藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

幸せへのパスポート

ある日、このブログをよく読んでいるというS君からいろいろと質問を受ける。



体力的な衰えの感覚ってどのようなものですか?とか
二十代、三十代の人生観ってどんなものでしたか?とか
ブログの想定読者はどんな人ですか?とか、いろいろ。




なんだか、一方的にこちらが放出していることが、きちんきちんと伝わっているようで、妙にうれしかった。



そして彼はいう。
「この間、月曜日の憂鬱の話、ありましたよね。ボク、あれないんです。なんか仕事にいくが嬉しくて。休みの日でも出勤しようかと思うくらい。」


そう話す彼女の横顔を見て、ふと。


こいつの回りは、実はそんなに楽しいことばかりなのか?
いや、そうではないだろう。


人から頼まれた仕事や、イヤな客だっているだろう。


そうか。
こいつは「楽しんで」いるのだ。


褒められることや、自分のスキル向上になること、好きなこと。
そんなことばかりじゃなく。


怒られたこと、なじられたこと、八つ当たりされたこと。
地道な書類作りや調べもの。
上司への根回しや会議の手配。


そんなこと全部を「楽しみ」という角度から「みる目」を備えているのだ。
こいつは。

「おしごと」の先

こんな言葉をよく聞く。


どんな仕事でも「ため」にならないものはない。
だから、どんなことにも「面白み」は見つかるものだ、と。


土にスコップで穴を掘る仕事なら、それで通した土管で水道が整備されて暮らし向きがよくなったと喜ぶ人がいる。
雨の排水がされることで家が浸水することもない。
なかなか世の中のお役にたっている。


それに、身体を使うから運動不足にもならず健康だ、と。


それはそれでよい。


けどその先。


「そんな自分の仕事は、楽しくて仕方がない」という目。


これを持ちたいのだ。



考え方だけで、景色は一変する。


このことは、意外に知られていないと感じる。


自分を回想

つまらぬ日常を嘆き、
政治に不満をこぼし、
家族や部下に当たり、
そして、そんな自分を呪う。


ともすれば、閉塞感からそんな気分になる。


ふぅーむ、と何かひっかかる。




そうか。


思い返すに、自分の高校時代。
あん時がそうだった。(醒)


(以下回想)
公立の志望校に落ち、全然行きたくない私学の男子校へ。
自分が思い描いていたキャンパスライフ(何じゃそりゃ)は海の藻屑と消えた。


待っていたのは頭を丸刈りにし、毎朝般若心経を読誦をする、当時の自分からするとほとんど「刑務所」なみの待遇だった。


毎日は面白くも何ともなく、惰性。
適当に勉強するけれど、とても力など入らず。


成績も下がってくるわ、そりゃ面白くもない。
重い教科書を持ち運ぶ気力もなく、学校の靴箱にキープしていたら、ある日ガサ入れ。


摘発、逮捕されて本校初の「永久掃除班」という非人道的な刑罰を受けて、以後卒業まで体育館裏の掃除をするハメに。


灰色度は最高潮に達する。
放課後、もう一人の共犯者I君と掃除をしながら、おれ達の人生なんてこんなもんだよな、などと愚痴っていた。
(回想おわり)


あの時の自分に言ってやりたい。

おーい。
これから驚くほど「いいことも悪いことも」あるぞー。


から、今のお前みたいにくすんだ顔して、くさっているのはエラい勿体ないぞー。


から、読書とか、勉強とか、音楽とか、スポーツとか、恋愛とか、後悔しないように一生懸命にしといたほうがいいぞー。


そうそう、今お前のやってる「永久掃除班」だって、日本一の掃除スキルをつけてやる、とか箒で手首と腕と足腰を鍛える、とかそんな風に考えて「楽しみながら」やらんかい!!


人間、その気になりゃ楽しいもんだぞー。と。

幸せへのパスポート

なんの話か。


笑う門には福来たる。
というのは真理だった。

「今を嘆く」ことと
「今を楽しむ」ことは同じ角度で対角にある。


そこで、今を徹底的に楽しむのだ。


事実、自分の「つらい体験」はその後に起きた困難を乗り越えるための練習になったことはしょっ中だし、またそんな体験がなければ、「その後のさらなる発想の進化」へ至らなかった、などということは実によくある。


まこと人生はあざなえる縄、であり、万事塞翁が馬、と思う。

辛いことも、楽しいことも、「楽しむ」。
これは人の持つとても大事な「能力」だということにようやく気づく。


辛さを耐え抜く原動力にもなる。
順調に驕らず、自重するブレーキにもなる。



世の中は楽しいことで満ちている。