑)。しかし、彼には下着交換とかああいう趣味もあったんですね。まあ、どうでもいいけど。彼は今、謹慎中ですが、そろそろ辞表を出すといううわさもあるし、これで会社も静かになるでしょう」(毎朝新聞某記者)
「彼はすでに何度か事情聴取を受けています。相変わらず、新大久保のあの雑居ビルに、少女の2死体が横たわっていたと主張しているようです。鑑識捜査でも、少女たちが存在していた根拠は何も出てこなかったんですけどね。取り調べ中の彼は、終始、テーブルの上の書類やボールペンの位置などを気にしていたようです。昼食に出たかつ丼はまずそうに、米ひとつ残さず食べたあと、丼を洗わせてくれ、と聞かなかったらしいです。また、トイレでは、10回以上手を洗ったほか、トイレ内を右へ左へと真四角に動き回っていたらしいです。最後には、パニックを起こし、便器の奥に手を突っ込み、何かを調べていたそうです。その後、汚れた手を消毒したい騒ぎは・・・もう、この話は話したくないです。捜査員たちも少々、怯えていましたね」(新宿北警察署関係者)
そしてネタが尽きると、彼の親子関係、これまでの女性関係、グルメ趣味など、話題はどんどん膨らみ、「ハンカチウォッチャー」と呼ばれる人々が次々とブログを立ち上げ始めていた。
第1章 13段の階段 -4-
「モデル・エージェンシー・エスプリ」という表札がかかっている。
さえない名前だな、モデル事務所なのに、と真一は思った。
まあ、モデル事務所が新大久保の歓楽街のはずれの雑居ビルの2階にあること自体が不思議ではあるがと、真一は思い直した。
階段を死ぬ思いで登ったことで、真一は疲れていた。もう短いジーパンも、ミッキーのTシャツのことも忘れていた。今は早く取材を終えて、自宅の熱帯魚に餌をあげたかった。
チャイムを押しても、返事がない。
こういう場合は、勝手に入っても、ネタを取ってこいと、新人時代に先輩に仕込まれていた。
真一は他人のプライバシーを大事にする男だが、薬を飲んだ安心感もあり、思い切ってドアを開けた。
フローリングのワンルームだったが、かなり広い。25畳は十分にある。
部屋の中央に白い塊がある。
誰かが寝ているのかなあ、と真一は恐る恐る中に進んで、息を飲んだ。
そこには白いドレスの少女が2人、手をつないで並んで横たわっていた。血の気のないことから、死んでいるのは真一にも明らかだった。
さらに真一が驚いたのは、そのふたりを取り囲むように、白い四角い枠ができており、よく見ると、それは百合の花弁だった。花弁は寸分違わぬ均等な大きさで、一列に並んで少女たちを取り囲んでいた。
少女たちの死よりむしろ、真一はそのゴシック的な形式美に圧倒された。それは今まで見続けてきたどの美術品よりも端正であり崇高であった。
何分経ったか。真一は我に返り、現実に戻った。大きな窓の外は隣の雑居ビルの壁が連なっている。その壁と壁の隙間から、山手線の電車が見えた。真一はようやく立ち込めている死臭に気づいた。
真一は窓を明け、状況を把握しようとした。そかし、頭が混乱してうまく考えられない。そしてようやく気づいた。「ここにいてはまずい」
真一はあれだけこだわった階段を駆け下り、路上から110番通報した。
そして、電柱にもたれかかり、激しく嘔吐した。
やがてサイレンの音がして、パトカーが2台やってきた。
「すいません、2階で、お、お、女の子がふたり」
警官たちはうなずくと、階段を慌ただしく駆け上がっていった。
周囲に見物人たちが集まってくる。
ヘリも飛んでいる。
やがて、雑居ビルの周りにロープが張られ、警官たちが数を増した。
「あなた、毎朝の記者さん?」
うずくまっている真一に、先ほどの警官が問いかけた。
「そうです。さっき電話で言ったとおりです」
警官は不思議そうに、首を傾けている。「ちょっといいですか」
警官2人に両脇をつかまれて、雑居ビルの階段を再び登った。
「また入るんですか」
真一は抵抗した。
「あなた、第一発見者ですから、それに」警官が口ごもった。「あなたの言っているような死体はないです」
「えっ!?」
「死体はひとつです。どうぞ」
真一は警官に抱きかかえられながら、室内に入ると、部屋の真ん中には、裸の男が転がっていた。正確にいえば、白いブリーフをはいた男が一人。腹が異様に膨れ上がっていた。失禁していて、白いブリーフは汚れていた。どう見ても、それは飯田だった。
第1章 13段の階段 -3-
遠くで山の手線の電車の音がする。新大久保の歓楽街近くの雑居ビルの前にたっている。
真一にとっては屈辱のいでたちである。
すり切れた短いジーパンに、ミッキーマウスのたぼたぼのTシャツ。片手に真一のジェラルミンのバッグ、片手にマディソン・スクエアのブルーのバック。最悪のコーディネートだ。
飯田からもらった住所によると、このビルの2階に、ユカはいるはずだった。
深く深呼吸をして、階段に向かう。しかし、この格好で、記者と信用してくれるだろうか。裏社会で生きるユカと会う恐怖よりも、自分の格好のほうが気になった。
そして、扉を開けると、階段を右足から5歩上って、左足が止まった。
真一は2階までの、階段数を数えた。
奇数じゃないか!
奇数、そして割り切れない、しかも、不吉な13段。まあ、13段は迷信としても、「奇数」と「割り切れない」は譲れなかった。
真一は統合失調症という奇病を持っている。世界どの地域にも100人に1人という確率で、生じる精神的疾患。複数のことを同時にバランスよく処理できないことから、その名前はつけられたが、かつてはもっとおぞましい名前で呼ばれていた。
妄想、幻聴、幻視などが生じて、ひどくなると「スパイに狙われている」「神の声が聞こえる」「私は神だ」などと言ってしまう。
スコッチ先生の処方で、真一のそういう症状は抑えられているが、やはり日々の奇行は隠しきれず、今回の異動もそこに、本当の原因がある。
ある老舗割烹料理店の記事で「店の吸い物に、化学調味料が入っている」という記事を書き、店側から猛抗議にあったのだ。
店が公開したレシピには、化学調味料は入っていなかった。しかし、社内の諮問会議で、真一は「調味料が入っていた」という主張を撤回しなかった。真一が、統合失調症であることは社内で知れ渡っていたし、真一は体よく、社の窓際的仕事にまわされた訳だ。もっとも、グルメ記者がそもそもエリートとも言えなかったが。「でも」と真一は思う。「あの吸い物には間違いなく調味料が入っていた」。
真一にとって、困った問題は、統合失調症の症状よりむしろ、そこから派生して出てくる「強迫」症状だ。
手を何回も洗う、道を直角に曲がらないと気が済まない、外出時には、室内のコンセントを全部引っこ抜かないと不安になる、その他、もろもろの症状が真一を悩ませる。
そして、「数唱」。不吉な数にこだわったり、好きな数字を繰り返したりなど、数に関する強迫神経症的な行為のことだ。
階段の5段目で足を止め、真一はスコッチ先生に電話を入れた。
「あー、真ちゃん、今日はどうしたの? いま、診療中で忙しいんだよ。また電車から降りられないの?」
スコッチはせわしなく言った。スコッチと言っても、日本人である。精神科医・植村淳一。アイラ島のシングルモルトに詳しく、ボウモアを愛飲している。診療中にもこっそりやっているといううわさもある。かたくなにポール・スチュワートの3つ揃えしか着ない頑なな英国趣味中年だが、精神的にはかなりアメリカン。美女看護婦に囲まれて、悠々自適に診療を続けている。
「先生、か、階段が13段なんですよ」
「あー、また昇れないわけ。割り切りないしね、ははは。んじゃ、もう後ろ足で戻っておいでよ」
「そういうわけにはいかないんですよぉ。今日、階段を登らないと、今度は、地方支局へ転勤させられちゃいますよ」
真一はあわてて事情を話した。
「うーん、わかった。じゃね、こうしよう。水、持っているでしょ。いつものように。そしたらね、例の特別な薬、持っているでしょ。秘密兵器。3錠しかあげていないやつ。あれ、1錠飲んじゃって。そのまま、20分ぐらい5段目でたたずんだら、今までの5段は忘れるから、6段目は右足から上がって。そうすれば、8段目できれいに左足で終わるから」
「先生、恩に着ます。今週の土曜日、吉祥寺のあの店で、一杯どうですか。珍しいスコッチが入ったそうです」
真一はほっとして、ポケットの白ハンカチを探したが、当然、ハンカチはなかった。
「もちろん行くよ。今日の診察代は高いよ」
そう言って、スコッチは電話を切った。
秘密兵器を飲むと、確かに、13段へのこだわりは薄らいでいた。真一は残り8段をフレッシュな気分で右足から登った。
第1章 13段の階段 -2-
「なんだよ〜。おでんにカレーパンか」
飯田は落胆していた。新宿三丁目の小さなレストラン。いかにも通好みの店だ。
「違いますよ。ボルシチにピロシキですよ。ここは新宿のロシア料理店ではいちばんの美味、です」
真一は膝の上にハンカチを敷きながら言った。
この店を日曜版で紹介したときは、問い合わせが殺到した。真一が見いだした店と言ってもいい。
「普通、接待と言えば、焼き肉かなんかだろう」
飯田はあくまでも不満だ。
「ま、食べてみてください」
飯田は怪訝な顔をして、スプーンでスープをすすった。額にしわを寄せて、目を閉じ、口の中をもぞもぞさせた。
「あー、これ、ばーちゃんの味だ」
ふふん、と真一は得意げな顔を見せた。
「そうなんです。ここの店主はウラジオストックの出身で、やはりこの料理をおばあちゃんから教わったらしいです。とても寒い場所です。そして貧しい。多くのレストランでもトイレに便座もないような、荒廃した街です。街並は美しいですが、ロシアの現状は過酷です。昨年、旅をして回りましたが。そこの味を彷彿させます」
うん、うん、と飯田もうなづいた。
「おれは北関東の出身だが、一族は樺太からの引き上げ組だ。ばあちゃんは、現地の人間にこのみそ汁を習ったらしい。ああ、なつかしいな。おれの実家からは赤城山が見えたが、冬の空っ風を浴びると、ばあちゃんは樺太に帰りたいと嘆いていったけ」
飯田の目に涙がにじんだ。「北関東では何もいいことがなかったよ」
飯田は、自分の涙に気づき、はっと我に返った。そして、いつもの凶悪な顔に戻った。
「おい、ところで、おれは時間がねえんだよ。早く、あんたが言っていた、写真を見せろよ」
「あ、ごめんなさい」
虚をつかれた形で、真一は鞄の中をごそごそと探した。なかなか見つからない。焦ると、真一はパニックになる。
「早く、しろ」
「すいません、これです」
その写真には、少女がひとり写っている。
背後は繁華街。深夜だろう。少女は女子高生ぐらい。茶髪、美形、黒いパーカーに、ショートパンツ。見ようによっては、モーニング娘。の誰かのようにも見える。
「あー、こいつがどうしたんだ」
「ご存知ですか」
「まあな」
「ぼく、今、少女売春のルポをやっているんです。社会部の初仕事。まあ、初仕事というのは、殺人とか凶悪事件でなく、往々にして・・・」
飯田はしばらく神妙な顔で写真を見つめていた。そして、重々しい声で言った。
「どこにいるか知りたいのか」
「はい、どこを張っていればよろしいでしょうか」
「あんたには、向いていない仕事だな」
「それは当然ですよ」
真一はハンカチで口元を丁寧に拭きながら言った。
「いや、冗談でなく、命を落とすぞ」
ドスの利いた声だった。
「はっはっは、いや、まさか。ただ、コメントをもらうだけですよぉ」
うろたえながら、真一は言った。
「いくら出す」
「はっ?」
「おれに、いくら出すんだ」
飯田は口元に皮肉な笑いを浮かべた。
「お金は、だせません。そのかわり、このボルシチは・・・」
「ふざけんなよ。金を出せ。おれにもリスクがある」
飯田は真顔になっていた。
「お知り合いですか」
「いや、もうおれのシマとは関係ねえ」
「この女の子は、この界隈の少女売春の元締めと聞いていますが」
飯田はそれには答えなかった。
「金は出せないのか」
今度は真一が真顔になる番だった。
「すいません。社からはでないし、僕も定期預金は崩したくないんです」
ふん、飯田は笑った。
セブンスターに火をつけ、思い切り肺に煙を送り込み、そしてゆっくりと吐き出した。
「じゃ、服を置いて行け」
「はっ!?」
「あんた、服を置いて行け」
「私の服ですか? なぜ?」
「下着はどんなだ?」
「私は白いブリーフしか身につけませんが・・・」
「なお、いい。下着とその白シャツ、白ハンカチ」
飯田は照れくさそうに言った。
「ど、ど、ど、どうするんですか」
真一は慌てるとどもる。
「売るんだよ。ま、警官やパイロットほど、高くは売れないが・・・名刺ももう一枚、置いて行け」
「しかし、これらは母と妹からもらった大事なものであり、しかも、これを脱いだら取材を続けられません」
真一は真面目に返答した。
「おれのを持って行け」
飯田はそういうと、テーブルの下にある、マディソン・スクエア・ガーデンのバックを靴の先で、トントンと突いた。飯田はそのバックを初見だったが、わりとかっこいいと思った。「バックごと持って行っていいよ。おれは紙袋も持っているから」
覚悟を決めなくてはならない。シャツならまた買えばいい。何よりもネタを取って来られずに、会社で物笑いの種になるのはつらかった。
真一はバックを持ってトイレに向かった。
2008-03-27 13段の階段 -1-
第1章 13段の階段 -1-
港真一はテーブルの隅から20センチのところに置いた腕時計を見た。
母から30歳の誕生日にもらったロレックスのエクスプローラーだ。
「あー、もう時間切れだ」
取材相手が喫茶店に現れるまでに、あと10分しかない。
その間に、テーブルの上の品々の配置を整えなければならない。
時計の位置は決まった。残りは手帳、万年筆、ICレコーダー、名刺入れ、紅茶のポット。そして、一枚の写真・・・今回のもっとも重要な「取材のネタ」だ。
すべては宇宙の軌道のように、あるいは、ポリーニのショパンのように正確無比でなくてはならない。もっと、平たく言えば、すべてがテーブルに対して、直角かつ平行、そして均等でなくてはならない。「ミリ」にこだわる男でいたい、と真一はよく思う。
すでに1時間が経過していた。
額から汗がにじんできた。汗は真一にとって、不快極まりない生理物である。汗をかかない人生はどんなに素晴らしいかとも思う。ここで、せっかく緻密に折りたたんだハンカチを取り上げ、汗をぬぐうのがつらかった。毎朝、ハンカチと白いブリーフは、近所に住む母がピシッと糊づけして、アイロンをかけたものを届けてくれる。母が美しく仕上げてくれたハンカチを汚すのは、母への冒瀆だとも思えてきた。
白シャツの第一ボタンを外したい。そして、妹の奈緒がバレンタインデーに買ってくれた、バーバリーのピンクのネクタイを緩めたかった。しかし、それは真一の美学は反した行為だった。
「あと3分」
もはや、覚悟を決める時だ。パニックに陥ったら例の薬・ワイパックスを飲まなくてはならない。「飲むときは2錠一緒に飲め」とスコッチ先生に言われている。今週はあと、4錠しかない。まだ週の真ん中水曜日だ。ワイパックスをこれ以上、浪費するわけにはかない。
ヤクザ風の男が入ってきた。
真一はものすごい男立てて立ち上がった。そして向かいの席を勧めた。
席の上には何も置かれていなかった。
「あんた、毎朝の記者さん?」
男は怪訝な顔をした。
「あっ、はいっ。社会部記者・港真一と申します」
はーん、という顔をして、男は真一の細身の身体を眼でなめた。
「飯田さん、です、よね」
「おお、いかにも」
パンチパーマなど、見たことのない真一は、安手のヅラなのかと逆に訝った。
そしてついに、さきほどひっこめた白ハンカチを取り出し、額をぬぐった。
「あんた、こういう事件の記者さんには見えないな」
「はいっ。わたくし、4月から人事異動で婦人家庭部から転属になりました」
「そりゃ、風俗関係か。いい店紹介しろよ」
「いえっ。料理担当であります」
真一は胸を張って言った。
真一は「美味しんぼ」に憧れ、新聞社に入り、見事、婦人家庭面でグルメ記事担当の記者になった。政治部や経済部への配属を求める同期を尻目に、真一はその病的とも言える卓越した「舌」感覚で、鋭い記事を書き続けてきた。
しかし、そんな夢のような日々も30歳を境に終わった。大事にしてくれていた女性上司(彼女は真一の白ハンカチを愛して、彼を「ホワイティ」と呼んでいた)が地方支局に異動になり、新しく整理部から異動してきたイノシシのような上司は、当然、真一を嫌った。
「あの表六玉(死語)をとっとと、叩き出せ」と息巻いて、この4月イノシシは思いを遂げた。
「まあ、なんでもいいや。とにかく、おれをここに呼び出すということは、おまえ、どういうことかわかってんのか」
飯田は突然、息巻いた。額に深いしわが入り、闇の部分をあらわにした。
「えええっ。そんな、僕はただ、上司に言われてえっ・・・まだ2日目なんですぅ」
真一はコオロギのような声で言った。
飯田はそれを見てあきれたが、ふと何かを思いつき、笑福亭鶴瓶のようなうすら笑いを浮かべて言った。
「おおそうか。そりゃ大変だ。んじぁあ、うまい店にでも連れて行ってくれ。そこであんたが見せたいといっていた写真を見るよ」
と言って、伝表をつかんでレジへ向かった。
「フゥッー」とガッキーのマネをした真一は両手でパックを抱え、上村の後を追った。
(-2-に続く)
