藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

希望は絶対値。


日経、プロムナードより。

そんな時、被爆者の手記にめぐりあった。
ある日突然、日本で最も理不尽に生活を根こそぎ奪われた人々。
被爆は延々と人生に影響を及ぼし、差別まで受ける不条理。只(ただ)ならぬ怒り、途方もない悲しみ、凄(すさ)まじい喪失。
真っ暗闇からどのような感情の変化を遂げ、人々がまた前を向いて歩けるようになったのか。
それを手記のなかに手探りで求めたのだそうだ。

凄まじい喪失。
もう自分たちは戦争という喪失を「リアルには知らない世代」に入っているが、それでも世界中で今なお戦争は進行中である。
喪失に遭って、潰れてしまうこともある。
そこから復活するには「他人から得た"遥かに過酷な経験"」を糧に驚き、再び「相対的」に自分を呼び戻すのだろうか。

あるいは「自分自身の心の中」で何か自立した活力を育てて、再び歩みを開始するのか。

敗北は何度したっていい。
希望がなくなった時が最後なのだ、とも思う。

自分のメンタリティが希望を見つけるか。
絶望に振れるか、は紙一重の表裏なのかもしれない。

忘れてはならぬ責務として心に留めるよりも、日々の暮らしの杖(つえ)として身近に感じる方が、よっぽど有意義ではないか。
かしこまる必要も、後ろめたい気持ちになる必要もなかったのだ。

希望を持つのに遠慮はいらない。

戦争との接点 ジェーン・スー
 自分以外の誰かに大切にされる経験は、のちに己をありのまま担保する礎となる。自己肯定力は漠然とした不安や恐れの少ない人生を歩むのにとても役立つ。

 しかし、せっかくの自己肯定力が無力化されるような経験が、成長過程において必ず起きる。ぞんざいに扱われ、謂(いわ)れのないことで責められる理不尽は世の常であるし、環境が変わり、それまで当たり前に手にしていたものを失ってしまう出来事などは、大人になればなるほど適応が難しい。

 先日、とあるプロジェクトでご一緒させていただいた方と食事に出掛けた。足掛け二年に渡ったプロジェクトは難産で、お互い大きな負荷と戦いながら業務を遂行した。以来、打ち上げをしていなかったので、こっそり二人だけでお疲れ会をやることにした。談笑は続き、一夜にして距離が縮まったと、私は嬉(うれ)しい気持ちでいっぱいになった。

 彼女には前々から尋ねてみたいことがあった。日本の近代史に深い興味を持ち、三十代にもかかわらず第二次世界大戦に詳しいのはなぜか。彼女は日本軍が関係する戦争映画が公開されれば必ず観(み)に行き、八月となれば戦争特番を片っ端から録画して観ていた。

 私の身近でそのような趣味を持っているのは、彼女だけである。距離が縮まった今なら、その理由を話してもらえるかもしれない。

 思い切って尋ねると、答えは意外なものだった。彼女が先の戦争に興味を持ったのは、ここ数年のことだそうだ。

 地元で働いたのち、三十代半ばでキャリアを捨て単身上京し異業種に飛び込んだ。最初はなかなか上手(うま)くいかず、年下に追い越される経験もあったと言う。家族と離れ暮らし始めた土地では、自分が役立たずに感じることばかり続いたのだそうだ。

 誰にも大切にされず、自ら決めた道とは言え「なぜ私がこんな目に」と茫然(ぼうぜん)とした夜もあったらしい。先の見えない不安に苛(さいな)まれていたのだろう。そんな時、被爆者の手記にめぐりあった。

 ある日突然、日本で最も理不尽に生活を根こそぎ奪われた人々。被爆は延々と人生に影響を及ぼし、差別まで受ける不条理。只(ただ)ならぬ怒り、途方もない悲しみ、凄(すさ)まじい喪失。真っ暗闇からどのような感情の変化を遂げ、人々がまた前を向いて歩けるようになったのか。それを手記のなかに手探りで求めたのだそうだ。

 戦後七十二年。あの日の日本と今日の日本は地続きであることを、頭ではわかっている。しかし「世界で唯一の」という重大な事実と、現在の私を紐(ひも)づける手立てがなく戸惑うことが少なくなかった。戦争体験の話を聞くたび、幸せに暮らす自分を後ろめたく感じた。加害者であり被害者であることに、私がどう責任を持てば良いかわからなかった。

 しかし、彼女はまったく新しい、私が思いつきもしなかった接点を戦争体験と作っていた。現在進行形の自分と、あの日の日本をしっかりと紐づけ、いまを生きている。いまに活(い)かしている。前を向くために。

 目から鱗(うろこ)が落ちる思いだった。忘れてはならぬ責務として心に留めるよりも、日々の暮らしの杖(つえ)として身近に感じる方が、よっぽど有意義ではないか。かしこまる必要も、後ろめたい気持ちになる必要もなかったのだ。

(コラムニスト)