苦労は買うけど。
「苦労は狙った畑、でせよ」。
無差別に苦労ばかりしょってても、あまり効率がよくない。
ある意味正しい、と思う。
が。
その「狙う畑」がそもそも合っているかどうか?という判断はかなり怪しい。
なんせ自分のことである。
一番よく分かっているようで分かっていないのが自分なのだ。(ということを自分は最近分かったのだ)
自分では「狙った畑でガシガシ苦労してるゾ」などと思っていても、実は、じつは「別の苦労から逃げてるだけでショ」ということは十分にあり得る。
グランドデザインの重要性
たとえば。
あるSEがいるとする。
たいていの場合、SEが苦手なのはマネジメントとかコミニュケーションだから、むしろ「そんな畑」を避けて、例えば技術一辺倒にかたむく。
その結果、十年もたつと「かなりオタクな、でも技術に優れたSEさん」が誕生したりする。
それでいいのだろうか。
いいのかもしれない。
問題なのはその「狙う方向の確かさ」である。
将来像がそもそもズレていては、間違った方向に大砲を撃つことになる。
こういう全体像のことを「グランドデザイン」というとぴったりくる。
すべてはこの全体像、をイメージして進めねばならない。
これこそが目指すべき自分の将来像なのだ。
自分の十年後はどんなだろうか。
二十年後は。
三十年後は。
自分など54の自分の輪郭、はもう一度考えてみたい。
大体のボンヤリした雰囲気は浮かんでくるのだが、これはなかなかに重要なテーマだ。
おそらく、これから十年が「しゃかりき」でいられる最後の年齢帯だから。(真)