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◆ 文化と社会の交点から見えてくる歴史 ◇

2012-08-25

古代 地中海世界 【イエスは、アラム語で民衆に語りかけた】

■『新約聖書』の配列とは違い、四福音書のなかで最も早く成立したのは「マルコによる福音書」であったが(60年代に書かれたと言われる)、福音書記者マルコはイエスの最後の言葉を次のように記している。

『イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』(「マルコによる福音書」[『新約聖書・新共同訳』])

これを初めて読むと、不思議な感じがするだろう。「という意味である」とはどういうことか? 「イエスの言葉をギリシア語に訳すとこういう意味ですよ」と言っている。『新約聖書』はギリシア語で書かれたが、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」はギリシア語ではなかった。アラム語だったのである。イエスは、その人生の最後に、アラム語で叫んだ(もともとは『旧約聖書』の詩篇の言葉である)。ゲツセマネの祈りの場面に出てくる「アッバ」もアラム語である。ユダヤ人イエスがアラム語を話した背景には、どのような歴史があったのか。

 シリアに居住していたアラム人の言葉・アラム語は、前9世紀には地中海東部内陸の国際商業語となった(現在の英語の役割を果たしていた)。やがてアッシリアアケメネス朝ペルシアが相次いでオリエントを統一したが、両王朝ともアラム語を公用語としたほどである。このような中で、シリアのすぐ南側に位置するパレスチナの人々も、ユダヤ人を含めアラム語を話すようになっていった。アラム文字の普及の影響もあり、アラム語は、パレスチナの民衆(ユダヤ人)の日常語となったのである。それは、ヘレニズム時代(前334〜前30)になり、ギリシア語(コイネー)が流入して来ても、変わらなかった。ギリシア語は、パレスチナでは、あくまで都市部の言葉であった。
 なお、ユダヤ人のもともとの言語であるヘブライ語も消えてしまったわけではない。ヘブライ語は文章語化しており、『(旧約)聖書』をはじめ宗教文書に使われていた。ユダヤ教シナゴーグでは、ヘブライ語で読み上げられた『(旧約)聖書』が、通訳によりアラム語に翻訳されて人々に伝えられていたという。なお、マルコとは異なり、福音書記者マタイは、イエスをヘブライの伝統に結びつけようとして、最後の言葉をヘブライ語で記した(80年前後と言われる)。それが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」である。カタカナ表記から判断すべきことではないが、ヘブライ語とアラム語が非常に近い言語であることはわかる。ユダヤ教の伝統の中から革新者として現れたイエスは、もちろんヘブライ語も読み書きできたであろう。また、一定程度ギリシア語も理解したと考えられている。しかし、『新約聖書』の次のような場面でイエスが話していたのは、日常語としてのアラム語だった。

「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。…」(「マルコによる福音書・種を蒔く人のたとえ」[『新約聖書・新共同訳』])
 
 4人の福音書記者の中では、マルコが最もアラム語世界に近接したところで書いていた。「マルコによる福音書」のギリシア語はややぎこちないと言われるが、マルコの母語はアラム語であった可能性が高い。アラム語を母語としながら、第二言語のギリシア語でイエス伝を書いたのである。このことは、マルコがイエス伝を書いた頃(60年代なのでイエスの死から30年以上が経過している)、キリスト教が都市部のギリシア語世界に広まっていたことを示している。
 最初期の、まだ都市部に大きく広まらない段階のキリスト教会では、アラム語が使用されていたと考えられる。それは、使徒パウロ(彼はギリシア語を話し、読み書きする、都市部の知識人であった)の手紙からも明らかである。パウロは「コリントの信徒への手紙一」の最後で「マラナ・タ」という祈りの語を引用している。もちろんギリシア人に向かって書いているのであるが、「マラナ・タ」は「主よ、おいでください」という意味のアラム語であった。今日の「アーメン」のように、礼拝の最後に皆で声をそろえて唱える重要な言葉であった。パウロが引用するほど、パレスチナでは一般的な祈りの言葉だったのである。

 イエスはアラム語で民衆に語りかけ、最初期のキリスト教会もまた、アラム語で礼拝を行っていた。もはやアラム語世界のキリスト教を完全に復元することはできないが、ギリシア語世界のキリスト教への発展は、文化的に大きな転換であったに違いない。

《参考文献》
 『新約聖書・新共同訳』(日本聖書協会
 田川健三『書物としての新約聖書』(勁草書房
 田川健三『原始キリスト教史の一断面』(勁草書房)
 荒井献『イエスとその時代』(岩波新書
 土岐健治『イエス時代の言語状況』(教文館

関連ページ→<問いからつくる世界史の授業>【イエスのことば、聖書の言語】 (簡潔にわかりやすくまとめてあります)、ギリシア語に重点をおいたページは【ギリシア語で書かれた『新約聖書』】 
初期キリスト教の論争については、【キリストは神か人か、そして聖母マリアは】をご覧ください。
 

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