藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

大人の本音

因果なものだ。


好きなことを好んでする。


集中的にする。

「好きこそものの上手なれ」で、その分野が伸びる。

伸びるとまたその「深さ」などが分かってきてさらにのめりこむ。
そんな循環がある一方。


苦労をする、と成長する。

ということが遅まきながら分かった。


単純にその理屈を展開すると、「どんどんどんどん苦労せよ」ということになる。
進んで苦労を買うのか。


わざわざ。
ということになって。
まあ気の毒なことだ。


自分の苦手な分野に、どんどん苦労をしてゆくのが果たして本当にいいのか。
まったく興味の要素がない分野に無理やり苦労を買って出ても、それは違うような。


「苦労は買うてでもせよ」のセオリーはどこに当てはまるのか。

ある範囲の射程

確かに、苦労した分だけ、
悩んだ分だけ、
人は成長する。


因果なものだが、真理だ。
なので「買ってでもせよ」となるのは、正しい。
何の苦労でも、ためになるのか?と考える。
極論すれば「ためになる」と思う。


ただ。
時間も有限だ。
「苦労は"狙う畑"でとことんせよ」というのが本筋か。


どんな苦労も自分には肥し。
ただ滅多やたらに苦労しても、その成長が実感できないこともある。


「苦労は買ってでもせよ」は「自分の分野」で絞ってこその黄金律だろうか。

しかしながら、まったく異分野の苦労だって、将来何かの役に立つことって意外に多いが。


何にしても、苦労をわざわざ買いに行く「人」というのもその存在に因果な業を感じる。


つくづく不思議な生き物か、と。