藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

できないこととの選別とか。


糸井さんのブログより。
明らかに物理的に難しそうなこと。
コラムでは100mを9秒台で走る…確かにこれはムリそうだ。
けど「新しい事業で物々交換サイトを立ち上げる」とか「世界中の占いができるサイトを作る」とかは絶対に出来ないことでもなさそうだ。
「世界中の音楽を定額で聞き放題にするサービス」は絶対無理と言われていたけれど、今は幾つもある。

案外できることって多い。

ついつい日常で「これってできるかなあ」「やっぱり難しいかなあ」と自分もよく考えるけれど、(というか毎日そんなことの繰り返しだ)「本当にできるかできないか」を考えれば日常の思い付きは出来ることの方が多いのじゃないだろうか。

ついつい、「今の環境の延長戦で」とか「今の自分たちの資金力や人材で」とか「自分の今の人脈では」という"目に見えない前提"を予め自分に当てはめてしまっている。
大人の峻別と言えばそうだが、「ごちゃごちゃ言わずに突進する」という一途さはかなり失われているようだ。

本当に「出来なさそうなこと」に、一身を投じてそのまま玉砕するのは、今の時点から考えると無謀なことには違いないが、例えば二十歳の人がこれからの五十年でどんなことをしようか、とか
五十歳の自分があと二十年で何ができるのだろうか、というようなことはもっともっと想像を膨らませていいテーマではないだろうか。

貪欲であれ、無謀であれとジョブズは言ったけれど、これから何十年も生きていくのであれば自分の到達できる範囲って案外もっと広いのかもしれない。
だからと言ってそんな挑戦が幾つもできるわけではないだろうけれど。

・できないこと、不得意なことについては、
 どれだけがんばっても、なかなかできるようにならない。
 役割的には「できたほうがいい」ことなのだとしても、
 得意でないことは、やっぱりうまくできなかったりする。
 なにもかもできたほうがいいに決まってるだろうけれど、
 なにもかもできるなんてことは、ないんだよなぁ。
 悔しくても、残念でも、それは
 ひとつの重要な法則みたいなことだ。
 
 できること、できないことについて考えるとき、
 いつでも思い出すエピソードがある。
 ぼくの友人が、かつて、若い仲間たちの前で、
 こう言ったのだそうだ。
 「ものごとには、やればできることと、
  どうがんばってやってもできないことがある。
  100メートルを9秒で走れなんてことは、
  どうやったってやれないことなんだから、
  そういうことはやれなんて言わない。
  そうじゃなくて、やればやれることを、
  やれないと決めるのはダメだと思うんだよ。
  例えば‥‥んん‥‥たとえば‥‥
  (ポケットからタバコを取り出す)
  タバコをやめるなんてことは、できませんと言うけど、
  ほんとは、やればできることだろう。
  (一同、苦笑)
  いや、やればできることだよ、タバコやめるなんて」
 と、その場で持っていたタバコの箱をくちゃくちゃにして
 ゴミ箱に投げ捨てたのだという。
 「その日から、ぼくは禁煙したんです」
 というオチまでついている。
 
 この話で、「できること」の範囲というのが、
 あんがい広いものなのだということがわかる。
 しかし、また、それとは逆に、例えばね、
 「もっといつも愛想よくしていなさい」
 なんていうことは、あんがい、
 「できにくいこと」なのかもしれないとも思うのだ。
 ぼく自身、「できないこと」の数が多すぎるものだから、
 そのうちの、どれをあきらめて、どれを直していくのか、
 いつもなかなかなむつかしいところにいる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「できることをしよう」は、「できることを探そう」だね。