「電車のなかで目の前にいる人たちのことを想像する。
どこから乗ってどこへ行くのか。
どういう職業で、さっきまでなにがあったのか」
というようなことを、勝手に考えることが、
いいコピーを書けるようになる練習だと教えられた。
という一節を読んでふと気づいた。
最近自分は待ちゆく人の顔をよく見ていることに。
美人かどうか、とか男前かとかいうことじゃなく「表情」が気になるのだ。
その先には「楽しそうかどうか」を想像している。
今どちらかというと楽しい気分か、あるいはその逆か。
街中の景気判断ではないが、すれ違う人や電車の中で見かける人をそんな風に見ている。
案外楽しそうな人は少ない。
むしろデフォルトで厳しい、つまらなそうな顔をしている人が増えてるのじゃないか、などと思い始めた。
時代がそんな風にしているのだろうか。
やっぱり景気は良くないのかなあ、などと考えいてさらに気づいた。
それって自分がそんな風に人を見ていることが原因じゃないかと。
道端や電車の中でにゃはにゃは笑っている人などそもそも少ないわけで、実は自分が他人の表情を気にするようになっているのだ。
なぜだろう。
多分、「自分の表情」が気になり始めたのだ。
自分の顔の美醜について考えることはあったけれど「どんな風な表情か」をあまり気のすることはなかったと思う。
つまりいよいよそんな年になってきたのだと思う。
壮年後の顔は自分の責任、という言葉があるけれど、いよいよそんな時期にきたか。
他人の表情観察を無意識に始めていたわけは、結局自分の表情を心配していることの反動だったのだ。
(つづく)
・若いころ、コピーライターの講座でだったと思うけど、
「電車のなかで目の前にいる人たちのことを想像する。
どこから乗ってどこへ行くのか。
どういう職業で、さっきまでなにがあったのか」
というようなことを、勝手に考えることが、
いいコピーを書けるようになる練習だと教えられた。
これは、コピーライターになるためというより、
なにをする人にとっても、いい練習になると思う。
どこから、どこまでを想像できるか。
次々になにか気づいては、それに答えていく。
それを何度も何度もやっているうちに、
じぶんの想像(というか妄想かな)が、
あんがい凡庸であると気づいたり、
じぶんのこころに潜んでいる悪意のかたまりを発見する。
また、他の人が想像する「目の前にいるモデル」と、
じぶんの想像がまったくちがうことも知る。
どういう人が想像しやすいのか、なんてことも思うし、
「人はみんなちがう」ということについて疑ったり、
どういうことが同じなのか考えたくなる。
もともと無意識で、みんながやっていることを、
意識的にたくさんやることが、練習になるのだ。
想像を口に出さないかぎりは、迷惑もかからず、
いくら遊んでいても無料のゲームである。いつのまにか、その練習はあんまりしなくなったけれど、
別の練習問題を解きたがるようになっていた。
いろんなモノをながめたり、さまざまな店に入って、
あるいはニュースや相談事を元にして、
「じぶんならどうするだろう」と考えるのだ。
もっと繁盛させるには、なにか惜しい部分をどうするか、
じぶんが批判している問題を
じぶんだったらどうすればよかったというのか、
日々の世間は練習問題だらけなのだ。
これは電車のなかの妄想よりもずっとむつかしい。
解決の第一段階くらいはシロウト考えで思いついても、
多少でも本気で考え続けたら、
実は次の段階の答えが出せなかったりする。
流行らない食堂のことひとつでも、
ほんとうに「よい道」を行かせるのは大変なことだ。
練習問題を次々に解こうとすることは、
じぶんの「あんがい情けないこと」を知ることになる。
いやいや、だからこそ、練習なのだ。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんのことだって、解決できる問題って少ないもんねぇ。