藤野の散文-菖蒲・蛍・ラベンダー このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-08-21 私は自分で考えているか。

[]オリジナルとは何か。 オリジナルとは何か。を含むブックマーク オリジナルとは何か。のブックマークコメント

子供の頃によく「自分で考えなさい」と言われた記憶がある。
多分小学生のころだ。
今では知的財産とか、著作権という言葉をよく聞くようになった。
そこでだ。

「自分の考え」とはそもそもなんだろう。
ただ「自分だけの気持ち」というのならまだ分かる。
それが「自分だけの思考」だとしたら厄介である。

それって本当に自分の考えだったか?
実は親や友人や先輩から言われたことの「焼き直し」じゃないか?
いやいや、そもそもの古人の伝承が元ではないのか?

自信を持って考えたつもりの「自分の意見」はただの好き嫌いにしても「本当に自分の意思かどうか」と言われると至極不安である。

"○○先生に薫陶を受け"とよく言うが、その先生の影響は少なくなかったりする。
物の善悪とか価値観に関わる「もの差し」のようなものを授かっている場合も多いからだ。

自分だから、の思考って何だろう?

それはともかく。
月に一度、いや年に一度くらいは「この一ヶ月自分なりに考えられたのかな?」と振り返ってみることはどうだろうか。
自分の本能とか、自分の信条とかに「大まかには外れていないか」というような原点回帰の目を持ってははどうだろうか。
年末とかお盆とかいう時期には、そういうことがやりやすいと思う。

お盆に自分を振り返る。
で、一年の計は元旦に…というのはいかがでしょうか。


糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・二日間、ずうっと家にいた。
昨日の夕食にタクシーで出かけたけれど、
それ以外は、まったく家から出なかった。
事情があって閉じ込められている人は、
外に出たいなぁと思うのだろうけれど、
いまのぼくは、じぶんの勝手で外に出ないだけだ。
なんだか、こういうことをしようと思って、
今年の夏は、京都に来ているような気もする。

・よく、じぶんの頭で考えなきゃダメだと言われる。
それについては、ぼくもまったく大賛成だ。
知識の量だとか、語彙の豊富さだとかに関係なく、
じぶんの頭で考えたことというものには、力がある。
幼いこどもの必死の言いわけなんかが
説得力を持つのも、じぶんの頭で考えたものだからだ。
大人で、いかにもたくさんものを知ってるような人の、
じぶんの頭で考えたと思えないご意見などについては、
これがまったく心にも響かないし、
その人ともっと話そうという気にもなれない。
そう言ってるおまえはどうなのだ、とつっこまれたら、
「どっちの場合もあるけどねー」と答えようかな。

じぶんの頭で考えてないなということは、
けっこう他人にもバレてしまうものだ。
どうしてそうなるかと言えば、おそらくだけれど、
「考えているべき時間を惜しんで、
手早く答えのようなものを探してしまうから」だ。
考えるということは、右往左往したり停滞したりの
あんまり利口そうじゃない時間を費やすものだ。
そこを避けて、だれかの言った正解っぽいものを、
すっと借りてじぶんの口から言ってしまうと、
じぶんの頭はけっきょく、選ぶことに使うだけになる。
そういう人どうしが集まったら、
さらにその傾向は強まるのだろうとも思う。

なにも「ことば」を得られない場所にいさせられたら、
人は、じぶんの頭で考えざるを得なくなって、
ほんとうに考えるということをはじめるのではないか。
だれでも、一度、そこからスタートしたほうがいい
…のかもしれないと考えたりしている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
世の中には、考えないままで強く言ってることが多いよね。

2018-08-20 Faxのなくなるとき。

[]若者の優位。 若者の優位。を含むブックマーク 若者の優位。のブックマークコメント

固定電話もなくなりつつある。
Faxもいつまであるだろうか。
何より今の新入社員はそんな機器を知らない人さえいる。
テクノロジーの進化が「最も急勾配」な現在、もう30年前の感覚は、今の十代の感覚ではなさそうだ。

これから上の世代を生きることになる立場の私達は、謙虚に若者に学びを乞う姿勢を持つ必要があるのではないかと思います。

「単なる知識の量」での勝負がほぼなくなりつつある今に、「それ以外の競争力」を自分たちはどれほど持っているか。
さらに背後からはAIがどんどんパターン化をして追い上げてくる。
今までの自分たちの時間の使い方を、根本的に覆してこれからの世代は生きていくのかもしれない。

知識やデータが最重要ではない時代に、いよいよ自分たちは直面しつつある。
若い人の行動様式を注意深く観察しておく必要がありそうだ。

なぜいつの時代でも若い世代は上の世代より優秀なのか? --- 黒坂 岳央
こんにちは!肥後庵の黒坂です。

「最近の若いものはバカだ!」

このようなセリフはいつの時代にもずっとあるものです。しかし、先日「若い世代は上の世代より常に優秀である 」と主張している人物がおり、主張の全てではないにしろ部分的に共感できる部分がありましたので、今回取り上げたいと思います。

社会人になると、「仕事や人生の知恵は、人生経験豊富な年配者に教わりなさい」と言われるものですが、逆に優秀な若い人 に頭を下げて教えを請う必要性も感じるのです。

なぜ若者と上の世代で差がつくと考えるのでしょうか?その根拠を下記の通り展開します。
人類のIQは時代の流れとともに向上している

「人類のIQは時代の流れとともに向上している」とアメリカシカゴ大学のジェームス・フリン教授はTEDの中で主張しています。100年前の人の平均的な知能指数は現代の基準でいえば70程度、逆に現代人の知能指数を100年前の基準で測ると130になると言っています。IQ130といえば会員の知能指数レベルです。このように年数を経るごとに人類が賢くなる現象を「フリン効果」といいます。

なぜIQが向上するのか?フリン教授やその他専門家の主張によると、「問題や課題の分類化が促進され、また論理を持って抽象概念を取り扱う思考習慣を持つことにより、IQテストの「分類・類推能力」が問われる分野のスコアが向上したことによる」とあります。また、「これからはモバイルデバイスから提供される多くの情報を短時間に処理する習慣により、情報処理能力が向上する」とみる科学者もいるのです。なるほど、納得が出来る主張だと感じます。

ビジネスの現場に目を移すと、アイデアやひらめきといった抽象的なものを、プレゼンテーションというツールでパートナーや大衆に分かりやすく伝えるメッセージ力が重視される場面はいくらでもあります。こうしたビジネスや生活環境の変化により、必要に迫られた結果として現代人は昔に比べてIQの向上があったと考えます。

教育水準の改善も知性向上に寄与

また、教育水準の向上は紛れもなく、現代人の賢さに寄与したと考えていいでしょう。

今の学生はとてもうらやましい学習環境にあると思わされます。例えば数学で学習する抽象概念を学ぶにあたり、私の義務教育時代では本や身近な教師からしか学ぶ手段がありませんでした。これはひとたび躓いてしまうと、独力ではなかなか立ち上がることは難しい状況を意味します。

しかし、今はネットで検索すれば優しく丁寧に図解入りの解説が無料で手に入りますし、動画でわかりやすく教えてくれる教師を見つけるさえとても簡単にできてしまいます。ットの力を活用することにより、勉強への意欲さえあれば独学でも極めて高度な教育を無料で受けることが出来る素晴らしい時代 になっているわけです。独習における引っかかりを取り除く手段の獲得したことでIQ向上に寄与したのではないでしょうか。

何よりデカい世代間のリープフロッグ現象

しかし、これまでお話をしてきたもの以上に、世代間のIQに大きな差をつける要素があると私は考えています。それは「世代間におけるリープフロッグ現象」です。

リープフロッグとはいわゆる、「蛙跳び」と呼ばれるもので、技術革新により、新しい技術を取り入れた体制が一気に飛躍することを意味します。例えば中国東南アジアでは固定電話回線のインフラ整備が整う前に、携帯電話が入ってきました。既存の通信産業との摩擦や、法規制の影響を受けなかった中国では携帯電話が一気に普及しました。

これは固定回線から徐々に携帯電話へと移行していった日本とはかなり対照的です。アメリカや日本などは既存のサービスとの摩擦があるため、法改正を待たなければならず、それにより先進的なテクノロジーの普及が遅れるといった現象が見られます。中国はいきなり携帯電話が一気に普及したために、多くの国民が携帯電話を持ち、それにより中国はスマホによる電子マネー決済やシェア自転車などの先進国になりました 。

このリープフロッグ現象は一般的には国家間に見られる差異ですが、「世代間のテクノロジーへの受容度」の違いにも当てはめて考えることが出来ます。例えば上の世代はテクノロジーの変遷を経験してきています。電話を例に上げると、最初は固定電話、FAX、ガラケーそしてスマホと移り変わっていっています。そして、上の世代は使っている機器がバラバラです。

“未だに固定電話しか持っていないおじいちゃん”

“ガラケーを使い続けてスマホを持たないおばさん”

取引先やご近所との連絡手段がFAXのおじさん”

本当に様々です。しかし、今の若い人は物心をついたときから携帯電話があったので、思春期にいきなりiPhoneAndroidスマホなどの最新テクノロジーに触れることになります。若者はFAXや固定回線といったレガシーテクノロジーの概念を持っていないのです。最新スマホを使う先で提供されている商品やサービスもまた、先端のテクノロジーの結果生み出されたものですから彼らは常にcutting edge最先端)な技術に触れ続ける事になります。これが世代間のテクノロジーへの受容度の違い、引いては「賢さ」につながっていると考えます。

先端のテクノロジーは常に効率的である

例えばテキストによるコミュニケーション を考えてみて下さい。テキストによる連絡手段にFAXを用いる世代はまだまだ多くいます。FAXでコミュニケーションをするには、手書きで原稿を書かなければいけませんし、先方にFAXが確実に届いているかを確認するため、「FAX届いた?」という電話によるフォローアップを余儀なくされます。また、送信の度に通信料を払うことになります。これはコスト高で、手間も時間もかかるコミュニケーション手段です。スマホではなく、ガラケーを使っている世代も「お」や「こ」を入力するためにボタンを5回も押すという「高い入力コスト」を払い続けています。

しかし、最新の入力コストは極めて低くなりました。AIによる音声認識の向上により、現在の最速のテキスト入力手段は「音声入力」です 。音声入力はPCのキーボードの入力速度を遥かに超えており、またインターフェースが物理的に存在しませんから、歩行中や車の移動中にすらテキスト入力ができます。これにより、音声認識によるテキスト入力をするユーザーは入力の手間もコストも排除された極めて効率性の高い情報伝達手段を持っていることになります。

とはいえ、音声入力が効率性に優れているという話を聞いても、FAXユーザーやガラケーユーザーの多くは依然として音声入力にスイッチすることはありません。それは「面倒くさい」という「気持ちの問題」によるものです。心理的なハードルが最新テクノロジーへの障壁となることにより、音声入力が存在する時代を生きていても、既存のテクノロジーを使い続ける上の世代と、リープフロッグにより、思春期の頃から先端のデバイスを使い、テキスト入力に音声認識を使う若い世代との間にはどうしても差が生まれるというわけです。

効率性に圧倒的な違いがある以上、先端のテクノロジーから入ってくる若者世代と、レガシーのテクノロジーを使い続ける上の世代とではどうしても差が生まれてしまうのです。

これからのデジタルネイティブ世代
私の2歳の息子は時々、こんなことをします。私のスマホを手にとって、「ゴミ収集車!」というのです。私がスマホのロックを解除し、YouTubeを起動すると彼は私からスマホを奪い取り、勝手に動画のアイコンをタップしてお目当てのゴミ収集車の動画を探し、見つけると楽しそうに見ています。これには正直、私は驚異を感じました。

この行為、私が2歳の頃とは比べ物にならない違いがあります。2歳にして、「スマホで情報を検索するという概念」を持っているということです。今の幼児は「情報とはモバイルデバイスで検索をして能動的に取りに行くもの」という感覚を持っており、これからも先端のテクノロジーに触れ続けるわけですから、彼が私と同い年になる頃には少なくとも「情報」の分野においては大きな差をつけられてしまいそうです。

これから上の世代を生きることになる立場の私達は、謙虚に若者に学びを乞う姿勢を持つ必要があるのではないかと思います。

黒坂 岳央
フルーツギフトショップ「水菓子 肥後庵」 代表(http://www.higoan.jp/

2018-08-19 弱いウサギの長く大きな耳。

[]日本はディズニーランドになった。 日本はディズニーランドになった。を含むブックマーク 日本はディズニーランドになった。のブックマークコメント

猪瀬さんのコラムより。

73年前の敗戦のあと、日本は軍備の増強に力を入れず、経済成長に専念したため、空前の平和と繁栄を享受した、と一般には考えられている。
この国家戦略は「吉田ドクトリン」と呼ばれている。

結局戦後73年を経て、未だに大戦を総括できていない日本。
もう戦争を知る人も少なく、「原因と結果」については後世のために幾つかの定説が必要だと思う。
(結局自分も戦争を知らない一人だ)

そこで吉田がたどり着いたのが、「弱いウサギは、長く大きな耳を持たなければならない」という考えだった。
つまり独自の情報機関を持ち、情報の力を充実することで国際環境に対応すべきだということだった。

軍部の巨大化と暴走が戦争の緒を作った。
その原因を作らぬためには「情報力がいる」というのは慧眼というしかない。
残念なのは

吉田ドクトリンは、経済成長ということでは成功したかもしれないが、戦前型の巨大な軍ではなく軽武装でしかも自力で国際社会に立っていくという構想の面では未完に終わった。そして、そのまま冷戦の終了を迎えてしまった。

その結果、何が起きたか。
日本はディズニーランドになってしまっていた。
リアルな世界認識、ものの考え方といったものがそこにはない。
だから冷戦終了後、「普通の国」が叫ばれ、小沢一郎が、国連協力軍、PKO、PKFなどといっても、誰もピンとこなかった。

このことについては、三島由紀夫1970年、自決する少し前に予言を残している。

「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」(『産経新聞昭和45年7月7日付)。

原因はわかったような気がするけれど。
だったら自分たちの国はどうにかしなければいけいない。
夢の国が破綻したら、ゼロからの作り直しが待っているだろう。
それがいいのかもしれないけれど。


戦後73年、吉田茂の「軽軍備国家論」から考えるもう一つの敗戦

8/15(水) 11:00配信

写真:現代ビジネス

国家社会主義拒否としての吉田ドクトリン

 73年前の敗戦のあと、日本は軍備の増強に力を入れず、経済成長に専念したため、空前の平和と繁栄を享受した、と一般には考えられている。

この国家戦略は「吉田ドクトリン」と呼ばれている。敗戦後、昭和20年代に7年2カ月にわたり首相の座にあった吉田茂は、旧陸軍の復活を徹底して嫌い、GHQ圧力をはねのけて、現在に至る軽武装国家の道筋を作りあげた。

しかし、これは吉田が当初、構想した通りのものなのだろうか。

吉田が明らかに目指したのは、占領が終わり、GHQが去った後、戦前のような強大な軍隊に頼らず、軽武装でも自立して国際社会の中で生きていける国家構想だったはずだが、実は、それは未完のままではないのか。

戦後すぐ、アメリカソ連による冷戦体制が出来上がり、1950(昭和25)年、まだ日本が占領下の段階で朝鮮戦争が始まったことが一つの契機だった。

マッカーサーの命で、吉田政権は7万5000人規模の警察予備隊を創設した。再軍備の始まりである。その後、GHQは、さらに30万人規模に増強しろと圧力をかけてきた。しかし、吉田はこれには断固、抵抗した。

吉田は、陸軍と共産主義全体主義がなじみやすいと考えていた。

そもそも戦前の大政翼賛会は、簡単に言えば、ソ連やナチス・ドイツと同じように、一党独裁によって、意思決定を早くし、総力戦体制を作りあげていくことを目指したものだった。

だが、大政翼賛会は張子の虎で、日本では政党主導は実現しなかった。

吉田は、基本的には陸軍は国家社会主義的とみていた。その国家社会主義のもつ毒素により、中国で戦線を拡大してしまったり、太平洋戦争をはじめてしまった。英米派であるにとっては受け入れがたい成り行きだった。

マッカーサーに言われたように、朝鮮戦争で再軍備の規模を30万人にしたうえ、大陸に派遣したら、絶対に戦前と同じことが起きてしまう。過去の経験からも大陸派遣軍の統制が効かなくなる。そういう恐れがあったから、マッカーサーであろうが、従うわけにはいかなかった。

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吉田茂、軽武装国家論の本質

 それでは、要するに、吉田の軽武装論とは何であったのか。

経済復興のために軍備に投資をしていられないという事情は一つあった。

けれど、同時に、吉田は国家社会主義嫌いだった。旧陸軍の連中に再軍備をやらせたら、絶対、国家社会主義が復活する。この国家社会主義復権を恐れてマッカーサーに抵抗する。

統制の効かない陸軍が国家社会主義を作り上げてしまうことの怖さをブルジョアである吉田は分かっていた。

経済合理主義よりもこちらの方が大きな理由だった。

しかし、隣国で戦争が起きるような、冷戦対立の最前線にある東アジアで、強い軍事力に頼らず、いかにして自国の自立と安全を確保するのか。講和、主権回復は目前に迫っていた。

そこで吉田がたどり着いたのが、「弱いウサギは、長く大きな耳を持たなければならない」という考えだった。つまり独自の情報機関を持ち、情報の力を充実することで国際環境に対応すべきだということだった。

7万5000人の軍隊はしょうがないが、30万人に増強ずるのは抵抗する。それを埋め合わせるかたちで、日本版CIAを作らなければならない、というところに行き着いた。

日本版CIA構想の挫折

 GHQは占領期間中、参謀第2部(G2)のウィロビー部長が中心になって諜報活動を行い、キャノン機関など工作機関ももっていた。しかし、これらの活動も、占領終了とともに一回おしまいになる。

そこで、その代替をつくる動きが始まった。アメリカは戦後まもなく、大戦中の諜報機関を改編して中央情報局(CIA)を設立しており、それを参考にしようとした。この構想を仮に日本版CIAと呼ぼう。

この日本版CIA構想は、駐英武官の頃から吉田茂と親交があり、対米英開戦反対派だった辰巳栄一・元陸軍中将がウィロビーを吉田に引き合わせるかたちで始まった。

吉田は、この構想を緒方竹虎内閣官房長官に任せた。しかし緒方がこの構想を打ち出すと戦前の復活だとして、一気に反対の世論が広がってしまった。そして構想は国会で潰されてしまう。緒方は、戦時中、小磯国昭内閣で情報局総裁の立場にあった。このイメージが強かったこともマイナスとなった。

結局、設置法を通すことができなかったので、政令内閣官房調査室(のちの内閣調査室)を作ることになった。初代室長はウィロビーたちの推薦もあり、警察官僚の村井順が就いた。

村井は熱意を持って活動したが、しかし、様々な事情で日本版CIAにまで育て上げるには至らず、挫折する。

まず、アメリカのCIAから情報をもらおうとするなら、こちらの組織もバーターできる独自情報を持っていなければならない。

当時は、戦前に大陸にばらまいてあった諜報網がまだ生き残っていた。いうまでもなく、アメリカが一番知りたいのはソ連、共産中国の情報だった。占領期間中は辰巳を始め旧軍関係者が、ウィロビーたちに協力し、情報を供与していた。この中国情報と交換でアメリカCIAから情報提供を受けるというところまで話は進んでいた。

ところが、敗戦前からの遺産は、時がたつにつれ、だんだんと失われていくものだ。結局、時間がかかりすぎたことでアメリカ側から見ての魅力が薄れていってしまった。

そしてもう一つ、決定的なことに日本には秘密保護法がなかった。国家公務員法での取り締まりでは弱すぎる。だから日本は情報漏洩の危険性が高く、情報をバーターできないとアメリカのCIAは判断した。

アレン・ダレス(ジョン・フォスター・ダレス国務長官の弟)がCIA長官だったときのことだ。

次ページは:初代内調室長・村井順、陰謀により失脚

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初代内調室長・村井順、陰謀により失脚

 かなりギリギリまで接点を持ってはいたようだが、最後に村井が政治的にはめられて失脚することで挫折する。

外務省の中にソ連のスパイがいて、海外出張時に村井が偽ドルの大量保持を理由にトラブルに巻き込まれたという情報を流される。当時、日本の官僚機構にソ連に洗脳されたスパイが入っていた。

また、外務省も内調が対外情報の分野に入り込んでくることに、強い警戒感を持っていた。

国際的な情報サークルでバーターできる独自情報の不足、関連法案の不備、縦割りの省庁間の足の引っ張り合い、これらは未だに日本で情報機関を充実させようという際の宿痾となっている。

結局、「弱いウサギは、長くて大きな耳を持つ」という構想は頓挫してしまう。頓挫したまま、今日に至っている。

現在も内調はあるし、警察も、公安調査庁もあるけれど、対外情報については、収集、調査、研究まで。結局、その程度のものしか日本は維持できなかった。他国並みの国際情勢に対する独自情報機関は持てなかったのだ。

そのため、軽武装の代わりに充実した情報能力を備えるという、吉田茂の戦後安全保障構想は完成しなかったといえる。

今も自衛隊憲法上、日陰の身になったままだ。そしてそれを補完するはずの日本版CIAは挫折したまま。

最近になって共謀法成立などといっているが、あの程度の中途半端なものでは、まだ海外の情報サークルの中に入れてはもらえない。

安全保障体制の自立ということについて、安倍首相はいろいろ発言しているが、しっかりと歴史的な総括をして、詰めてしゃべっているとは思えない。

三島由紀夫の予言

 アメリカを始め、国際環境と日本では、情報面で圧倒的な差ができてしまっている。
しかし、それでも日本が戦後、大きな戦争にも巻き込まれず平和を維持できたのは、吉田ドクトリンの軽武装主義や平和憲法のおかげであるという声が未だに日本では強い。

だが、それで平和だったわけではない。あくまで冷戦期だったからである。局地戦争以外の大国同士の軍事的衝突が起きなかったからだ。

吉田ドクトリンは、経済成長ということでは成功したかもしれないが、戦前型の巨大な軍ではなく軽武装でしかも自力で国際社会に立っていくという構想の面では未完に終わった。そして、そのまま冷戦の終了を迎えてしまった。

その結果、何が起きたか。日本はディズニーランドになってしまっていた。リアルな世界認識、ものの考え方といったものがそこにはない。

だから冷戦終了後、「普通の国」が叫ばれ、小沢一郎が、国連協力軍、PKO、PKFなどといっても、誰もピンとこなかった。

このことについては、三島由紀夫が1970年、自決する少し前に予言を残している。

「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」(『産経新聞』昭和45年7月7日付)。

まさにその通りになった。そのまま冷戦崩壊を迎えたときに、世の中が弱肉強食の世界であることについての感覚が日本人はゼロになっていた。

生存本能を喪失しているから、ディズニーランド、つまり仮想世界だといえる。

次ページは:そしてディズニーランド国家が残った

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そしてディズニーランド国家が残った

 振り返ると、日本は古代、飛鳥時代白村江の戦いで敗れ、海外から撤収した後、律令時代に、制度上、軍隊の規定をつくるが、律令自体が厳密には機能せず、事実上、その後、公の対外的な軍隊、つまり国防軍が存在しない国家となった。

平安時代以降に現れる武士の軍団はどこまで行っても私兵、自分の縄張りを仕切るための武力で今の暴力団のような存在だった。

厳密な意味での国防軍が存在しないというのが日本の歴史だったのである。

幕末黒船来航で国防意識が高まり内戦も起きるが、幕府を始めほとんどの藩が国防に役立つ軍を作り得なかった。

欧米列強植民地化を広げていく弱肉強食の世界が、19世紀の世界である。日本は、その中でなんとかかろうじて国家として自主性を、国防軍を育て国民国家となることで確立しようとした。

それまでの歴史を考えると、明治維新から昭和20年までは異例だったことになる。国防という意識が発生して終焉するまで、たかだか80年しかなかった。

戦後は、国防はアメリカに任せることになった。しかし、それでも国際社会の中で生き残れるよう、吉田茂が本当は構想していた、弱いウサギだが長く大きな耳を持つという軽武装国家構想は、じつは挫折している。

冷戦崩壊した段階で諜報機関をつくればよかった。しかし、ディズニーランドのなかでは、そういう意識を持つことはなかった。

安倍首相や、その周辺の右派と呼ばれる人々は、安全保障上の危機感ファナティックにあおっている。だが、それは現実的な歴史理解の上に立ってのことだろうか。

吉田茂が追及した、戦前のあり方と決別した安全保障政策の苦闘を踏まえているならば、別な議論が出てくるはずだ。

しかし、右も左も狭いサークルの中での変な知識だけがグルグル廻っている。あまりのレベルが低くて情けない。これもまたディズニーランドとおなじ、リアルの存在しない世界の中の議論なのである。

現在の日本がどう生きていくかという、リアルな視点はいずれにしてもないのである。

(参考:猪瀬直樹『民警』扶桑社、2016)

2018-08-18 メディアの立ち位置。

[]自分たちの食べ物として。 自分たちの食べ物として。を含むブックマーク 自分たちの食べ物として。のブックマークコメント

ほぼ日より。
久しぶりの糸井さんのメディア論
こういう話がちらっと出るとカミソリのような鋭さがよぎる。

ネット上でいくら文字数を読んでいたとしても、
それが社会の似姿だとは、どうしても思えない。

ネットが週刊誌と違って「社会の似姿」にならなかったところにネットの弱さがある。
同じテキスト文化なのに、それがなぜかわからない。

政治、経済、事件、娯楽、色気、のぞき見、文化、趣味、
「尊敬されなくてもいいから、興味を持たれる」
というくらいの視点で、山積みに盛られているのだ。

週刊誌が一つの「メディア」としてあるというのは、圧倒的にネットの断片記事とかブログとは違うものなのは、やはり「編集長」の有無だろうか。

ネットは、情報の成分に偏りがありすぎるのだ。
それに比べると、色眼鏡ごしとはいえ
ここにはよくも悪くも「社会」があるように見えた。

ネットが「ネットというのは、もしかしたら、ただの
「小袋のポテトチップス」なのかもしれない。」ということなら、やはりファストフードへの傾倒はほどほどにしないと、と思う。
健康上、食べ過ぎはよろしくなさそうだ。
この辺りをこれからのスマホ世代は考える必要があるだろう。


08月14日の「今日のダーリン」

東京じゃなくて京都にいる。
誰かに会う予定もないし、毎日書くこの文章以外には、
逃げ場のない締切りなどもない。
37度とかの暑さでは、外にでるのはやめたほうがいい。
しかも、ニュースで見ていた雷雨も追いかけてきた。
高校野球は、それぞれにおもしろい試合をしてくれてる。
覚悟を決めて「なにもしない」と決めた。
それでも、雷のごろごろいう音を聞きながら、
一瞬だけコンビニに行って氷や飲みものを買ってきた。
そのとき『スポーツ報知』といっしょに
何年も買ってなかった『週刊文春』をかごに入れていた。

週刊誌というのはポテトチップスのようなもので、
これが習慣になると、それを必要とするようになる。
なにが読みたかったわけでもなかったはずなのに、
久しぶりにページを開いたら、妙に感心してしまった。
読みたいことばかりがあるわけじゃないのだが、
とにかく一冊のなかに「人の手」がかかっているのだ。
これだけのページ数を、文章と、写真と、絵と、広告で
いっぱいにするだけでも、たいへんな労力である。
ひとつのテーマやアイディアで、
何ページもつくれるグラフ雑誌ではないので、
正しかろうがまちがってようが、ただの噂であっても
読みきれないほどの数のネタが必要なのだ。
外の作家に依頼しているエッセイの連載などが、
建物でいえば四隅の柱のように安定的にあるのだが、
それ以外は、編集部が考えてつくっているものだろう。
政治、経済、事件、娯楽、色気、のぞき見、文化、趣味、
「尊敬されなくてもいいから、興味を持たれる」
というくらいの視点で、山積みに盛られているのだ。

ネット上でいくら文字数を読んでいたとしても、
それが社会の似姿だとは、どうしても思えない。
ネットは、情報の成分に偏りがありすぎるのだ。
それに比べると、色眼鏡ごしとはいえ、
ここにはよくも悪くも「社会」があるように見えた。
それに、何度も言うけれど、手間がかかっている。
しばらくは「ネットの時代」だとかおだてられていたが、
ネットというのは、もしかしたら、ただの
「小袋のポテトチップス」なのかもしれない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
週刊誌の欠点は、大盛り過ぎて読むのに時間を食うことか。

2018-08-17 二度と悲劇を起こさないために。(5)

[]思考停止の恐怖。 思考停止の恐怖。を含むブックマーク 思考停止の恐怖。のブックマークコメント

哲学者の山口周さんのコラムより。
アイヒマンを分析したハンナ・アーレントのお話。

アイヒマンは、決してユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った(後略)

つまり一番怖いのは「ものを考えずに動くこと」と言えそうだ。
著者はアーレントの言葉を引く。

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

これまで欧米でも日本でも、数々の紛争や摩擦があったけれど。

例えば「法律」。
これは典型的なシステムではないだろうか。
そしてこれまでしばしば「法律」の名の下に戦争や弾圧などの凶行も繰り返されてきた。

日本の戦時中だって法律はあった。
(「この世界の片隅に」を見るだけで分かる)
その法律というシステムを盲信してしまうと、そこから「方向のズレ」が生まれる。

では何が正しいのか。
多分、"時代の価値観"みたいなものに合わせて、「法律というシステムも変えてゆくもの」という認識が大事なのではないかと思う。
今の規制とか、富の偏在とか、社会格差とかには柔軟性を失った「動脈硬化」のようなものを感じる。

法律といえど、どこまで柔軟さを持てるか?というのがこれからの社会のポイントではないだろうか。
きっと「規制」や「既得権益」を取り除いた人たちが先に行くことになると思う。

9割の悪事を「教養がない凡人」が起こすワケ
『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資系コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さん。ビジネスパーソンにとって哲学を学ぶことは、仕事における「悪」とどう向き合うかを考えるときにも、大きな示唆があるといいます。

■二度と悲劇を起こさないために

筆者が、ビジネスパーソンが哲学を学ぶべきと考える理由はいくつかありますが、なかでも重要だと感じるのが「二度と悲劇を起こさないために」というものです。

残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。そして、過去の多くの哲学者は、同時代の悲劇を目にするたびに、私たち人間の愚かさを告発し、そのような悲劇が二度と繰り返されないために、どうそれを克服するべきかを考え、話し、書いてきました。

 一般的な実務に携わっているビジネスパーソンは、それらに耳を傾ける必要があります。なぜなら、教室の中にいる哲学者が世界を動かすことはないからです。サルトルやがかつて発揮した影響力を考えれば、この指摘に違和感を覚える人は多いでしょう。しかし事実です。世界を動かしているのはそういった人たちではなく、実際に実務に携わって日々の生業に精を出している、つまり今この文章を読んでいる皆さんのような人たちなのです。

 世界史的な悲劇の主人公はヒトラーでもポル・ポトでもありません。そのようなリーダーに付き従っていくことを選んだ、ごくごく「普通の人々」です。だからこそ、私たちのような「普通の人」が学ぶことに、大きな意味があるのです。

特に実務家と呼ばれる人は、個人体験を通じて得た狭い知識に基づいて世界像を描くことが多いものです。しかし今日、このような自己流の世界像を抱いた人々によって、さまざまな問題が起きていることを見逃すことはできません。ジョン・メイナード・ケインズは、著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、誤った自己流理論を振りかざして悦に入っている実務家について、次のように記しています。

 知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。

実に辛辣な指摘です。

ここでは具体例として、哲学者・ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」というキーコンセプトを紹介します。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエル秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレム裁判を受け、処刑されます。

 このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

 この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムのアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

「悪の陳腐さ」……奇妙な副題だと思いませんか。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、われわれが一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。

■悪の本質は「受動的」であること

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、

 「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。

 私たちは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、私たちのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在私たちが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかもしれません。

 仮にそのように考えると、究極的には世の中には次の2つの生き方があるということになります。

?現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

?現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方

残念ながら、多くの人は?の生き方を選択しているように思います。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかるとおり、ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の?の論点に沿って書かれたものです。

 こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。

話を元に戻せば、ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものだと思います。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ、とするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。

 凡庸な人間こそが、極め付きの悪となりうる。「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。その可能性について考えるのは恐ろしいことかもしれませんが、しかし、だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならないのだ、ということをアーレントは訴えているのです。私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。

■なぜ日本企業の従業員は「思考停止」してしまうのか?

一方、現在の日本に目を向けてみると、三菱自動車東芝神戸製鋼所、日産自動車など、わが国を代表する企業によるコンプライアンス違反という「悪」が次々に起こっています。

筆者は、これらのコンプライアンス違反を防止するために、多くの企業で取り組まれている罰則規定に始まるルール改定やオンブズマンなどの告発制度の施行ではこの問題を解決できないだろうな、と考えています。

 というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根本的な原因は、企業と従業員の力関係にあると思うからです。

コンプライアンス違反を犯そうとする組織があったとして、当然ながらそれを問題だと思う内部者はいたはずです。ではこのとき、その内部者は具体的にどのようなアクションがとり得たでしょうか?  具体的には次の2つ、

・オピニオン
・エグジット

ということになります。

オピニオンというのは「これはおかしい、やめたほうがいい」と意見する、ということで、エグジットというのは「こんな取り組みには俺はかかわらないよ、やーめた」といって仕事から遠ざかる、あるいは会社を退職するということです。

 この「オピニオンとエグジット」というのは、従業員に限らず、組織がなにかおかしな方向に向かいそうになったときに、その組織の構成員やステークホルダーが取れる抵抗策と考えられます。

■日本企業では、この2つの権利がほとんど行使できない

たとえば株主の場合であれば、経営陣の経営がおかしいと思えば、株主総会で「おかしいだろ、それ」とオピニオンを出すことができますし、何度オピニオンを出しても経営が改善しないということであれば、株を売るということでエグジットすることができます。

 顧客も同じで、売主のサービスや商品に文句があるのであれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも状況が改まらなければ購買を中止するという形でエグジットすることができる。

したがって、健全な組織の運営にはステークホルダーに対して、この2つの権利を行使してもらう自由を与えたほうがいいわけですが……、日本企業でこれがどうなっているかというと、ほとんど行使できないわけです。なぜ行使できないか?  従業員のその企業への依存度が高すぎるからです。

 株主も顧客もエグジットが容易にできるのは、代替手段があるからです。株主であれば別の会社の株を買う、顧客であれば別の企業からサービスや商品を購入すればいい。

しかし従業員はそれがなかなかできない。その組織へオピニオンを出して上司や権力者から嫌われたら?  ほかのオプションがあれば出世の見込みのない組織などさっさとヤメて別の組織に移ればいいわけですが、シングルキャリアでほかのオプションを持たない人にとって、これは非常にリスキーな選択でしょう。エグジットも同様です。

 要するに、雇用流動性が低い、パラレルキャリアを持つ人が少ない。結果「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう。これが、日本でコンプライアンス違反という「悪」を是正させる組織内の圧力が弱い、根本的な原因なのです。

山口 周 :コーン・フェリー・ヘイグループ シニアクライアント・パートナー

2018-08-16 二度と悲劇を起こさないために。(4)

[]システムの矛盾に立ち向かう。 システムの矛盾に立ち向かう。を含むブックマーク システムの矛盾に立ち向かう。のブックマークコメント

哲学者の山口周さんのコラムより。
アイヒマンを分析したハンナ・アーレントのお話。

(ナチスユダヤ人600万人虐殺という)
人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ、とするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。

これは知りませんでしたが、衝撃的である。
なぜなら今の自分たちが「それ」でない保証など何もないから。
そんな「小役人」はどこにでもいる。
というか小役人は悪くない。
「乗っかったシステム」が悪かっただけなのだ。
ここが矛盾だ。

「システムを忠実に動かしながら、しかしシステムそのものを見直すこと」はいかにして可能だろうか。

多分、トップの資質が必要だ。
だが今までの惨事は多くが「トップの暴走」に起因している。
"トップの見張り"はどこまで可能だろうか。

過去の戦争を見ても、企業経営を見ても「トップの監視」と「トップのリーダーシップ」は相反する。
著者は「オピニオン」と「イグジット」がトップを規制する、と説くけれど

これは正に「システムが自分自身をどう規制するか」という問題だ。

システムが暴走しない社会というのは、実は「規制だらけ」でイノベーションなんか起こらない環境
ではないか。
自分たちはこの「システムの矛盾」をどこかで倫理的に折り合いをつけることができるだろうか。
実に哲学的な難問を知ってしまった。

9割の悪事を「教養がない凡人」が起こすワケ
『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資系コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さん。ビジネスパーソンにとって哲学を学ぶことは、仕事における「悪」とどう向き合うかを考えるときにも、大きな示唆があるといいます。

■二度と悲劇を起こさないために

筆者が、ビジネスパーソンが哲学を学ぶべきと考える理由はいくつかありますが、なかでも重要だと感じるのが「二度と悲劇を起こさないために」というものです。

残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。そして、過去の多くの哲学者は、同時代の悲劇を目にするたびに、私たち人間の愚かさを告発し、そのような悲劇が二度と繰り返されないために、どうそれを克服するべきかを考え、話し、書いてきました。

 一般的な実務に携わっているビジネスパーソンは、それらに耳を傾ける必要があります。なぜなら、教室の中にいる哲学者が世界を動かすことはないからです。サルトルやがかつて発揮した影響力を考えれば、この指摘に違和感を覚える人は多いでしょう。しかし事実です。世界を動かしているのはそういった人たちではなく、実際に実務に携わって日々の生業に精を出している、つまり今この文章を読んでいる皆さんのような人たちなのです。

 世界史的な悲劇の主人公はヒトラーでもポル・ポトでもありません。そのようなリーダーに付き従っていくことを選んだ、ごくごく「普通の人々」です。だからこそ、私たちのような「普通の人」が学ぶことに、大きな意味があるのです。

特に実務家と呼ばれる人は、個人体験を通じて得た狭い知識に基づいて世界像を描くことが多いものです。しかし今日、このような自己流の世界像を抱いた人々によって、さまざまな問題が起きていることを見逃すことはできません。ジョン・メイナード・ケインズは、著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、誤った自己流理論を振りかざして悦に入っている実務家について、次のように記しています。

 知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。

実に辛辣な指摘です。

ここでは具体例として、哲学者・ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」というキーコンセプトを紹介します。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエル秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレム裁判を受け、処刑されます。

 このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

 この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムのアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

「悪の陳腐さ」……奇妙な副題だと思いませんか。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、われわれが一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。

■悪の本質は「受動的」であること

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、

 「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。

 私たちは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、私たちのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在私たちが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかもしれません。

 仮にそのように考えると、究極的には世の中には次の2つの生き方があるということになります。

?現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

?現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方

残念ながら、多くの人は?の生き方を選択しているように思います。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかるとおり、ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の?の論点に沿って書かれたものです。

 こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。

話を元に戻せば、ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものだと思います。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ、とするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。

 凡庸な人間こそが、極め付きの悪となりうる。「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。その可能性について考えるのは恐ろしいことかもしれませんが、しかし、だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならないのだ、ということをアーレントは訴えているのです。私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。

■なぜ日本企業の従業員は「思考停止」してしまうのか?

一方、現在の日本に目を向けてみると、三菱自動車東芝神戸製鋼所、日産自動車など、わが国を代表する企業によるコンプライアンス違反という「悪」が次々に起こっています。

筆者は、これらのコンプライアンス違反を防止するために、多くの企業で取り組まれている罰則規定に始まるルール改定やオンブズマンなどの告発制度の施行ではこの問題を解決できないだろうな、と考えています。

 というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根本的な原因は、企業と従業員の力関係にあると思うからです。

コンプライアンス違反を犯そうとする組織があったとして、当然ながらそれを問題だと思う内部者はいたはずです。ではこのとき、その内部者は具体的にどのようなアクションがとり得たでしょうか?  具体的には次の2つ、

・オピニオン
・エグジット

ということになります。

オピニオンというのは「これはおかしい、やめたほうがいい」と意見する、ということで、エグジットというのは「こんな取り組みには俺はかかわらないよ、やーめた」といって仕事から遠ざかる、あるいは会社を退職するということです。

 この「オピニオンとエグジット」というのは、従業員に限らず、組織がなにかおかしな方向に向かいそうになったときに、その組織の構成員やステークホルダーが取れる抵抗策と考えられます。

■日本企業では、この2つの権利がほとんど行使できない

たとえば株主の場合であれば、経営陣の経営がおかしいと思えば、株主総会で「おかしいだろ、それ」とオピニオンを出すことができますし、何度オピニオンを出しても経営が改善しないということであれば、株を売るということでエグジットすることができます。

 顧客も同じで、売主のサービスや商品に文句があるのであれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも状況が改まらなければ購買を中止するという形でエグジットすることができる。

したがって、健全な組織の運営にはステークホルダーに対して、この2つの権利を行使してもらう自由を与えたほうがいいわけですが……、日本企業でこれがどうなっているかというと、ほとんど行使できないわけです。なぜ行使できないか?  従業員のその企業への依存度が高すぎるからです。

 株主も顧客もエグジットが容易にできるのは、代替手段があるからです。株主であれば別の会社の株を買う、顧客であれば別の企業からサービスや商品を購入すればいい。

しかし従業員はそれがなかなかできない。その組織へオピニオンを出して上司や権力者から嫌われたら?  ほかのオプションがあれば出世の見込みのない組織などさっさとヤメて別の組織に移ればいいわけですが、シングルキャリアでほかのオプションを持たない人にとって、これは非常にリスキーな選択でしょう。エグジットも同様です。

 要するに、雇用流動性が低い、パラレルキャリアを持つ人が少ない。結果「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう。これが、日本でコンプライアンス違反という「悪」を是正させる組織内の圧力が弱い、根本的な原因なのです。

山口 周 :コーン・フェリー・ヘイグループ シニアクライアント・パートナー

2018-08-15 二度と悲劇を起こさないために。(3)

[]伝染する価値観。 伝染する価値観。を含むブックマーク 伝染する価値観。のブックマークコメント

哲学者の山口周さんのコラムより。

?現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

?現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方

残念ながら、多くの人は?の生き方を選択しているように思います。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかるとおり、ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の?の論点に沿って書かれたものです。

耳が痛い。
成功者著作」をどれほど読んでも成功者にはならない、ということくらいいい年をして知っているはず。
だが部屋の書棚には「それ系」の本が多数を占める。
この辺りが商売人の浅はかさやなぁ。

 こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。
しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。

著者の言うようにベストセラーを読んで成功者になれるのかはともかく。
「価値観が伝染」してしまっているのは確かだろう。
しかもパンデミックに。
自分たちは成功者の価値観やポリシーを自然に崇めてしまっているようなものだと思う。

9割の悪事を「教養がない凡人」が起こすワケ

『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資系コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さん。ビジネスパーソンにとって哲学を学ぶことは、仕事における「悪」とどう向き合うかを考えるときにも、大きな示唆があるといいます。

■二度と悲劇を起こさないために

筆者が、ビジネスパーソンが哲学を学ぶべきと考える理由はいくつかありますが、なかでも重要だと感じるのが「二度と悲劇を起こさないために」というものです。

残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。そして、過去の多くの哲学者は、同時代の悲劇を目にするたびに、私たち人間の愚かさを告発し、そのような悲劇が二度と繰り返されないために、どうそれを克服するべきかを考え、話し、書いてきました。

 一般的な実務に携わっているビジネスパーソンは、それらに耳を傾ける必要があります。なぜなら、教室の中にいる哲学者が世界を動かすことはないからです。サルトルやがかつて発揮した影響力を考えれば、この指摘に違和感を覚える人は多いでしょう。しかし事実です。世界を動かしているのはそういった人たちではなく、実際に実務に携わって日々の生業に精を出している、つまり今この文章を読んでいる皆さんのような人たちなのです。

 世界史的な悲劇の主人公はヒトラーでもポル・ポトでもありません。そのようなリーダーに付き従っていくことを選んだ、ごくごく「普通の人々」です。だからこそ、私たちのような「普通の人」が学ぶことに、大きな意味があるのです。

特に実務家と呼ばれる人は、個人体験を通じて得た狭い知識に基づいて世界像を描くことが多いものです。しかし今日、このような自己流の世界像を抱いた人々によって、さまざまな問題が起きていることを見逃すことはできません。ジョン・メイナード・ケインズは、著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、誤った自己流理論を振りかざして悦に入っている実務家について、次のように記しています。

 知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。

実に辛辣な指摘です。

ここでは具体例として、哲学者・ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」というキーコンセプトを紹介します。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエル秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレム裁判を受け、処刑されます。

 このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

 この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムのアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

「悪の陳腐さ」……奇妙な副題だと思いませんか。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、われわれが一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。

■悪の本質は「受動的」であること

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、

 「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。

 私たちは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、私たちのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在私たちが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかもしれません。

 仮にそのように考えると、究極的には世の中には次の2つの生き方があるということになります。

?現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

?現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方

残念ながら、多くの人は?の生き方を選択しているように思います。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかるとおり、ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の?の論点に沿って書かれたものです。

 こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式や行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。

話を元に戻せば、ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものだと思います。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ、とするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。

 凡庸な人間こそが、極め付きの悪となりうる。「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。その可能性について考えるのは恐ろしいことかもしれませんが、しかし、だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならないのだ、ということをアーレントは訴えているのです。私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。

■なぜ日本企業の従業員は「思考停止」してしまうのか?

一方、現在の日本に目を向けてみると、三菱自動車東芝神戸製鋼所、日産自動車など、わが国を代表する企業によるコンプライアンス違反という「悪」が次々に起こっています。

筆者は、これらのコンプライアンス違反を防止するために、多くの企業で取り組まれている罰則規定に始まるルール改定やオンブズマンなどの告発制度の施行ではこの問題を解決できないだろうな、と考えています。

 というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根本的な原因は、企業と従業員の力関係にあると思うからです。

コンプライアンス違反を犯そうとする組織があったとして、当然ながらそれを問題だと思う内部者はいたはずです。ではこのとき、その内部者は具体的にどのようなアクションがとり得たでしょうか?  具体的には次の2つ、

・オピニオン
・エグジット

ということになります。

オピニオンというのは「これはおかしい、やめたほうがいい」と意見する、ということで、エグジットというのは「こんな取り組みには俺はかかわらないよ、やーめた」といって仕事から遠ざかる、あるいは会社を退職するということです。

 この「オピニオンとエグジット」というのは、従業員に限らず、組織がなにかおかしな方向に向かいそうになったときに、その組織の構成員やステークホルダーが取れる抵抗策と考えられます。

■日本企業では、この2つの権利がほとんど行使できない

たとえば株主の場合であれば、経営陣の経営がおかしいと思えば、株主総会で「おかしいだろ、それ」とオピニオンを出すことができますし、何度オピニオンを出しても経営が改善しないということであれば、株を売るということでエグジットすることができます。

 顧客も同じで、売主のサービスや商品に文句があるのであれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも状況が改まらなければ購買を中止するという形でエグジットすることができる。

したがって、健全な組織の運営にはステークホルダーに対して、この2つの権利を行使してもらう自由を与えたほうがいいわけですが……、日本企業でこれがどうなっているかというと、ほとんど行使できないわけです。なぜ行使できないか?  従業員のその企業への依存度が高すぎるからです。

 株主も顧客もエグジットが容易にできるのは、代替手段があるからです。株主であれば別の会社の株を買う、顧客であれば別の企業からサービスや商品を購入すればいい。

しかし従業員はそれがなかなかできない。その組織へオピニオンを出して上司や権力者から嫌われたら?  ほかのオプションがあれば出世の見込みのない組織などさっさとヤメて別の組織に移ればいいわけですが、シングルキャリアでほかのオプションを持たない人にとって、これは非常にリスキーな選択でしょう。エグジットも同様です。

 要するに、雇用流動性が低い、パラレルキャリアを持つ人が少ない。結果「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう。これが、日本でコンプライアンス違反という「悪」を是正させる組織内の圧力が弱い、根本的な原因なのです。

山口 周 :コーン・フェリー・ヘイグループ シニアクライアント・パートナー

2018-08-14 二度と悲劇を起こさないために。(2)

[]ハムスターが起こした大惨事。 ハムスターが起こした大惨事。を含むブックマーク ハムスターが起こした大惨事。のブックマークコメント

哲学者の山口周さんのコラムより。

同じく哲学者のハンナ・アーレントナチスアイヒマンを分析してハムスターになぞらえ、
「アイヒマンは大それた思想家ではなく、ただ党内での出世を考えて600万人の人間を「処理」した」と指摘した。
さらに

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と指摘したという。

著者は言う。

「多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。」

これは矛盾をはらむ。
それは「システムの良さ」はまさにそのシステムが上手く機能して、効率化できることだからだ。
つまりシステムの中で「上手くやる」というのはそのシステムの中では「実に正しいこと」なワケである。
システムの構成員が、いちいち「如何なものか」と立ち止まって議論してばかりであればシステムは動かない。

「システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。

「システムのルールを見抜く」とはなんと批判的な表現だろうか。
彼や彼女は、ただそのルールの中で懸命に努力しているだけなのに。
(つづく)

9割の悪事を「教養がない凡人」が起こすワケ

『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資系コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さん。ビジネスパーソンにとって哲学を学ぶことは、仕事における「悪」とどう向き合うかを考えるときにも、大きな示唆があるといいます。

■二度と悲劇を起こさないために

筆者が、ビジネスパーソンが哲学を学ぶべきと考える理由はいくつかありますが、なかでも重要だと感じるのが「二度と悲劇を起こさないために」というものです。

残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。そして、過去の多くの哲学者は、同時代の悲劇を目にするたびに、私たち人間の愚かさを告発し、そのような悲劇が二度と繰り返されないために、どうそれを克服するべきかを考え、話し、書いてきました。

 一般的な実務に携わっているビジネスパーソンは、それらに耳を傾ける必要があります。なぜなら、教室の中にいる哲学者が世界を動かすことはないからです。サルトルやがかつて発揮した影響力を考えれば、この指摘に違和感を覚える人は多いでしょう。しかし事実です。世界を動かしているのはそういった人たちではなく、実際に実務に携わって日々の生業に精を出している、つまり今この文章を読んでいる皆さんのような人たちなのです。

 世界史的な悲劇の主人公はヒトラーでもポル・ポトでもありません。そのようなリーダーに付き従っていくことを選んだ、ごくごく「普通の人々」です。だからこそ、私たちのような「普通の人」が学ぶことに、大きな意味があるのです。

特に実務家と呼ばれる人は、個人体験を通じて得た狭い知識に基づいて世界像を描くことが多いものです。しかし今日、このような自己流の世界像を抱いた人々によって、さまざまな問題が起きていることを見逃すことはできません。ジョン・メイナード・ケインズは、著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、誤った自己流理論を振りかざして悦に入っている実務家について、次のように記しています。

 知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。

実に辛辣な指摘です。

ここでは具体例として、哲学者・ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」というキーコンセプトを紹介します。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエル秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレム裁判を受け、処刑されます。

 このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

 この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムのアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

「悪の陳腐さ」……奇妙な副題だと思いませんか。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、われわれが一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。

■悪の本質は「受動的」であること

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、

 「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。

 私たちは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、私たちのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在私たちが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかもしれません。

 仮にそのように考えると、究極的には世の中には次の2つの生き方があるということになります。

?現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

?現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方

残念ながら、多くの人は?の生き方を選択しているように思います。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかるとおり、ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の?の論点に沿って書かれたものです。

 こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。

話を元に戻せば、ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものだと思います。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ、とするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。

 凡庸な人間こそが、極め付きの悪となりうる。「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。その可能性について考えるのは恐ろしいことかもしれませんが、しかし、だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならないのだ、ということをアーレントは訴えているのです。私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。

■なぜ日本企業の従業員は「思考停止」してしまうのか?

一方、現在の日本に目を向けてみると、三菱自動車東芝神戸製鋼所、日産自動車など、わが国を代表する企業によるコンプライアンス違反という「悪」が次々に起こっています。

筆者は、これらのコンプライアンス違反を防止するために、多くの企業で取り組まれている罰則規定に始まるルール改定やオンブズマンなどの告発制度の施行ではこの問題を解決できないだろうな、と考えています。

 というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根本的な原因は、企業と従業員の力関係にあると思うからです。

コンプライアンス違反を犯そうとする組織があったとして、当然ながらそれを問題だと思う内部者はいたはずです。ではこのとき、その内部者は具体的にどのようなアクションがとり得たでしょうか?  具体的には次の2つ、

・オピニオン
・エグジット

ということになります。

オピニオンというのは「これはおかしい、やめたほうがいい」と意見する、ということで、エグジットというのは「こんな取り組みには俺はかかわらないよ、やーめた」といって仕事から遠ざかる、あるいは会社を退職するということです。

 この「オピニオンとエグジット」というのは、従業員に限らず、組織がなにかおかしな方向に向かいそうになったときに、その組織の構成員やステークホルダーが取れる抵抗策と考えられます。

■日本企業では、この2つの権利がほとんど行使できない

たとえば株主の場合であれば、経営陣の経営がおかしいと思えば、株主総会で「おかしいだろ、それ」とオピニオンを出すことができますし、何度オピニオンを出しても経営が改善しないということであれば、株を売るということでエグジットすることができます。

 顧客も同じで、売主のサービスや商品に文句があるのであれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも状況が改まらなければ購買を中止するという形でエグジットすることができる。

したがって、健全な組織の運営にはステークホルダーに対して、この2つの権利を行使してもらう自由を与えたほうがいいわけですが……、日本企業でこれがどうなっているかというと、ほとんど行使できないわけです。なぜ行使できないか?  従業員のその企業への依存度が高すぎるからです。

 株主も顧客もエグジットが容易にできるのは、代替手段があるからです。株主であれば別の会社の株を買う、顧客であれば別の企業からサービスや商品を購入すればいい。

しかし従業員はそれがなかなかできない。その組織へオピニオンを出して上司や権力者から嫌われたら?  ほかのオプションがあれば出世の見込みのない組織などさっさとヤメて別の組織に移ればいいわけですが、シングルキャリアでほかのオプションを持たない人にとって、これは非常にリスキーな選択でしょう。エグジットも同様です。

 要するに、雇用流動性が低い、パラレルキャリアを持つ人が少ない。結果「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう。これが、日本でコンプライアンス違反という「悪」を是正させる組織内の圧力が弱い、根本的な原因なのです。

山口 周 :コーン・フェリー・ヘイグループ シニアクライアント・パートナー

2018-08-13 二度と悲劇を起こさないために。(1)

[]ビジネスパーソンにこそ必要な哲学、という考え方。-Ph.D- ビジネスパーソンにこそ必要な哲学、という考え方。-Ph.D-を含むブックマーク ビジネスパーソンにこそ必要な哲学、という考え方。-Ph.D-のブックマークコメント

山口周さんのコラムより。
さすが哲学者の視点だと思う。

残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。

ご指摘の通りだ。
少しは小利口になったのかもしれないが、あまり根本は変わっていないなぁと自分も思う。
武器開発は止まらないし、
軍事費も、
保護主義とか移民政策とか。
原理はまだ根本からは変わっていない。

ケインズは「知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です」といったらしい。
著者は「実に辛辣な指摘」という。

結局経済、つまり「富」が過ちの引き金になるのだろうか。
経済成長策を振りかざして、大衆もそんなニンジンばかりに目がいって、ついには戦争までも仕掛けてしまうのが人間なのだとしたら、「富とか経済」についての考え方を根本的に考え直す必要がありそうだ。
(つづく)

9割の悪事を「教養がない凡人」が起こすワケ

『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資系コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さん。ビジネスパーソンにとって哲学を学ぶことは、仕事における「悪」とどう向き合うかを考えるときにも、大きな示唆があるといいます。

■二度と悲劇を起こさないために

筆者が、ビジネスパーソンが哲学を学ぶべきと考える理由はいくつかありますが、なかでも重要だと感じるのが「二度と悲劇を起こさないために」というものです。

残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。そして、過去の多くの哲学者は、同時代の悲劇を目にするたびに、私たち人間の愚かさを告発し、そのような悲劇が二度と繰り返されないために、どうそれを克服するべきかを考え、話し、書いてきました。
 一般的な実務に携わっているビジネスパーソンは、それらに耳を傾ける必要があります。なぜなら、教室の中にいる哲学者が世界を動かすことはないからです。サルトルやがかつて発揮した影響力を考えれば、この指摘に違和感を覚える人は多いでしょう。しかし事実です。世界を動かしているのはそういった人たちではなく、実際に実務に携わって日々の生業に精を出している、つまり今この文章を読んでいる皆さんのような人たちなのです。
 世界史的な悲劇の主人公はヒトラーでもポル・ポトでもありません。そのようなリーダーに付き従っていくことを選んだ、ごくごく「普通の人々」です。だからこそ、私たちのような「普通の人」が学ぶことに、大きな意味があるのです。

特に実務家と呼ばれる人は、個人体験を通じて得た狭い知識に基づいて世界像を描くことが多いものです。しかし今日、このような自己流の世界像を抱いた人々によって、さまざまな問題が起きていることを見逃すことはできません。ジョン・メイナード・ケインズは、著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、誤った自己流理論を振りかざして悦に入っている実務家について、次のように記しています。

 知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。

実に辛辣な指摘です。

ここでは具体例として、哲学者・ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」というキーコンセプトを紹介します。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエル秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレム裁判を受け、処刑されます。
 このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

 この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムのアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

「悪の陳腐さ」……奇妙な副題だと思いませんか。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、われわれが一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。
■悪の本質は「受動的」であること

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、
 「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。
 私たちは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、私たちのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在私たちが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかもしれません。

 仮にそのように考えると、究極的には世の中には次の2つの生き方があるということになります。

?現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

?現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方

残念ながら、多くの人は?の生き方を選択しているように思います。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかるとおり、ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の?の論点に沿って書かれたものです。
 こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。

話を元に戻せば、ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものだと思います。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ、とするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。
 凡庸な人間こそが、極め付きの悪となりうる。「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。その可能性について考えるのは恐ろしいことかもしれませんが、しかし、だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならないのだ、ということをアーレントは訴えているのです。私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。
■なぜ日本企業の従業員は「思考停止」してしまうのか? 

一方、現在の日本に目を向けてみると、三菱自動車東芝神戸製鋼所、日産自動車など、わが国を代表する企業によるコンプライアンス違反という「悪」が次々に起こっています。

筆者は、これらのコンプライアンス違反を防止するために、多くの企業で取り組まれている罰則規定に始まるルール改定やオンブズマンなどの告発制度の施行ではこの問題を解決できないだろうな、と考えています。
 というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根本的な原因は、企業と従業員の力関係にあると思うからです。

コンプライアンス違反を犯そうとする組織があったとして、当然ながらそれを問題だと思う内部者はいたはずです。ではこのとき、その内部者は具体的にどのようなアクションがとり得たでしょうか?  具体的には次の2つ、

・オピニオン
・エグジット

ということになります。

オピニオンというのは「これはおかしい、やめたほうがいい」と意見する、ということで、エグジットというのは「こんな取り組みには俺はかかわらないよ、やーめた」といって仕事から遠ざかる、あるいは会社を退職するということです。
 この「オピニオンとエグジット」というのは、従業員に限らず、組織がなにかおかしな方向に向かいそうになったときに、その組織の構成員やステークホルダーが取れる抵抗策と考えられます。

■日本企業では、この2つの権利がほとんど行使できない

たとえば株主の場合であれば、経営陣の経営がおかしいと思えば、株主総会で「おかしいだろ、それ」とオピニオンを出すことができますし、何度オピニオンを出しても経営が改善しないということであれば、株を売るということでエグジットすることができます。
 顧客も同じで、売主のサービスや商品に文句があるのであれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも状況が改まらなければ購買を中止するという形でエグジットすることができる。

したがって、健全な組織の運営にはステークホルダーに対して、この2つの権利を行使してもらう自由を与えたほうがいいわけですが……、日本企業でこれがどうなっているかというと、ほとんど行使できないわけです。なぜ行使できないか?  従業員のその企業への依存度が高すぎるからです。
 株主も顧客もエグジットが容易にできるのは、代替手段があるからです。株主であれば別の会社の株を買う、顧客であれば別の企業からサービスや商品を購入すればいい。

しかし従業員はそれがなかなかできない。その組織へオピニオンを出して上司や権力者から嫌われたら?  ほかのオプションがあれば出世の見込みのない組織などさっさとヤメて別の組織に移ればいいわけですが、シングルキャリアでほかのオプションを持たない人にとって、これは非常にリスキーな選択でしょう。エグジットも同様です。
 要するに、雇用流動性が低い、パラレルキャリアを持つ人が少ない。結果「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう。これが、日本でコンプライアンス違反という「悪」を是正させる組織内の圧力が弱い、根本的な原因なのです。

山口 周 :コーン・フェリー・ヘイグループ シニアクライアント・パートナー


『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資系コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さん。ビジネスパーソンにとって哲学を学ぶことは、仕事における「悪」とどう向き合うかを考えるときにも、大きな示唆があるといいます。

■二度と悲劇を起こさないために

筆者が、ビジネスパーソンが哲学を学ぶべきと考える理由はいくつかありますが、なかでも重要だと感じるのが「二度と悲劇を起こさないために」というものです。

残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。そして、過去の多くの哲学者は、同時代の悲劇を目にするたびに、私たち人間の愚かさを告発し、そのような悲劇が二度と繰り返されないために、どうそれを克服するべきかを考え、話し、書いてきました。
 一般的な実務に携わっているビジネスパーソンは、それらに耳を傾ける必要があります。なぜなら、教室の中にいる哲学者が世界を動かすことはないからです。サルトルやがかつて発揮した影響力を考えれば、この指摘に違和感を覚える人は多いでしょう。しかし事実です。世界を動かしているのはそういった人たちではなく、実際に実務に携わって日々の生業に精を出している、つまり今この文章を読んでいる皆さんのような人たちなのです。
 世界史的な悲劇の主人公はヒトラーでもポル・ポトでもありません。そのようなリーダーに付き従っていくことを選んだ、ごくごく「普通の人々」です。だからこそ、私たちのような「普通の人」が学ぶことに、大きな意味があるのです。

特に実務家と呼ばれる人は、個人の体験を通じて得た狭い知識に基づいて世界像を描くことが多いものです。しかし今日、このような自己流の世界像を抱いた人々によって、さまざまな問題が起きていることを見逃すことはできません。ジョン・メイナード・ケインズは、著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、誤った自己流理論を振りかざして悦に入っている実務家について、次のように記しています。

 知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。

実に辛辣な指摘です。

ここでは具体例として、哲学者・ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」というキーコンセプトを紹介します。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレムで裁判を受け、処刑されます。
 このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

 この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムのアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

「悪の陳腐さ」……奇妙な副題だと思いませんか。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、われわれが一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。
■悪の本質は「受動的」であること

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、
 「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。
 私たちは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、私たちのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在私たちが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかもしれません。

 仮にそのように考えると、究極的には世の中には次の2つの生き方があるということになります。

?現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

?現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方

残念ながら、多くの人は?の生き方を選択しているように思います。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかるとおり、ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の?の論点に沿って書かれたものです。
 こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式や行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。

話を元に戻せば、ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものだと思います。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ、とするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。
 凡庸な人間こそが、極め付きの悪となりうる。「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。その可能性について考えるのは恐ろしいことかもしれませんが、しかし、だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならないのだ、ということをアーレントは訴えているのです。私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。
■なぜ日本企業の従業員は「思考停止」してしまうのか? 

一方、現在の日本に目を向けてみると、三菱自動車、東芝、神戸製鋼所、日産自動車など、わが国を代表する企業によるコンプライアンス違反という「悪」が次々に起こっています。

筆者は、これらのコンプライアンス違反を防止するために、多くの企業で取り組まれている罰則規定に始まるルール改定やオンブズマンなどの告発制度の施行ではこの問題を解決できないだろうな、と考えています。
 というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根本的な原因は、企業と従業員の力関係にあると思うからです。

コンプライアンス違反を犯そうとする組織があったとして、当然ながらそれを問題だと思う内部者はいたはずです。ではこのとき、その内部者は具体的にどのようなアクションがとり得たでしょうか?  具体的には次の2つ、

・オピニオン
・エグジット

ということになります。

オピニオンというのは「これはおかしい、やめたほうがいい」と意見する、ということで、エグジットというのは「こんな取り組みには俺はかかわらないよ、やーめた」といって仕事から遠ざかる、あるいは会社を退職するということです。
 この「オピニオンとエグジット」というのは、従業員に限らず、組織がなにかおかしな方向に向かいそうになったときに、その組織の構成員やステークホルダーが取れる抵抗策と考えられます。

■日本企業では、この2つの権利がほとんど行使できない

たとえば株主の場合であれば、経営陣の経営がおかしいと思えば、株主総会で「おかしいだろ、それ」とオピニオンを出すことができますし、何度オピニオンを出しても経営が改善しないということであれば、株を売るということでエグジットすることができます。
 顧客も同じで、売主のサービスや商品に文句があるのであれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも状況が改まらなければ購買を中止するという形でエグジットすることができる。

したがって、健全な組織の運営にはステークホルダーに対して、この2つの権利を行使してもらう自由を与えたほうがいいわけですが……、日本企業でこれがどうなっているかというと、ほとんど行使できないわけです。なぜ行使できないか?  従業員のその企業への依存度が高すぎるからです。
 株主も顧客もエグジットが容易にできるのは、代替手段があるからです。株主であれば別の会社の株を買う、顧客であれば別の企業からサービスや商品を購入すればいい。

しかし従業員はそれがなかなかできない。その組織へオピニオンを出して上司や権力者から嫌われたら?  ほかのオプションがあれば出世の見込みのない組織などさっさとヤメて別の組織に移ればいいわけですが、シングルキャリアでほかのオプションを持たない人にとって、これは非常にリスキーな選択でしょう。エグジットも同様です。
 要するに、雇用の流動性が低い、パラレルキャリアを持つ人が少ない。結果「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう。これが、日本でコンプライアンス違反という「悪」を是正させる組織内の圧力が弱い、根本的な原因なのです。

山口 周 :コーン・フェリー・ヘイグループ シニア・クライアント・パートナー

2018-08-12 誤りの検証。

[]半藤 一利の視点。 半藤 一利の視点。を含むブックマーク 半藤 一利の視点。のブックマークコメント

単に右傾化とか保護主義という言葉だけではない。
ポピュリズム、というかもっと怖い。
愚かなだけでなく、それがいつの間にか「狂気」を帯びはしないか。
そんな気分になる。

民草は国策がどんどんおかしくなっているのには気づこうとはしない、(後略)

個人個人が集まって群衆になったというだけで集団精神をもつようになり、そのおかげで、個人でいるのとはまったく別の感じ方や考え方や行動をする(後略)

六年の満洲事変にはじまって、七年の上海事変血盟団事件、満洲国の強引な建設、五・一五事件国連脱退で孤立化へと、日本帝国は軍事大国化への坂道をひたすら走りぬけた。
民草はそれについていった。

日本人は天災に見舞われると大騒ぎして、これをくり返してはならないと固く誓う。しかし、すぐに忘れる。(後略)

少しづつ。
すこーしづつだが、方向がズレる。
「軌道修正」というけれど、どこが軌道かがはっきりしていない。
なかなか、いろんな人がいて「放っておいて」自然にいい方向には行かないものだ。
ついにはとてつもない事態を引き起こす。

国のこともそう。
自分のこともそう。
大局を考えたい夏。

なぜ大日本帝国は戦争への道を歩んだのか?<歴史と戦争>


半藤 一利


平成最後の「終戦の日」を迎えるこの夏。改めて「戦争」について考えてみませんか? 

そのための格好の一冊が、作家・さんの『歴史と戦争』です。80冊を超える著作の中からエッセンスのみを厳選、再構成した本書は、まさに「半藤日本史」の入門編にして集大成。幕末明治維新から、軍国主義への突入、太平洋戦争と敗戦、そして戦後の復興までを一気につかむことができます。

今回は特別に、その中から一部を抜粋してお届けします。
気づいたときにはもう遅い
 つまり時代の風とはそういうものかもしれない。平々凡々に生きる民草の春は、桜が咲けばおのずから浮かれでる。国家の歩みがどっちに向かって踏みだそうと、同時代に生きる国民の日々というものは、ほとんど関係なしに和やかに穏やかにつづいていく。

じつはそこに歴史というものの恐ろしさがあるのであるが、いつの時代であっても気づいたときは遅すぎる。こんなはずではなかった、とほとんどの人びとは後悔するのであるが、それはいつであっても結果がでてしまってからである。

(『B面昭和史』)
「国連脱退」に人々はどう反応したか?
 人間には生まれながらにして楽観的な気分が備えられているのではないか、と思えてくる。何か前途に暗い不吉なものを感じ警告されていても、「当分は大丈夫」と思いこむ。楽しくていいニュースは積極的にとりこむが、悪いニュースにはあまり関心を払わない、注意を向けない、というよりも消極的にうけとめやがてこれを拒否する。

民草は国策がどんどんおかしくなっているのには気づこうとはしない、いや、気づきたくなかったのか。それがどうしてなのかを理解することはむつかしい。いや、表面的にはともかく、不気味に大きくなる暗雲に、人びとは恐れ戦きつつも、「いや、まだ十分に時間がある」と思いたがっていたゆえの平穏であったのであろう。

(『B面昭和史』)
「群集心理」はいつの時代も変わらない?
 フランスの社会心理学者ル・ボンは『群衆心理』(創元文庫)という名著を、十九世紀末に書いているが、かれはいう。

「群衆の最も大きな特色はつぎの点にある。それを構成する個々の人の種類を問わず、また、かれらの生活様式や職業や性格や知能の異同を問わず、その個人個人が集まって群衆になったというだけで集団精神をもつようになり、そのおかげで、個人でいるのとはまったく別の感じ方や考え方や行動をする」

そして群衆の特色を、かれは鋭く定義している──衝動的で、動揺しやすく、昂奮しやすく、暗示を受けやすく、物事を軽々しく信じる、と。そして群衆の感情は誇張的で、単純であり、偏狭さと保守的傾向をもっている、と。

昭和十五年から開戦への道程における日本人の、新しい戦争を期待する国民感情の流れとは、ル・ボンのいうそのままといっていいような気がする。それもそのときの政府軍部が冷静な計算で操作していったというようなものではない。日本にはヒトラーのような独裁者もいなかったし、強力で狡猾なファシストもいなかった。

(『昭和・戦争・失敗の本質』)


「ずっと非常時」だった少年時代
 昭和五年生まれのわたくしなんか、物ごころついたときから、すでに「非常時」のなかにいたような気がしている。いまは非常時なんだからといい聞かされて、ずっと我慢を強いられていた。

非常時とはそも何なるか。国家の危機、重大な時機にちがいないが、いまから観ずれば因果はめぐっていわば自業自得にひとし。いや、自己責任というべきか。六年の満洲事変にはじまって、七年の上海事変、血盟団事件、満洲国の強引な建設、五・一五事件、国連脱退で孤立化へと、日本帝国は軍事大国化への坂道をひたすら走りぬけた。民草はそれについていった。

(『B面昭和史』)
日本人は「すぐに忘れる」
 日本人は天災に見舞われると大騒ぎして、これをくり返してはならないと固く誓う。しかし、すぐに忘れる。過去の教訓を軽視し、知識や技術に甘えて、自然の偉大さを無視する。

「天災は忘れたころにやってくる」

物理学者寺田寅彦の言葉とされているが、活字としてはどこにもない。かれが話したこと一般に広まったらしい。災害があるとこの日本人的な名言が登場する。そのくり返しの歴史なのである。

(『21世紀への伝言』)

◇ ◇ ◇

現在、幻冬舎では期間限定で「平成最後の夏に『愛国』を考える」フェアを開催中! 夏に読みたい73作品が8月の1ヶ月間最大20%オフでお楽しみいただけます(8月31日まで)。


■半藤 一利
1930年東京向島生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社松本清張司馬遼太郎らの担当編集者をつとめる。「週刊文春「文藝春秋」編集長、専務取締役などをへて作家。「歴史探偵」を名乗り、おもに近現代史に関する著作を発表。著書に『漱石先生ぞな、もし』(正続、文春文庫 新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(文春文庫 山本七平賞)など多数。『昭和史1926‐1945』『昭和史 戦後篇1945‐1989』(共に平凡社ライブラリー)で毎日出版文化賞特別賞、2015年菊池寛賞受賞。
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2018-08-11 ダブルケアとか仕事とか。

[]"高回転型"になっていませんか? "高回転型"になっていませんか?を含むブックマーク "高回転型"になっていませんか?のブックマークコメント

育児前に介護に直面」する人が増えているという。
晩産化も原因として指摘されているが、実は「ユニット化」にあるのではないだろうか。

江戸よりももっと以前の時代。
多くの家族は親類縁者で「固まって」暮らしていた。
それが現代に近づくにつれ「ユニット化」が加速してきた。
今やもう「親世代」「祖父世代」との同居も珍しい。

核家族、というのは多分自分たちの望んだ形に違いないが、それが「育児や介護」という問題も孤立化させている。
ユニットが細分化されていけば、個々の負担は分散負担されずそのまま「個々」にかかってくるからだ。

江戸や明治に比べれば、格段に豊かになっている(に違いない)現代で、不思議にこうした問題は深刻化するばかりである。

原因は、今の先進国では全般的に「生活のカロリー」が高すぎて、夫婦で必要以上に働き、保育所介護施設を探し、全体的に疲弊しているということではないだろうか。

よくいう「高所得者層の高消費」というやつだ。
教育のことも、介護のことも、一度常識を疑って本質を考えてみる必要があるのではないだろうか。
そんなにお金ばかりかかるものではないと思うのだ。

育児前に介護直面 30代の2割 晩産化の影響 民間調べ
育児と介護に同時に直面する「ダブルケア」の経験者のうち、30代では育児より先に介護が始まった人が20%を占めることがソニー生命保険の調査で分かった。育児と介護が同時に始まった人も7%おり、晩婚・晩産化の影響で出産や子育てよりも親の介護が先行するケースが増えているとみられる。
調査は今年2〜3月にインターネットで実施。現在や過去にダブルケアの経験があり、大学生以下の子供を持つ男女計千人から回答を得た。
過去に経験した人にダブルケアだった期間を尋ねると、平均は3.9年。「10年超」も10%おり、精神面や体力面に加え、経済的な負担が長期間続くケースがあった。
仕事を持つ436人に「ダブルケアと両立しやすい職場か」を尋ねたところ、「いいえ」は男性の45%、女性の21%で、男性の方が両立の難しさを感じていた。
また、ダブルケアを理由に仕事を辞めた人が続けられなかった原因は、複数回答で「子供が保育園には入れなかった」が36%で最も多く、「職場が両立しにくい環境」30%、「親が介護施設に入れなかった」27%と続いた。

2018-08-10 ラストチャンス。

[]縮退化まったなし。 縮退化まったなし。を含むブックマーク 縮退化まったなし。のブックマークコメント

人口減に向かっている日本の切り札「コンパクトシティ」。

14年に本格的縮退化策として「改正都市再生特別措置法」が施行されました。

2000年に失敗していたという。16年の総務省行政評価局の発表だ。
この空白は痛い。
ここでも失われた20年だ。
失敗の原因は「大店法」と「改正都市計画法」の背反する内容とか、
例によって第三セクターの「箱モノ建設」での破綻だという。

行政のこうした施策が奏効している、という話はあまり聞いたことがないが報道されないだけなのだろうか。

未来の年表によると、2040年には青森市秋田市クラスの県庁所在地も消滅の危険があるという。
今回、さらに20年の「空転」を許せば日本の自治体は半減するだろう。

都市の縮退化を考える計画も、民間や若者の知恵を動員してイノベーションを企ててはどうだろうか。
今回だけ、行政が成功するとは思えないのです。

コンパクトシティを考える(5)中心市街地活性化は失敗 京都大学教授 諸富徹
2018年6月27日 2:0
日本のコンパクトシティ政策の萌芽(ほうが)は1998年の中心市街地活性化法に見いだせます。市町村は「中心市街地活性化基本計画」を策定し、補助金を受けて中心市街地活性化事業を推進しました。ところが総務省行政評価局は2016年、この政策が失敗だったと厳しく指摘しています。なぜでしょうか。
実は、同じ98年に改正都市計画法が制定され、市町村が「特別用途地区」を設け、郊外に大型店舗を誘致できるようにしました。さらに00年、大型店舗の立地規制を可能にしていた大規模小売店舗法が廃止され、市町村は郊外大型店舗への規制権限を失いました。これは縮退化とは全く逆の政策です。日本版コンパクトシティ政策失敗の背景には、国が全く逆方向の政策を同時に進めたという要因があったのです。
失敗の原因は自治体の側にもありました。例えば青森市は、中心部の集客拠点としてJR青森駅前に商業施設を185億円かけて建設しましたが、売り上げが低迷し、結局巨額の債務超過を抱えて破綻しました。多額の除雪費用を抑えるために縮退化を進めるという発想そのものは悪くなく、失敗の烙印(らくいん)を押されたのは残念です。
中心市街地活性化の失敗事例は数多くあります。縮退政策の本質は、郊外の開発抑止と中心部への人口誘導により時間をかけて都市を集約する点にあるのに、成果を焦るためか中心部の大型開発事業が目玉にされ、幾多の事業が絵に描いたような三セク破綻事例として消えていきました。
これらの反省を踏まえ、14年に本格的縮退化策として「改正都市再生特別措置法」が施行されました。これは日本の都市政策で初めて、特定区域を設定し、都市機能と居住地の集約を促す画期的な法律です。市町村は将来の人口予測や財政状況を基に都市の将来像を示す「まちづくりのマスタープラン(立地適正化計画)」を策定します。計画を策定すれば、設定区域外での開発には届け出が必要となる一方、区域内に施設を整備する事業者は優遇措置を受けられます。日本の都市の縮退化の成否は、この法律をいかにうまく活用できるかにかかっています。
<訂正>27日付朝刊経済教室面「やさしい経済学」で「大規模小売店舗立地法」とあったのは「大規模小売店舗法」の誤りでした。

2018-08-09 国の役割。

[]機能不全。 機能不全。を含むブックマーク 機能不全。のブックマークコメント

中国が貯めた巨額の資金で、周辺国にインフラ投資を加速しているという。
アジアノンバンクみたいな感じらしい。
いつの時代にも「貸す側と借りる側」では与信と利率が問題になるがそれがどうも危なっかしいという記事だ。

それにしてもこうした「国対国」の投融資とか、G7G20などの「国別サークル」のやり取りを聞いていると、どうも時代遅れになっている気がする。
金融機関や企業が「国を跨いで普通に活動する」現代に「分野別合意」とか「種目別調整」とか「自主規制」なんかがどれほど機能するだろうか。
政治的には、中国のように「産業振興10分野」みたいなものは必要かもしれないが、先進国はほとんどが「国営企業」でもないし「一党支配」でもない。
欧米の国々が、今さら中国化するとも思えず、「パリクラブ(主要債権国会合)」や「鉄鋼・アルミニウムの輸入制限措置」みたいな手立てではこれからの課題は解決しないのではないだろうか。

各国の"業界別の代表者"が実務的に話し合わないと、ただの押し問答が続くばかりだ。

中国の無責任許すG7
アジア諸国が中国からの資金の援助に頼って港湾や鉄道などの社会インフラを整える計画を次々と軌道修正している。マレーシアは5月に首相に返り咲いたマハティール氏が約28兆円を超す政府債務への危機感を訴え、中国と大型案件見直し交渉に入ると表明した。ミャンマーは1兆円規模をかける予定だった港湾づくりの計画を再検討していると英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)が6月初めに伝えた。

高利の借金を膨らませて返済に行き詰まったあげく、肝心の社会インフラそのものが中国の国有企業へと実質的に売りわたされる。スリランカの港で2017年末に起きた出来事を目の当たりにした周辺国が、自分たちの返済能力について遅ればせながら自問し始めたようにも映る。

それでも、自国の経済規模に比べた対外債務の額や中国への依存ぶりが懸念される発展途上国はいくつもある。米シンクタンクの世界開発センターは18年3月にまとめたリポートで要注意の23カ国について分析し、ジブチモルディブラオスなど8カ国を名指しして警鐘を鳴らした。

新シルクロード経済圏構想「一帯一路」の掛け声でアジアやアフリカのインフラ事業に関わり、巨大な債権国になりつつある中国。取り組みの総額は1兆ドル(約110兆円)規模ともいわれている。危なっかしさを感じさせるのは、外国へ流す資金の全容を中国自身がきちんと把握し切れていないようにみえることだ。

国際金融筋によると「中国は政府の財政部、中央銀行である人民銀行、さらに政府系金融機関が外国への資金支援に絡むが、互いの連携はあまり無い」。中国の他の機関が外国にもつ債権の詳細を知らず、貸し先の国の財務や収益力について不安を漏らす中国側の関係者もいるという。

日米欧や新興債権国が集まって、貸し先の国々の情報を交換したり問題国の債務再編を相談したりする「パリクラブ(主要債権国会合)」が中国の不透明さをただす場になってもよさそうだが、そう簡単でない。中国は一部の議論だけに参加する暫定メンバーの地位にとどまり、対外債権の状況をメンバー間で共有する正規メンバーの義務を免れているためだ。

好きなときに会議に出て他国から情報を仕入れ、自らは義務を負わない。そんな気楽な立場に身を置き続ける中国へのいら立ちがパリクラブ参加者に募る。そして、中国の途上国向け支援の巨額ぶりとずさんさがわかるほど他の債権国の不満に拍車がかかる。

債権大国の責任の一歩として中国にパリクラブの正規メンバーになるよう促していくことは国際社会の当然の役割だろう。5月末〜6月上旬に日米欧の主要7カ国(G7)がカナダで相次いで開いた財務相中央銀行総裁会議と首脳会議(シャルルボワ・サミット)は、タイミングと顔ぶれの両面で中国にメッセージを発する絶好の機会だと見込まれた。

債務問題がつきまとう新興国も顔を出す20カ国・地域(G20)に比べて、伝統的な債権国だけが集まるG7はこの手のテーマを正面から扱いやすいはず。会議前の仕込みの段階である程度までは事務方の調整が進んでいた。

ところが、米国が鉄鋼・アルミニウムの輸入制限措置を欧州やカナダにも当てはめると表明したのを発端に、G7会議が内輪の応酬に明け暮れたのは周知の通り。サミットの首脳宣言には「より多くの新興債権国のパリクラブ加盟に向けた作業を支持する」と事務方の下交渉を反映した文言が盛り込まれたが、早退したトランプ米大統領が首脳宣言を承認しないと言い出した。パリクラブへの正規加盟を求めるG7の圧力など中国が感じ取ったわけがない。

国際社会と中国の神経戦という観点で、今回と似た構図だったのが16年初めのG20財務相会議。その直前、中国をはじめとする新興国からの資本流出が懸念されて、世界の金融マーケットが動揺した。中国は「厳しい規制は不要」と表向きには訴えていたものの、G20会議が打ち出した合意に促される形で資本規制へ動き、金融マーケットの動揺も収まった。

そのときの合意の舞台はG20会議だが、当時G7議長国として関係国の調整をリードしたのは中国経済との関係が深い日本だった。資本規制にやや消極的だった米国との擦り合わせも日本が請け負い、国際社会の総意という中国への外圧を演出していった。中国はG20会議で規制に動くきっかけを得た格好になり、日本政府関係者が「中国からも感謝された」と振り返るのを聞いたことがある。

膨らむ対外債権にまつわる不安が中国内部にも芽生え始めているとしたら、いまの中国は2年前と通じる面がある。だが、米国は中国との通商摩擦をエスカレートさせ、日本は貿易黒字が米国の標的にならないようきゅうきゅうとするばかり。中国の背を押す役者がいないのが国際社会にとっても中国にとっても不幸なのかもしれないと思う。

G7の首脳たちが通商政策で対立するさまはショッキングであり、いら立ちに包まれた異様な会議の光景に世界は目を奪われた。貿易戦争の懸念は間違いなくグローバル経済の一大事ではあるが、G7会議が混迷したあおりで向き合えなかった重いテーマもきっとたくさんある。債権大国になった中国の無責任ぶりを許しているのはそのひとつにすぎない。

2018-08-08 私たちの生産性。

[]機械はキカイ。 機械はキカイ。を含むブックマーク 機械はキカイ。のブックマークコメント

先進国物価が上がらない、と言われて久しいが。
『働いて得られる成果(付加価値)が高まらないため、賃金も上がりにくい。』
これが原因ではないか。

日米独の時間あたりの労働生産性の伸びは1990年代ごろに2〜3%程度あったが、2010年代は1%程度に下がった。
経済が成熟し、かつての自動車や飛行機、インターネットといった画期的な技術革新も生まれなくなった。
働いて得られる成果(付加価値)が高まらないため、賃金も上がりにくい。

"ロボットやネットの活躍する分野"では確実に生産性は上がっている。
工場や倉庫や交通機関電子マネーやら。

けれど「自分」はどう。
自分は。

毎年、頭で考えていることは「何らか進化している」と思いたい、思いたい、が。
自分の付加価値が毎年どんどん高まっているかどうか、については自信がない。
考えは進化していても、実務的には堂々めぐりをしているようなところもある。
新しいことにトライしても勝率は低い。

ロボットやITによる付加価値向上の恩恵は、企業に溜まっているが、別に「人間の生産性が上がった」わけではないので、賃金には反映されない。
「そのこと」を自分たちは無意識に知っているから「儲かったのでどんどん配ろう」という気にならないのだ。

つまり自分自身の「生産性」をちゃんと上げることを考えねばならない。
機械の恩恵を"棚ボタ"で当てにしてはならないということだ。

地をはう物価 うつむく中銀 日米欧総裁、構造要因を指摘
ベルリン=石川潤】物価はなぜ上がらないのか――。ポルトガルのシントラで20日まで開かれた欧州中央銀行(ECB)主催の経済シンポジウムでは、日米欧豪の中央銀行トップが、先進国に共通する「上がらぬ物価」の理由を話し合った。労働生産性の伸び悩みや電子商取引の拡大、経済のグローバル化……。経済の様々な構造変化を指摘する意見が相次いだものの、金融政策としての処方箋を見いだすには至らなかった。

FRBパウエル氏「労働生産性の伸び悩み」

「物価上昇が当面、政策目標を下回ることを受け入れなければならない」(オーストラリア準備銀行のロウ総裁)

経済学の教科書にある、経済が成長して失業率が下がれば物価が上がる原則フィリップス曲線)が通用しなくなっているのはなぜなのか。中銀トップの議論は、先進国に共通する低インフレの分析と対応に集中した。

物価への影響が大きい賃金上昇が鈍いことが原因という点で、参加者の認識は重なり合う。米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長は賃金が上がりにくい理由として「生産性の伸びの低さ」を挙げた。

日米独の時間あたりの労働生産性の伸びは1990年代ごろに2〜3%程度あったが、2010年代は1%程度に下がった。経済が成熟し、かつての自動車や飛行機、インターネットといった画期的な技術革新も生まれなくなった。働いて得られる成果(付加価値)が高まらないため、賃金も上がりにくい。

日銀・黒田氏「終身雇用デフレ心理

ECBのドラギ総裁は、労働組合の組織率の低下や、労働者が賃上げよりも雇用維持を優先していることなども理由に挙げた。日銀の黒田東彦総裁は、終身雇用の日本では労働市場が逼迫しても賃金が上がりにくい事情を説明。「根強いデフレ心理」も指摘した。

「賃上げの加速が機械的に物価上昇につながるわけではない」(ECBのドラギ総裁)

シンポジウムでは、仮に賃金の上昇がもっと進んだとしても、それで物価が上がるのか、中銀トップに確信がないことも浮き彫りになった。

本来なら労働力の不足が大きくなれば奪い合いが起こり、賃金、物価にも影響が広がるはずだ。パウエル議長によると、米国では1960年代後半に失業率が4%を切り、物価上昇率が70年代にかけて5%程度まで上がったことがある。

ECB・ドラギ氏「グローバル化・ネット通販」

ただ、人手不足が深刻なドイツなどでは賃金が上がり始めているが、消費者物価上昇率はエネルギーなどを除くベースで1%程度で目標(2%近く)に届かない。

はっきりとした証拠は出そろっていないが、グローバル化やインターネット通販などの「中央銀行の手が及ばない構造要因」(ドラギ総裁)が企業に値上げをためらわせている可能性もある。

パウエル氏は今は教育水準の向上などで完全雇用をもたらす失業率の水準が下がっていると説明。このため「労働市場が過度に引き締まっているわけではない」という。

日本でも日銀には過去の経験則から「失業率が3%を下回れば、2%に向けて物価に上昇圧力がかかる」との見方があった。だが17年から失業率が3%を割り込んでも物価の伸びは鈍いままだ。

「過度のインフレ容認するような政策は取らない」(FRBのパウエル議長)

上がらぬ物価に対して中銀はどんな手を打つべきか。もともと金融政策はインフレ抑制に効果はあってもデフレへの効果を疑問視する声もある。

シンポジウムではパウエル議長から、過度の金融緩和でむりやりインフレをつくり出そうとすることに否定的な声が漏れた。政策目標以上の物価上昇を容認するような政策は資産バブルや財政規律の緩みといった副作用ばかりを生みかねない。

FRBは15年から利上げを始め、ECBも量的緩和の年内終了を決めた。物価上昇が鈍いのでペースは緩やかだが、金融政策の正常化へ動いている。物価上昇が最も鈍く、2%目標の達成を掲げて異次元緩和を続ける日本と温度差がにじんだ。

物価を上げる処方箋を見いだせない中で、中銀総裁からは米国の保護主義で世界が貿易戦争の様相を強めていることへの警戒が表明された。「投資、雇用、意思決定を延期する動きを聞いている」(パウエル氏)、「楽観できる根拠はない」(ドラギ氏)。各国の中銀トップが米トランプ政権の動きに懸念を募らせる背後には、低インフレの危うい状況を抜け出せない中銀自身へのいらだちも見え隠れする。

2018-08-07 直感力。

[]おもろい挑戦。 おもろい挑戦。を含むブックマーク おもろい挑戦。のブックマークコメント

f:id:why-newton:20180807001958j:image
生きていく上で必要なことは知識よりも経験だろうか。
何か鼻筋の通ったゴリラ、のような風貌である。
京大・山極総長の記事より。

最悪の失敗さえしなければいい。
(ゴリラから学んだ)勝つことと負けないことは同義ではない。
経験しないと身体化はできない。それこそが直観力です。

「ネットには経験がないよ」とは2000年以降に生まれた人にぜひ言っておきたい言葉だ。
山極さんは自然観察をしてきた方なので、説得力がある。

「私が長年やってきたフィールドワークでは、その場で『あっ』と思ったことをノートに書きつけていきます。
自分の身体で体験し、感じたことを手を動かして書くということが、非常に大事だと考えています。」

「例外経験を知識にする」という感じらしい。
例外対応力だ。
そうして直観力を養うという。
つまり直観力というのは、本当の「ヤマカン」ではなく、経験と知識で鍛え上げられた能力のことなのだ。

氏はリーダーには「他者を感動させる能力がいる」という。
リーダーって難しい。

おもろい挑戦で直観力を 京都大学 山極寿一総長(下)
インターネットの世界にこもらず、外へ出て、おもろいチャレンジをしよう」。京都大学の山極寿一総長は、学生たちにそう語りかける。リーダーには「直観力を磨き、人を感動させる力が必須」。その言葉の意味するところとは。

今年の入学式では詩や俳句を引きながら、新入生に語りかけた

「学生が自ら渡航先や、そこで何をするのかをゼロから計画し、自分の責任で交渉もし、経験してくるというプログラムです。僕は『直観力』が非常に重要だと考えています。直観力を鍛えるためには、既存のレールに乗って既存のメニューをこなすだけではダメ。自分の身体ひとつでチャレンジし、オンリーワンの経験をしてほしい。最悪の失敗をしなければいいと思っています。実際、これを体験すると、学生は本当に一皮むけますね」

「いまの学生は幼い頃からインターネットに慣れ親しんできました。ネットの世界では同じことが繰り返し起きるので、予想ができるし、身構えることもできる。でも自然や人間相手では、同じことは二度と起きません。予想がはずれることも多々ある。海外では特に、思いもかけないことが起きるでしょう。だからこそ、それを体験しておくことが必要なのです。心構えとして重要なのは『失敗しても命を落とさなきゃいい』ということ。正解ではなく、決定的に間違えないことを覚えるんです」

「私はゴリラから、勝つことと負けないことは同義ではないと学びましたが、正解することと間違わないことも同じではないんです。自然界では大きな失敗をしちゃったら命を失いますから、決定的な失敗さえしなければいい。そうやって動物も人間も生きてきた。でも現代の人間はどうしても正解を求め、より正解に近づくことばかり考える。そのためにフレキシビリティーを失ってしまうのです。本当はもっといろんなやり方があるはずなのに、みんな同じように振る舞う。それは直観力を使っていないからです」

――直観力は頭ではなく身体で学べと?

「私が長年やってきたフィールドワークでは、その場で『あっ』と思ったことをノートに書きつけていきます。自分の身体で体験し、感じたことを手を動かして書くということが、非常に大事だと考えています。ITが当たり前の時代に育ったいまの若者は、知識は人から人へ伝達されるものではないと思っている。でも知識というのは、人から人へ、あるいは本から人へ、時には暴力的な形で、身体の中に飛び込んでくるものなのです。経験しないと身体化はできない。それこそが直観力です」

「同じ時に同じ対象を見ても、人によって感じ方はそれぞれです。それは人間が身体を持っているからなんですね。人間のクリエーティビティーは、そういう個別の経験が積み重なり、直観力が鍛えられてはじめて生まれてくるものです。人と交渉をする上でも、新しいことに立ち向かう上でも、他の人とは違うオリジナルの知識を持っているかどうかが問われます」

――リーダーを目指すにも直観力が必要だと?

「リーダーは常に新しいものに立ち向かい、挑戦していかなければならない。その時に必要なのは、自分の身体によって蓄えられた知識です。それは人に感動を与えるものでなくてはならない。そうでなければ人はついてきてくれませんから。僕はリーダーの条件のひとつは『他者を感動させる能力』だと思っています。感動を与えるのに必要なのは意外性です。それが何であるかを瞬時に見抜き、行動できるかどうかは、直観力にかかっています」

――山極さんが理想とするリーダー像を体現していた人はいますか。

今西錦司さん(元京都大学名誉教授)ですね。日本の霊長類研究の草分けで、僕も薫陶を受けました。彼の一番すごい点は、自分が生涯リーダーでありながら、たくさんの弟子を育て、梅棹忠夫さんや伊谷純一郎さん、河合雅雄さんといった傑出したリーダーを輩出したことです。一代限りのリーダーにはなれても、次の世代のリーダーを育てるのは非常に難しい」

「今西さんにそれができたのは、彼は愛されていたけれど、信用されなかったからなんです。それを最初に見抜いたのは、1980年代に英国からやってきた古生物学者のベヴァリー・ホールステッドさんでした。当時、今西さんはダーウィン進化論に異を唱え欧米でも話題の人でしたから、イギリス人の彼は反論してやろうと意気込んで来たのです。ところが今西さんと会っているうちにすっかりほれ込んでしまった。しかも『今西の弟子たちは、今西の言っていることを誰も信じていない。これはすごい』というわけです」

「自分の周りにフォロワーばかり据えていては、自分を超える人は出てこない。今西さんの場合は、常に挑戦し続ける彼自身の姿勢と、弄するレトリックが面白かったので、弟子たちが自然と集まってきた。今西さんは弟子たちの挑戦も奨励し、許容したんです」

――そこが常人との違いだと。

「普通は自分を超えようとするやつの頭をなんとか抑え込もうとします。でも今西さんはある時から手を放し、譲るんです。梅棹さんには国立民族学博物館を作らせ、伊谷さんには京都大学自然人類学教室を、河合さんには日本モンキーセンターを任せ、京都大学霊長類研究所に生態研究部門を作らせた。弟子たちへの任せ方は実に見事でした」

「現代の社会では、人間関係においても正解を求めがちですね。でも人間同士もお互い100%わかりあえることはないから、探り合うしかない。そこで決定的な失敗に至らなければいい。今西さんはそのことをよく知っていたんだと思います。だから自分に従わせず、直観力をみなに発揮させた。お互いに罵り合うことだってあるけど、楽しいからみんなそばにいるという環境を作った」

「正解に到達することを奨励するのではなく、いろんな新しい可能性を提案してくれる人たちを育てる。大学もそういう場所にしなくちゃいけない。決定的な失敗さえしなければ、いくらでも実験ができる、いくらでも挑戦ができる。その面白さが大学の持つ魅力だと思います」

(聞き手は石臥薫子)

ストレスは感じない
 「ストレス解消法は?」という質問に返ってきた答えは「実はあんまりストレスを感じないんだよね。解決不能とか、山極さん大変ですね、とか言われると逆にうれしくなっちゃう」。関西弁の「おもろい」という言葉が好きだ。ハードルが高ければ高いほど、「おもろいに違いない」と考えるのが信条だという。昔から毎晩、酒は欠かさない。ビールワイン日本酒、「アフリカ地酒も大好き」。尊敬する今西錦司さんと同様、仲間と酌み交わす酒をこよなく愛する。

2018-08-06 すごい会社。

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f:id:why-newton:20180806001431j:image
ZOZOTOWNの社長は「競争しない」という方針だという。
従業員の給料も基本はみな同じだとか。
採用基準もあえて設けず、働き方も強いず、1日6時間労働だという。
記事を読んでいてまるで「楽しい共産主義」のようだなぁと思ったら、国単位でそんなのが中国だ。

「習氏肝いり」という"ITのハードソフト、ロボット、陸海空に宇宙、農業、素材、バイオ"のラインナップを見ているとまるでかつてのGEの経営方針を見ているようだ。

一つの会社が13億人で、社長が号令を出していると考えたら恐ろしいパワーである。
かつては途上国であり、経済成長に悩んでいた頃から40年経ち、まさに「一周回って」モンスターになってしまった。
彼らに対抗するには、ミニマム戦略で土俵を決めて「その内側」で戦うしかなさそうだ。
技術やアイデアの"尖り方"がキモになるのだと思う。

習氏肝煎り中国製造2025」 米日独を追撃
米中両国は500億ドル(約5兆5千億円)相当の製品に追加関税を課す制裁措置の発動を目前に控えるなど「貿易戦争」の淵に立つ。強硬策が互いにエスカレートしてきた背景には、トランプ米大統領通商ブレーンが作成した「ナバロ・ペーパー」と、中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席肝煎りの産業政策である「中国製造2025」の2つの文書の存在があった。(1面参照)

中国の習近平指導部には、賃金上昇で製造業国際競争力が揺らいでいるとの危機感がある=AP

中国国務院政府)が2015年5月に発表した産業政策「中国製造2025」は次世代情報技術やロボットなど10の重点分野を設定し、製造業の高度化を目指す野心的な計画だ。中華人民共和国建国100年を迎える49年に「世界の製造強国の先頭グループ入り」を目指す長期戦略の第一歩と位置付けられる。

第1段階(15〜25年)の目標は「世界の製造強国の仲間入り」だ。規模だけをみれば中国の製造業の生産額は米国を上回り「世界の工場」としての地位を確立した。だが中国製造2025は冒頭で「世界の先進水準と比べると、中国の製造業は依然として大きいが、強くない」と指摘する。技術革新力や資源の利用効率、産業構造などで先進国との差はまだ大きいと率直に認める。

中国商務省の報告書によれば、米国の小売価格500ドルのダウンジャケットは中国からの輸出価格はわずか60ドル。中国企業がダウンジャケットの加工や縫製で手にするのは小売価格の1〜2%にとどまり、大部分はデザインや小売りを手掛ける外資企業が手にする。

製造業の付加価値ブランド力労働生産性などから中国が独自に算出した「製造強国総合指数値」(12年)によると、中国は81。1位米国(155)、2位日本(121)、3位ドイツ(110)に次ぐ4位だが、米日独とは大きな開きがある。この指数値を25年に103まで高め、第2段階(25〜35年)の「世界の製造強国の中等水準」につなげるのが目標だ。

中国製造2025の原型となったのは技術分野の最高学術機関、中国工程院が策定した「製造強国戦略研究」だ。デジタル技術を活用して製造業の高度化を促すドイツの産業政策「インダストリー4.0」が影響したとされる。

研究の背景には自らの現状を「インダストリー2.0」と分析する中国の強い危機感があった。中国の労働者人件費は急上昇し、ベトナムインドと比べた立地競争力が揺らぐ。米国やドイツなど先進国は「製造業回帰」を掲げ、デジタル化による「第4次産業革命」を加速する。中国の製造業は途上国と先進国の双方から挟み撃ちにされ、大胆に変革しなければ生き残れないとの判断があった。

中国製造2025に基づく研究開発はすでに動き出している。

北京市郊外の研究開発団地。最新のIT(情報技術)を活用した「スマート製造」プロジェクトに深く関わる政府系研究機関、機械工業儀器儀表総合技術経済研究所を訪れると、1階フロアに巨大な設備が並んでいた。ロボットを活用した工場自動化の展示だ。

実際に写真立てをつくってもらった。自分の写真を撮ってフレームを選べば、ロボットが素材を削るなど後の製造工程は全自動で、10分足らずで包装された写真立てが完成した。自動化やスマート製造の効果を実感しやすい仕組みだ。

実は自動化設備を開発したのは三菱電機だ。中国製のロボットや工作機械もラインに組み込める点も評価されたようだ。同研究所の劉丹氏は「三菱電機の自動化は工場現場の問題の解決に強い」と話す。

家電大手の美的集団が「インダストリー4.0」の推進役だったドイツのロボットメーカー、クーカを買収するなど欧米企業との連携も強化している。中国の製造業は豊富な資金力をいかして先進国から技術を積極導入し、キャッチアップを図っている。

2018-08-05 正反対の人たち。

[]一番ローカル。 一番ローカル。を含むブックマーク 一番ローカル。のブックマークコメント

米中のやり取りを見ていると、まるで会社同士のやり合いに見える。
いろんな政党があって、業界があって、業種があって「ごちゃごちゃしているのが国」なのだ、と思っていたけれど。

経済もモノも人も世界中で混じり合ってしまって「国同士の貿易摩擦」という言葉もどこかピンとこない。
国防とか安全保障とかいう「国の単位」も相当曖昧になってきていると思う。特に経済分野では。
国力とか、失業とか移民とかいう言葉もどうも時代に合っていない。

こと合理性だけを考えれば「中国式」は当たり前のやり方だとも言えなくはないだろう。
遵法か違法か、という枠組みではなく「全面的に協調できる仕組み」がないと無用な喧嘩がこれからも続くに違いない。
こういう空気が、実に「今っぽくない」と思う。
米中、全面的に仲良くやりましょうよ。と言いたい。


米中衝突 摩擦の深層(1) 2大国、次の30年競う ハイテク覇権安保揺るがす

2018年7月2日 2:0

米国と中国が対立を深めている。制裁関税(総合・経済面きょうのことば)の応酬など貿易摩擦にとどまらず、ハイテク分野での競争も激しさを増す。根底にあるのは将来の覇権をにらんだ争いだ。「超大国」として世界秩序を主導してきた米国の揺らぎと、「中華民族の偉大な復興」を掲げる中国の挑戦。2つの大国の衝突は世界を揺らし始めた。(関連特集を米中衝突特集1、2面に)

議会百度シリコンバレー研究所を「米国の技術者にアクセスするための拠点」と断じた=ロイター

カリフォルニア州シリコンバレー。中国ネット検索最大手の百度(バイドゥ)は2017年10月、自動運転技術の研究開発施設を増設した。自動運転で世界一の実力を持つ米グーグルの本社から車で20分程の立地だ。

この開発拠点で不可思議な動きが相次いでいる。自動運転事業を率いていた王勁氏ら社内でも特に優秀とされた4人の中国人技術者が昨年までに全員離職。中国に帰国し、自動運転ベンチャーをそれぞれ起業した事実が確認された。「彼らは中国政府の誘いを受けて帰国し、多額の補助金や住居の無償供与を得て創業した」。中国で自動運転を手掛けるメーカー幹部は内情を打ち明ける。

米の技術「盗む」

政府主導で米欧へのキャッチアップを急ぐ中国の自動運転技術。関連特許保有数ではすでに米の2倍超だが、基礎を支えるのは百度やグーグルなどを辞めてシリコンバレーから帰国したエンジニアたちだ。

米議会は百度がシリコンバレーに研究所を増設した狙いを「米国の有能な技術者や科学者にアクセスするため」と断定。「技術はほぼ全て米国から盗んだ持ち帰りではないか」(業界関係者)。そんな疑惑が消えない。

先進製造業の発展を加速する」。17年10月の中国共産党大会で、習近平(シー・ジンピン)党総書記(国家主席)は高らかに宣言した。産業政策「中国製造2025」は次世代情報通信や新エネルギー車など10の重点分野を指定、補助金など手厚い支援で技術の国産化を促す。目指すのは建国100周年に当たる49年に世界一の「製造強国」となることだ。

自動運転は世界最先端の技術競争のシンボルであると同時に、次世代高速通信「5G」技術の用途の大本命でもある。戦車やドローン(無人機)など軍事転用も容易で、応用範囲は幅広い。虎の子のハイテク技術を中国に貪られた米の怒りは頂点に達しつつある。

「米国は次世代スーパーコンピューターや商用ドローンで中国に負けている」。17年11月、米議会の超党派諮問機関が作成した対中調査報告書が配られると、議員に衝撃が走った。最新版では「中国のハイテクの進展」と題する章を新設、米中が競い合う9分野の優劣を評価した。

米国が優勢を保つのはバイオテクノロジーなど4分野のみ。人工知能AI)など3分野は中国が肩を並べ、2分野は中国が先行すると結論づけた。報告書をまとめたキャロリン・バーソロミュー委員長は「米国の科学技術が中国に侵食されている」と危機感をあらわにする。

国家ぐるみが影

トランプ米政権がいらだちを募らせるのは、中国のハイテク企業の台頭は国家ぐるみの支援を受けた「不公正競争」を許してきたことにあるとみるからだ。通商政策を担うナバロ大統領補佐官が中心となって6月中旬にまとめた報告書は人民解放軍による産業スパイサイバー攻撃外資企業への技術移転の強要など中国の手口を詳細に分析。「中国の経済的な侵略は米国経済だけでなく、世界中のイノベーションを生むシステムを脅威にさらしている」と激しく批判した。

データ社会の基幹インフラへの浸透に対する警戒感も強い。中国の通信機器大手、華為技術ファーウェイ)と中興通訊(ZTE)の2社が通信網設備に占める世界シェアは11年の15%から16年には4割超に急拡大し、スウェーデンエリクソンを追い抜いた。5Gが本格普及する23年には50%以上のインフラ網を握ると予測されている。

2社の強みは先端を行く5G技術に加え、競合他社に比べて最大で半値と言われる安値攻勢。資金面で支えるのは中国政府だ。「通信インフラに関わる企業が自ら敷設した通信網から情報を抜き取るのは簡単。中国2社がシェアの半分を握れば、世界の情報の半分が彼らの手中に入る」(日系大手通信企業幹部)

トランプ米大統領はZTEへの制裁解除をいったん決めたが、米議会上院は制裁解除を撤回する法案与野党の賛成多数で可決した。議会の強硬論の背景には米国や台湾のIT大手によるロビイング活動に加え、アジア南米の通信網に中国2社が浸透すれば前方展開する米軍の脅威になりかねないとの判断がある。

米中は知的財産権侵害を名目とする報復関税の発動を6日に控え、水面下で交渉を続ける。だが仮に合意に達しても、未来の国富だけでなく安全保障の根幹を揺さぶりかねないハイテク分野を巡る対立が消え去ることはない。米中間でエスカレートする経済摩擦の深層にあるのは、次世代の覇権を競う総力戦が始まる予感でもある。

2018-08-04 楽しみの人。

[]流行りにはやらないこと。 流行りにはやらないこと。を含むブックマーク 流行りにはやらないこと。のブックマークコメント

ビジネス誌が率先して「高年収」とか「ボーナストップテン」というのを特集するのも、売れなきゃ続かないという宿命か。
それにしてもこういう扇情的なのばかりではなく、

「やりがいベストテン」とか「幸福度ランキング」とか「OBに聞く人気投票」なんかをやるべきではないだろうか。

ダイヤモンドのランキングを見て、若者がこういうのを頭にインプットして職業選びをするとしたら悲劇だと思う。
「リサーチ」とか「ファンドマネージャ」なんて本当にやりたい仕事だろうか。(失礼)

社会人人生も後半がはっきり見えてくると、つくづく「時間は自分で使うものなのだ」ということが身にしみる。

若い時はこれが分からなかった。
「時間の限界」が想像できなかったのだ。(嘆)

「儲かればいい」「楽ならいい」「面白ければいい」とかいうのは本筋ではない。
「残り目線」で見れば、とても大事な時間を「自分が選んで何に使うか」という意識があればいい。

その目線でパチンコがやりたければそれで良い。
ただ人と群れていた、とか
ただ我慢して仕事(勉強)をこなしている、とか
ひたすら締め切りに追われるばかり、というのは「自分で選ぶ意識」を消してしまう。

そういう「そもそもの目」を持っている人は年齢にかかわらず元気で楽しそうである。
楽しそうな人の話を聞こう。

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若くても高年収な職業ランキング・ベスト30!
普段、あまり目にすることのない数字やデータに光を当てて多角的に分析、ビジネスパーソンにとっておきの「お役立ち情報」をご紹介する『ダイヤモンドDATAラボ』。第1回は「若くても高年収な職業ランキング・ベスト30!」と題し、35歳以下の高額所得サラリーマンの実態に迫りました。(週刊ダイヤモンド編集部 小島健志)

年収が最も高いのは
M&A・PE投資業務

 35歳以下ですでに年収が1000万円超──。自ら起業して成功すれば別ですが、サラリーマンであっても若いうちから高い給料を稼ぐことができる職種があります。

 そこで「ダイヤモンドDATAラボ」では、一般のサラリーマンの給料をはるかに超え、若くして高収入を得ているビジネスパーソンの姿をデータで明らかにします。題して「若くして稼げる職業はこれだ!ベスト30ランキング」です。

 今回は、金融コンサルに特化した人材紹介サービスを展開する「アンテロープキャリアコンサルティング」の協力を得て、同社の保有する約3万人の登録者データから「35歳以下」の若手を対象に分析しました。

 まず、高収入の職種を探るため、同社の設定する約100職種別に平均年収を弾き出し、上位30職種をランキングしたものが次の表です。

アンテロープキャリアコンサルティングのデータを基に週刊ダイヤモンド編集部作成。10人未満の職種は除外し、小数点以下は四捨五入しているが順位は小数点以下を加味している ©ダイヤモンド社 禁無断転載 アンテロープキャリアコンサルティングのデータを基に週刊ダイヤモンド編集部作成。10人未満の職種は除外し、小数点以下は四捨五入しているが順位は小数点以下を加味している ©ダイヤモンド社 禁無断転載を含むブックマーク アンテロープキャリアコンサルティングのデータを基に週刊ダイヤモンド編集部作成。10人未満の職種は除外し、小数点以下は四捨五入しているが順位は小数点以下を加味している ©ダイヤモンド社 禁無断転載のブックマークコメント

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アンテロープキャリアコンサルティングのデータを基に週刊ダイヤモンド編集部作成。10人未満の職種は除外し、小数点以下は四捨五入しているが順位は小数点以下を加味している ©ダイヤモンド社 禁無断転載 アンテロープキャリアコンサルティングのデータを基に週刊ダイヤモンド編集部作成。10人未満の職種は除外し、小数点以下は四捨五入しているが順位は小数点以下を加味している ©ダイヤモンド社 禁無断転載を含むブックマーク アンテロープキャリアコンサルティングのデータを基に週刊ダイヤモンド編集部作成。10人未満の職種は除外し、小数点以下は四捨五入しているが順位は小数点以下を加味している ©ダイヤモンド社 禁無断転載のブックマークコメント


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上位にランクインしたのは高い専門性が必要な職種

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 トップは「M&A・プライベートエクイティ投資」で、なんと平均年収1095万円!その所属先は大手外資系証券会社投資銀行)やプライベートエクイティファンドが中心であり、徹底した実力主義の世界が年収に反映されているようです。今回の対象は35歳以下ですが、この職種は若くして年収2000万円超えも珍しくありませんし、上は年収5000万円の人もいます。

 次いで2位は「リサーチ関連(金融)」で平均928万円、3位は「ファンドマネージャーアナリスト」の平均903万円が続きます。こうした上位にランクインしている職種は、いずれも大手証券会社や資産運用会社に勤務している人たちが中心です。

 少し毛色が違うところでは、8位にランクインした経営・戦略系のコンサルタント。平均828万円で、外資系コンサルティングファームなどに所属している人たちが中心です。

 一方で、サービス系の営業職は平均547万円、人事・労務職は平均593万円でした。全体の平均は773万円ですので、いかに上位の金融・コンサルタント系職種が平均年収を引き上げているかが分かります。

 一つ断っておきますと、今回のデータは、金融やコンサルタントへの転職を考えている登録者が中心です。一般企業の登録者もいますが、よりハイクラス層のビジネスマンが集まっています。

 とはいえ、なぜ若くして職種の違いでここまで差が出るのでしょうか。

 アンテロープの小倉基弘代表は「上位の職種は、企業価値評価をする仕事など非常に高い専門性が必要な職種だからです」と解説します。特に金融系の仕事は企業の収益に直結するとあって、高年収につながっているわけです。

出身大学は東大大学院卒が圧倒
理系が年収も高く優勢

 さて、こうした高収入サラリーマンたちは、どんな大学の出身者なのでしょうか。そこで学歴と年収との関係を見てみたのが次の表です。

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年収1500万円超の学歴属性は!?

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 1位は「東京大学大学院」の出身者で977万円。2位は「東京工業大学大学院」で970万円、3位は「京都大学大学院」の928万円と、いずれも国立の最高難易度の大学が上位に名を連ねています。

 こうした結果について、小倉代表は「外資系、特に米系の会社が採用時に学歴を重視していることは事実です」と解説します。

 例えば、外資系コンサルティング会社においては、さまざまな業種のクライアントに対応するため、相当な業務知識を素早く吸収する能力が必要になります。そうした学習能力の高さを、学歴で見ているというのです。また、クライアントの中には、担当コンサルタントの学歴を見てその力量を測る人もいるため、どうしても学歴が良い方が高年収になる傾向があるようです。

 ここで注目したいのが、理系の東工大大学院出身者と、文系においてトップクラスの一橋大学大学院出身者とを比較すると、年収差が200万円以上もあることです。実は、ここ数年、理系出身者の躍進が目立ちます。

戦略コンサルタントやアナリストなどは、金融工学などを使った難解かつ複雑な手法を用いての分析が必要だったり、特に論理的に物事を相手に伝える力が求められたりします。そうした訓練を積んできている理系の大学院生が求められているのです。

 実際、年収1500万円以上にしぼって、最終学歴が国内の大学の文系か理系、もしくは海外の大学かを分析すると、国内理系が33.0%と最も高く、国内文系の31.9%とほぼ同等です。経営・経済系の文系出身者よりも理系が活躍している実情がうかがえます。

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 もっとも、文系でも高収入を得て、活躍している人はいます。それは金融系の営業職に多く、どちらかというと個人の成果の見えやすい分野で成果を上げている人たちです。

 先のランキングで7位の関西大学もその一つ。営業系職種の人が年収を引き上げています。文系だからといっても金融営業系にはチャンスがあるということです。

 さらにいえば、海外大学の出身者も少なくありません。特に海外のビジネススクールを出た人やMBA取得者の年収は、そうでない人と比べて平均年収ベースで253万円も違うことが分かりました。

 言うまでもなく、ビジネスの専門性に加え、英語ができるという武器があれば、比較的年収の高い外資系企業に採用されやすいためです。つまり、外資系企業に勤めることが年収アップの近道であるといえるでしょう。

英語ができるに越したことはないが
できても年収が高いわけではない

 では英語力はどの程度、身につけておくと年収に影響するのでしょうか。代表的なテストであるTOEICの点数を横軸に、年収を縦軸にとった散布図を作成しました。

©ダイヤモンド社 禁無断転載 拡大画像表示

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 ここから分かることは、高年収の人はTOEICの点数が高いということです。ただし、TOEICの点数が高いからといって、必ずしも年収が高いわけではないという関係もうかがえます。つまり、TOEICは「年収アップに欠かせないが、点数が高いだけでは年収は上がらない」ということです。

 なぜなら、あくまでも既存のビジネス経験のベースがあってこそ、英語のスキルが生きてくるからです。今の仕事ができて英語もできることで、クロスボーダー案件など仕事の幅を広げることができます。そこに年収アップの道があるのです。

 では外資系企業が採用する際に、どのぐらいの英語力を必要としているのでしょうか。

 小倉代表は「外資系企業が評価するのは、TOEICであれば900点が一つの目安になるでしょう」と話してくれました。外資系採用担当者からすれば、「900点があれば、その後も英語力を磨いてくれるだろう」という期待を持てる水準だということです。

 もちろん、900点あるからといって、必ずしも英語を話せるわけではないですし、TOEICに関係なくビジネスで英語が使える人はいます。目安というのはそのためです。

 また、先の図には転職回数の違いも含めています。実は、「転職回数が多いからといって、必ずしも年収が上がらない」という結果が出ています。

「一つの職場で少なくとも、3〜5年は働いて、そこでパフォーマンスを発揮した人の方が周りから評価されることでしょう」(小倉代表)。

 個別事情にもよりますが、若くして1〜2年ごとに職場を移る人を採用側はあまり評価していないのかもしれません。

 さて、このように今回は35歳以下の若手の年収を軸に、学歴や職種、英語力について見ていきました。金融・コンサルタントに特化した企業のデータベースを基にしたので、ハイクラス層が分析の対象になりましたが、少しは年収アップのヒントがあったでしょうか。

「個別企業名でもっと給料の水準を知りたい」という声もあるかと思います。そこで、次回は東証1部上場企業の年収データを紹介いたします。

(データ協力:アンテロープキャリアコンサルティング)

2018-08-03 自動運転モラルハザード。

[]時速30キロ以下で運転せよ。 時速30キロ以下で運転せよ。を含むブックマーク 時速30キロ以下で運転せよ。のブックマークコメント

そこまで「フルオート」にする必要があるのかどうか、ということはともかく。
自動運転は、時代の華になっている。
街の路地裏から、駅前のターミナルや高速道までをくまなくカバーする必要がどこまであるのか、とも思う。

それよりも気になるのが「規制サイドの論者」だ。
やれ事故が起きた時の法律がどう。
自動運転のハードウェアの製造責任がどう。
同じくソフトウェアの開発責任がどう。
それらを定義する法律のあり方がどう。
どう、どう、どう。

規制だらけでまとまらない、っていう例のやつだ。
エラい人が「いかがなものか」というスタンスで進行を止めるのは、現代の風物詩だといっていい。
もうたくさんだと思う。
「いかがなものか」ではなく「いかにするか」だ。

例えば直線だけに試行する、とか。
時速30キロ以下で走らせる、とか。
決まったルートに限定する、とか。
どんどん試しながら開発しないで「最初から完全な精度」を求めてコスト倒れになるのは、よくあるお決まりの失敗例だろう。

これからのAI活用はそうした思想で実践しないと、時間ばかりが経ってしまう。
"いかがなものか"には退場いただきたい。

2018-08-02 変わらないもの。

[]当たり前の感覚に目覚めること。 当たり前の感覚に目覚めること。を含むブックマーク 当たり前の感覚に目覚めること。のブックマークコメント

自分はもうブログを長いこと書いているが、多分「こんなこと」を書きたくて書き始めたのだと思う。
けれど、思考がなかなか深まらない。
自分や自分の周囲の出来事を、極力抽象化し、構造化し。
暗喩し、その本質を見極めたいと思いながら今日に至る。

「自分と社会との関係」とか。
SNS人間関係の「法則」とか。

世界はそうそもそも、人生の困難なるものは自分と世界のズレの表れである。
自分はあることを正しいと信じるが思わない――そういう対立が生じたとき、困難が訪れる。

そんなこととか。
なんでもインスタントに入手できる時代には「本当に大事な"絆"ととってつけた"絆"」の見分けがしにくいのかもしれない。

ぼくが一生をかけて変えることができるのは、ごく少数の身の回りの人々だけであり、そしてぼくを変えることができるのもおそらくは彼らだけだ。
その小さく面倒な人間関係をどれだけ濃密に作れるかで、人生の広がりが決まるのだと思う。

「人と人の関係」はwebが進化する今でも、実は普遍的なものなのだろうか。
「苦労なくして果実なし」など大昔の教訓とか、もっと言えば自然科学の法則のようなものが、また当然のように語られている。
ついつい「目先の科学手妻(手品)」に目を奪われているのが今の自分たちなのかもしれない。

困難と面倒 東浩紀

ぼくは1971年生まれで、20代で情報技術革命の波に出くわした世代にあたる。だから長いあいだ、情報技術によるコミュニケーションの進歩や社会変革の可能性を信じてきた。けれどもこの数年で考えが変わっている。いまのぼくは、情報技術にあまり大きな期待を寄せていない。

かわりになにに期待すべきかといえば、最近は、家族や友人など、面倒な小さな人間関係しかないのではないかという結論に至っている。驚くほどつまらない話だが、今回は最終回なのであえて記させてもらおう。

さて、いまはSNSの時代である。SNSを含むリアルタイムウェブの本質は、時間と過程の消去にある。かつてコンテンツの拡散には一定の時間がかかった。権威やメディアをすり抜ける必要もあった。けれどもいまや、それらの面倒をすべてすっとばし、無名の書き手が一晩で何百万もの支持者を集めることができる。それはSNSの良いところだ。

けれども人生にはトラブルがつきものである。どれだけ誠実に生きていても、誤解や中傷に曝(さら)されることが必ずある。そしてそういうとき、SNSの支持はほとんど役に立たない。匿名の支持者は、トラブルの話題自体すぐに忘れてしまう。あっというまに集まった人々は、同じくあっというまに離れる。そこで継続的に助けてくれるのは、結局は面倒な人間関係に支えられた家族や友人たちだったりする。

SNSの人間関係には面倒がない。だからSNSの知人は面倒を背負ってくれない。そんなSNSでも、たしかに人生がうまく行っているときは大きな力になる。けれども、本当の困難を抱えたときは、助けにならないのだ。

これからの時代を生きるうえで、SNSのこの性格を知っておくことはとても重要なように思う。、世界はそうそもそも、人生の困難なるものは自分と世界のズレの表れである。自分はあることを正しいと信じるが思わない――そういう対立が生じたとき、困難が訪れる。だから困難そのものが悪いわけではない。むしろ、概念の発明や政治の変革は必ず困難とともに生じる。その困難を時間をかけて解消し昇華することで、はじめて自分も相手も社会も進歩するのだ。けれども、いまのSNSにはそのような熟成の余裕がほどんどない。

困難な時期を支えるとは、言い換えれば、支える相手と世界の関係が変化する過程に時間をかけてつきあうということである。ひとりの人間が変わるというのはたいへんなことで、「いいね!」をつけるようにポンポン複製できるものではない。いわゆる「議論」で相手が変わると考えているひとは、人間の本質について無知である。ぼくが一生をかけて変えることができるのは、ごく少数の身の回りの人々だけであり、そしてぼくを変えることができるのもおそらくは彼らだけだ。その小さく面倒な人間関係をどれだけ濃密に作れるかで、人生の広がりが決まるのだと思う。

家族も友人もあっというまには作れない。面倒な存在でもある。だからこそそれは変化の受け皿となる。面倒がないところに変化はない。情報技術は、面倒のない人間関係の調達を可能にしたが、それはまた人間から変化の可能性を奪うものでもあった。そのことを忘れずにおきたいと思う。
(批評家)

2018-08-01 コンテンツ競争の終局。

[]メディア覇権メディアの覇権。を含むブックマーク メディアの覇権。のブックマークコメント

優良なコンテンツの支配が争われている。

ディズニーはフォックスのコンテンツ事業の大半を713億ドル(約8兆円)で買収する。

買収金額も莫大だが、果たしてこれからの「コンテンツありき」の時代にこのモデルは成立するのだろうか。

売上ベースでは、米国全体の興行収入の4〜5割をディズニーが支配することになる。
業界では、動画配信の台頭ですでに弱体化した映画館への価格交渉力が強くなりすぎることを懸念する声も上がっている。

その一方。
10万種類のコンテンツを190か国に配信するNETFLIXとかHuluなどもある。
amazonのプライム会員だってかなりのコンテンツが見放題だ。

これからの「コンテンツ第一」で勝負をしていく企業のサバイバルがいよいよ最終局面を迎えている、という気がする。

CtoCのインディーズはともかく、超大規模クラスのコンテンツはほんの一握りの企業のものになってしまうのではないだろうか。
webが発達したおかげで、コンテンツの多様性が細ってしまうのななら、「残念な寡占」というほかない。

ディズニー、ネットフリックスと全面対決 21世紀フォックスの事業買収決定
 【ニューヨーク=平野麻理子】ウォルト・ディズニーが自前の動画配信を軸にした「コンテンツ王国」に近づく。27日、21世紀フォックスのコンテンツ資産買収を両社の臨時株主総会で正式に決めた。フォックスが持つ「アバター」などの人気映画や、テレビ番組の権利がディズニーに移る。子供向けアニメから大人向けまで独自コンテンツをそろえ、動画配信で先行するネットフリックスを追う。

 ディズニーはフォックスのコンテンツ事業の大半を713億ドル(約8兆円)で買収する。ディズニーによる大型買収は、2012年に「スター・ウォーズ」シリーズの「ルーカスフィルム」を取得して以来となる。

 05年にディズニーの最高経営責任者(CEO)に就いたボブ・アイガー氏にとって、フォックス買収は思い描いてきた「最強コンテンツ王国」完成に向けた最後のピースになる可能性が高い。再三延長されてきた同氏の任期は、現在の契約では19年7月までの予定だ。

 ディズニーの強みはブランド力と子供向けを中心としたアニメや映画作品だ。同氏の就任以降、ディズニーは「ピクサー・アニメーション・スタジオ」「マーベル・エンターテインメント」「ルーカスフィルム」といった有力スタジオを次々と傘下に収めてきた。

 ピクサーの「トイ・ストーリー」やルーカスフィルムの「スター・ウォーズ」シリーズはいまやディズニーの稼ぎ頭に育った。映画の興行収入だけでなく、グッズ販売やテーマパークの集客などで幅広く収益に貢献する存在だ。ここに「ザ・シンプソンズ」「アバター」などフォックスの作品群が加わる。

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 一部の映画ファンの間では、フォックスに一部権利が残っていたマーベルシリーズの「デッドプール」や「Xメン」がディズニーに合流することに期待の声が上がる。

 子供から大人まで幅広い層が楽しめる動画やキャラクターのコンテンツを手中に収めたディズニーが向かうのは、群雄割拠の動画配信の世界だ。従来はCATVやネット動画配信会社に番組を提供してきたが、自前のネット配信に軸足を移す。

 動画配信最大手のネットフリックスへの作品提供をやめ、19年から自前の動画配信サービスを始める。アマゾン・ドット・コムアップルなども動画配信に注力する中で、ディズニーは独自コンテンツの力で真っ向勝負を挑む。

 米映画情報サイトのボックス・オフィス・モジョによると、今年の米興行収入ランキングは現時点までのトップ10作品中5つをディズニー、1つをフォックスの作品が占める。売上ベースでは、米国全体の興行収入の4〜5割をディズニーが支配することになる。業界では、動画配信の台頭ですでに弱体化した映画館への価格交渉力が強くなりすぎることを懸念する声も上がっている。

 フォックスのコンテンツ資産は同業のコムキャストも取得を目指し、一時ディズニーとの買収合戦に発展した。コムキャストは19日にフォックスの買収を断念したが、フォックスが39%の株式保有する英放送局スカイの獲得は諦めていない。ディズニーが今回買収した資産にはスカイ株が含まれており、ディズニーとコムキャストの戦いはまだ続いている。

 コムキャストが一時フォックス買収に参戦したことで、ディズニーによる買収総額は当初の524億ドルから713億ドルまで膨らんだ。

 フォックスはもともとスカイを完全子会社化するため、残りのスカイ株61%の取得を目指していた。今回フォックスのスカイ株39%がディズニーの手に渡ることになり、引き続きスカイの子会社化を狙うかはディズニーに委ねられる。

 現時点ではコムキャストの買収提案額が上回っており、ディズニーが対抗するには提案額を引き上げる必要がある。一方でフォックスから受け取った39%の株もコムキャストに売り、一連の買収にかかる負担を減らす選択肢も浮かぶ。

 GBHインサイツのダニエル・アイブス氏は「欧州で優れたコンテンツを持つスカイは、ディズニーもコムキャストも欲しい企業だ。両社とも簡単に買収を諦めるとは思えず、金額はまだ上がるだろう」とみている。

 ディズニーのフォックス買収手続きの完了には各国・地域の規制当局からの許可が必要となる。米司法省はすでに同買収計画承認しているが、米半導体大手クアルコム中国独占禁止法当局から承認を得られなかったように、今後は米国外での承認獲得も課題となる。また713億ドルという買収額はディズニーの年間売上高を上回り財務負担の懸念もある。

2018-07-31 ホームレス再生事業。(2)

[]眠っている人材を再生する。 眠っている人材を再生する。を含むブックマーク 眠っている人材を再生する。のブックマークコメント

路上で生活する人に事情を聞いてみると、実に様々な背景がある。
「なぜ行政に保護を求めないのですか?」という問いには実に複雑な事情があるものだ。
人生は一筋縄ではない。

メンタルや病気のこと、家族関係のこと、過去の人間関係、しかも何より「社会と契約する部分」で拒絶されてしまうのだという。

例えば部屋を借りるにも現住所はなく、定職もなく、保証人もいない。
これだけで詰んでいる。
現住所のない人を先んじて雇ってくれる企業もない。
行政やNPOが保護してくれる場合もあるが、ほんの少数でしかない。

日本中から被災地衣服を贈るのではなく、ホームレスの人たちに。
適性を聞き取り、カウンセリングしながら風呂に入ってもらい、髪を整えて、ニーズのありそうな職場に送り出す。

コンビニなら清潔なジーンズでも構わない。
キャリア次第では運転手や事務職だってあるだろう。
建築・造船・介護宿泊農業の「人手不足代表業種」なら歓迎されるのではないだろうか。

「宿と衣服と整髪と」を準備して、かかった費用は「雇う側の採用コストにする」というビジネスモデルは成り立たないだろうか。

ボランティア団体がしている活動を、事業としてやれる時期が来ているのではないかと思う。

2018-07-30 ホームレス再生事業。(1)

[]好意を果実に。 好意を果実に。を含むブックマーク 好意を果実に。のブックマークコメント

何かと言うと。

日本中から古着を集め、ホームレスの人たちに提供し、寄付で入浴・整髪をして送り出すビジネス、は成り立たないだろうか。

クラウドファンディングが普及し、もう「一回り」したような感じがある。
(一般化するのはこれからだろうけど、仕組みはできた)

一方、昨今の異常気象地震で「被災地に何かの支援を」という行為も自然になってきた。
(まだまだ「1to1」の支援にはなっていないけれど)

さらに、東日本震災以降の経験で被災地の人たちが欲していたのは「千羽づるや古着」ではなく「人手や薬や衛生用品や避難宿」であることもわかってきた。
特に「大量の古着と千羽づる」は受け取り、仕分けするだけで多大な手間がかかったという。
贈る側の誤解があったのだ。
それはともかく。

自分の部屋のクロゼットにある古着。
これが誰かの役に立つことは、メルカリ以外にないだろうか。
そこで「家なき人の就業支援」をできないかと思う。
(つづく)

2018-07-29 経済と幸福。

[]技術注視。 技術注視。を含むブックマーク 技術注視。のブックマークコメント

テクノロジーが発達しても幸福感がないのはなぜか」という問いは深刻だ。
つまり「自分たちが何に幸福感を感じているのか」ということを問い直さねばならない。

労働者生産性を上げるテクノロジーが必要ですが、現在は労働者の生産性を上げるよりも、新しいテクノロジーが労働者に取って代わる面の方が多い。

つまり「自分飛ばし」が起きてしまう。

「もっと働けばもっと稼げる」ということは、アメリカだけでなく、ほとんどの国の人が実行しました。
でもそれは新しい経済成長を生み出さなかった。

つまり「人的努力をはるかに超える技術」が常に出現してきた、ということだ。

新しい成長を生み出したのは、あとからやってきた新しいテクノロジーです。
ただ、そのテクノロジーは非常に破壊的であり、どう関わったらいいのか、正確にはわからないまま現在に至っています。

これからAIIoTでますます「破壊的なテクノロジー」が出てくる様子だ。

「もっと働いて頑張ろう」という軸ではない思考を持たないと、これからの時代にうまく合わせられないのかもしれない。

破壊的だが、テクノロジーを注視するしかないような気がする。
自分たち人間の醍醐味は、それからだと思う。

テクノロジーが発達しても幸福感がないのはなぜか
大野和基(国際ジャーナリスト


ダニエルコーエン氏は、フランスを代表する経済学者であり、同じく経済学者のジャック・アタリ氏と並び、欧州を代表する思想家である。

エリート校であるパリ高等師範学校エコール・ノルマル・シュぺリウール)の経済学部長で、2006年には、『21世紀の資本』(みすず書房)の著者トマ・ピケティ氏らとパリ経済学校を設立した。経済成長と幸福の関係は避けては通れないテーマであるが、現代においては、経済成長に比例して必ずしも幸福を感じる人は増えていない。テクノロジーが発達しても幸福感がない。なぜだろうか。(取材・文=大野和基)

格差を生み出すテクノロジー

―─テクノロジーの急速な発達にもかかわらず、なぜ経済成長が低迷していると思いますか。

コーエン これはある種のミステリーですが、重要な問題です。新しいテクノロジーが活況を呈しているのに、なぜ経済成長が爆発的に起こらず、下降気味のように見えるのか。新しいテクノロジーが人間労働を補完する方法を見つけるまでには時間がかかる、ということです。

成長を維持するには、テクノロジーだけでは十分ではありません。労働者の生産性を上げるテクノロジーが必要ですが、現在は労働者の生産性を上げるよりも、新しいテクノロジーが労働者に取って代わる面の方が多い。

なぜアメリカで格差がこれほど拡大しているのか。新しいテクノロジーから恩恵を受ける人はごくわずかです。企業を掌握する経営者投資家資本家)は恩恵を受けます。

他方、秘書の仕事一つとっても、それがコンピュータでできてしまうものであれば、もう必要ないかもしれません。新しいテクノロジーは、そういう職業を脅かすものになっている。

もちろん、テクノロジーが取って代わることができない職業に就けば、脅かされることはありません。老人介護ロボットだけでは無理です。そういう、「人対人」の仕事は消えません。

つまりは、テクノロジーが多くの格差をもたらし、多くの人が取り残された、ということです。そういう人たちに対し、テクノロジーは何の利益ももたらさなかったと解釈できます。

直接テクノロジーの恩恵を受けている人の生産性は向上しても、その範囲は限られるということです。(1870年から1970年の間に起きたような)歴史をつくったテクノロジーは、その恩恵が中流階級にも広く行き渡りました。一方で新しいテクノロジーは、その恩恵が中流階級にはそこまで行き渡っていないというのが私の解釈です。

─―働いてもっと稼ぎたいというのは、人間の根源的な欲望ですが、これは経済成長に寄与しませんか。

コーエン 人間は基本的生活にかかわる欲求を満たすと、あるいはそれ以前の段階であっても、激しい欲望を抱くようになるものです。何かを達成すると、さらに欲望が出てきます。われわれが行き着きたいところには際限がないということです。

この50年間、われわれの文明が混乱しているのは、この際限のない欲望も原因のひとつだと思われます。50年前を見てみましょう。1968年5月のフランスでは学生運動が活発でした。日本でもドイツでもそうです。アメリカではバークレーベトナム戦争に反対するデモがありました。

産業文明が終焉を迎えているのではないか、という感覚が当時はあった。次に一体何が起きるのだろう、とみんなが思っていた。パリのカルチェ・ラタンでの暴動に加わった学生などは、何か異なった時代へ移ることができると感じていたのです。

60年代大衆文化は歌やドラッグ、セックスに溢れていました。ポスト物質主義の時代が来るとみんな感じていて、物質主義を超えて生きることを良しとしたのです。

しかし、この文化は長く続きませんでした。70年代になると職に就けるかを心配するようになった。経済成長率が下がり、60年代には軽蔑された文明の物質主義的な面が80年代には突如として重要になったのです。

生計を立てたければ、労働と努力は貴重であり、物質主義が終わったと思うべきではない、ということです。

こうした保守的な革命は現実に多くの格差をもたらしました。「働きたいという欲望によって、われわれは一つに団結したコミュニティを形成できる」という考え方が、今議論している格差の台頭によって、いわば粉砕されたのです。

つまり、経済成長は一般人には関係ないということです。一生懸命働けば、お金が儲かると信じること自体が未熟な考え方なのです。世界はそのように機能していません。

「もっと働けばもっと稼げる」ということは、アメリカだけでなく、ほとんどの国の人が実行しました。でもそれは新しい経済成長を生み出さなかった。

新しい成長を生み出したのは、あとからやってきた新しいテクノロジーです。ただ、そのテクノロジーは非常に破壊的であり、どう関わったらいいのか、正確にはわからないまま現在に至っています。

(本稿は、大野和基インタビュー・編『未来を読む』から一部抜粋、編集したものです)

ダニエル・コーエン(「ル・モンド」解説委員/パリ高等師範学校経済部長)/大野和基(国際ジャーナリスト)

2018-07-28 地球の運命。

[]いつか来る未来。 いつか来る未来。を含むブックマーク いつか来る未来。のブックマークコメント

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記録的な猛暑が続き。
でも今日あたりはもう「秋の空気」だったのは単に季節がズレてきているだけという気もする。
「人間活動が季節を変えたのか?」と議論も喧しいが、

人工知能が発達してまずやらねばならないのがこうした「地球」とか「太陽系」の予測だろう。

太陽もあと55億年で燃え尽きてしまう、とか
その前にも膨張を続けて、地球も焼かれてしまう、と大筋では予測されているけれど、これからの長い時間の中で、きっと解決方法が見つかるだろう。

「地球号」が本当に生き残るステージへ向けて、科学は進化しているのだ、と考えれば今の国家間の諍いなども瑣末な話に聞こえる。

これからも科学技術が進歩し続けて、いつしか自らの運命を救う「自力」が備わることが目標になる。


人間活動がはじめて季節を変えた? 日本と世界を襲う記録的な猛暑の背景

7/25(水) 19:05配信

人間が季節循環に影響を及ぼした?

世界各地を襲う記録的猛暑。異常気象にまつわる研究も多方面で発表されている

日本では、2018年7月23日に埼玉県熊谷市で観測史上最高となる41.1度の気温を記録するなど、7月中旬以降、東日本から西日本までの広い範囲で、平年値に比べて3度以上も高い気温が続いている。

世界の熱波の動画はこちら

■ 世界各地で記録的猛暑

このような記録的猛暑は日本だけにとどまらない。米国では、7月8日にカリフォルニア州デスバレー国立公園最高気温52度となったほか、ロサンゼルス近郊のチノでも48.9度を記録した。

また、欧州では、アイルランドイングランドの東部および南部スカンジナビア半島南部、バルト諸国などを中心に、平年値より3度から6度ほど高い気温が継続。

北極圏に位置するノルウェーのテュスフィヨール市ドラッグ村で7月18日に最高気温33.7度を記録し、スウェーデンでは、記録的な猛暑と乾燥により、北西部のイェムトランド、中部のイェヴレボリやダーラナなど、これまでに50地点以上で森林火災が発生している。

■ 異常気象の発生人間活動によるものなのか?

熱波や猛暑をもたらす個々の事象が、生産活動や経済活動、社会活動などのいわゆる“人間活動”に伴う気候変動に起因するものだとは直ちに断言できないものの、人間活動が昨今の異常気象に直接または間接的な影響を及ぼしていることはすでに多くの研究成果が示してきた。

世界気象機関(WMO)によると、2011年から2016年までにアメリカ気象学会(AMS)の機関紙に掲載された研究結果131件のうち65%が「異常気象の発生確率は人間活動によって著しく影響を受けている」ことを明らかにしている。

■ 人間が「季節循環に影響を及ぼしている」との研究が発表された

エネルギー省(DOE)傘下ローレンス・バリモア国立研究所のベンジャミン・サンテール博士を中心とする研究チームでは、7月20日、米学術雑誌「サイエンス」で「人間が対流圏温度における季節循環に影響を及ぼしている」との研究論文を発表。

衛星が実際に観測した温度データと、気候モデルに基づきシミュレーションした人為的要因のフットプリント(痕跡)を分析し、対流圏温度の季節循環において、人間活動に起因するフットプリントを、自然変動によるものから分離して示すことに成功した。対流圏温度の季節変動幅は、とりわけ中緯度において大きくなっており、水陸分布の違いにより南半球よりも北半球でより大きくなっているという。

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■ 「大西洋循環の弱体化が地表温度の上昇を招く」という研究も公開

また、海洋の循環流が地球温暖化に影響を及ぼしているとの指摘もある。米ワシントン大学中国海洋大学との共同研究プロジェクトは、7月18日、学術雑誌「ネイチャー」において「大西洋循環の弱体化が地表温度の上昇を招く」との研究論文を公開した。

これによると、大西洋循環の減速化は、地球温暖化によるものではなく、数十年規模の自然変動サイクルによるものだが、これによって、今後、気温が上昇する可能性があるという。

海流のスピードは海洋表層の熱が深層にどれだけ多く移動するかによって決まり、早く循環するほど多くの熱を深層に送り込むことができる。裏を返せば、海流が遅くなると海洋での熱の蓄積量が少なくなり、大気の温度が上昇しやすくなるというわけだ。

異常気象のメカニズムの解明や、地球温暖化・気候変動との関連性などを探る研究は、防災・減災だけでなく、社会経済や産業の持続可能な運営という観点からも、注目すべきテーマのひとつだ。

私たちも、まずは今シーズンの記録的な猛暑のもとで日々の健康管理に心がけながら、これらの動向に関心を持ち続けることが賢明といえるだろう。

2018-07-27 部分的に任せること。

[]デリゲーション。 デリゲーション。を含むブックマーク デリゲーション。のブックマークコメント

AIは人知を超え、知能爆発を起こす。かどうかはともかく。
電卓以降、コンピューターが「人以上の力」を発揮するのは疑いがない。

近年、「HRテクノロジー」として、この技術を人事領域に応用することへの期待が高まっています。
人工知能研究の第一人者である東京大学大学院 特任准教授の松尾豊氏は、ディープラーニングを人事領域へ活用することで、生産性の向上が期待できると語ります。
例えばモニターを通して従業員の表情を分析し、毎日データを積み重ねることで、「〇時〇分になると集中力が切れやすい」といったことがわかるようになります。
集中力が落ちた従業員には、いったん休むよう働きかけができるようになるかもしれません。

ほらほら。
人が今まで「勘」でやってきたことが代替してもらえることは、おそらく無限にある。

まずはコンピューターに支配されることを恐れるよりも「任せられること」を考える時代になるだろう。

自分たちの「色んな動作」をどんどんとお任せして、いよいよ「人工知能」が何かの判断をできるのか、という問いにたどり着く。
それまではどんどんやって貰えばいい。
というか自分の仕事は「やれるんでは?」という目で見直すべきだと思う。


「AIを使って何かやって」と言われたら?〜「ディープラーニング」

「ディープラーニング(深層学習)」とは、コンピューターが多くのデータから自動的に特徴を抽出し、学習する仕組みのことです。学習の指標などを人間が指示する必要がある「機械学習」をさらに発展させたもので、人間の脳神経回路をまねて作られたアルゴリズムを多層構造化した「ニューラルネットワーク」という枠組みが使われています。これにより、どのような点に注目すべきかを人間が教えなくても、コンピューターが自ら学習し、その性能を高めることができるようになりました。

「AIを使って何かやって」と言われたら?ディープラーニングは人事の仕事を変えるか

AI(人工知能)とは、人工的に人間の知能を模倣するための技術全般を指します。ディープラーニングは、そのAIを大きく進歩させた技術の一つ。例えば、これまで「猫」の画像を識別させるには、「耳」や「目」のかたちなどの特徴を、法則としてあらかじめ教える必要がありました。その基準に照らし合わせることで、コンピューターはそれが猫の画像かどうかを識別していたのです。猫の画像を「犬」や「虎」の画像と間違えないようにするためには、より正確に特徴を計算するプログラムが必要だとされていました。ところが、ディープラーニングの登場によって、大量の画像からコンピューターが自ら特徴を見つけ出し、学習することで、画像を識別できるようになったのです。
このディープラーニングを用いて注目されたのが、囲碁AIの「AlphaGoアルファ碁)」です。盤面が広く、着手可能な手が多い囲碁では、「コンピューターが人間に追いつくにはまだまだ時間がかかる」という説が一般的でした。ところが2016年、ディープラーニングによって進化を遂げたAlphaGoが、囲碁世界チャンピオンのイ・セドル氏を破ったのです。これによって、ディープラーニングはその名をとどろかせることになりました。
インターネットが浸透したことで、世の中は大きく変化しました。同じように、新たなテクノロジーであるAIが進化することで、社会に大きな影響がもたらされることが予想されます。膨大なデータから特徴を抽出し分析を行えるディープラーニングは、分野によっては人間以上の能力の発揮が期待できます。
近年、「HRテクノロジー」として、この技術を人事領域に応用することへの期待が高まっています。人工知能研究の第一人者である東京大学大学院 特任准教授の松尾豊氏は、ディープラーニングを人事領域へ活用することで、生産性の向上が期待できると語ります。例えばモニターを通して従業員の表情を分析し、毎日データを積み重ねることで、「〇時〇分になると集中力が切れやすい」といったことがわかるようになります。集中力が落ちた従業員には、いったん休むよう働きかけができるようになるかもしれません。
こうした分析を行う前に、まず重要なのが、自社の人事課題を知ること。それによって、課題解決に向けた手法として、ディープラーニングなどのAIの活用を考えることができます。これまで人間の力ではできなかったことを可能にする新たな技術を学び、取り入れる姿勢が、企業に求められています。

2018-07-26 格付けさま。

[]信用こそワタシ。 信用こそワタシ。を含むブックマーク 信用こそワタシ。のブックマークコメント

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10年ほど前に「知らない人に会う前にその人をググってから」というのが流行っていた。
そもそも検索して出てこない人は旧人物、というわけだ。

ネットは醜聞も広がりやすいが、少なくとも「確かなレーティング」はどんどん進む。
今は金融機関が持っている「クレジット」とか「犯罪歴」とか「病歴」とか「職歴」とか。

格付けはどんどん進む。
すでにネット通販では、頼んでもいないのに「あなたはシルバー会員です」とか言われている。
いろんな「自分の格付け」がほとんど露出されるのはそう遠い将来ではないと思う。

「格付け」こそが「未知の相手に自分を証明する」唯一の手段になってくると、もはや「格付けこそ」が自分のアイデンティティになってしまいそうだ。
酒癖が悪く、出入り禁止になったりしていると街中の居酒屋にも入れないかもしれない。
サイバー社会の恐ろしい部分である。

「私」が奪われる(3) AI依存どこまで マネー・信用…人生すら
 2017年12月、米ロサンゼルス近郊。3カ月に及んだ人工知能(AI)の国際競技が幕を閉じた。世界90チーム以上の技術者が集結したが、人は脇役。戦いはAI対AIで繰り広げられた。

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 「現金支払機の画像にフィルターをかけ、防御システムを欺け」。課題を受けたAIが見えない空間で超高速の自動攻撃を繰り返す。街頭の監視カメラへの応用を想定した競技だ。攻撃側が認識を狂わせるノイズを埋め込むと、防御側のAIが検知してはじき出した。

猛烈な成長速度

 大量のデータを操るAIが進化し、いつの間にか人知を超えた力を持つ。そんな「データエコノミー」が実現し始めた。

 6月13日、米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長の記者会見。その中継をじっとにらんでいる「目」があった。中国香港に拠点を置くベンチャー、エモティクスのAIシステムだ。

 「賃金上昇には時間がかかる」。パウエル氏が答えた瞬間、AIが反応した。人の目には冷静に見えても、見逃さない。眉間に一瞬、刻まれたしわや口元のゆがみを検知。AIは会見中、賃金上昇の鈍さにいら立ちを示す「嫌悪」の感情を計15回、読み取った。

 経済予測に役立つ金融トップのデータはヘッジファンドに高く売れる。野村証券の水門善之氏も、欧州中央銀行のドラギ総裁日銀黒田東彦総裁を分析する。

 「0.2秒ごとに表情を読み取る」(エモティクスのレイ・ホーラン最高経営責任者)、「一瞬の表情が感情のデータになる」(水門氏)。何事にも動じないポーカーフェースの特訓を受けても、AIは新しい癖を学習し先回りする。

 AIの力にあらがえないなら、その力に乗る方が賢明かもしれない。

 「点数を上げるために頑張った」。中国・上海の男性会社員、蘇静さん(仮名、35)が気にする点数はアリババ集団の「芝麻(ゴマ)信用」。一人ひとりのユーザーを950点満点で評価する。

 学歴や職歴から資産内容まであらゆる情報を提供。対話アプリは高評価の友人とだけ、公共料金税金は滞納しないよう心がけた。アリババのAIはブラックボックス。評価対象は不明だが「優等生」として振る舞う方が有利な傾向はあった。

口コミより信用

 点数が765点まで上がった蘇さんは、電子決済の与信枠が600点台だったときの2000元(約3万4千円)弱から1万5千元に上昇した。

 点数は1億人が登録するお見合いサイトにも掲載され、AIのスコアが口コミより高い信用力を発揮する。そんな状況は不気味でも「実利があるなら構わないという人が増えている」(上海在住のコンサルタント)。

 気が付けば生活のあらゆる場面にAIが浸透し、AIに支配される時代が訪れようとしている。ただその判断は常に正確とは限らず、往々にして偏る。どこまでをAIに委ねるのか。真剣に考え始めるときだ。

(関連記事企業2面に)

2018-07-25 社会保障費を増やさない魔法の計画。(2)

[]福祉の国。 福祉の国。を含むブックマーク 福祉の国。のブックマークコメント

日本は世界でも有数の安全な国だが、最先端の「超高齢化の国」でもある。
ここでも一矢報いたい。

国の社会保障費はこれから20年で、今年の"国家予算の倍(190兆円)"ほどにもなるらしいが、慌ててもいけない。
自分は公務員の半分ほど、を「高齢者サービス・介護」に向けてはどうかと思う。

今の行政制度を見れば分かるが、もう各省庁の「法律と規則」のがんじがらめ。
今更一つ一つの法律を撤廃しても間に合わぬ。

公務員、「340万人・40兆円」という国内最大のリソースを、リストラすることなく活用するべきだと思う。

間接部門で働く公務員が、介護や高齢者問題の現場で活躍するようになれば、日本の経営史上の大金星になるだろう。
若者も安心して介護保険料を支払い、安心して老後を迎えるようにしなければ。

政治家はそのくらい大きなグランドデザインを描かねばならないのではないだろうか。

2018-07-24 社会保障費を増やさない魔法の計画。(1)

[]安全な国、ニッポン。 安全な国、ニッポン。を含むブックマーク 安全な国、ニッポン。のブックマークコメント

"国の安全"は、すぐには作れず、また断然、それは構成するコミュニティー(地域)の質に左右される。

そんな国の文化と言ってもいい特色は、実は立派な「売り物」なのではないだろうか。

GLOBAL PEACE INDEX(世界平和度指数)によると、日本の安全度は世界でまだ9番目だという。
指標には国の軍事費とか、警察官の数とか色々な指標があるようだが、

日本は世界トップクラスに犯罪が少ないのは間違いないようだ。
これって最高のアピールだ。

都市化が進み、最新の技術で進化しながらも、地方の田園都市のように治安がいい。

言うまでもなく、輸出するのは「安全」だ。
つまり「とっても安全な日本に移住しませんか?」ということ。
田舎でも都会でもいい。

それぞれのライフスタイルに合わせて、「安全と、食と、過ごしやすさ」をアピールする。
市町村は、それこそ自分の町のいいところを磨いていけばいい。

移民はいたずらに帰省するのではなく、こちらの文化圏に入って貰えばいい。
そのための工夫をこれからの自治体はしていくべきではないだろうか。

アイスランドデンマーク(安全ランク一位と二位)の地方村で、「移住の受け入れ」が盛んらしい、と聞けば「その村」へ興味を持つ人は多いだろう。
世界中の都市町村は、そんな「自分なり」を考えて外部に発信していくべきではないだろうか。

雑多でも静謐でも。
どんな街にも魅力はあるものだ。
(つづく)

2018-07-23 健康自己責任。

[]保険も合理的に。 保険も合理的に。を含むブックマーク 保険も合理的に。のブックマークコメント

自分でも見えてなかった「自分の健康状態とこれから」が、データ手動で明るみに出る。

「健康」が、個人の信用情報や価値で大きな比重を占め、様々な機関が自分よりも自らの健康やおおよその寿命まで把握してしまう。

そして個人にとっては、信用力を高めるため、将来かかりそうな病を予見し、発病を防ぐよう励むことが半ば義務のようになる。
病気で苦しむよりいい半面、どこかでデータに縛られ、生活の大枠が定められてしまうようにも感じる。

つまり「健康管理の自己責任」だ。
自ら自堕落に酒を飲んだり、メタボになったりしたら「保険」も高くなるのは道理である。
突発的な病気にこそ役に立つ保険だが「日常生活の怠り」は別物になりそうだ。

数値データに囲まれて、対策を取りつつ「できるだけ健康寿命を伸ばす」のがこれからの老人の義務になるのだろう。

シビアな「見える化」の時代でもある。

体重減らして保険料安く 第9部 老いも悪くない 健康寿命を延ばす

人生はいつも順風満帆とは限らない。思わぬ病気やけがで入院したり、介護を受けるようになったり。ライフイベントやリスクも人それぞれだ。超高齢化とデジタル化が同時に押し寄せる日本では、万が一への備えやお金に対する考え方も変わるだろう。

住友生命が開発中の保険商品はスポーツジムで運動すれば保険料が安くなる。ウエアラブル端末で運動量などを管理する仕組みを想定している(東京都墨田区)=浦田晃之介撮影

たとえば保険。運動や食生活を日々心がけ、健康の増進に取り組む人の保険料を安くする。そんな動機づけを契約者に与え、意識や行動の変化を促そうとする保険商品が日本にもお目見えすると耳にした。忙しさを言い訳に不摂生な生活を送る僕(34)は開発の最前線をのぞいてみた。

「契約者が健康になるよう自ら行動を変える。これは画期的な試みですよ」。近く発表するというサービスに自信をみせるのは、Tシャツにジャケットを羽織った姿が健康的な住友生命保険の小沢正樹さん(32)。若手を中心に自由に意見を出し合い、新たなサービスを練り上げる。

年齢や性別が同じだから一律の保険料でいいのか。生活習慣が違えば体の若さは異なるはず。一人ひとりに目を凝らしてリスクを正確につかもう――。それが出発点だ。

腕に巻いたウエアラブル端末から毎日の歩数や心拍数を集め、健康診断書にある血圧や肝機能といった数値の変化と突き合わせれば、生活習慣病を患う可能性がある程度読めるという。そして多くの場合、運動や食生活を改め、喫煙やアルコールの過剰な摂取を控えれば、病気に悩ませられる可能性はだいぶ減る。

小沢さんは集めたデータをどう解析すると病気の発症率を正確にはじき出し、どんなインセンティブがあれば人々の意識を変えられるのか考える。ビッグデータ行動科学に詳しいIT(情報技術)のスタートアップ企業などとの交流で助言をもらっている。

平均寿命が延び続ける日本。およそ50年後の2065年には男性が84.95歳、女性は91.35歳となり、15年時点から4年以上長くなるという。厚生労働省によると、平均寿命から健康寿命を差し引いた年数は男女ともに10年前後。できるだけこの時間を短くすることが長寿化で世界の先を行く日本の大きな課題だ。

損保ジャパン日本興亜ひまわり生命保険では4月から、本人が亡くなると遺族に毎月の生活費を支給する保険で、身長と体重から割り出すBMI肥満度)などが改善したら保険料を最大3割安くする試みを始めた。

「体重をあと5〜6キログラム減らして保険料を抑えたい」。こう話すのは、5月にこの保険に入った不動産会社を経営する山口泰司さん(49)。身長174センチメートル、体重82キログラムで毎月の保険料は7千円近くだ。保険加入を機に自宅で筋トレを始め、飲酒も控えたところ効果が出てきたと笑う。

生命保険だけではない。自動車保険では、スマートフォンスマホ)など車内の通信端末で急発進や急ブレーキ運転操作から特性を点数として表し、保険料に反映させる動きが活発になってきた。安全運転を心がけるほど懐が温まるというわけだ。

さらにデジタル化が進むポスト平成の時代。SOMPOホールディングスでデジタル戦略を統括する楢崎浩一・常務執行役員(60)は、ただ保険金や給付金を支払うだけという従来型の保険は意味が薄れると説く。大量のデータから契約者のリスクを読み解き、一人ひとりに見合った保険料を値付けし、健康や安心へ導く。保険会社というより、コンサルタントのような世界だ。そんな世の中が来れば、急膨張する社会保障費も少しは抑えられるかもしれない。

「健康」が、個人の信用情報や価値で大きな比重を占め、様々な機関が自分よりも自らの健康やおおよその寿命まで把握してしまう。

そして個人にとっては、信用力を高めるため、将来かかりそうな病を予見し、発病を防ぐよう励むことが半ば義務のようになる。病気で苦しむよりいい半面、どこかでデータに縛られ、生活の大枠が定められてしまうようにも感じる。

運動しても体質的に数値が改善しにくい人や、数字に追われる煩わしさから逃れようと健康管理の枠組みから飛び出す人がいるかもしれない。そんな人が不利益を被ることはないだろうか。ヒトの意志の弱さを補う仕組みはありがたいが、一抹の不安もよぎる。適度な距離を探る試行錯誤が続きそうだ。

2018-07-22 所有の再定義。

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「放題」の時代に突入している。
飲み食べ放題、は昔からあるが「見放題、聞き放題、調べ放題、話放題」と大安売りだ。
そして「所有」という概念は確かに古いものになってしまった。すでに。

いつでも触れ、使うことができる。
昔はそれが「所有」ということだったのだ。
所有と利用、は同義ではなくなった。

いざ満たされて、そんな環境になってしまうと「所有」に固執していた飢餓感を滑稽にすら思う。
この感覚がもっと進めば、あらゆる欲望がなくなってしまうだろうか。
そして、その先にあるもののことを考えてみたいと思う。

広がるサブスクリプションモデル(1)「所有から利用へ」が背景 兵庫県立大学教授 川上昌直
近年、ネットフリックスのように毎月定額で映画・ドラマが見放題になる動画配信や、スポティファイなど聴き放題の音楽配信を利用する人が増えています。CDやDVDをあえて購入するファンは少数です。同様に自動車も所有せず、カーシェアで済ませるトレンドが広がっています。特に最近の若者は所有への興味が乏しく、「所有から利用へ」の傾向が強まっているといわれています。

一見新しい考え方のように思えますが、経営学の領域では以前から度々指摘されていました。「ドリルを買う人が欲しいのは穴である」。マーケティング関係者には周知のこの言葉をT・レビットが広めて半世紀になります。イノベーション研究で著名なC・クリステンセン教授の「人はジョブ(用事)を片付けるために商品を雇用する」という指摘も同様の意味です。

人は必ずしもモノそのものが欲しいわけではありません。自身の用事が片付くことを望んでおり、より良い解決方法があればそれを選択します。その方法として「所有よりも利用」を選ぶ傾向が過去10年で顕著になってきました。この要因として3つ挙げられます。

第1は、スマートフォンの普及です。2007年にアップルiPhoneを発売して以降、急速に普及し、今では誰でもどこでもインターネットを利用できるようになりました。第2は、08年のリーマン・ショックを契機とする世界経済危機です。多くの人々が消費を控え、無駄をなくそうとするようになりました。第3は、2000年以降に成人となったミレニアル世代が消費の中心になってきたことです。デジタルネイティブの彼らは買い物などあらゆることをネット上で片付けることに抵抗がなく、むしろその方が自然になっています。

「所有よりも利用」という消費形態の変化に対応し、企業も「売り切り」から「つながり」重視に移行しています。その結果、企業と消費者を「利用」で結びつけるサブスクリプション(継続購入)モデルが急拡大しているのです。

かわかみ・まさなお 兵庫県立大博士。専門はビジネスモデルマネタイズ

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