2011-09-18
■[ニンゲンカンケイ]宇宙ひとつぶんの向こうで
ヒソダさん(仮名)はとてもいい人です。
いい人だよね、と言われる人は大勢います。というか世の人々の多くは、「どちらかといえばいい人」に入るのではないでしょうか。
ですから、「いい人」ってのは別に珍しい存在ではありません。
けれど、ある人にとって「いい人」に思える誰かが、別の誰かにとってはちっとも「いい人」なんかじゃないってことも、よくある話です。
そういう意味では、ヒソダさんはとても珍しい人でした。だって誰もが、彼を「いい人」と褒めるのですから。
ヒソダさんてああ見えて実はちっともいい人じゃないよね。そんな陰口を一切叩かれることがなく、
「ヒソダさんてどんな人?」
という問いに皆が口をそろえて
「いい人だ。とてもいい人だよ」
と答えるというのは、なんだかすごいことだな、と十年前の私は思っていました。
その日も私は、「ヒソダさんはいい人だね」と言いました。
すると友人のルルカ(仮名)は、ぎゅっと眉をひそめました。
「いやだな」
ルルカはぼそりと呟きました。
「シロイって、つくづく凡庸だよね。『夏は暑い』ってのと同じくらい無意味な台詞を、よくそうやって口に出せるわ。それ、本気で言ってるわけ?」
私はいささかたじろぎました。
「あれ? もしかしてルルカはヒソダさんをいい人だとは思ってないってこと? 今の口ぶりからすると」
ふん、とルルカは鼻を鳴らしました。
「そんなの、思ってるに決まってんでしょ。あそこまで悪意も害意も一切感じさせない人間に対して『いい人』以外の評価を下せるわけがないじゃないの」
「じゃあ、なんでちょっとつっかかり気味なわけ?」
「凡庸なりに考えてみれば?]
「下手の考え休むに似たりとも言うからね。凡庸な人間は、教えを乞いたがるもんです」
「……大抵の人間はね、どんなにちんけでひ弱なもんでも、一応牙は持ってんの。そんでそれを、隠してんの。隠したはずの牙が、それでもなんかの拍子に見え隠れするのが、そいつが生きてる人間だって証拠」
「なるほど。なんかその表現はわかるな」
「牙が見えないのは、死人くらいのもんで、場合によっちゃ死人の牙だって、見えるもんなのにさ。ヒソダの牙を見た奴は、どこにもいないんだよ? だからみんなに『いい人』とか言われちゃうわけでしょ」
「それってすごいことなんじゃないの? 鉄の自制心ってことだもんね」
「ふむ。それが自制だってことくらいはわかるわけね。牙がもともと生えていない人間だとは思わないんだ?」
「えー、だってー、生えてない人は、普通あり得ないからねえ。それを上手く隠して飼い慣らす技術が、いわゆる社会性ってやつじゃないの」
「はい、それはその通り。だけどね、あたしは、ヒソダは牙を隠してるわけじゃないと思うよ」
「どゆこと? 牙なんてもともとないってこと?」
「全然違う。もっと考えろ。たぶんヒソダは、牙を抜いてるんだよ。麻酔もかけずに、血を流しながら、無理やりペンチで牙を抜き続けてるんだよ、歪んでるよね、虫唾が走る」
吐き捨てるようにそう言って、ルルカはぎろっと私を睨みました。
「ヒソダに、じゃないよ。無責任に『ヒソダさんていいひとだよねー』って言えちゃうやつらに。結局そいつらの言う『いい人』ってのはさ、頭に『どうでも』とか『都合の』ってのがつくんだよ。自分の言葉が相手をますます歪めていくってことが想像できない、鈍感なやつら」
「あー……つまり、私みたいな人間のことね?」
「もちろん、シロイもそうだね。ヒソダのことを褒めるくせに、そのくせヒソダのことを考えない人間が、あまりにも多すぎる」
虫唾が走る、と評されたことよりも、ルルカの言葉が実際にかなり正確だ、ということのほうが、私にはよりショックでした。
その時私は、自分がヒソダさんを自動販売機かなにかのように、思ってしまっていたことに気づいたのです。たぶんそれは、私だけではなかった。「ヒソダさんはいい人だ」と言う人間は、皆そうだったのだと思います。
誰かに手助けして欲しい。
悩み事を聴いて欲しい。だけど耳に痛い意見は絶対に言わないで。こっちの気分を逆撫でしない台詞だけを聞かせて。
褒めて、認めて、甘やかして。
そんなとき、「お願い」という一言がコインとなり、好きなボタンを選べば、いつでも願った通りのサービスをしてくれる、それがヒソダさん。
自動販売機でジュースを買う時、内部のメカニズムや自販機がそこに設置されるようになった経緯にいちいち思いを馳せる人間がめったにいないように、私は願いどおりの言葉や助けを差し出してくれるヒソダさんが、何を考え、感じているのかに、ほとんど注意を払っていませんでした。
欲しいものを手に入れた後の私は、にこにこしながらお礼を言って、さっさとその場を離れます。次に喉が渇くまで、自販機の必要はなくなるから。
私が顔色を変えたのを見てとって、ルルカは大きく息を吐きました。
「だけどそういう人間が、ヒソダを喜ばせてんのも確かだからね。気にするのも違うのかも。どこまでも便利な存在として振舞って、みんなに必要とされるのがヒソダの願いなんでしょ。それをかなえてやってるシロイは、ある意味親切だとも言えるんじゃない? だけどあたしはヒソダのことを考えると」
気分が真剣に悪くなる。そう言って、ルルカはふいっと顔を背けました。
ルルカは。
気が強く、攻撃的で、皮肉屋。人と折り合うことが下手で、怒りっぽく、口はすさまじく悪いし、おかげでとにかく敵が多い、そういう人間ではありました。
その一方で。
率直で隠し事をせず、他人の評価など気にもかけない気丈さがあり、辛辣なユーモアをそなえていて、親しくなった人間に対しては驚くほどの愛情深さを見せる、そういう人間でもありました。
私はルルカが好きでした。口が悪いのはおためごかしを嫌い、正直であろうとするがゆえ。怒りっぽく見えるのは、他人の身の上に起きた事柄であっても、その都度我がことのように腹を立ててしまうからだと、私は彼女のことを、そのように理解していたからです。
誰もヒソダさんの内面になど、注意を払おうとしませんでした。だって、そのほうが楽ですもの。下手に思いやってしまえば、便利な自動販売機が、使えなくなってしまいます。たった一人ルルカだけが、そんなのは吐き気がする、と言い放ったのです。
ですから。
しばらく経ってから、ヒソダさんとルルカが付き合い始めた時、私はなんだかものすごく納得したのを覚えています。
ヒソダさんを自動販売機ではなく人間としてとらえようとした私の知る唯一の人間が、ルルカだったのですから。
ヒソダさんと付き合い始めてから、ルルカはしょっちゅう、腹を立てるようになりました。
ヒソダさんは実家に、給料の中から毎月かなりの額を仕送りしていました。
長男であるお兄さんが跡を継いでから、家業が傾き始めたので、跡継ぎにもなれない次男は、せめて金を送らなくてはならないのだそうです。
また、ヒソダさんの妹の学資も、かなりの程度、ヒソダさんが援助していました。
「金がないからって理由で、ヒソダは大学に行かせなかったくせに! 長男と妹は、大学に行かせんのよあの家は!」
ルルカはぎりぎりと歯を食いしばり、悔しそうに顔を歪めました。
「毎月の仕送り以外にも、何かと理由をつけて、金を寄越せって、そういう電話をかけてくんのよ! この間なんて、妹が春休み、友達と沖縄旅行に行く金だせって! そのくらいできないと、妹がかわいそうだからって! ヒソダは旅行なんて、もうずーっと行ってない、私はそれを知ってるのに!」
かと思えば。
ルルカが突然、漫画やゲーム、プラモデルなどを熱心に買い漁るようになったことがありました。
「ルルカって、プラモとか興味あるんだっけ?」
「全然。何が面白いのか、いまだにわかんないね。いろいろ勉強してるけど」
「えええ。じゃあなんで買ってんの?」
「小学生男子って、こういうの好きじゃん」
「身近に小学生男子いたっけ?」
「今はいないけど。十五年前のヒソダは、こういうもの全部、欲しくてしょうがなかった。漫画もゲームもプラモも鉄道模型も、買ってもらったことがないんだって。お兄ちゃんが持ってるのを、時々貸してもらったって。その時々とやらを根拠に『兄貴ってけっこう気前いいから』とかアホなこと抜かすのが苛ついてね。世の中にはもっと気前のいい人間がいることを、教えてやろうと思って」
「ヒソダは映画が好きだね。口に出しては言わないけど、間違いない。映画に行こうっていうと、いつもより嬉しそうだ。単純明快なアクションよりサスペンス・スリラー系とか、頭使って伏線消化する系が好きっぽい。あと、SFも好きだな」
「口に出して言わないってのは何? 意味がよくわからないよ?」
「シロイ、気づいてないわけ? ヒソダは相手の意見に合わせるクセがつきすぎてるから、自分の好き嫌いはほとんど口に出さないんだよ。嫌いな食べ物でも、黙って食べ切ったりするから、けっこう注意して見てないといけない。自分の気持ちを黙ってさえいれば完全に隠せるとかいう、その馬鹿げた思い込みをぶち壊すことが私の生きがいだよ最近。とにかく、おすすめの映画教えて。今度借りてくるから」
ルルカはとにかく。本当にずーっと怒っていました。
自分からも他人からも、ここまで内面を蔑ろにされている人間が、実際に存在してしまうというその事実が、ルルカを激怒させていたのです。
けれどそのような日々は長くは続かず。
付き合い始めてから二年目の冬に、ヒソダさんとルルカは別れました。
彼らの破局を喜んだ人間は、少なからずいました。
「ルルカと付き合ってる頃のヒソダさんて、なんか付き合い悪かったもんねー。あれぜんぶルルカのせいでしょー」
「シフト変わってくださいとか頼むとさ、ルルカがでしゃばって、交替させねえんだもん。ヒソダさんはいいって言ってんのにさあ」
「ごはんとかも奢ってくれなくなったよね。ルルカが怒るからって。なんかさ、自分の金でもないのに、ルルカ何様ってかんじ」
「別れてよかったですよヒソダさーん、あんなきっつい女、ゼッタイ苦労させられるだけですってー」
そんな言葉を聞きながら、ヒソダさんは困ったように微笑み、
「でも、悪いのはおれだから」
と言葉少なに呟きました。
その頃、私はルルカに、ある約束をさせられていました。
「あのさシロイ、シロイはこれからも、ヒソダと友達でいてよね?」
「なんで? ヒソダさん、友達いっぱいいるじゃん。私がいる必要はナイデスネ」
「あれを友達と呼ぶのかシロイは。ヒソダを使っていかに得をするかしか考えていない輩を」
「私が呼ぶわけじゃないよね? あれを『友達』だと言ってるのは、ヒソダさんだ」
「……まあ、それはそうか。うん、だからなおさら。わかってるだろうけど、ヒソダが自分の思ってること、ごくちょっとでも正直に話せる人間って、あんまりいないからさ。シロイにはわりと慣れてんだよヒソダも。だから時々、話を聞いてあげて。辛い時辛いって言える場所が、ヒソダにもあったほうがいいから」
もうあたしは、その場所にはなれないわけじゃん? とルルカが言い、私はかみつくような勢いで言い返しました。
「いや、だけどね! あんな理由で別れるなんて、私ぜんぜん納得できてない! つーか、この期に及んでそんな心配いまだにしちゃうルルカにすら、私はちょっと腹立ってるんだよ! ルルカはがんばったのに、本当にがんばったのに、それなのにあんな理由で一方的にさあ! もう、悪口いいまくって、怒って、嫌いになっちゃえばいいのに! こういう時くらいは、自分のことばっかり考えろよルルカ、別れた男のことなんて、心配するんじゃない!」
「あー、だからさ。大丈夫なんだよ、あたしは。今ちょっと辛くても、たとえばシロイが怒ってくれるじゃん? あたしは、友達多くないけど。だけど少ないなりに、話を聞いてくれる人間はいるから。怒ってくれる人も、泣いてくれる人もいるから。でもヒソダはあたしより、もっとずっと一人だから」
頼むよ、とルルカは深く、本当に深く、頭を下げました。
さて。
あれから十年、ヒソダさんは時折、私の携帯に電話をかけてきます。
そのたびに私は、この人は未だに話が出来る人がいないのだなあ、と実感します。
話をするために電話をかけてきた筈のヒソダさんはそのくせ、私がしつこくせっつかない限り、無難な世間話から一歩も出ようとしません。
何度もうながされて、それからようやくしぶしぶと、少しずつ話すのは、大抵の場合、聞いているこちらの頭が、クラクラしてくるようなことばかりです。
ミスの責任を巧妙にヒソダさんに押し付けた同僚の話。
中絶の同意書に名前を書きたくない友人に代わって、ヒソダさんが署名をし、知らない女性に付き添って病院で一夜過ごした話。
妹の結婚式の費用を出すために、ヒソダさんが借金をした話。
実家の建て替え費用を出すために、ヒソダさんが更に借金をした話。
「なんだそれ、ひっでえ話だなあ。何考えてんのソイツ。縁切りなよ、その手の輩とはさあ」
「いや、だけど本当はいい人なんだよ? 今回はたまたま、おかしなことになっちゃったけど。ほんと、普段はいい人なんだって」
時々私は『いい人』という言葉の意味が、わからなくなってきます。
みんなに『いい人』と評されるヒソダさんがかばう人たちは、私にはちっとも『いい人』だと思えないけれど、それでもヒソダさんは彼らを『いい人』と呼ぶのか。
人は人を、どんなときに『いい人』と言うんだ?
ヒソダさんの内面に思いを馳せず、ただ欲しい物があるときだけ近寄った私は、どうして彼を『いい人』と言ったんだ?
やがてヒソダさんは、さりげない様子で、話を変えます。
私の近況をたずね、昔の思い出にふれ、共通の知人が今何をしてるのか知りたがるのです。
遠まわしな質問を繰り返すうちに、ヒソダさんがわずかにいらつき始めます。もちろん、彼のような『いい人』はその苛立ちを必死に隠そうとしますが。
そのうち。
ヒソダさんは諦めます。シロイという人間はにぶすぎて、自分が一番知りたがっていることを察してくれはしないのだと理解し、ストレートな質問をおずおずと口にします。
「そういえば、ルルカはどうしてるのかなあ」
結局、ヒソダさんが私に電話をかけてくるのは、ルルカのことを聞きたいからなのです。シロイが自分の近況をルルカに伝えてくれるんじゃないかという、そんな期待もあるのかもしれません。
「元気だよ」
「ああ……うん。連絡取ってるんだ?」
「とってる」
「……なんか言ってた?」
「別に。たいしたことは」
あー、そう。ヒソダさんはいつも、少しがっかりしたような声を出します。
一度私は、ルルカに確認をとったことがありました。
「ねえ、ヒソダさんにきかれるたび、ルルカの近況を逐一報告したほうがいい? それとも曖昧にごまかす? あるいは、何も知らないふりをする?」
「へえ」
ルルカは驚いたように目を丸くしました。
「ヒソダがあたしのことを、気にすることがあるなんてね」
「常に気にしてるよあの人は。今更よりを戻したいと口にするほど恥知らずではないけれど。それでもああいうのは、ちょっと不健全だと私は思うね」
「それこそ今更だね。ヒソダが不健全なのは、今始まったことじゃない」
うーん、と私は唸りました。
「まあ、そうね。昔ルルカが言ってた意味が、わかってきた気はする。ヒソダさんはなんつーか、ただの『いい人』ではないね。というか、実は『いい人』ではないのかも」
「おっ、凡庸なりに成長したかシロイも。『いい人』ではないってのは、どのへんからそう思った?」
「つまり……えーと、『いい人』って言葉の中には、倫理基準も含まれると思うのねほんとは。正邪の判断を誤らないというのが、大事なのではないかと。だけど、実はヒソダさんの行動って、善悪とは無関係。ヒソダさん自身のモラルからすれば、当然『悪』として判断しているはずのことでも、周りに頼まれれば、言うこときいちゃうっていうか……」
「誰かに『死ね』って言われれば、ほんとに死んじゃうみたいな?」
「あー……近いかも」
「珍しくはないよね、そういう人」
ルルカはあっさりそう言いました。
「暴力を振るう恋人から離れられない、なんてのもそうじゃない? ひとを殴ってはいけないって、自分では思ってるのに、殴る相手を許容してしまう」
「それって子どもがお菓子を欲しがったら与えちゃう大人みたいなもんだよね? そのせいで栄養が偏って体を壊すかもしれないし、虫歯にだってなるかもしれないのに、それでもお菓子を与え続ける人を、私は『いい人』とは思えないなあ……ヒソダさんがやってるのは、それと同じことだと思う」
「そうねー、思いやりあるようにみせかけて、実は相手のことなんて、ほんとはどうでもいいってことだもんねー」
ふう、とルルカはため息を吐きました。
「シロイがそう感じるってことは、ヒソダはあんまり変わってないんだなあ」
「つーか、むしろちょっと酷くなってるような……ルルカと付き合ってた頃は、そのへんの判断がもうちょいしっかりしてたよね」
「あー、なるほど。てことは、ヒソダは今、必死なのかもしれないな。昔よりもっと」
「必死って、一体何に必死なの? 私はそこがわかんない。ヒソダさんは、あれだけ他人に便利にこき使われて、何かトクする事あるわけ? 損ばっかりじゃん」
「トクはあるよ。みんなに『いい人』って言ってもらえるでしょ?」
間が空きました。
「ええええええ、じゃあ、ヒソダさんは『いい人』って言われたいから、あんなふうにがんばってんの!? だめ、もっとわかんなくなってきた、だって『いい人』って言われても何のトクもないってのは、変わらないと思うんだけど!」
「誰にも嫌われたくないんだよ。不安なの。『いい人』って言葉を集めて、それを鎧にして、やっと少し安心するんだよ。愛されそうな気がするの。少なくともあたしは、ヒソダをそういう人間だと思ってた。愛されたくて認められたくて肯定されたくて、だから一生懸命がんばって、『いい人』を続けちゃうひと」
「それは」
私はごくりとつばを呑みました。
「それは、酷い勘違いだ。人間は別に、『いい人』だから、誰かを愛するわけじゃない」
「そうだね。悪人でも愛されることはあるもんね」
「ていうか……ヒソダさんが欲しかったのが、『肯定』とか『愛情』だったって言うんなら……」
私は思わず、その先の言葉を飲み込みました。
なんでヒソダさんは、ルルカを捨てたんだ?
付き合っていた人間同士のことなんて、外のやつにはわからない。それは確かにそうかもしれないけど。
あの頃のルルカは、私には少なくとも、ヒソダさんに対して、心から愛情を持って接していたように見えたのに。彼を認めて、肯定するために、懸命に心を砕いていたように思えたのに。
自分が欲しくてしょうがないものを、それでもやっと手に入れたのに、ヒソダさんはそのことに、気づかなかったのか?
そこまで考えて私は、そうではないことに気づきました。
ヒソダさんはたぶん、ちゃんとわかっていたのです。口の悪さの裏に隠れたルルカの愛情を、きっと理解していたのです。
だから彼は未だに、私に電話をかけてくるのです。ルルカの近況を聞き出そうとするのです。
「あたしの敗因はさ」
とルルカは言いました。
「ちゃんとヒソダの友達に、ならなかったことだね。友達を飛ばして、恋人なんぞになろうとしたことだ。それって実は、選択をつきつけることだからね。あたしを優先してって、頼み込むことでもあったりするし。ヒソダに本当に必要なのは、友達なんだ」
ま、それも今だから思うんだけど、とルルカは付け足しました。
「だからまあ、あたしの近況についてどこまで知らせるべきかってのは、シロイの判断にまかせるよ。あたしは急ぎすぎて終わった人間だからね。もう関われないし、関わる気もない。つーか、謝っとく。ごめんね?」
そう言って、ルルカは私の顔を覗き込みました。
「なにそれえ。何を謝られたの今?」
「あたしに頼まれたからって理由で、自分の意志とは無関係に、友達やろうとしてるでしょシロイ。シロイは関係を無理に続けるために、言いたいことも言わないでいるけど、そういうのは本当は、友達とは言わない気がする。なので、もういいです。あとはほんと、全部シロイが好きにしてくれて構わない」
「それはつまり、やってらんねえー、とか言って、ヒソダさんと縁切りしてもいいってこと?」
縁切りか、とルルカは苦笑いをしましたが、すぐに「うん、いいよ」と答えました。
折悪しくなのか、それとも折よくなのか。
ルルカと話した後、それほど間を置かずに、またしてもヒソダさんが、私に電話をかけてきました。
最近、ヒソダさんからの電話の回数は、以前よりも増えています。
不景気な世の中だからなのか何なのか、ヒソダさんを取り巻く状況の過酷さは、年月がすぎても解決するどころか、酷くなる一方で。
だから彼は話相手を、ルルカの近況を知る相手を、求めてしまうのかもしれません。
会話はいつもと同じように進みます。
世間話をしながら少しずつ、ヒソダさんは自分が一番知りたいことをなんとかして聞き出そうと、遠まわしな質問を重ね始めました。
「ルルカは結婚したよ」
ヒソダさんが息をのんだ気配がしました。
「来年には、子どもも生まれる。みんなで一回集まって、お祝いの会もした」
「え…………」
ヒソダさんはショックを受けた様子で呟きました。
「おれ、そんな話、全然きいてない……」
「そりゃー、そんな話、誰もしないでしょう。言いたくはないけど、ヒソダさんの周りって、ルルカを嫌ってる人ばっかりじゃない」
「嫌ってるって……そんな」
「嫌われてたでしょルルカ。特にヒソダさんの家族に」
ヒソダさんがぎょっとしたのが、電話越しでも伝わってきました。
「うん、ごめん、今まで言わなかったけど、実は私、知ってるんだ。ヒソダさん、ルルカが母子家庭出身だからって理由で、別れたでしょ。片親育ちの娘なんて強欲に決まってるって、家族にそう言われたから」
「そうじゃなくて! いや、そうなんだけど! でも、うちの親も別に悪気があったわけじゃなくて、ただルルカのことをよく知らなかったから、不安になっちゃっただけで!」
「ヒソダさんの借金をやめさせようとしたら強欲と呼ぶってのは、そういう好意的な解釈でカバーしきれるものじゃないと思うんだけど……まあいいや、じゃあなんでヒソダさんは、ルルカの良さをご両親に理解させようとしなかったの?」
「それは……いろいろ難しくて……年寄りは頭かたいし……」
「別にいいよヒソダさん、私に言い訳する必要はない。実を言えばまあ、すっごく怒ってた時期もあったけど、ぜんぶ昔のことだから。もう怒ってないし、それに」
窓の外の大きな月を見ながら、私は言葉を続けました。
「それで一番辛い思いしたのって、ヒソダさんでしょう?」
十年。
ヒソダさんの話を聴き続けてそれだけ経つのだから、私は既に知っています。
自分の感じていることや考えていることを、押し隠して押し殺して、言いたいことは全部飲み込んで、自我というものを削り続けて。
そういう風に振る舞えと、教え込まれた子どもがいたことを。
そうでなければ許さないぞと、脅しつけられて育った少年は、生真面目に教えを守り続け、とうとう、自分が心の底から欲しかったもの、いつでも一番に求めていたものを、自分の手で壊してしまう、そんな大人になりました。
数秒の沈黙の後、ヒソダさんは、しぼり出すような声を出しました。
「あのとき、どうしていいか、わからなくて……ルルカがいなくなるのは嫌だったのに……でも、怖くて。親に認められないのは辛いよ、本当に辛いんだ……」
「うん、そうだね」
「あの時、おれがもっとがんばれたらって、時々、ちがう、しょっちゅう思う……そしたらまだルルカがいたのかなって……いてくれたらいいのに、本当にいいのに」
いつの間にか、ヒソダさんの声は、涙で曇ったものになっていました。
「こんなこと言うの情けなくて嫌だ、だけどおれは、ルルカの結婚相手が、羨ましくてしかたない、ずっとずっとルルカが傍にいてくれるなんて、なんて贅沢なんだって、思ってしまう……」
鼻をすすりあげ、それからかむ音。
「どうすればよかったのかなあ……ぜんぶ夢ならいいのに、そうすればきっと、目が覚めた時、ルルカがいる」
誰か知らないやつの隣なんかじゃなくて。おれの隣に。
呟いて再び、ヒソダさんは鼻をすすりました。
「ヒソダさん、SFは今も好きなんだね」
「え?」
私の言葉に、ヒソダさんは少しばかり、意表をつかれた様子でした。
「いや、なんか。シュレディンガーの猫っぽいなあ、と思って。今の」
あまりにも有名すぎるパラドックス。50%の確率で猫の死ぬ箱。箱を開けるまでは重ね合わされていたはずの可能性が、箱を開けた瞬間に確定する。猫は生きている、あるいは死んでいる、そのどちらかに。
「私たちの宇宙では、猫は死んだんだよね。世界はそう確定した。もうひとつの可能性がどうなったのか、わからない。収束してしまったのか、それとも別の宇宙が存在するのか。もし別の宇宙があるならそこで、ヒソダさんはルルカと、並んで笑っているのかもしれない」
「……いいなあ」
ヒソダさんの口調は、何かを夢見ているようでした。
「その宇宙に、行きたいなあ……」
「うん、でも、無理だよね」
「無理、か……」
「別の可能性に思いを馳せるのはいいけどさ、少なくとも私たちのいるこの宇宙では、その可能性は消えたんだよ。ヒソダさんの傍にずっといてくれるルルカという人間は、ほんとは誰よりも遠い。だって彼女がいるのは別の場所、少なくとも宇宙ひとつぶんは離れちゃったところなんだから。この宇宙では、猫は生きてない。死んだというより、殺された。誰が殺したのかも、わかってるでしょ?」
二秒の沈黙。それからヒソダさんは、囁くような声で言いました。
「わかってる」
「でも、その猫はさ、死ぬ間際に、何かを残そうとはしたんだよ。自分を殺す相手のために、頼んだの。『怒らないで』って。『あの人の話を聞いてあげて』って。だからねヒソダさん、私は死んだ猫の毛皮なんだよ。猫がそれでもなんとか、残そうとした何かなの。
今まで私はずっと、ヒソダさんの話を、聞いてきた。自分の意見は言わなかった。だってそんなの、猫の毛皮のすることじゃないから。ヒソダさんは『いい人』だって、言われるの好きでしょ? だから私も、『いい人』だって言った。それが毛皮の仕事だと思ったから。だけどもう、こういうのはやめることにする」
「やめる?」
その瞬間、ヒソダさんの声が揺れました。
「え、それってつまり、おれと話すのが嫌になっちゃったってこと? おれみたいな人間には付き合いきれない?」
「いや、違う。そういうことでは、なくてだね」
私は息を、吸い込みました。
「ちゃんと、友達になろう」
「へっ?」
「言いたいこと我慢して、言うべきことも飲み込んで、ただただイエスマンに徹するみたいなことをやめよう。それはお互いにってことだよ? ヒソダさんも、本当は私に対して、言いたいことすっごくあるでしょ? 誤魔化しあって、薄ら笑いを浮かべてって、それは友達じゃないと思う。私たちはもっと、ちゃんと話をするべきだ」
「よくわからない……おれは、どうすればいいの?」
「わかんないけど、なんかあるでしょ? 私にやってもらいたいこととかあったら、言ってみていいんだよ。可能な範囲で手伝うし」
「わからない……」
「うーん、そうか、それもそうか、じゃあ、先に私から言うよ。ヒソダさんにやってもらいたいことがあるから」
「何?」
ヒソダさんが、少しだけほっとしたような声を出しました。なんといっても彼は、他人の願い事を聞くことに慣れています。
「幸せになってよ、ヒソダさん」
これは私の、ただのエゴなんだけど。余計なお世話なのもわかってるんだけど。
「他人の面倒みる前に、自分のことを、ちゃんとケアしてよ。今のままでは、いないでよ。
『いい人』でなくていいんだよ、ヒソダさんが今よりちょっと、もしかしたらだいぶ悪くなっても、私は全然気にしないよ。というか」
はああ、と私は息を吐きました。
「目の前で子どもが殴られて、お菓子をとりあげられているの見たらさあ、すっごく嫌な気持ちになるじゃん。店で一番大きくて、一番美味しいお菓子を、その子にあげて、食べてもらわないと、その嫌な気持ちは、消えないで、ずっと続いちゃうじゃない。
ヒソダさん、私の目の前で何度も殴られて、お菓子だのおもちゃだの、全部とられちゃうんだもん。そういうのは、見てるだけでもすんげえイヤなのね。気が滅入るの。
だから、とにかく、幸せになってよ。幸せにならなきゃ、いけないよ。
すんげえ勝手な言い分だってのはわかってるから、そこは謝るけど、でも」
十年間おとなしくしていた猫の毛皮には、このくらいのエゴを振り回す権利が、あると思うんだよ。
ヒソダさんはしばらくの間、黙り込んでいました。
もしかしたら電話を投げ出してどこかに行ってしまったのかと、私が不安になってしまうくらい長い間、彼はずっと黙っていました。
それでも時折、鼻をすすりあげ、かむ音が聞こえ。
だから私も、沈黙を守りました。
やがて。
聞き逃してしまいそうにかすかな声で、ヒソダさんが呟きました。
「…………は、いやだ」
「はい?」
「一人は、嫌だ。このままずっと、一人でいるのは辛い」
「なるほど。ルームメイトでも募集してみる?」
「そういうんじゃなくて! か、彼女とか。欲しい」
「わかりやすい要求をありがとう。それでは合コンとか開いてみます?」
「それは、その……嬉しいです。とても嬉しい、かも」
「よし、そんでは任せなさい。私の身の回りの独身の人材は、昨今急速に減りつつあるのですが、それでも三人くらいはなんとかご用意してみせましょう!」
「あ、でもこっちが三人も揃えられないかも。ていうか、おれはおれ以外に連れていける心当たりがない……」
「わかった、じゃあセキゼキさんを派遣しよう。やつは身体がでかいので、なんとか小柄な男性二人分くらいの存在感は醸せるんじゃないかと」
「いや、それ悪いよセキゼキさんに! いいよ、合コンとか、ほんとおれのせいで、なんかシロイにも迷惑かけちゃいそうだし」
なにその発想、と言いかけて私は、黙りました。
まあいいや、と思い直します。
何もかもがいきなり変わるわけはないけど、それでもちょっとずつ変わることはできるだろうから。
「つか、合コンて形にこだわる必要もないよね。鍋パーティでもするかーうちで。その際、女性参加者も募ってみるってのはどう?」
「あ、そっちのほうがプレッシャーはないかも……でもほんとに大丈夫?」
「もちろん。というか、最近セキゼキさんが新しい鶏団子のレシピ試したがっていたから、ちょうどいい」
ヒソダさんとルルカが並んで笑う、別の宇宙があるとしても。
それがここではないのは確かなのだから、その場所にたどり着けることは決して無いのだから。
可能性を葬った自分を嘆くのはいい、悔やむのはきっと大切なことで、でも後悔の後に続くべきなのは、別の宇宙の夢を見ることではなくて。
何が正解なのかもわからないけれど、それでもとにかく、自罰と後悔以外の何かを、ヒソダさんは始めたほうがいい。
そのためにできることが合コンとか、鍋パーティとか、それ以外にもあったらいいよね、と考えつつ。
私はもう一度、窓の外に目をやりました。
白く輝く大きな月が、この宇宙でもヒソダさんは幸せになれるはずだと、そう請け負ってくれたような気がしました。
もちろん本当は、何の保証もないのです。
ヒソダさんのような人が変わることは、とてもとても難しくて、なにより本人が先に変わりたいと望まなければ何も起こらず、望んでもなお、達成できるかどうかなんて、誰にもわからないほどの困難が行く手には横たわっているわけで。
そもそも変わってほしいなどと望むことが、とんでもなく失礼で厚かましくて図々しいことであり、それなのに希望を抱きたがるなんて、我ながら呆れるほどエゴイスティックだったりもするわけですが。
それでも私は信じます。
自分からも他人からも蔑ろにされず、ヒソダさんが笑えるようになる日は必ずくるのだと、それはそれほど遠い未来でもないのだと、私は強く、信じます。
誰のためでもなく、自分のために。猫の毛皮ではなく、人間として。
2011-03-15
■[明日への提言]こんな時だからこその福島の銘菓情報
今日、ツイッターで「こんなときだからこその福島の銘菓情報」をつぶやいてみたら、案外と好評でしたので、まとめなおしたものをこちらに掲載いたします。
福島のオススメ名物菓子を、私の独断と偏見で勝手に紹介! ぜひぜひお買い上げください。美味しいから損しないよ! 福島も潤うよきっと!
三万石
欧風饅頭エキソンパイ
まずは欧風饅頭エキソンパイ! パイ皮にくるみたっぷりの餡がくるまれた和洋折衷のお菓子です。
あっさりと上品な甘みの餡と、香ばしくて歯ごたえのよいくるみと、バターの香りたっぷりのしっとりしたパイ皮のバランスがまさに絶妙。
洋風饅頭じゃなくて欧風饅頭ってかんじの味ですよ、何言ってるかわかんない人は食べてみればきっとわかる!
和菓子やあんこが苦手が人も、エキソンパイはおいしいと喜びます。
昭和三十五年から長い間愛され続けてきた歴史が、一口で納得出来るお菓子です。
ままどおる(三万石)
地元の人間には「みるくたっぷりままのあじー」のCMでお馴染みのかわいらしいお菓子です。
ふんわりしっとりの生地に入っているのがみるく餡。これがなめらかで甘くて優しくてなんだか懐かしい味。おもわず「ままー」と呟きたくなる。「ママ」じゃなくて「まま」の味なんですよ、そういう優しさの生んだ奇跡ですよこれは!
固定ファンも多く、定番のおみやげ菓子。パッケージもかわいいよ!
ちなみにチョコレート味の「ちょこままどおる」は10月〜5月の期間限定商品です。
塩まんじゅう
続いて紹介する塩まんじゅうは、見た目があまりにも渋いので、エキソンパイやままどおるに比べると、初見では手を出しにくいお菓子なんですが、騙されたと思って買ってみろ! さすれば驚愕の美味に辿りつくであろう!
自然塩がまぶされた落雁風の皮の中にはつぶあん、さらにその中には栗の甘露煮! ほんのり塩味と甘さが素晴らしいバランスで、日本茶が死ぬほど合う。
この味がわかるようになったら大人! ああ大人になってよかった! そう思わせてくれる和菓子です。
柏屋
薄皮饅頭
これまで三万石の商品を紹介してきましたが、ここらで柏屋の商品にいきましょう。
トップバッターはずばり薄皮饅頭! 土産の定番です。
黒糖を使った薄皮でたっぷりの餡を包んだ薄皮饅頭はとっても甘いのにくどくなくてむしろすっきり上品なのが不思議。
半分に切ってみるとわかるんですけど、皮が本当に薄くてその分あんこがぎっっっしりです。裏返してみると皮がうっすら透けてあんこが見えるといえば、いかに薄いかわかっていただけるかと。
でもこの薄い皮が案外存在感があって、黒糖の風味がいい仕事してます。あんこはなめらかでしっとりで体にしみいる美味さです。さすが日本三大饅頭に選ばれているだけはあるぜ……
ちなみに薄皮饅頭は有名な土産だけあってあちこちで売ってますが、柏屋の店舗ではいろんなお菓子が試食できるし、無料でお茶やコーヒーも出してくれるし、目の前で薄皮饅頭の製作を実演してくれるし、いろいろ楽しいので、お店まで行ってみることをおすすめします。
くるみゆべし「もちずり」
柏屋といえば、個人的にちょうオススメなのがくるみゆべし「もちずり」です。
ゆべしというと普通生地がべたべたしてるのでそこが苦手、という人が多いのですが、もちずりの生地はさらっとしてて、全然べたつかないので、
「ゆべし嫌いだけどもちずりは好き」
という人も多いお菓子です。
くるみがたっぷり入っていて、甘さは控えめで、とても上品な味。醤油がほのかに香る生地はもちもちしてて柔らかくて、食べてるとしみじみ幸せ気分。
いくら食べても食べ飽きない味が危険なお菓子です。
檸檬(れも)
柏屋の人気菓子第三弾は「檸檬」(れも)。
商品名が梶井基次郎を連想させますが、実際には高村光太郎の「智恵子抄」からのネーミングらしいです。どっちにしろ文学的で、買うだけで賢くなれそうですね! 錯覚だけどそんな錯覚すら大事にしたい!
クリームチーズとミルクのお菓子でしっとりした生地がもうたまらない檸檬。クリームチーズが濃厚だけど、レモンの爽やかな香りと風味に助けられて、ちっともくどくなくて、いくらでも食べられそうだけど、たくさん食べたらカロリーやばそうな檸檬。柏屋利用者の大半がおすすめする菓子として有名な檸檬。
ちなみに学生時代、友人に檸檬を土産に何個か渡したら、ちょっとずつ食べてねと言ったのに、貰った分ぜんぶその場でたいらげて体調崩したそうです。それほどまでに人の理性を狂わせる、それが檸檬! 檸檬は魔性の魅惑菓子です。
太郎庵(たろあん)
さてさて福島の銘菓っつーと、メーカーとして有名なのは「柏屋」「三万石」「かんのや」あたりなんですが、新興勢力としてぐいぐいシェアを広げている侮れないメーカーといえば、「太郎庵」(たろあん)です。
会津の天神様
名前がめっさ和風なのに、「会津の天神様」はチーズブッセなんです、洋菓子です。
太郎庵は洋菓子が強くて、生ケーキも人気。高校時代の友人は「誕生日のケーキは太郎庵以外許可できない」と言ってました。
会津の天神様のお味ですが、これがまた、ふんわりとした生地とチーズクリームがもう、なんか、すっごいマリアージュ! おまえらほんとおしどり夫婦だろ、何年たってもラブラブな運命的カップルだろ、と思わせる取り合わせです。
チーズクリームはかすかに塩味なんですが、この塩加減はほんとに絶妙! 塩スイーツとかなんとか流行りだしたときに、
と言いたくなります。まあ実際には太郎庵は創業したのが昭和二十四年だから、そんなに経ってはいないけどね……でもここは気持ちで!
「会津の天神様」は「いちごの天神様」や「ちょこの天神様」など、味のバリエーションも豊富です。私はベーシックのチーズをイチオシしますが、他の味もよろしくです!
かんのや
家伝ゆべし
そして福島の菓子といえば忘れちゃいけない定番といえば「かんのや」の「家伝ゆべし」。
四角いくるみゆべしも有名ですが、今回はあえてヒトデみたいな形が目をひく「家伝ゆべし」をご紹介します。「家伝」という響きの重厚さにやられました。
うっすらと透き通ったあめ色の生地のむこうにはこしあんが見えて、ああうまそう、と思って食べると実際うまい!
醤油の味がほのかに感じられるもちもちの生地、たっぷりのこしあんは甘いけど甘すぎない絶妙な味わい、表面にふりかけられているケシの実の香りが素敵なアクセントになっていて、素朴で自然な昔ながらの上質な味が、ストレスを抱えた現代日本人のささくれた心をものすごいイキオイで癒してくれます。ありがとう家伝ゆべし、そんな風につぶやきながら日本茶と一緒にいただきましょう!
他にも
福島のお菓子はまだまだ美味しい物がたくさんです。「林檎宿」「トロア」「柏やき」、「三千里」、それ以外にもまだまだいっぱい。個人的には三万石と柏屋はどの菓子買ってもハズレなし、と思ってます。店に入って目についたやつどんどん買っちゃえ、洋菓子もうまいのが嬉しいところ!
残念ながら今日紹介したどのメーカーもしばらくの間は操業がむずかしそうですし、流通の問題もありますし、なかなか欲しくても買えません。
ですが、東北の人たちの復興への道のりはとても長いだろうと思います。よその地方の人間が遊びに行けるようになっても、お菓子が作れるようになっても、それが流通するようになっても、それでも傷が癒えたわけではなく、たくさんの助けが長い間必要になるんじゃないかと思います。
だったら、今押しかけボランティアとかしちゃうくらいなら、もっと日本が落ち着いて、今回紹介したお菓子がお店に並ぶようになったら、それを買ったほうが、ずっとスマートな手助けなんじゃない、と個人的には思っています。
そんでまあ、今回紹介したお菓子はみんな、そういう地震とか復興とか、そんなこと全く関係なく、本当に美味しいですから! 甘いもの好きなら、買って損はないと思いますので!
とにかく一度お試しあれ。ウマイヨ!
2010-07-21
■[セキゼキさん][メンタルヘルス]二年間のハジマリとオワリとツヅキ〜その11〜
これまでの分
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8
本文
暑さがゆるみ、秋の涼しい風が吹くようになる頃から、セキゼキさん(仮名)の調子は、はっきりとよくなりはじめました。
もともとセキゼキさんは暑さと湿気にめっぽう弱く、夏になると体調が崩れやすいところがありました。
体と心というのは密接に関連しています。体調が悪くて苦しいときに、明るく前向きな気持で生きるというのはなかなかに困難だったりしますし、精神的な不調から本当に病気になってしまう人も大勢います。
「規則正しく、刺激の少ない穏やかな生活は、うつという病気に対する薬になります。
気持ちを落ち着ける薬を飲めば、穏やかに過ごせる時間が増えます。睡眠薬を飲めば、眠れない夜が減って、規則正しい生活を送りやすくなります。
私が処方する薬は、あなたの生活を手助けする役目も持っているんですよ」
これはセキゼキさんの主治医の言葉です。
暑くて寝苦しい夜が続き、生活のリズムが崩れる。
エアコンをつけると、今度はそれが原因で体調が崩れる。
その結果、精神的に不調になり、そうなると今度は更に体調が崩れ、そんなことを繰り返しているうちに心身共に調子がぐずぐずに悪くなっていく。
それが2008年の7月から8月にかけてのセキゼキさんでした。
秋になってセキゼキさんの調子がよくなってきたのは、ウオッカという競走馬に魅せられそのレースを観るためだったというドラマティックな理由ももちろんあるんですけど、それだけじゃなくて気温が下がって体調が良くなったから、という特に面白みもない部分もかなり大きかった、ということは言っておかなければなりますまい。
2008年11月2日。
長く苦しい夏、セキゼキさんがずっと待ち続けていたウオッカのレースを観るために、私たちは久しぶりに府中の東京競馬場を訪れてました。
セキゼキさんはレースの何日も前からずっとそわそわしていました。
その日行われたのは秋の天皇賞。
日本の競馬界には八大競走と呼ばれる古くて格の高いレースがあります。秋の天皇賞もそのうちの一つであり、この名高いレースの勝者というのはほとんどが牡馬で、牝馬の勝利は稀です。
「おれが一番好きなレースが秋の天皇賞なんだ。毎年このレースを一番の楽しみにしているんだ。もしもそのレースでウオッカが勝ってくれたら」
そこでセキゼキさんは言葉を切り、
「駄目だ、期待するのが辛い」
と言いました。
「そもそもダイワスカーレットに勝てない気がするし。ああああ、不安になってきた。どうしよううううう」
ダイワスカーレットとは、出走したレースの六割以上を勝ち、勝てなかったレースでも必ず二着にはなっているという、恐ろしく絶対的な強さを誇っていた牝馬です。
彼女はまた、ウオッカの最大のライバルとも言われていました。
というか、正確には。
「ダイワスカーレットはウオッカにとってライバルというより、越えられない壁」
と考えている人のほうが多かったかもしれません。
ダイワスカーレットはウオッカと同い年であり、それゆえに彼女たちは既に三度の直接対決をしていましたが、そのうちウオッカが勝ったのは一度だけ。
「ウオッカが強いのは確かだけど、直接対決ではダイワスカーレットの勝利のほうが多いし、なにより時々大負けすることもあるウオッカに対し、安定して勝ち続けているダイワスカーレットのほうが強いんじゃないかねえ」
というのが世間の客観的なものの見方だったんじゃないでしょうか。
「ウオッカに勝って欲しい。でもダイワスカーレットがいる。ダイワスカーレットは強い。でもウオッカに勝って欲しい。けどダイワスカーレットがいる」
セキゼキさんはぶつぶつそんなことをつぶやき続けました。
「大丈夫だよー、ウオッカだってダイワスカーレットに勝ったことあるんだから」
私がそんな風に言うと、セキゼキさんはきっとこちらを睨みつけました。
「そんなのずっと前じゃん! 人間で言えばふたりとも女子中学生くらいの年代の頃の話じゃん! その後ふたりとも大人になって実力が安定してきてからは、ダイワスカーレットが勝ってるじゃん!」
「そういえば、人間でもかつてライバルと呼ばれたのに、その後は圧倒的に実力差がついちゃってる例はあるねえ。アイルトン・セナとマーティン・ブランドルとか。魔裟斗と小比類巻貴之もちょっとそんなかんじかなあ。ええっと、あと他には……」
「うわあああああああ、余計なことを言うなああああ。ウオッカはちゃんと大人になってからも活躍してるじゃないか! 安田記念勝ったじゃないか! そこまで決定的な差はついていないはずだろうがあああ」
「そうだよね、ウオッカは強いよね。だったらそんなに心配しなくていいんじゃないの」
「気楽だなシロイは! なんでそんなに気楽なんだ、おかしいぞ、君は本当にウオッカのファンなのか!?」
「いや、ファンだからこそウオッカを信じているわけですよ?」
「違う。ファンならば不安になるのが当然だ」
「不安がないわけじゃないけど、悪いイメージ抱いてももしょうがないし。言霊ってものもあるんだし、ウオッカを信じていい予想をするのがファンの務めだよ」
「それは盲信だ。ウオッカの代わりにありとあらゆる悲劇的な可能性をあらかじめ予測しておくのがファンの役目だ」
そんな会話を何度となく繰り返しているうちにいつのまにか時は過ぎます。
レースの開始を告げるファンファーレが鳴り響きました。
セキゼキさんはその頃には既に青ざめた顔色でじっと黙りこくる人になっていました。
全ての出走馬がゲートに入り、そしてゲートが開きました。
素晴らしいスピードでトップに立ち、先頭を駆けたのはダイワスカーレットでした。
「1000メートル通過時点のタイムが58秒台!?」
セキゼキさんが途中で叫ぶようにそう言ったのを覚えています。
「すごいハイペースだ。普通の馬ならこんなペースで走ったら最後、間違いなく潰れるけど……」
その先を口にせずとも、セキゼキさんの言いたいことは、私にもわかりました。
ダイワスカーレットは普通の馬ではない。
ハイペースで潰れる馬がいたとしても、それは絶対にダイワスカーレットではない。
案の定レースが中盤を過ぎて後半にさしかかってもなお、ダイワスカーレットはレースをリードし続けています。
ウオッカは中団に控え、ラストスパートのための力をたくわえていましたが、やがてじわじわと、前に向かって動き始めました。
最後の長い直線コース。
ダイワスカーレットはやはり潰れません。内側で順調に走り続けます。
外側を回ってコーナーを抜けてきたウオッカは一気に加速。ぐいぐいと差を詰め始めました。
ついにウオッカが前に出た、と思えた瞬間がありました。
けれどその一瞬後に、信じられないことが起きました。
余力など残っているはずのない驚異のハイペースで走り続けていたダイワスカーレットのスピードが、ここにきて更に上がったのです。
その時、ダイワスカーレットの馬体はすうっとしなやかに伸び、私にはそれはまるで、もっと無駄がなくてもっとスピードの出る、より完璧な走り方を、ダイワスカーレットがその場で発見したように見えました。
極限状況に追い込まれてこの馬は、新たなステージを上ったのだ。
そう思った瞬間、背筋がぞくっと冷たくなりました。
なんてこった化け物め、もうダメだ、こんなのに勝てるわけがない、というのがあの時私の考えたことでした。
私だけではなく、おそらくレースを見ていた人間全員が、あの時ダイワスカーレットの勝利を確信したのではないでしょうか。
けれどウオッカ自身は、違いました。
再びしなやかに先頭に躍り出たダイワスカーレットをとらえるために、ウオッカは更に加速したのです。
殺人的なハイペースで逃げる馬に追いすがり、追い込む過程で、ウオッカ自身もおのれの力を振り絞っていた筈なのに。
その振り絞った力を越えられたことは、彼女にとっても驚きであり衝撃であった筈なのに。
火の吹くような強烈な加速。
速く、もっと速く。前に、もっと前に。とにかくあの馬よりも前に。
ウオッカはゴールに向かって力強くまっすぐに走りました。
凄まじい歓声の中、二頭の牝馬はほぼ同時にゴールインしました。
「勝ったのはどっちだ」
誰もが興奮しきって、大声で話し合っていました。ダイワスカーレットが有利に見えた、いやいやウオッカが勝ったんじゃないか。
「結果発表はいつ出るんだろう」
セキゼキさんは相変わらず血の気が引いたような顔色でした。
写真判定の結果は何時まで経っても発表されません。既に皆、10分以上待たされています。
「早く教えてくれ……きわどいレースだったから揉めるのはわかるけど、これ以上期待させないでほしい……」
「おれはやっぱりダイワスカーレットが勝ったんじゃないかとは思う。でもウオッカもすごいレースをした。本当にすごいレースだった。だからウオッカは二着でも立派なんだ」
「ここまで時間がかかるということは、ウオッカが同着で一位になってる可能性もあるのかな」
「ああでも期待するのが辛いな」
「そんなに揉めるならもう同着にすればいいじゃないか。ふたりとも一着でいいじゃないか。そうすればウオッカも勝てるじゃないか」
「頼む、同着にしてくれ。ウオッカに秋の天皇賞を勝たせてくれ」
セキゼキさん何度も電光掲示板を見上げ、不安そうに呟きます。
「なんでウオッカが勝てるとしたらそれは同着の時のみ、みたいな前提なの? ウオッカが単独で勝ってる可能性もあると思うんだけど」
という私の言葉は無視されました。
13分半という異例とも言える長時間の審議の後、電光掲示板の一着に表示されたのは14番。ウオッカの番号でした。
この日、秋の天皇賞のレコードタイムは更新されました。二頭の牝馬は同タイムで走り、揃って記録を更新したのです。
判定に使われた写真が場内のスクリーンに大写しになり、観客はどよめきました。そこにあったのはたったの2センチ、本当にごくごくわずかな、小さな差だったのです。
けれど、そのわずかな差がもたらした違いは大きかった。
ウオッカが勝利したことをセキゼキさんが理解するのに数秒を要しました。
そして、ウオッカの勝利を確信した瞬間、セキゼキさんの目から涙が溢れました。
「うわあああああああ」
セキゼキさんは泣きながら喜びの声をあげました。
「ウオッカが勝ったあ、勝ってくれたあ、おれの一番好きなレースで、勝って欲しかったレースで勝ってくれたんだあ」
泣いていたのはセキゼキさんだけではありませんでした。
気がついたら、私もぼろぼろ泣いていました。
少しずつ調子が上向き始めていたとはいえ、それでもセキゼキさんが調子を崩すことは、秋になってからもありました。
うつというのはそういう病気だからです。振り子のように行ったり来たり、よくなったり悪くなったりを繰り返すものだから。
それでも、以前とは違うことが一つありました。
苦しみというのは永遠には続かないのだということを、セキゼキさんも私も理解しはじめていたのです。
今日はすごく辛いかもしれないけど、明日も明後日も苦しい日が続くかもしれないけど、それでもその辛さは必ず終わる。三日後か一週間後か十日後か、わからないけれど、必ず終わる。
そう思うと、夜を乗り越えるのが、少しずつ楽になりました。
私のアパートの壁には、ウオッカの写真が一枚増えました。
「この写真は、これからも増えていくと思うんだ」
セキゼキさんは壁を見上げて言いました。
「ウオッカはこれからも勝つんだきっと。期待するのが辛いって思ったけど、それでもやっぱり、ウオッカを信じないと」
不思議なもので、人間というのは何かが信じられないときは、他のものも信じられなくなる傾向があるのではないかと、私は思っています。
こんなこともできないなんて自分は駄目だ。もう自分という人間の何もかもが信じられない。だから自分の未来も信じられない。
こういう考え方は、特に珍しくありません。
実際には、そこには論理の飛躍があったりするんですが、不信の波というのは凄まじく力強いものですから、立ち止まって考えることを許さずに、そのまま人間を飲み込んでしまうんだろうな、というのが私の実感です。
でも、その逆に。何かを信じることができるようになったときは、他の何かも信じられるようになったりするんじゃないかというのが、最近私の考えていることです。
信じられる何かというのは、不信の波の中でも力強く立ち続け、流されない杭のようなものではないでしょうか。
その杭を運良く掴めれば、人は不信の波の中でも流されずに済むのです。立ち止まってしっかりと、物を考えることができるようになるのです。
その結果、他の何かを信じることもできるようになるのでしょう。
ウオッカがいなかったとしても、セキゼキさんの病気は秋には快方に向かっていたと思います。
ですがもしウオッカがいなければ私たちはきっと、事態はよくなりつつあるということを、なかなか信じられなかったのではないでしょうか。
よくなったと思うたびに悪くなることのくり返しで、私たちは疲れていました。
だからこそ、私たちはいつも疑っていたのです。調子がよくなれば、どうせまたしばらくすれば悪くなるに違いないと思っていました。
ウオッカはおそらくセキゼキさんと私が、初めて掴んだ杭だったのです。
不信の波に流されて過ごす日々は、決して楽しいものではありません。
けれどウオッカのおかげで私たちは、未来にもうちょっと希望を持ってもいいんじゃないかと、考えられるようになりました。
苦しい時間も長い夜も、それがいつか終わるのだと信じることができれば、案外なんとかなるもんだな、と私はそんな風に考えるようになっていたのです。
2010-04-20
■[セキゼキさん][メンタルヘルス]二年間のハジマリとオワリとツヅキ〜その10〜
これまでの分
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8
本文
2007年5月27日の日本ダービー。
セキゼキさん(仮名)と私は、コースの内側から、レースを観戦していました。
1番人気馬と2番人気馬が興奮してオーバーペースで潰れる中、自分のペースをきっちりと守ってゆうゆうと先頭に立ったのは、アサクサキングスという人気薄の馬でした。
素人目からも、このアサクサキングスって馬が絶対勝っちゃう流れに見える、と私は思っていました。「紅一点の果敢な挑戦」とやらは、やはり無謀に終わったのか、まあ現実なんてそんなものだろうな、とも。
最後の直線にさしかかってもアサクサキングスはしっかりとセーフティリードを保っており、疲れた様子もありません。
このリードを覆せる馬は出てこないだろうな、と私が思ったその時。
後方の馬群から一頭、飛び出してきた馬がいました。
「うそだろ!?」
セキゼキさんが叫んだのが聞こえ、その頃にはその馬は既に私たちのすぐ目の前に差し掛かっており、そして更に、加速しました。
目前でロケットが点火したような迫力。
そんなことはありえないのに、私はその瞬間、会場いっぱいに「ドン」という爆発音が響いたような気がしました。
この凄まじい加速ならば、もしかしたらあの先頭のアサクサキングスに詰め寄ることが出来るのかもしれない。
「ウオッカ、いけえええ」
歓声がそこら中から聞こえました。気がつけば私自身も大声で叫んでいました。
ウオッカがすごい勢いでアサクサキングスに詰め寄っていくように見えた次の瞬間には、並ぶ間もなくアサクサキングスをあっさりと抜き去り、更に突きはなし、一歩ごとにリードをひろげながら、ゴールラインを駆け抜けました。
セキゼキさんは何度も何度も、この日のダービーの話をしました。
「ウオッカが馬群を割って、真ん中から抜け出てきただろう? コースの真ん中を、定規で線を引いたみたいにまっすぐに走っただろう?」
テレビで見るとどの馬もまっすぐ走っているように見えますが、実際には馬というものは必死であればあるほどフォームが崩れて体がぶれ、左右によれて走ってしまうことが多い生き物なのです。まっすぐ走るためには訓練と生まれ持った素質の双方が必要となります。
「あんな風にまっすぐ走る馬は珍しいんだよ。それなのにウオッカはまっすぐに走った!」
セキゼキさんが特定の馬を応援することがほとんどなくなってしまってから、もう何年も経っていました。
そのセキゼキさんが、ウオッカの話題になると、何時間でも饒舌に話しました。
ダービーの勝利直後、ウオッカの前には洋々たる前途が待っているように見えたのですが。
その年、ウオッカがレースに勝つことは一度もありませんでした。
セキゼキさんと私は、ウオッカのレースを見るために何度も競馬場に足を運び、そのたびに失意に沈みました。
ウオッカは確かに強くて良い馬なのだろうが、それはやはり所詮牝馬の強さでしかなく、一流の牡馬と比べられるものではないのだろう、という見方をする人が次第に増えていきました。
デビュー直後から活躍し続けていたウオッカは要するにただ早熟な馬だっただけでこれ以上成長することもなく、ダービーはたまたまその年の牡馬の層が薄かったのだろう、という意見もよく聞きました。
ウオッカの評価が低迷していくと共に、セキゼキさんが落ち込んだ様子を見せることも増えたように思いました。
「もうウオッカの応援やめようかな。だって期待を裏切られるのが辛くてしょうがないんだもの。ウオッカは好きだけど、もう勝って欲しいとか思いたくない」
などと言い出したこともありました。
その後うつが発症したセキゼキさんは、ついに
「おれが会社に行ける日なんて来ないよ。ウオッカがもう勝てないのと同じ」
と吐き捨てるように口にするようになりました。
2008年6月8日。
安田記念は外国の馬も参加することのできる1600mの国際競走です。当時の世界ランキングで1600m部門1位の香港馬をはじめとする強豪馬がずらりと並ぶ大レースに、ウオッカも出走することが決まっていました。
その日、セキゼキさんと私は、アパートのテレビの前に座っていました。私が体調を崩したために、東京競馬場まで出かけることが出来なかったのです。
とはいえ。
本当はそれ、ただの言い訳でした。
セキゼキさんの病状は、薬が効き始めたとはいえまだまだ不安定な日もあって、だから相変わらず人混みは苦手で、でも競馬場は絶対に大勢の人で混み合っていて。
そのストレスに耐えて観戦したレースでまたしてもウオッカが負けました、なんてことになったら。
もはや徹底的に、絶対的に、完膚無きまで何もかもが駄目になってしまうんじゃないかという、そんな暗い予感が、私にはありました。
ウオッカには勝って欲しい、勝って欲しいけど、もうそう思い続けることに私たちは疲れた、いっそ諦めることができれば楽になれると思う、諦めたいと思う、期待することが辛い、期待しないで済めば、期待させないでくれ。
そんな風に考えながらも、私はウオッカのことが気になってたまらず、競馬中継が始まる時間には、布団から抜け出してパジャマのままテレビの前に座り込みました。
セキゼキさんもやはり、そわそわした落ち着かない様子で、テレビの前に腰を下ろしました。
ゲートが開き、全馬が一斉に飛び出しました。
後方に控えてじっとパワーを蓄え、レースの終盤、持ち前の瞬発力で一気に先頭に立つ、というのがそれまでのウオッカのスタイルでした。
ですがこの日のウオッカは、意外にもかなり前方にポジションを定めました。
(その場所でいいのウオッカ? そんな場所にいて自慢の瞬発力を生かすことは出来るものなのか?)
レースが最後のコーナーから直線に差し掛かったとき、ウオッカはコースの内側へ最短距離で切り込むように動き、進路を確保するとそこからドン、と加速しました。
信じられないような迫力とスピードでウオッカは先頭に躍り出て、速く更に速く前へと進みます。
残るは数百メートル、他馬もいっせいに勝負をかけ、これでもかとラストスパートをかけていますが、ゴールラインを超えるまで、ウオッカと他馬の差はぐんぐんぐんぐんと広がり続けました。
「やっぱり強い、ダービー馬はやっぱり強かった、ウオッカはやっぱり強い!」
実況アナウンサーが声を張り上げるのを聞きながら、私は呆然と座っていました。
やがてセキゼキさんがおずおずと言いました。
「これ、都合の良い夢とかじゃないよね?」
「都合の良い夢だったら、私たちは競馬場にいて、ウオッカの勝利に山ほど賭けて、今頃山ほど勝ってると思う。なのに、待ち望んだウオッカの勝利なのに私たちは自宅にいて、テレビなんか見てるんだから、実はそれほど都合良くない。だから、つまり……」
「…現実だな? ウオッカは勝ったんだな?」
「ウオッカは、現実に、勝ったんだよ」
うわあっ、と私たちは喜びの声を上げて立ち上がりました。
「ウオッカが勝った!」
「なんだよもー! 応援するのやめなくてよかった!」
「ウオッカはやっぱり強かったんだ! 待っててよかった!」
翌日。
セキゼキさんはいそいそと競馬雑誌を買いに走り、ウオッカの大きな写真を何度も何度も、広げて眺めました。
その後7月になって、セキゼキさんの復職が失敗して。
病状が更に悪化して、夜中に洗剤飲もうとしちゃったりして、他にもそういうことはたくさんあって、セキゼキさんにとって苦しい夏は、いつまでも長く、長く続いて。
それでもセキゼキさんは、少しでも調子が良い日は雑誌を開き、ウオッカの写真を眺めました。
やがてセキゼキさんは、その写真を雑誌から切り取りました。
調子がうんと悪い時、セキゼキさんは話すことも動くこともできなくなって、ただじっと部屋の中にうずくまり、何もない壁を見つめていることが、よくありました。
セキゼキさんはその壁に、ウオッカの写真を貼ったのです。
その日からセキゼキさんが見つめるのは、のっぺりとした壁ではなく、ウオッカの勇姿になりました。
「秋になったら、またウオッカのレースがあるから。だから夏は越えたい」
8月も後半に差し掛かった頃、セキゼキさんがそう言いました。
セキゼキさんが未来について、将来について、前向きな言葉を口にしたのを初めて聞いた、と私はその時思いました。
病気は続くだろう、薬はこれからもずっと必要だろう、職場の風当たりはどんどん強くなるだろう、休職期間はいつか終わって、それから?
何も楽しみにできない、何かいいことがあるとは思えない。
だけど、本当はそうじゃなかったんだな、と私は気づきました。
病気が続いても、仕事が辛くなっても、秋にはウオッカのレースがあるのですから。
「ウオッカはまっすぐに走っていた」
セキゼキさんは何度も噛みしめるように言いました。
「それはレースの時だけじゃなくて。ダービーの後ずっと勝てなくなっても、おれたちが勝手に絶望して、期待しなくなっても、ウオッカはずっとまっすぐに走っていたんだよ。勝とうとしていたんだ。いつでもまっすぐ、ゴールの方を見て、最短距離で走っていたんだよ」
秋が近づき始めた頃、セキゼキさんは薬の過剰服用をやめ、決められた量を、決められたときにだけ飲むようになりました。
眠れない夜が少しずつ減ってきた、と私が感じるようになり。
調子が悪くなってからは、ほとんどやめてしまっていた料理に、セキゼキさんは再び、積極的に取り組むようになりました。
私のアパートの壁には、ウオッカの写真が二枚並びました。
ウオッカの次のレースは、着々と近づいてきていました。
