藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

事業を育てるフェーズについて考える。

パナソニック、伝説のシリアルイノベーター大嶋さんの記事より。

でも実際に事業化するには、3年を1クールとするならば、3クール必要です。
石川:どういうことでしょうか?

大嶋:最初の1クールでは「ゼロからイチ」を生み出し、次は「イチから10」をやり、3クール目で「10を1000や1万」にする、つまりは事業化するという流れです。そうやって9年単位でものごとを考え、9年先を見据えていくことがイノベーションにつながります。

「ゼロから1」「1から10」「10から一万」。
事業をそんな風に考えたことはなかった。
さすがシリアルである。
ゼロから1にした、というので満足してしまうケースは山ほどある。
また「10から一万」を考えていないことも、とっても多かった。

さらに、思考の延長はつづく。
今度は「時間」の話だ。
(つづく)

パナ伝説のエンジニアが語るイノベーター論
ビジネスにおいてイノベーターというと、スタートアップをイメージしがちだが、この世界には、大企業に所属しながら幾度もイノベーションを起こす「希少種」が存在する。そうしたシリアル・イノベーターの研究を行っている石川善樹(予防医学博士)が現在注目しているのが、大嶋光昭だという。彼はいったい、何者なのだろうか?  いまの時代に求められる「新しい教養」を探る、石川善樹の人気インタビューシリーズ第6回。

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■登録特許数1300件!

 石川:本日は、「世界の大嶋さん」をご紹介できて大変光栄です。

大嶋:いえいえ、よろしくお願いします。

石川:読者のために、まずは大嶋さんのご経歴をざっとおさらいしたいと思います。まず、大嶋さんが出願した登録特許の数は1300件!  その特許ライセンス収入だけで、これまでパナソニックに380億円をもたらしています。さらに、大嶋さんの研究が元となったプロダクトによる営業利益は3000億円!  仮に営業利益が5%だとして計算すると、6兆円を売り上げたことに相当します。

 では実際、大嶋さんは何を発明されたのかというと……代表的なのが「振動ジャイロ」で、この技術からビデオカメラやデジカメの「手ぶれ補正」技術が生まれています。これだけでも世の中に大きな恩恵をもたらしたと言えますが、さらにさらに、海外大手半導体メーカー製CPUに採用されている「省電力CPU」、日米欧の地上波デジタルTV放送の基幹部を担う「規格必須特許」、コピー・ワンスやダビング10といった“光ディスクへのコピー”を実現させた「光ディスク規格(BCA CPRM)」、同じく光ディスクソフトの「ゲーム用光ディスク技術」、3D放送に不可欠な「3D符号化技術」、そして最近では「光ID技術(リンクレイ)」といった技術を発明していらっしゃいます。

 つまり大嶋さんは、世界初や世界一の発明を次々に生み出す、シリアル・イノベーターと言うことができるでしょう。実際、シリアル・イノベーターの研究をしているイリノイ大学のブルース・ボジャック教授たちがまとめた『シリアル・イノベーター 非シリコンバレーイノベーションの流儀』(プレジデント社)という書籍のなかでも、大嶋さんは紹介されています。

石川:クリエイティビティやイノベーションの研究は、1960年代にJ.ギルフォードというアメリカの心理学者が始めて以来、半世紀近くに及ぶ知見がたまっているわけですが、今日までに、2つのことが明らかになっています。

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 その前に大前提として、イノベーションノーベル賞を取るような発見は「運である場合が多い」という事実をお伝えしておきましょう(笑)。たまたま巡り会っちゃった、というケースが意外と多いんですよ。

とはいえ、ディスラプティブ(=破壊的)なことをする人というのは「どうもこういう人なんじゃないか」という特徴が2つあって、そのひとつが「少人数のチームでやる」ということなんです。多くても3人。それくらいのチームの方が、革命的なことをしやすいと言われています。

 そしてもうひとつが、「どこから考え始めるのか」ということなんです。ほとんどの人は、「新しくて人気があるアイデア」に飛びつきます。いまだとブロックチェーンとかAIとか。そうした新しくて人気がある分野から考え始める人は、「ものごとを成長させる」ときにはいいのですが、「ディスラプティブ」なことはしない、というわけです。耳の痛い人もいるのではないでしょうか?

石川:では、ディスラプティブな人はどこから考え始めるかというと、「いまは人気がない古いアイデア」から考える傾向があるんです。クリエイティビティやイノベーションの研究において、現時点ではそれが結論とされています。

 そんなイノベーターのなかでも、何度も何度も繰り返し成功させる人、つまりはシリアル・イノベーターと呼ばれる人たちが持つ独自の方法というのは、まだまだ未開拓なんです。

僕はここ1年ほど、そうしたシリアルにすごいことをやる人、連続的に何かをする人にはどういう特徴があるのかを研究していて、そのなかで最初に出会ったひとりが大嶋さんなんです。本当にすごい人なのですが、その評価は海外の方が高く、日本では思いのほか知られていないという印象です。なので、この機会を通じて少しでも多くの読者に大嶋さんのことを知っていただきたいと思っています。

 前振りはこのくらいにして、ここからは僕も、大嶋ワールドにどっぷりと浸かりたいと思います。大嶋さん、準備はよろしいでしょうか?

■異端者の集団「無線研究所」

大嶋:ご紹介ありがとうございます。海外の方が評価が高いというのは、石川さんの仰る通りだと思います。というのも、日本はイノベーターに対する評価が低いですからね。ほとんど注目されません。実際にモノを作った人とか、モノを販売している人が評価される社会なんです。

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 それは企業内でも一緒で、イノベーターはリスペクトされません。つまり、居づらいんです。だから出ていってしまう。それでも、私達の時代は出て行くことはなかった。会社を辞めたら終わりですからね。しかし今は海外にも行けるし、どんどん出て行きますよね。

実際、イノベーターというのは異端者なんです。アメリカでは、異端者でも居心地は悪くありませんし、逆にまわりの人が助けてくれたりもします。しかし日本は同質社会ですから異端者を排除しますよね。でも、幸いなことに私は、無線研究所(無線研)という組織に救われました。

 無線研というのは、松下電器産業(現パナソニック)に存在した、部品・材料・電子機器全般を担当する研究所です。この無線研究所は、松下幸之助が「イノベーションを生むための仕掛け」として考案したという仮説を、私は立てています。1953年、幸之助はアメリカのベル研究所へ視察に行き、その後、中央研究所(中研)を設立しました。中研と同じ規模の無線研ができたのは、その9年後の1962年です。何故、同じ規模の研究所を2つ作ったのか、不思議に思われるかもしれません。

 中研は、一般的に必要と考えられるテーマをすべてやっているという意味では、いわば研究の「デパート」で、優等生型の人材が配属されていました。これに対して、無線研は「専門店」で、優等生型でないちょっと変わった連中の集まりでした。私自身は1974年に松下電器産業へ入社して早々、研究者としてこの無線研に配属されました。

研究分野は中研と一緒でしたが、ミッションはハッキリしていて、「中研でやっていないことをやる、つまり、他社でやっていないことをやる」でした。「こちらは専門店なので、デパートで売るものを売っちゃいかん」というわけです。なので先輩たちからは、「世界初か世界一の研究をやれ!」と、よく怒られました。無線研では何も指示を出さなくても、所員が自発的にイノベーションを起こそうとしていたんです。

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 無線研ができたのは1962年ですが、このとき幸之助は67歳で、まだバリバリでした。あの方は「何もしなくても自動的にできる」というやり方を基本にしていました。事業部制にしてもそうです。本人は体が弱かったこともあり、何ごともオートマティックにできるような巧妙な仕掛けを随所に作りました。その観点から言えば、研究所に関しても、自動的に、自律的にうまく行くような仕掛けを考えたはずです。「無線研は、幸之助が作ったイノベーションのための仕掛けである」と私がにらんでいるのは、それが根拠となっています。

 あのころ、松下電器産業は「マネシタ電気」と揶揄されていましたが、実際は世界初のことをたくさんやっていたのです。当時の無線研には20人のイノベーターがいて、世界最高のスピーカーやレコードプレイヤー、世界初の画像圧縮技術などのイノベーションを次々と生み出していきました。現在の当社事業の多くが無線研のイノベーターが起こしたイノベーションを端緒としていることは、社内でもあまり知られていませんでしたが……。

■無線研には「丁稚奉公」があった!?

大嶋:ほかにも、無線研には変わったところがありました。何か新しい技術を開発した場合、普通の研究所であれば、「引継書を作って工場にわたしてオシマイ」じゃないですか。しかし無線研では、少なくとも最初の1回か2回は、工場へ行き、設計して、製造して、品質管理して、販売して……と、最後までやらされるんです。大体2年くらいかかりっきりになり、それでまた帰ってくる。この一連のプロセスを、私は「丁稚奉公」と呼んでいました。

 これを一度やると、自分でやったことの「出口」がわかるんです。品質がどうとか、コスト意識とか。たとえば部品代が50円だから原価50円でできると思っていたところ、実際に事業目論見書を作ってみると、はんだ付けの工賃などさまざまなコストがかかるわけで、結局750円になることを知るんです。そうすると、どこを削ったらいいかがわかってくる。こうした丁稚奉公で、事業、つまりは出口がわかる研究者が育つのです。

さらには営業の最前線にも出るので、お客さんの声を聞くことができる。実によくできたシステムだと思いました。これらを含めて、無線研は「あまりにもよくできている」ので、これは幸之助が絡んでいるに違いないと、後になって気づいたわけです。

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 そんな無線研から、私は一度追い出されました。実験が遅かったこともあって、研究管理部門へ異動させられたのです。研究所の予算管理やプロジェクト管理をする、いわば事務職です。研究職の道が閉ざされたとわかり、もう、奈落の底に落ちたような心境に陥りました。しかしそこで腐らず、這い上がるためにはどうしたらいいかを必死に考えたんです。

たまたま隣りに図書室があったこともあり、5時に仕事を終えてから、毎日そこで勉強しようと決めました。目標として、新しい技術分野を月に1つ習得し、必ずその分野の新しい発明をして、特許を月に1件出願する、というアホなことをやりました。それを3年くらい続けました。

 本を読むだけではなく、読んでアイデアを引き出し、それをその技術分野のトップの人にぶつけました。当時の松下電器産業には1万7千人の技術者がいたので、そのなかでもトップの人のところへ夜8時くらいに行って、「すみません、この技術、私はこう変えたらよくなると思うのですが」って、相手が帰ろうとしているところに聞きに行くわけです。時には11時くらいまで(笑)。

ただ教えてもらうわけではなく、アイデアを提案するのです。あちらとしてもアイデアを持って来ているから、「ここはこうした方がいい」って教えてくれるわけです。それを毎月毎月続けました。かなり大変でしたが、当時の特許出願の記録を見ると、年に17件ほど特許を出していました。それがあったから、ほかの分野、たとえばジェットエンジン原子力発電の発明でもできるようになりました。

 そうして身につけた知識のうちのひとつが、「振動ジャイロ」だったんです。

■発明したのは「2番目の出口」

石川:ジャイロセンサーといえば、いまやスマホやカーナビには必ず入っているデバイスですが、それを開発したのが、なんと大嶋さんというわけですね。

大嶋:はい。振動ジャイロの原型は1950年にアメリカで開発されていますが、安定性が悪かった。そこで私は、1980年に改良発明をしたんです。この時は、カーナビ用のセンサーとして振動ジャイロ技術を生かせると考えました。ただ、思ったほどうまくは行かなかったんです。なぜなら、15年後の1995年にGPSが民生用に開放されるまで、カーナビ自体の市場がなかったからです。つまり、出口がなかったのです。

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 石川:それでどうされたんですか?

大嶋:傷心旅行に行きました(笑)。

石川:なんと(笑)。

大嶋:友人と3人でハワイへ行ったんです。レンタカーを借りて5日間ドライブをしました。その旅に、当時はまだ珍しかった大きなビデオカメラを会社から借りて、友人が撮影をしました。友人は、ドライブ中にも撮影をしているのですが、「手ぶれする」ってうるさいんです。

旅も終わりに近づいたころ、あることに気がつきました。彼は腰を軸にして回転していたんです。手ぶれって一見、上下運動に思えるし、私もそう思っていたのですが、一度回転だとわかると「ジャイロが使える!」とひらめきました。ジャイロは、空間における回転を検知するセンサーですからね。「自分が一度失敗した技術が使える」とひらめき、ひらめいたら1秒で答えが出ました。

 石川:1秒で!

大嶋:はい。1秒で手ぶれ問題を解決する原理を思いつきました。それが、いま実用化されている「手ぶれ補正」技術です。前の仕事がリンクして、発明が生まれたわけです。そういう意味では観察力の勝利でした。手ぶれ補正ではいろいろな賞をもらいましたが、結局私は何を発明したのかというと、「2番目の出口」を発明したのだといえます。

石川:なるほどぉ。では、振動ジャイロと手ぶれ補正がつながり、それが事業化するまではどういう流れだったのでしょうか?

 大嶋:その後、事業化するまでには6年かかりました。企業というのは通常、3年くらいしかプロジェクトをやらせてくれないものです。でも実際に事業化するには、3年を1クールとするならば、3クール必要です。

石川:どういうことでしょうか?

大嶋:最初の1クールでは「ゼロからイチ」を生み出し、次は「イチから10」をやり、3クール目で「10を1000や1万」にする、つまりは事業化するという流れです。そうやって9年単位でものごとを考え、9年先を見据えていくことがイノベーションにつながります。

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 その際重要になってくるのが出口戦略です。入口のイノベーションは、時期はいつでもいいんです。偶然生まれるから、タイミングというものはない。でも、出口はタイミングが大事です。早くても遅くてもダメ。これからイノベーションを起こそうという人は、入口と出口の見極めを心がけた方がいいと思います。

もちろん、入口の素性がいいことが大事です。入口の素性が悪い場合は、出口も大きくなりません。今やっている「光ID(リンクレイ)」は、私としては技術の素性はいいと思っています。現状では年間数億円の売上げですが、もし、いい出口が見つかれば、年間数百億円の事業に大化けする可能性を秘めていると思います。

 石川:手ぶれ補正のほかに、入口には失敗したけれど、出口戦略で成功したという事例はありますか?

大嶋:たとえばゲーム関連でしょうか。具体的には「ゲーム用光ディスク技術」の発明です。当初はアーケードゲーム用に事業化したのですが、年商数億円でした。しかし、数年後に家庭用ゲーム機に出口を変えたことで、結局、関連事業も含めると、累計で1千億円を超える営業利益をもたらしました。

石川:逆に、入口の素性はよかったけれど、出口に失敗した例もあるのでしょうか?

 大嶋:失敗例ももちろんありますよ。

大嶋:たとえば1985年に私のチームで発明した「CD-R」です。当時はオーディオ向けの用途を想定していたのですが、早すぎました。その後CD-Rはデータ記録用のニーズが発生し、他社が成功しています。このテーマは、出口のタイミングを3年遅らせれば成功したかもしれません。

「省電力CPU」にしても、社内での事業化には失敗し、米国の大手半導体メーカーに採用されました。まあこちらは、特許ライセンス料で数十億円ほど稼ぎましたが。

■「ソーシャライズしてはダメだ」とアラン・ケイは言った

石川:それにしても、いろいろな技術領域で既成概念をディスラプトするような発明を行える秘訣は、どこにあるのでしょうか?  若いころから「世界初か世界一じゃなければダメだ!」と教え込まれたからでしょうか?  あと、「左遷」時代に図書室で勉強したことも大きいのかもしれませんが。

大嶋:1988年に(パーソナルコンピューターの父とも言われる)アラン・ケイと会う機会があったのですが、そのとき彼は、「ソーシャライズしたらダメだ」と語っていました。「会社に入ってどんどん教育されていくのだけれど、それによって視野が狭くなってしまう」と。以来、上司の言うことを聞かなくなりました(笑)。

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 石川:あはは(笑)。

大嶋:あと、時代に恵まれていたということもあります。TV放送のデジタル化は1995年くらいでしたし、今も、自動車のAI化やEV化が急速に進んでいるじゃないですか。そうした100年に一度と言ってもいい転換期にたまたま居合わせていること自体、ついているといえばついている。私としては、そこに飛び込んで挑戦しているにすぎません。

あっ、ここでひとつ自慢をしてもいいですか(笑)?

石川:どうぞどうぞ(笑)。

 大嶋:みんながアナログTV放送の研究をしているとき、1989年くらいから、私はデジタルTV放送の研究をしていたんです。その後、デジタル放送の規格を巡って世界中の技術者が競い合いましたが、結果として私が勝ちました。勝ち負けの基準は何かというと、地上波デジタルTV放送の基幹部を担う「規格必須特許」に認定された件数になります。日米欧とも、私の規格特許が最も多く採用されているんです。特許のシェアは30%を超えました。

 当時、デジタルTV放送はアメリカが先導していました。MITで電気工学の教授をしていた、ウィリアム・シュライバーという人物がその流れを牽引していて、彼は米国議会で「デジタルTVをやるべし」と証言したことから、アナログHD放送からデジタルHD放送に流れが変わりました。彼と私は同じ方式の特許を出したのですが、私の方が出願日が早かったんです。数年後、シュライバーの研究室から「最近は何を研究されてますか?」という探りの手紙が届きました(笑)。

 ちなみにもう一人、1999年から2001年までベル研究所の所長を務めていた、コンピューターエンジニアのアラン・ネトラヴァリにも、4G携帯やWiFiなどで使われている通信速度可変型デジタル通信方式の基本特許で勝ちました。彼は、ノーベル賞級の研究をおこなっている人物です。

■「見立ての力」も、非常に重要

石川:人より早く研究テーマを見つける「見立ての力」も、非常に重要であるというお話ですね。そうした見立ての力を、ご自身ではどう分析していますか?

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 大嶋:私の場合の目利きは、パターン認識です。いろいろな成功パターンも失敗パターンもアタマに入っていますから。成功事例は10ですが、それに加えて30程度の失敗事例があるから、40ほどの事例のパターンがアタマに入っているわけです。この40事例のなかのそれぞれに、「あそこでこうしたら成功した/失敗した」というパターンが10件あるので、合わせると400くらいのパターンがアタマに入っているのです。

なのでパッと見て、「これはあのパターンだな」ってすぐに判断できます。要はリンク力です。「これはあの時と一緒だから危ない」とか、パッとわかるので目利きができる。

 石川:大嶋さんは、そもそもものごとを見る時に、「それが世界初かどうか」という視点で考えているわけですものね。そのコンセプトで40年活動をしてきたわけですから、もう、溜まっている知見が圧倒的なのだと思います。

大嶋:「世界初、世界一」以外はやりません。無線研で感染した「イノベーター菌」が、私の中では消えることなくずっと生きているわけですから。

松下幸之助は、無線研というハコを作って500人くらいの研究者を集め、少し尖った無垢な新入社員をそこに放り込み、どんどんイノベーター菌に感染させていきました。立ち上げ当初、無線研には大学の助教クラスや、通産省(当時)の研究所からイノベーターたちが集められおり、そのマインドやノウハウを、私たちのような後輩の研究者は伝承することができました。しかし失われた20年の影響で、現在その伝承は分断されてしまっています。私のこれからの使命のひとつは、その状況を打破し、若い世代のイノベーターを育成していくことだと考えています。

 当社は今年100周年を迎えますが、現在の社長である津賀一宏は、創業以来、初めての研究所出身者です。しかも無線研究所出身ですので、イノベーターに理解がある経営者です。これを好機としてイノベーションの風土が生まれ、若きイノベーターも育ち、よりイノベーティブな企業として、次の100年に向けて大きく飛躍することを期待しています。

大嶋と石川の対談は、六本木ヒルズにある森ビルの会議室で行われた。石川が声をかけた研究者、スタートアップ、ベンチャーキャピタリストといったメンバーが、対談の様子を生で体験することとなった。

 (TEXT BY TOMONARI COTANI、PHOTO BY KOUTAROU WASHIZAKI)

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「HILLS LIFE DAILY」編集部

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