人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し(東照宮遺訓)
急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし。
先人の実感
またヘンな話だが、「どう生きる」とか「どんな風な人生を」とかに悩まず、いや悩もうともそんなものを「吹き飛ばしたりまあいいや、と先送りしたり」できる。
それが若い、ということ。
(懐古趣味のジジイではないつもりだ)
そして、ちょっと年を取ってくると「ただ生きる」というのが、浅い川の中を歩くような抵抗、を感じるようになる。
そして、だんだん深い川の中になり、そしてそれが坂道になり、背中に荷物が乗り、それがとても重くなり…というようなものらしい。
そうか。
坂道か。
だんだん「勾配がキツく」なり、背負うものがおもくなる、というのが正しそうだ。
そうして、「あれ、少ーし登り坂かな」と感じたのが自分の場合、40才。
(もっと早く気づいてる人もいるだろう)
それから、というか、これから。
ゆるゆると勾配のつく坂道。
だから登るには「力」が必要だ。
まあこれまでは完全な平地(あるいは幼児期などは何も考えずに坂道を降りていたようなものか)だったので、まあ「惰性」でもやってこれたのだ。
今思いついたが、そうすると
人生は、最初は「急な下り坂を降りる」ごとく、自然(の法則)のままにテクテクと歩き(0-10才)
次に義務教育などはじまり、「緩やかな下り坂をゆく」、くらいの感覚で過ごし(10-20才)
次に働き始めて、社会に「より本格的」に関わるようになって「平地を自分の力で歩く」ようになり(20-30才。でもまだ下りの「慣性」は少し残っている)、
次に結婚などしたり(しなかったり)して自分が「推力を持つ」ことが必要になり(30-40才)、実はこの時点ですでに「緩ーい坂道」を登りはじめているのかもしれない。
ようやく40代では「登り坂」を明確に意識する。
そんなことなのだろうか。
で、これからは段々キツに道のりなわけか。
負けんぞ。
さて、五十代の「勾配」はいかほどだろうか。
また「老境」に入ると、ただ坂がキツい、ということでもなさそうだが。
これは先人に聞いてみたいところ。
こんな一般人の感覚にブログなどで反応している記事も多い。
これまでにない細かな、それぞれの人生の思いに、それぞれの人が触れ合っているような気もする。
それなら、それがネットの恩恵というものだ。
事実、自分もずい分いろいろ教えられているもの。