藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

行儀、再考。


最近、自分の住むマンションで最近エレベータや受付ですれ違う人に「おはようございます」「こんばんは」「お疲れ様です」と声をかけるようにしている。
これまで皆無だった挨拶は意外に返事が返ってくるものだ。

自分たち昭和中期の世代の先輩たちは反戦、ヒッピー、反体制、と一しきり「反抗」してきた人たちだった。
そこには、「ただひたすら、形成されつつある"権力というもの"への抵抗力、拒否感」といったものもあったのだと思う。

そして、その二十年後に自分は生まれた。
たった二十年でずい分様子は変わったのだと思う。
高度成長期を経て、ついにはバブル経済なども経験し、またそれも崩壊し、さらに国際経済時代に入り、金融もグローバル化を叫ばれ、中国を先頭に新興国が台頭し、ようやく今に至る。

二次大戦後、いわば「次々に新しい局面」を迎え、時々の「働き盛りの人たち」はそれに対応してきた。
そうした変転が、そろそろ落ち着き始めているのではないだろうか。
4年前の日本に起きた震災がその契機かどうかはともかく。

金融や、実物経済の市場が「ずっと伸びてゆく影」ではないことが、段々とはっきりしてきている。
そうした共通認識が形成されてゆくときに、経済成長でなく頼れるものは、実は前世代の「行儀とか手順」ではないかと思うのである。

伸びる一方では、むしろ軽んじられ、疎ましいとさえ扱われた、「他とのコミュニケートするためのルール」が、今これから再び重用されるのではないかと思うのだ。
つまり「どんどん外ばかりを向いて振り返らないふるまい」はもう許されず、「既存のコミュニティで円滑に過ごしてゆくための常識やルール」がようやく整備される時代に入ったという意味でもあるだろうと思う。

街場で人とすれ違ったり、ご近所さんやお隣さんとの挨拶とか最低限のルールも、これからこそ重要な共有行為になってゆくのではないだろうか。
「隣の他人、職場の他人」とか「家庭内の他人」という究極のアイソレーションから、再び我われは「よりよい村社会」へと新しいルールを模索するのかもしれない。