藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

山の作り方


ダメにきまっている。
と思った時点でダメになった。ということを先日書いた。



不可能は可能にできること、と同じだが。


もし今、
こんな話を「企画・商品化」できる人がいて、
こんな営業マンがいて
こんなSEがいて、
「このぐらい」お金を投資してくれる人がいて
それでこんな事務スタッフがいて


そしてなんとお客までいたら。
成功するのに。


という話はよく聞く。


ならおやんなさい。
理論を実践にシフトしていくところから、目に見える動きはスタートする。



おさだまり。


進めるうち、まるで自分たちに纏(まと)わりつくように、いろんな「困難」が起こる。
いわゆる「引っかかり」。


抵抗は大きく、ついつい弱気になったりしがち。

「考え抜く」ことと「手を動かし続ける」こと、で制約は必ず取り除けるものだ。
この事実を確信できるか否か、は結果の白黒を左右する、と思う。


なによりスゴいのは、それを繰り返すうち一定の「閾値」に達し、周囲の人は突然それに気付いて「成功だ!」と騒ぐのではないか。


何かをのたまい、
何もしない人、はそのままだし、


何かを思い、
何かをし続ける人、は奇跡すら起こす。


そんなことが分かってしまえば、いろんなことを考え、「何をしていくか」ということにも迷いがなくなる。
いわゆる「プラスの連鎖」状態だ。


「自然は飛躍しない」は近年知ったお気に入りの言葉だが、
景色が変わってみればタダそれだけのこと。


どうして二十年前はそんなことに気づかなかったのだろうと真に不思議だが、致し方なし。(嘆)


山は徐々にできる

で「積み上げ」はかならず積み上がる。


最初はいろんなところに、何箇所も積み上げ始めていてよい。
そのうちグズグズッと地すべりを起こしたり、ガサッと倒れたりする塊もあるだろう。


そして考える。
この山はこのまま「積んで」行くべきか、それとも積む「方向」を変えるべきか。
ほかの山と一緒にできないか。


毎日その「積む角度」を考えながら、それでも毎日チクチクと積み上げ。
だんだん平地から膨らみを持ち、小さな盛り上がりはいずれ丘に。


それでも人は気付かない。
で、ある日突然できた「山」に驚く。


「山が突然できた」とその山を眺めたり。
ぜひとも「見上げる側」ではなく、
作る側になりたいものだ。

人知れず、こつこつとした山づくりは、ある種の浪漫でもあり。


あ、でも「見下ろす側」でもなく。
もうその時には「周囲を見下ろすこと」には興味はなくなっているだろう。


まったく「その当時」には気づかぬものだが。


人はいくらでも「精神の積み上げ」が利く生物なのだな、などと思う。