藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

やるかやらないか。

糸井さんのコラムより。

覆水盆に帰らず、という黄金句がある。
誰もが知っている。
問題は「だからどうするか」ということなのだ。

ひとつずつ手を打っていくというのは、簡単じゃない。
 それよりは、ひっくりかえった水について、
 あれこれ言ってるほうが簡単なんだよね。

結局この一言に尽きる。
"挑戦する側の人"とまあ"批判する側の人"。
世の中は結局こういう「対岸に立つ」という縮図に分かれることが多いものである。

自分はどちらに立っているのか。
自分はどちらに向かおうとしているのか。
知らずうちに「あれこれ言う側」に立って騒いでいる自分にならないように注意せねばならない。
雄弁は銀でしかないのである。

・痛恨の出来事があった、なんていうとき、
 「ああ、1日前にもどれたらなぁ!」
 なんて思うかもしれないけれど、
 1日前どころか、1時間前にも、1分前にも、
 1秒前にももどることはできない。
 
 口から出たことばは、
 1秒前にもどって呑み込むことはできないし、
 人を殴った拳も、引っこめることはできない。
 クルマのハンドルは切り直すことはできないし、
 ひとつの角を曲がり直すこともできない。
 この「もどれない」「できない」については、
 いい考えなんかない、あらゆる方法は役に立たない。

 どこがよかった悪かった、だれのせいだ、
 おれは前から反対だった、ああもうダメだ‥‥って、


 1秒前にももどれないという事実を前にして、
 まっさきに知っているべきことは、
 その1秒前にももどれないということです。
 そして、どうすればいいのかなんですよね。
 
 「覆水は盆に返らず」って昔の人も言いました。
 冷徹です、現実というのは。
 だけど、ぼくらは、ひっくりかえった水を前にして、
 あれこれ考えたり、しゃべったり、叫んだりしてしまう。
 「ここから」どうするか、手を動かし足を動かしながら、
 この先のことを考えていかなきゃならないのにねぇ。
 だけど、この先のことを考えて、
 ひとつずつ手を打っていくというのは、簡単じゃない。
 それよりは、ひっくりかえった水について、
 あれこれ言ってるほうが簡単なんだよね。
 
 チームの仕事のなかでも、個人的な日常のなかでも、
 「やっちまったなぁ」ということは、いくらでもある。
 でも、ほんとに、そこからあとが問われるんだよね。
 それは、たぶんなんだけど、
 失敗や挫折だけじゃなく、成功や栄光についても、
 同じかもしれないなぁと思うんだ。
 その、いいことでもわるいことでも「やっちまった」、
 そこからあとの時間をどう過ごしてきたか、だよなー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ほんとに、「いま」と「いまから」が、大事なんだよね。