藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

苦労、来い。苦労、恋。


因果なものだ。


短くもないこれまでを振り返って。
ぬるま湯のような学生時代でも、受験とか、いじめとか、失恋とか、何かそんな「挫折」が図らずも「考える契機」になっていることは疑いの余地がない。



逆に何か小ちゃな「シアワセ」を感じているようなときには、間違いなく「精神の成長」はない。
うれしい時、楽しい時、気持ちのいい時、は間違いなく「間伸び」している時間だ。

苦労を買うこと

「幸福は身体にとってはためになる。
だが、精神を成長させるのは悲しみである」


マルセル・プルースト

で、何なのか。
成長していたい、と思うならそんな「間伸び」を極力許さず「徹底して自分に負荷をかける」ということになる。

わざわざ、自分で自分に負荷をかける、のか。
わざわざ「苦労をかって」背負い込む。

「あえて難路を行く」と表現した先人もいた。


何ともはや。
なぜそんなことになるのかというと前述のとおり。
つまり「精神的な成長」を志向するのであれば、「負荷をかけ続ける」しかない。
わざと。


ずーーーっと修行。(黙)
いやなら、休めばいいか。

で休んでいるときはどんな気分?
休めているのか。
楽しいだろうか?

いや。
もうだめだ。
「その時」は「停滞そのもの」であることを、もう自分は知っているもの。
休んで楽しい思いをしているときには、もう同時に「沈滞している自分」を見ることになる。

修行のペース

そう。
もう休めないのではないか。
ずーっと。


禁欲主義者なんかではさらさらないが、気になり始めると困ったものだ。


あー疲れた、ちょっと休むか。
で、休んでいても「気が」休まらない。だから休むなら
「ものすごく覚悟をきめて」休む。


逆には、「ゆっくりゆっくりでも常に走り続ける」ということなのだろう。
妙な理屈に気づいたものだ。


永遠に走る、と考えるとちょっと脱力しそうになるが。