「世界史の扉をあけると」は「2」に継続

 「世界史の扉をあけると」をお読みいただき、ありがとうございます。

 「はてなダイアリー」が「はてなブログ」に移行した関係で、新しい記事は、2019年2月半ばから「世界史の扉をあけると2」https://whomoro2.hatenablog.com/に載せています。

 よろしくお願いいたします。

2019年センター試験・世界史B[良問はありましたが…]

 詳細な分析は大手予備校などにおまかせしますが、授業のあり方との関連で、いくつか簡単に述べておきたいと思います。


【評価できる出題】


◆次の2問は良問でした。

 ① 第3問の問3 グラフの問題

   以前から数量的把握の必要性を述べてきましたが、ようやく3年前からグラフが出題されるようになりました。

   今回は、文章と2本のゲラフの組み合わせの問題で、非常に良かったと思います。

   今後は、このような「考えて解く問題」を増やしてほしいものです。

 ② 第3問の問5 地図の問題

   比較して考える必要がある点で、良い地図問題だったと思います。

   アンカラの戦いの地図問題と合わせて2問というのも、バランスがとれていました。


◆文化史が大問ごとに適切に出題されていました。

 特に、「事績や戦争の記録」(第2問の問3)や「巡礼」(第3問の問7)などに、文化史を組み入れた点は評価できます。


◆近年出題されていなかった文字の問題が出されました(第2問の問4)。

 文字や言語は、世界史において大変重要ですので、良かったと思います。ただ、センター試験では、女真文字満州文字の区別まで要求しなくてもいいような気がします。


【さらに検討を加えてほしかった問題】


●第1問の問5(冷戦期の出来事)

 年代整序の問題ですが、cのキューバ危機以外は典型的な冷戦期の出来事ではありません。1940年代末から50年代にかけての出来事を一つ入れるべきだったと思います。


●第1問の問9(ロシアやソ連の君主・指導者)

 ①のイヴァン3世を除いて、他の選択肢がすべて20世紀の人物になっていました。19世紀の君主を一人は入れてほしかったと思います。


●第2問の問2(①のフォークランド紛争

 誤文ではありますが、フォークランド紛争を取り上げる必要はあるでしょうか? 下線部「支配」についての選択肢は、他にたくさん考えられるはずです。

 ラテンアメリカの現代史の出来事を組み入れたいのであれば、パナマ運河の支配権、メキシコ革命など、他に重要な出来事があります。


●第4問の問2(「ピピンの寄進」の時期)

 全く不適切とは思いませんが、時期を問うべき出来事は、他にたくさんあります。

 「ピピンの寄進」であれば、その意義を問う問題を工夫してほしかったと思います。


【全体としての問題点】

イスラーム世界の出題について

 19世紀〜20世紀のイスラーム世界を取り上げた問題が見当たりませんでした。大変残念なことです。


ラテンアメリカの出題について

 ラス=カサスの出題は良かったと思います。

 ただ、センター試験では、アステカ、インカ、マヤについての出題に比べ、近現代のラテンアメリカカリブ海地域についての出題が少ない傾向があります。ラテンアメリカカリブ海地域の近現代に目を向けさせるような出題が望まれます。


■資料の写真について

 7枚の写真が使われていますが、参考資料に過ぎません。すべて、写真がなくとも解ける問題です。

 なぜ、何十年も、このような出題のし方を続けているのでしょうか?

 <写真+文章>などで、考える問題を作ってほしいものです。


■リード文と出題との関係について

 今回も、すぐれたリード文だったと思います。しかし、リード文が設問に生かされていません(これも何十年も続いています)。

 リード文を読解しながら答えるような出題が望まれます。(この形に近いのが、グラフの問題でした。)



★高校の授業に良い影響を与えるような出題をお願いしたい、とあらためて思いました。





 

世界史 こんな「考える授業」をしてみました⑫【フンから考えるユーラシア民族移動】

◆古代世界の終末を、フンと呼ばれた人々の移動から考えてみます。ゲルマン人の大移動の授業で、発展的に取り上げてきました。

◆高校の教科書には「フン人」とあります。しかし、特定の均一な民族ではありませんでした。私は、「ヨーロッパ側からフンと呼ばれた騎馬遊牧民集団」と理解していますので、「人」をつけずに、フンという呼称で使っています。

◆今回は、問いを投げかけて終わっています。普段から少しずつ「考える授業」を試みていれば、問いを投げかけるだけでもいい場合があると思います。

◆なお、「古代末期」という考え方を含め、古代と中世の境目は、ヨーロッパ史の場合も中国史の場合もたいへん興味深い問題ですが、この授業では触れていません。


<前おき>

 前の時間、フンの移動・侵入がゲルマン人の大移動のきっかけになったと話しました。今日は、フンからユーラシアの歴史を大きく見てみたいと思います。

 確認しておきますね。フンはユーラシア中央部(カザフステップのあたり)の騎馬遊牧民集団でした。フンの侵入により、375年、西ゴート人が移動を開始しました。

 フンの西進は350年頃から始まったようです。

<問1および解説>

 さっきも話しましたが、今日はユーラシア規模で歴史を見ていきます。

 350年とか375年というと、中国はどういう時代でしたか?

 あまりピンとこないようですね。では、図表で、魏晋南北朝の年表を見てみましょう。

 五胡十六国東晋の時代ですね。匈奴による西晋の滅亡(316年)の前後から、華北には、続々と遊牧民国家ができていました。

 ここから、重要なことが分かります。4世紀から5世紀は、ユーラシア大陸全体で民族移動期だったのです。

 この大規模な民族移動で、中国でも、ヨーロッパ側でも、歴史が大きく動きました。それまでの古代世界が、終末を迎えました。その象徴がゲルマン人国家の建国と西ローマ帝国の滅亡(476年)でしたが、中国もまた、漢帝国の終焉(後漢滅亡)後の長い過渡期に入っていたのです。

<問2および解説>

 フンに戻ります。

 ヨーロッパ側でフンと呼んだわけですが(最初にそう呼んだのはゴート人でしょうか?)、フンという呼び方のもとになったと考えられる騎馬遊牧民がいます。学問的には確定していないのですが、興味深いので、話しておきます。

 フンという呼び方のもとになったと考えられる騎馬遊牧民は、次の①〜③のうち、どれだと思いますか?

  ① 匈奴
  ② 鮮卑
  ③ 突厥

 (時間を取ったあと、何人かに答えてもらいます。)

 ①の匈奴だと考えられています。

 なぜでしょうか? 理由を二つあげてみます。

 まず、匈奴の名は中央ユーラシアに鳴り響いており、騎馬遊牧民全体を表す呼称となっていたと言うのです。

 次に、匈奴のもともとの発音は、「ヒュンヌ」だったと言われています(中国で漢字表記しました)。

 「ヒュンヌ」とフンが似ているのがわかりますか? 「ヒュンヌ」の最後の「ヌ」を軽く発音してみてください。「ヒュン(ヌ)」となりますね。それが、少し発音が変わって、フンと呼ばれるようになったと言うのです。

 フンは雪だるま式に勢力を拡大しながら西進したと考えられています。フンという騎馬遊牧民集団の中心に匈奴がいたと言えるかも知れません。

 もしそうだとすると、匈奴は中国にもヨーロッパにも、大きな影響を与えたことになります。

<最後に問いを投げかけて>

 フンをめぐって考えてきましたが、「古代世界の終末〜中世世界の始まり」を表す二つの出来事を並べてみますので、みなさんもいろいろ考えてみてください。

 ユーラシア大陸東部と西部の同時期の出来事です。

 494年  北魏の孝文帝、洛陽に遷都
 496年  フランク王国のクローヴィス、ローマ=カトリックに改宗


【参考文献】

 小松久男編『中央ユーラシア』(世界各国史4、山川出版社、2000)
 山田信夫『草原とオアシス』(ビジュアル版世界の歴史10、講談社、1985)



 



 

 

 

★『聖書』とは? 翻訳とは? −新訳(聖書協会共同訳)に思うこと−

 『聖書』の新しい翻訳が行われ、旧約・新約合わせて、先ごろ出版されました。1987年の新共同訳から31年ぶりとのことです。「聖書協会共同訳」と銘打たれています。

 帯に「ゼロから翻訳」とありましたので、興味深く手に取りました。まだところどころ読んだだけですが、訳文は新共同訳とけっこう変わっているようです。装丁も、これまでとは違います。

 出版にこぎつけるまで、大変なご苦労があったことと思います。そのことを踏まえたうえで、とりあえず、簡単に素人の感想を述べさせていただきます。原典の言語(ヘブライ語ギリシア語)がわかりませんので、翻訳について云々できる立場ではないのですが。

     *     *     *     *     *

◆3つの訳を比較してみると

 「新約聖書」の部分を、新共同訳(1987)と比較してみました。1か所だけ、取り上げてみます。

 「マルコによる福音書」14章のゲツセマネの祈りの一節は、次のように違います。

A 今回の聖書協会共同訳

  【イエスはひどく苦しみ悩み始め、彼らに言われた。】

B 新共同訳

  【イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。】

 以前、新共同訳を読んだ時、『「もだえ始め」? ちょっと変だなあ』と思ったものです。


 同じ一節を、原文に忠実と言われる、別の訳でみてみます。

C 田川建三

  【そして驚愕、困惑しはじめた。そして彼らに言う。】

     [田川建三新約聖書 訳と註 1』(作品社、2008)]

 田川訳は、A・Bとはかなり違っています。


 Cが原文に可能な限り忠実だとすると、今回の共同訳もかなり意訳されていることになります。([田川建三新約聖書 訳と註』全7巻は、昨年、毎日出版文化賞を受賞しました。)

 今回の訳には、ところどころに「直訳」や「別訳」も載っていて、良心的です。ただ、引用したAの文章には、「直訳」も「別訳」も載っていませんでした。底本の選び方も関係しているのでしょうか?

 序文に「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指した」と書かれていますので、あるいは原文に即していないところがあるのかも知れません。

 以上、ある一節を3つの訳で比較してみました。これだけでも、『聖書』翻訳の大変さがわかります。

 なお、これら以外にも、『ウルガタ』(ラテン語訳聖書)の翻訳を含め、複数の訳があることは承知していますが、すべてを比較・検討したわけではありません。


◆「格調高く美しい日本語訳」?

 今回の『聖書』を何割の教会で使うことになるのかわかりませんが、「礼拝での朗読」は大切でしょう。何よりも、『聖書』はクリスチャンのためのものですから。

 ただ、「格調高く美しい日本語訳」という表現は、どうなのでしょうか? 「格調高く美しい日本語」が自明なものであるかのように使われています。考え過ぎかもしれませんが、ナショナルなものに親和的というか、無自覚になっているように思われます。戦前・戦中の時代なら歓迎された表現だと思いますが。

 「格調高く美しい日本語」は、自明なものではないでしょう。固定したものでもないでしょう。日本語は変化してきましたし、これからも変化していきます。日本語も日本文化も、他の文化といっそう混交する時代になってきていることを考えると、安易に「格調高く美しい日本語」などという表現を使ってほしくなかったと思います。

 別の問題もあります。そのような日本語で『聖書』と信徒の情緒的一体感を高めようとするのであれば、もう一つの危うさを招くような気がするのです。情緒的一体感を追い求めると、『聖書』の各部分の歴史性や多様性が見失われることになるのではないか、などと余計な心配をしてしまいます。


◆非クリスチャンにとっての日本語訳は

 『聖書』はクリスチャンのためのものですが、クリスチャンの少ない日本での『聖書』翻訳・出版であることも、考える必要があります。

 クリスマスはなぜか定着しているものの、日本人の99%近くはクリスチャンではありません。したがって、<非クリスチャンにとっての『聖書』>という視点も欠かせないと思います。<教養としての『聖書』>という流行りの言い方は、ちょっと違和感がありますが。

 私のような非クリスチャンは、「聖なる書物」としてではなく、歴史上の重要文書として『聖書』を受けとめています。歴史上の重要文書と考えれば、必ずしも「格調高く美しい日本語訳」でなくてもいいように思います。むしろ、<原文に忠実な日本語訳>が求められるでしょう。

 大切なのは、『聖書』を通して、現代の日本とは異なる時代・地域を生きた人々の世界を理解しようとすることだと思います。そのためには、<原文に忠実な日本語訳>と<適切な註>が必要です。

 原文に忠実であれば、ごつごつした手触りを感じさせるような訳文であっても、差支えないのではないでしょうか。そのような『聖書』であっても、と言うより、そのほうが原文の本質を表しているのであれば、『聖書』のメッセージがより確かに伝わるのではないかと思います。


◆「変わらない言葉」という問題

 今回の聖書協会共同訳『聖書』の帯には、「変わらない言葉を変わりゆく世界に」と記されていました。もしかしたら、この言葉で『聖書』に惹かれる方もいるかも知れません。

 <本質的に「変わらない言葉」(=普遍)>という意味だと思います。「変わりゆく世界」とは異なる<『聖書』の普遍・ロゴス>が、考えられているのでしょう。

 ただ、「変わらない言葉を変わりゆく世界に」は、実はさまざまな問題を含んだフレーズです。

 たとえば、『旧約聖書』・『新約聖書』の成り立ちに関わる問題です。どちらも、長い年月をかけ、諸文書がまとめられてできたものです。成立の過程を歴史的・理性的にたどれば、『聖書』全体を<「変わらない言葉」=普遍>と主張するのは適切ではないことがわかります。むしろ、諸文書の歴史性と多様性こそが『聖書』の魅力だ、と言えるような気がしているのですが。

 もちろん、このような見方は、多くのクリスチャンにとっては受け入れ難いものでしょう。しかし、このような見方を退ければ、クリスチャンはかえって困難な問題にぶつかるように思われます。「聖なる書物」として無条件に崇拝すれば、みずから否定する、偶像崇拝的な考え方に限りなく近づくことになってしまうからです。

 また、自覚されてはいないと思いますが、「格調高く美しい日本語訳」という表現でナショナルなものに共感し、それを称揚しながら、同時に<普遍・ロゴス>を唱えるのは、明らかな矛盾です。<普遍・ロゴス>は、日本においては、日本語という個別の言語で伝えられるしかありませんが、だからこそナショナルなものに自覚的でなければならないと思います。

 またそこには、一神教と日本の精神風土(アニミズム的な多神・多仏世界)との関わりという大きな問題が、潜んでいるように思われます。アニミズム的な多神・多仏世界は、「無常」感とも結びついてきました。「変わりゆく世界」とは、よかれ悪しかれ、日本人が「無常」という語で慣れ親しんできたものにほかなりません。

 「無常」を受けとめながらも、私たちは、やはり、「変わらない言葉」を求めていると思います。<普遍・ロゴス>と呼べるようなものを、唯一神への信仰や多神・多仏世界とは少し別のところに探すのは、けっこう大変ですけれど。

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 『聖書』は歴史上きわめて重要な書物ですし、独特の魅力を持っていることも事実です。

 「『聖書』の歴史性と魅力を正しく伝える翻訳とは?」という問いは、専門の研究者の方々にとって、切実なものだと思います。

 この問いを、『聖書』に関心を持つ非クリスチャンも、避けることはできません。当たり前のことですが、ほとんどの場合、クリスチャンにも非クリスチャンにも、『聖書』は翻訳を通してしか伝わらないのです。

 もし、適切でない意訳や誤訳の多い『聖書』が「聖なる書物=変わらない言葉」として流通してしまったら、そして多くの人々がそれに気づかなかったとしたら、もう悲劇としか言いようがないでしょう。

 今回の聖書協会共同訳がそのような『聖書』でないことを、切に願っています。

  

 

世界史 こんな「考える授業」をしてみました ⑪ 【アレクサンドリアと『聖書』翻訳】

◆「アレクサンドリアと『聖書』翻訳」というタイトルには、多くの方が違和感を感じるかも知れません。

◆世界史では、アレクサンドリアは、アレクサンドロス大王プトレマイオス朝とだけ結びついています。しかも、一般に、ヘレニズム時代は軽い扱いです。

◆そのため、プトレマイオス朝の滅亡(前30)[=ヘレニズム時代の終了]とともに、アレクサンドリアは視界から消えてしまいます。

◆しかし、前30年に「ヘレニズム時代」が終了しても(ローマの時代になっても)、「ギリシア語文化の時代」は続いていました。王朝や国の興亡だけで、歴史全体を区切ることはできないのです。

◆このことを理解できないと、『新約聖書』がなぜギリシア語で書かれたのかも、わからなくなります。

◆また、専門的な宗教史は別ですが、通常の世界史では(科目「倫理」でも)、アレクサンドリア(ヘレニズム)とユダヤ教キリスト教ヘブライズム)とを結びつけて理解するのは、かなり難しいと思います。

◆しかし、実際の歴史は違います。いろいろな原因があるのでしょうが、キリスト教の成立については、歴史の本当のすがたが見えにくくなっています。

◆今回も、いくつかの歴史的事実を突き合わせながら、歴史の見方を更新することを目指しています。

◆今回の授業は、カルチャーセンターで行ったものです。新科目「世界史探究」のことも考えながら書いていますが、高校では、このテーマに多くの時間を割くことは難しいかも知れません。その場合は、重要だと思われる事項をいくつか拾い上げて、授業に生かしていただければと思います。

◆また「倫理」の授業にも役立てていただければ、うれしいです。


【授業での取り上げ方】

 質問の後は、少し時間をとって、受講者に考えてもらいます。もちろん、話し合う時間をとるのがベストです。なお、板書は適宜行います。


<前おき・問1>

 今日は、アレクサンドリアから考えます。

 前30年にプトレマイオス朝が滅びても(ローマの支配になっても)、アレクサンドリアは国際都市としてギリシア的な文化の中心であり続けました(だいたい4世紀までです)。

 このアレクサンドリアで、紀元後1世紀に完成した、重要な文化的事業があります。それは、次の①〜④のうち、どれでしょうか?

 ① ホメロスの『オデュッセイア
 ② 『新約聖書』編集
 ③ ムセイオン(王立研究所)建設
 ④ 『(旧約)聖書』のギリシア語訳

<正解・解説>

★正解は④です。

★①は前8世紀で、アレクサンドリアとは関係がありません。②と考えた人が多いかも知れませんが、『新約聖書』の完成は4世紀です。③は前3世紀初めです。

★④は、『七十人訳ギリシア語聖書』と呼ばれているものです。初めて聞いたと思います。ヘブライ語からの翻訳が前3世紀に始まり、後1世紀に完成しました。400年にわたる、大変な作業でした。

★この翻訳作業はどんな意味を持っていたのか、今日はこのことを考えてみます。


<問2>
 ところで、④で、「(旧約)」とカッコで書いてあるのはどうしてか、わかりますか?

<正解・解説>

★前3世紀から後1世紀という時期ですから、『新約聖書』はまだ成立していません。つまり、この頃は、『聖書』と言えば一つしかありませんでした。ユダヤ教の『聖書』です。そのため()をつけました。

★もう少し説明します。2〜3世紀からキリスト教徒が、ユダヤ教の『聖書』を『旧約聖書』と呼ぶようになっていきます。自分たちの宗教を、明確に「新しい契約」と考えるようになったからです。キリスト教徒にならって、現在も一般的には『旧約聖書』と呼んでいます。しかし、現在のユダヤ教徒にとっても、あくまで『聖書』です。「旧約」ではありません。


<問3>

 今の説明でわかるでしょうか。アレクサンドリアのどういう人たちが『(旧約)聖書』をヘブライ語からギリシア語に翻訳したのでしょう?

<正解・解説>

ユダヤ人です。

ユダヤ人という語からは、パレスチナイェルサレムを思い出すでしょう。ヘレニズムのところでも簡単に触れたのですが、ヘレニズム時代には、一時期を除き、もうパレスチナユダヤ人の国家はありませんでした。

★そのため、ヘレニズム時代には(ヘレニズム時代は300年もありました)、東地中海世界のあちこちに、ユダヤ人が住むようになっていたのです。当時の国際都市アレクサンドリアにも、ユダヤ人がたくさん住んでいました。

ギリシア語についても、確認しましょう。ヘレニズム時代には、シリア・パレスチナ・エジプトまで、ギリシア語が広まっていたのでした。広くオリエントまで、ギリシア語文化圏ができていたのです。

★そして、ユダヤ人にも、ギリシア語が広まっていました。ギリシア語を話し、読み書きするユダヤ人が、東地中海世界一帯に多数いたのです。

★一方で、ユダヤの文化的伝統が失われることに危機感を持った知識人たちもいました。

アレクサンドリアに移住したユダヤ人たちも、何代か経過するうち、ギリシア語を話すようになっていました。その人たちのために、知識人たちは『(旧約)聖書』をヘブライ語からギリシア語に翻訳したのです。また、支配層のギリシア人に、ユダヤの文化的伝統のすばらしさを知らせる目的もあったと思います。

★このことは、初期のキリスト教にとっても、たいへん重要な意味を持つことになります。



<問4>

 そこで、『新約聖書』のことも確認しておきます。『新約聖書』は何語で書かれたのですか?

<正解>

ギリシア語でした。四福音書パウロの手紙は、1世紀にギリシア語で書かれました。(最終的にまとめられたのは4世紀です。)



<問5>

 では、まとめに入ります。

 『新約聖書』がギリシア語で書かれたことと『七十人訳ギリシア語聖書』が完成していたことととを考え合わせると、キリスト教成立のようすがよくわかります。

 キリスト教は、どのような文化圏の中で成立したことになりますか? 

 もう少し具体的に聞きます。キリスト教は、どんな文化圏を母体としながら、どんな文化圏で成立しましたか?

<正解・解説>

キリスト教は、ユダヤ教ヘブライ語)文化圏を母体としながら、ギリシア語文化圏で成立した」ということですね。

★1世紀には、ギリシア語に翻訳された『(旧約)聖書』がありました。したがって、福音書を書いた人たちは、ギリシア語に翻訳された『(旧約)聖書』を読んでいたのです。また、初期のキリスト教徒は、ギリシア語で書かれた福音書パウロの手紙などとともに、ギリシア語に翻訳された『(旧約)聖書』を読んでいたわけです。

★これは何を意味するでしょうか? ユダヤの文化的伝統が、ギリシア語に翻訳されたかたちで、非ユダヤ世界に伝わったということです。つまり、ユダヤの文化的伝統が非ユダヤ世界(ギリシア語世界)にも開かれ、それを変容・発展させるかたちでキリスト教が成立した」ということになります。

★このことが、『新約聖書』とともに『旧約聖書』をも聖典とすることにつながりました。こうして、『旧約聖書』の「アダムとイヴ」や「バベルの塔」の物語が、やがてヨーロッパ中に広がることになったわけです。『七十人訳ギリシア語聖書』は、キリスト教の成立過程で大きな役割を果たしました。

★「翻訳が果たした歴史的役割」については、『新約聖書』・『旧約聖書』のラテン語訳(400年頃)でも触れます。また、イスラーム世界でも中世ヨーロッパ世界でも出てきますので、注意しておいてください。

★なお、アレクサンドリアの教会は五大教会の一つになりました。アレクサンドリアは、ヘレニズム都市の要素を残しながら、キリスト教公認(313)の時期から、キリスト教都市になっていきました。



◆やや難しく感じられたかも知れませんが、『七十人訳ギリシア語聖書』以外は、高校世界史の知識の範囲内で理解できるよう構成したつもりです。

◆今回のような授業のかたちをとらなくても、「初期キリスト教が、限定されたユダヤ教ヘブライ語)文化圏から生まれながら、広範なギリシア語文化圏で成立したこと」は、明確に伝える必要があります。

キリスト教は、広範なギリシア語文化圏で成立・発展しました。その際に『七十人訳ギリシア語聖書』が大きな役割を果たし、ユダヤの文化的伝統がキリスト教の中に流れ込んだのです。

◆なお、初期キリスト教史の重要な出来事に、ニケーア公会議(325)があります。激論を交わしたアタナシウスとアリウスですが、2人ともアレクサンドリア教会の聖職者でした。アレクサンドリアは、初期キリスト教の中で重きをなしたのです。

アレクサンドリアが最終的にギリシア的文化の中心でなくなったのは、5世紀初めのことです。多神教の文化の中心と見なされたムセイオンが、キリスト教徒によって襲撃されたのでした。数学者で新プラトン主義者でもあった女性、ヒュパティアは虐殺されました。(このような歴史を知っておくことも大切です。歴史は多角的に見なければなりません。)


【参考文献】

 秦剛平七十人訳ギリシア語聖書入門』(講談社選書メチエ、2018)

 上村静『旧約聖書新約聖書』(新教出版社、2011)

 田川建三『書物としての新約聖書』(勁草書房、1997)

 E.M.フォースターアレクサンドリア』(晶文社、1988、現在はちくま学芸文庫


今回触れなかったアラム語については、次の記事で書いています。➡<問いからつくる世界史の授業>古代【イエスのことば・聖書の言語】

世界史 こんな「考える授業」をしてみました⑩【ルネサンスからバロックへ】

ルネサンスからバロックへの変化は、それほどわかりやすいものではありません。世界史の教科書でも、ルネサンスからバロックへの移り行きは、明確には述べられてこなかったと思います。

◇教科書では「17世紀にはバロック美術が盛んになった」と述べられているだけです。また、王権との関わりで述べられることが多いため、ルネサンスからの変化は等閑視されてしまいます。

◇なぜこのような状態が続いてきたのでしょうか? 分担執筆のためもあるでしょう。ただ根本的には、別の問題があるように思われます。

◇長らく世界史は、政治史、社会経済史、国際関係史、文化史などの「接着」で成り立ってきました。特に、<政治史、社会経済史、国際関係史>と<文化史>が分断傾向にあるため、美術史・思想史などの成果が、教科書記述にあまり取り入れられていないのです。

◇新課程の「世界史探究」は、このような状況を改善する科目となるでしょうか?


◆以上のような問題意識から、今回は、「1枚の絵を手がかりに、ルネサンスからバロックへの移り行きを考える授業」を紹介してみます。


【授業での取り上げ方】

◆資料として、1枚の絵を提示します。

  〇絵は、カラヴァッジョの「ロレートの聖母」です。

   [申し訳ありませんが、画像は他でご覧ください。]

  〇最初は、画家名とタイトル以外は伝えません。生徒たちによく見てもらい、感想を述べてもらいます。

◆次に、絵のサイズ、制作年(1606頃)を伝え、「ロレートはイタリアの巡礼地で、巡礼者の前に聖母が顕現した場面が描かれていること」を説明します。

◆また、カトリックプロテスタントのどちらの立場で描かれたか、考えてもらいます。この時、トリエント公会議(1545〜63)で聖画像の宗教的役割が確認されたことを復習します。カラヴァッジョの「ロレートの聖母」は、カトリック改革(対抗宗教改革)のうねりの中で制作されたのでした。(したがって、制作年も重要になります。)

◆さらに、ルネサンスラファエロの聖母子像と比較し、「ロレートの聖母」の特徴を考えてもらいます。ドラマチックで感情に訴える表現、光と闇の強いコントラストに着目させます。

◆まとめとして、「カラヴァッジョのこのような表現が、17世紀ヨーロッパの画家たちに影響を与え、バロックという新しい美術様式につながっていったこと」を説明します。

◆大きく見れば、「プロテスタントの形成とカトリック改革の中でルネサンスは終わり、カトリック圏から新しい絵画表現が生まれていった」という流れになります。


◇私の場合、この授業は、カトリック改革の最後に位置付けています。

◇今回の授業では触れていませんが、次のことも重要です。

 ・ルネサンス後、宗教画から風景や静物が独立して、風景画や静物画が生まれていったこと。

 ・この流れは、産業社会の成立・進展とも関連しながら、19世紀の印象派、ポスト印象派までつながっていくこと。

◇「文化史の学習が作者と作品名の暗記になってしまう」という現状を改めなければなりません。文化を当時の歴史全体の中に位置づけて教える必要があります。今回の授業は、そのような試みの一つです。


【参考文献】

 高階秀嗣『誰も知らない「名画の見方」』(小学館101ビジュアル新書、2010)

 宮下規久朗『聖と俗』(岩波書店、2018)

 宮下規久朗『もっと知りたいカラヴァッジョ』(東京美術、2009)

世界史 こんな「考える授業」をしてみました⑨【ヘンリ8世の首長「法」】

◆16世紀イングランドの首長法をどのような歴史的文脈で教えるかは、大変重要です。

◆「エピソード紹介型授業」に傾斜すると、次のような内容になりがちです。

 <ルターやカルヴァンと違い、イギリスの宗教改革は国王の私的な離婚問題から始まった。>

◆一見、問題はなさそうです。ヘンリ8世の6度の結婚なども話すと、宗教改革としてはかなり軽い扱いになります。

◆このような説明では、本質に触れることはできないでしょう。私の授業では、まず、この時期はイングランドという国名を使っています。次に、キャサリン妃との離婚問題は、むしろ公的な問題として扱っています。(そうでなければ、トマス・モアの処刑は単なる私怨になってしまうでしょう。)

◆教科書では分けて叙述されることが多いのですが、宗教改革主権国家形成を統合的にとらえることが大切です。言い換えれば、首長法をイングランド主権国家宣言として位置付けることが必要です。

◆以下に紹介するのは、そのような観点からの「考える授業」です。


【授業での取り上げ方】

 ◇ヘンリ8世の首長法で、イングランドローマ・カトリック教会からの離脱を決めました。この「法」に注目してください。王令や勅令ではありませんね。

 ◇この後出てくるフランスでは、(教科書や図表で確認させながら)ナントの「王令(勅令)」となっていますね。イングランドでは首長法です。エリザベス1世の時も統一法です。

 ◇なぜ、イングランドでは「法」なのでしょうか?


■このような問いかけを通して、世界史の勉強が決して「暗記」ではないことを、生徒たちに伝えることができると思います。

■この問いかけの後の授業展開はいろいろな形が考えられますが、ポイントは、イングランド宗教改革が議会での立法を通じて行われたことに気づけるかどうかです。

■まとめとして、次のことを伝えています。

 イングランドでは、国王・側近・議会が連携して、ローマ・カトリック教会からの分離を決定したこと、それはとりもなおさずイングランド主権国家宣言であったこと。

主権国家としての経済的基盤にも触れておかなければなりません。また、イングランドにおける議会の歴史を確認することも大切です。


◇高校世界史の枠を越えることになるかも知れませんが、発展的な問いもあります。

◇<17世紀の内戦(いわゆる「ピューリタン革命」)〜名誉革命(国教会体制・立憲君主政の確立)>の時期を理解するためにも、欠かせない問いになります。統一法以後、なぜピューリタンが増えていったのか、という問いとも重なっています。

◇今回は、問いを提示するだけにとどめておきたいと思います。

 <イングランドの人々の間には、どのような宗教的心性が形成されていたのか?>



【参考文献】

 近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書、2013)

 川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣、2000)