藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

伝えたいことが伝わる文章。

日経、ジェーン・スーさんのコラムより。
こんな深くて、タッチはあくまで軽く、でも優しいテーマをすっと書ける人こそが「コラムニスト」なのだと思う。

しかし、どんなに悪いことが起こっても、発せられる感情の種類はそう豊富ではない。

全体を通して伝わって来る「肯定感」とか。
喜怒哀楽の場面と、その解決と。
そして対になる「喜びの話」と。

ああ引用してもしきれない。
全文をぜひお読みください。

人は、異なる者を排除する傾向を持つと同時に、異なる者から排除される怯(おび)えを抱く。
私たちは、違いにばかり気を取られていたのだろう。

互いの違いを真っ直ぐに魅力と捉えられたのは、生き続けていたからにほかならない。
若ければ、嫉妬に目がくらんでこうはいかなかった。
生きていて良かった。生きてさえいれば、いいことがあるから。

表題は「生きていれば」。
いつかこんなコラムが書きたいと思う。

生きていれば ジェーン・スー

 積極的に死を選ぼうとしたことはないが、オーディオの一時停止ボタンを押すように、少しの間だけ生命活動を保留できたらいいのに、と願ったことはある。
 それに一番近いのは睡眠だが、何日も眠り続けることはできない。やがて目が覚め、否応(いやおう)なしに意識が立ち上がる。嫌な記憶も蘇り、また一日が始まってしまったと項垂(うなだ)れる。勝手に再生が始まる睡眠は、一時停止ボタンとは似て非なるものだ。
 絶好調の時、一時停止ボタンを押そうとは思わない。大抵は嫌なことが起こり、うんざりする自分を受け止めきれない時だ。しかしボタンは体のどこを探してもなく、やる気スイッチなんてものもなく、私はただ時が流れるのを待つしかない。
 時間は万能だ。年齢を重ね、時の経過が持つ効能に感謝するようになった。まるで通り魔のように不条理に傷付けられても、時が過ぎれば傷は癒える。延々とささくれを剥(む)かれるような地味な地獄に落ちても、時が経て痛みに慣れる。かと言って慣れてばかりではよろしくない。英気を養ったら機転を利かせ、事態が好転するよう努める。騙(だま)し騙し生きていくしかない時期は、誰にでもあるのだ。
 さて、トンネルの中手探りで歩いていると、どこからともなく「生きていれば、いいことがあるさ」という声が聞こえてくることがある。若い頃は「呑気(のんき)なことを言うもんだ」と呆(あき)れていたが、あながち嘘でもないと思い直すようになった。
 生きていれば、いいことがある。いや、いいことも悪いことも等しく身に降りかかる。しかし、どんなに悪いことが起こっても、発せられる感情の種類はそう豊富ではない。
 私の場合、大失恋には喪失感と自己否定と後悔と恨みが伴った。親の死には悲嘆と絶望と虚無が伴った。生涯に渡り不利益を生む理不尽なペナルティには、それらのブレンドに怒りが追加された。深度に差はあるが、種類はその程度だ。
 一方、喜びはいつも新鮮だ。厚遇に慣れることはあれど、予想外の喜びは常に存在し私の心を震わせる。
 先日、とある女性アーティストに声を掛けて頂いた。私は彼女を存じており作品も所有していたが、先方が私の著作を読んでいるなど想像だにしなかった。
 同世代の彼女は、私が持たぬものすべてで構成されているような存在だった。つまり小さな声、白魚のような指、丸く大きな目、真っ直(す)ぐな髪やおっとりとした立ち振る舞いなど。足元で密(ひそ)かに咲く花の美しさに気付かず、大汗を掻きながら徒歩を進めるような私とは正反対なのだ。
 喜びの光は、時に思いもよらぬ角度から降り注がれる。彼女は彼女で自分のようなタイプは私に嫌われると思っていたらしい。滅相(めっそう)もない。しかし、言いたいことはわかる。
 人は、異なる者を排除する傾向を持つと同時に、異なる者から排除される怯(おび)えを抱く。私たちは、違いにばかり気を取られていたのだろう。
 互いの違いを真っ直ぐに魅力と捉えられたのは、生き続けていたからにほかならない。若ければ、嫉妬に目がくらんでこうはいかなかった。生きていて良かった。生きてさえいれば、いいことがあるから。
 さて、この連載も今日が最終回となる。読者の皆様、半年間のお付き合いありがとうございました。またどこかで。(コラムニスト)