藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

究極の俯瞰ツールか


プロ弁護士の仕事術(矢部正秋著)を読み込んで、いろいろと感銘を受けた、が
一つだけ「自分の実体験」としては共感できなかった部分。

『俯瞰して見る』こと。
これは、弁護士である著者が五十歳を過ぎてようやく到達した「奥義」のようなもので、
何度読んでも「ふぅむ。なるほど。そういうものか」というのが正直な感想だった。
(何度もしつこいが、著者の苦節の経験を、数百円の本で知ることができる。これがタイムマシンでなくて何だろうか。)



自分のキャリアからすると、まあ無理もない。


「プロ弁・・・」読んで以来、折に触れて「俯瞰するということ」が頭をもたげてきたが、最近ちょっと気づいたことが。


友人との会話



先日、昔ながらの友人にこのブログのことを尋ねられた。


「何か人に伝えたいことがある(から書く)のか?」。


これに対し、
・思考の補助ツールになる、とか
・口幅ったいが、なにか後世に遺したく、とか
・未知なる出会いもある、とか
・メモにもなるし、とか
・仕事で名刺がわりにもなるし、とか
・自分が死んでも残るし、とか


まあ、いろいろ説明してた。

ウェブ進化論、でも「ブログは恐ろしい勢いで自分を成長させる」
と書かれていたが、この表現も同じく「なぜだろう?」と感じていた。



本当にブログは書く人を成長などさせるのだろうか?確かか?、と。


最近、何となく感じてきた。


こんな使い方



先の「プロ弁護士の思考術」。


著者の究極の境地である「俯瞰思考」。

もしブログに「自分の思想や思考、をエントリし続け」、


仕事や、
家族や、
友人や、
政治や、
文化や、
宗教や、
外国や、
自然や、
人生など、


自分が「生きる中」での思いを日々(リアルタイムに)綴っていけば、
ブログはかなり「自分自身の思考」をあらわす存在になる。



そして、それをある時、なにかのタイミングで振り返ってみる。


そこにはまさに「プロ弁・・・」の指摘する「自分をも含めた俯瞰」の景色があるのではないか。

ブログ、という媒体に自分の「映し身(移し身か?)」を作り、自分も「第三者」として捉える。

「プロ弁・・・」の著者がいう最も難しいとされる「自分をも含めた俯瞰の目」。
ある意味、究極の問題解決法、とも思われる技術を身につけるのに、ブログはうってつけのツール
なのではないか、

と思った次第。


移し身、を作るのも、なかなか大変なことではあるが。


自分なりの「ウェブ時代をゆく」についてはまだまだこれからのテーマのようだ。