藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

金との距離

*[ウェブ進化論]正常に戻る時。

元々"金まみれ"とは政治家官僚などの有力者が金に関する不正をはたらいているさま」のことをいうらしい。

オリンピックやワールドカップは金まみれだ、というような表現もよく目にする。

つまりは「ひたすらお金だけで動く世界」を言うのだと思うが、自分たちも全く例外ではない。

 

改めて自分たちは立派に「お金」に相当な程度、いや深刻なくらい支配されている、と最近よく思う。

電車に乗るのもコンビニに行くのも、今のようなサプライチェーン社会ではお金がなくては立ち行かない。

これだって立派な"金まみれ"ではないのか。

そしてまるで主権を得た「お金」は、時に人の命を奪ったりもするし、そうでなくても相当なストレスを自分たちに与える存在である。

 

そんな空気が支配する中で、ようやく正常な感覚を持つ若者が「FIRE」などと疑問を持つ、というのは実はかなり自然なことではないだろうか。

 

経済的に独立したいと言うのは、大量のお金が欲しいと言うことではなく「そんな金まみれの世の中から距離をおきたい」という非常にナチュラルな思いに違いない。

それを大人たちが若者が何かサボろうとしているかのように受け止めるのは、実は自分たちが間違っているのないだろうか。

 

ようやく「当たり前にお金と離れること」を考える時代がきている。

 

若くないウェルテル

*[ウェブ進化論]大胆が目標。

若さの何がうらやましいのと言うと「時間の無駄遣い」ではないだろうか。

素直に嫉妬。

自分も子供などを見ていてつい「寝転んでスマホばかりしているな」と口にしたものだが、反射的にもう「もったいないことをしている」と思い込んでしまうのだ。

若いころのパチンコ自分にそのまま言ってやりたい。

あのころのアホっぷりと言ったら今の若者の比ではなかった。

ダラダラと理由もなしに友達と集まったり、赴くままに漫画を読み耽ったり、ゲームをしたり、そんなことに何の罪悪感もなかった。

忌々しい。

 

最近は若者が「ちょっと時間潰ししてきます」なんて言ってるのを聞いてもドキッとする。

「あんまり潰しなさんな」とか言いたくなるし。

 

そして反対に「時間を惜しむ」のは歳とともに出現する傾向で、歳を取ってからも鷹揚にゴルフやハイキングを楽しんでいる人を見るとかなり羨ましい。

そしてその割には割と細かい家事とかサプリメント探しとかには時間をかけたりしている。

 

ラーメンとか丼物とかも食べてみたいが、ゆっくりと気にせず好きなだけ時間を使う、というのが年ととともに課題になりそうだ。

 

そう言えば「死ぬまでに読みたい本と観たい映画」なんてメモしていた時代もあった。

そのメモもなくしてしまった。

ようやく選ぶ

*[ウェブ進化論]モラトリアムという方法。

昭和の学生運動前後でモラトリアムといわれた世代は、戦後のように「ただひたすら復興のために働く」ということに疑問を感じた世代だという。

そしてそれから、その後何と50年ほどもかなり「均質の時代」が続いていた。

復興、高度成長期から失われた平成の30年までがこれまで来た道、である。

 

そして次のモラトリアムは今だ。

FIREなどとも言われているが「今一度働くことの意味や目的」を考える機会をもたらしたのがコロナ禍だったというのは、皮肉な話ではある。

戦争ほどではないにせよ、高齢化も進む中で「老年世代も中年も、若者も一斉に」そうしたことを考え直す時代に入っている、ということは特に若い人には知ってもらいたい話で、定年後の年金の話ばかりする"逃げ切り根性"にはなってほしくないと思う。

 

例えば大企業に身を寄せていることとか、ホワイトカラーとか、あるいは結婚とかいうことが、一体どれほどの負担を伴うことなのか、ということを特に意識なしに選んでゆく時代はもう終わっていると思う。

 

ようやく、選択の時代が始まっている。

コツは"今の自分から"リセットして考えてみるのが良さそうだ。

これからは、こんな歳でも今が一番若い。

 

それが作品

*[ウェブ進化論]物語を作るということ。

先日見た芝居「火の風にのって」。

www.airstudio.jp

一言でいえば"戦時中と現代の若者の価値観がつながる"という話だった。

古代から「世代間の嘆きは無くならない」と言われているし、そのギャップが解消されたという話はとんと聞かないから、まあ永遠のテーマと言っていいだろう。

 

「今の二十歳と戦時中の二十歳が交信する」という設定は見事で、それこそ自分のような中年にもビビッとくるものがあった。

戦争モノの映画や芝居はやはり「フィクション」として見ているのだろうし、楽しい内容ではないことが多いから、どこかで浮世離れした話だと思い込んでいるのだと思う。

 

"時空を超える"というテーマが一つのジャンルとして無くならないのはそんな「時代感覚のギャップ」をリアルに観客に感じさせる定石なのに違いない。

そんな、一見禁じ手とも言えそうなストーリーをどう組立てるのか、というのが作家という仕事なのだとしたら大変な職業である。

 

そして。

「戦時中の60歳と今の60歳」が繋がってみるとどうなるのか。

恐らく劇中と同様に「何だかお金だ定年だの、老後だの、ずい分小さなことばかり気にしているな。どれほど幸せな時代なのかを思い知りなさい」と言われるに違いない、ということを自分も意識しておこうと思うのだ。

 

透明の時代

*[ウェブ進化論]次世代型のコミュニケーション。

昨日も少し書いたけれど、例えば「戦中と戦後」とか「昭和と令和」とか時代の移り変わりとともに、常に互いの世代批判とか評価というのはいつの時代も無くならないものだ。

それは互いにポジショントークを応酬しあっているからだ。

なので「江戸と明治」とか「明治と令和」とか「戦中と戦後」などという"断絶した世代同士での交流"が今最も大事なのではないかと思う。

つまり以前では「決して交わらなかった世代」の交流が何より必要なのだという気がする。

 

「世代間での批判の投げ合い」ではなく、だからこそ親世代とか祖父母世代と真正面に対話する時代がいよいよ来ているような気がする。

 

結婚(婚姻)とか仕事とかいう生活する上での約束事もそうだし、軍備とか外交とかいう問題ももう年寄りの政治に任せている時代ではないだろう。

若者は、「蚊帳の外に置かれていて意思表示できない立場」からいよいよ声を上げる中心に移行する時期が来ていると思う。

 

気が付けば、老年の政治家と官僚が次々とおかしな政策を打ち出し、有権者が白けて見ているという時期が長く続いた。

ネットの普及もあり、いよいよ若者の声が表出し「良くも悪くも民意が表に出る時代」になるような気がする。

 

衆愚であれ日和見であれ、メディアの操作はもう沢山だと思う一般人は多いのではないだろうか。

経験の伝承のために

*[ウェブ進化論]風化する教訓へ。

昨年火の風にのってといという芝居を見る機会があった。

いわゆる戦時もので昭和20年の東京大空襲をテーマにした物語だったが改めて「戦争体験の伝承」ということについて考えさせられた。

 

若い世代にとってはあまり好ましい話題ではなく。

また数少ない「戦中世代」はあまり多くを語りたがらないともいう。

ただ日本の軍部と政府が東京で十万人、広島でも十万人、長崎でも…という話は、今の自分たちでは到底現実のこととして捉えづらい。

 

けど本当に起きたことなのだ。

 

まったく「戦争を知らない子供たち」の世代になって、ますます心配される通りになっているような気がする。

「戦争vs反戦」というバランスが明らかに崩れつつあり「軍備増強」とか「自国防衛」という話も強く聞こえてくる。

 

専守防衛」という言葉がだんだんと「軍備増強」へと姿を変えて、いつしか現場の火花が燃え移って、一気に戦争に突入するという危うさを「戦後世代」は抱えているのではないだろうか。

紀元前からの人類の「侵略と支配の歴史」は未だになくなっていないけれど、「この先」をどう制御できるかが今の人類の試されどころだという気がする。

 

それにしても先の芝居の設定で「現代の悩める若者vs戦時下の若者」が交信する設定は(ちょっと禁じ手のような気もするが)実に見事で、観客の自分たちも両方の時代感が体験できるようなものだった。

毎年演じられているようなので、ぜひ観劇をお勧めします。

なかったことに?

*[健康]なるか糖質フリー。

厄年の健康診断で、医師に「お酒を止めるか糖質を制限するか、どちらにしますか?」と聞かれて「糖質制限でいきます」と即答してはや十五年。

最近は麺類などをたまに食べてその"貴重な味"を楽しんでいるけれど、その中でひとつ分かったことがある。

まずは「できるだけゆっくり食べること」。

 

特にラーメンやカレー屋さんで悠然として食べるのはちょっと勇気がいる気がする(速い人は5分くらいで食べて出ていくし)けれど、そこをあえてゆっくりと。

時間をかけて食べるだけで満足度も上がります。

多分「あっという間」に食べてしまうと「脳」が十分に満腹感を感じていないから、食べ足りないような物足りなさを覚えるのに違いない。

そして「食べた直後に歩くこと」だ。

できれば一時間強、一万歩くらい。

これで血糖値のスパイクは相当防げると思う。

あくまで体感値ですが。

 

今は月に一度くらいの糖質摂取ですが、今度は連続してこの方法を試してみようかと思っています。

もしこれが成功するなら「糖質を摂りながら糖質フリー」みたいなことが実現するかもしれない。

「なかったことに」ってやつだ。

 

また報告します。

sat

苦労行脚

*[ウェブ進化論]苦労は誰のため。

よく迷ったら苦しい方へ行け、という教訓を聞くけれど(そんなことできるかなぁ)、確かに「苦しい思いをしたがゆえに」結果経験値が上がったり、より良いノウハウを身につけたり、ということはあるものだ。

ただ苦しい最中にそれに気づくことはあまりない。

易きに流れますよ、それは。

けれど「思えば…」とかなり後から気付いたりするものだ。

そしてそうした心理を見越して「苦労を苦労と思わない」という高等戦術もある。

"経験値の法則"とでも言えるだろうか。

 

例えば筋トレでも、より苦しい追い込みをしていかないと筋力は上がってこないものだ。

そうして最近気づいたのだが、ストレッチをしているときに「伸ばすと痛い方」を意識して伸ばしていると、結果的に可動域が広がったり、痛い、腰や肩が楽になったりすることに気がついた。

つまり「ストレッチも痛い方へ行け」ということになるだろう。

わざわざ苦労を選びながら、結果を取りに行く。

というのが"定番の順序"なのだと思えば辛くない(ふりをする)。

苦労上等、と思えればいろんな努力の捉え方もかなり変わってくるだろう。

 

同様に「可愛い子には苦労をさせよ」とも言えると思うが、なかなかそれができる親はいないものだと思う。

ゴールを見ない時代に

*[ウェブ進化論]経験値こそ重視する。

昨日「失敗に感謝できるか」ということを書いた。

つまり自分たちの日常は「経験値」の集積だとも言えるだろう。

だから幼年から高齢にるにつれその経験値は溜まる一方ということになる。

ということは「どんな経験値を貯めていくのか」ということは、実はとても重要なことなのだ、と気づく。

 

一見、無駄に見えるような労働とかボランティアとかも「経験値」という観点から見れば、とんでもなく貴重な経験になる、という話はよくあることだ。

(そういう意味ではボランティアとか、単純労働なども忌避することなくどんどん経験するといいと思う)

 

そして自分たちの「長く短い100年程度の一生」を予想すると、その中での"経験"こそが「もう一つ先の選択」をするための肥やしになっているのだと思う。

失敗を恐れず。

なぜならその失敗から、必ず得られるものがあるから。

そして「成功」をいたずらに目指すこともなく。

 

そんな風に考えると、自分たちの一生というのは「どこかのゴールに向かっての旅の過程」ではなく、「プロセスそのものを楽しむ工程」という方が正しい表現なのではないかと思う。

ゴールを目指していると、そのゴールはいつの間にか時代とともに変わり、そして時には明確には見えなくなってしまう。

 

結果を盲目に見ることなくプロセスを楽しむ、というのがこれからのスタンダードになるのではないだろうか。

 

失敗戦略

*[ウェブ進化論]失敗に感謝する。

若いころは失敗することをただ恐れた。

恥をかきたくないという気持ちが一番にあったとも思う。

自意識過剰、とも思うが思春期というのはそういう時期なのだとも思う。

ああそれがセイシュン。

 

けれど、実際にはそれ以降の人生では上がったり下がったりという凸凹がずっと続くことになる。

若いころに一番嫌恐れていた「失敗」とか「挫折」とか「理不尽」なんかがたくさん待ち受けている、というのが普通の人生だと言っていいだろう。

 

そしてそんな「人生のマイナス」は、実は本当のマイナスではない、ということにも気づく。

例えば、苦労を重ねた人の方が、人生の経験値が高く、結局は大成するというは結構決まり切った物語でもある。

「予定した失敗をする」というのは奇妙な表現だけれど、詰まるところ「どれだけ失敗をして経験値を獲得していくか」というRPGのような話は、自分たちの実生活にも通用する法則なのだ。

 

失敗をしない、とか「チャレンジを避ける」というのは、そういう意味では人生の無駄遣いだとも言えるだろう。

 

むしろ「どんな失敗をするのか」とか「あえてどのくらい無謀なチャレンジをするのか」ということを戦略的に考え、どんどんチャレンジするのが一番のトレーニングになるのではないかと思う。

 

失敗の計画を考えてみよう。

新時代(2)

*[ウェブ進化論]シニアの心構え。

昨日、すでに「若者は会社との契約よりも自分のやりたいことを選び始めている」ということを書いた。

そんな時代に特に大変なのは「ミドル世代以上」の人たちだ。

すでに凡庸なキャリアを重ねてきた40代には転職の選択肢はあまりない。

またエンジニアなどの職種も、よほどピンポイントで合致しない限りは外されてしまう。

 

巷ではリカレント教育、などというがそんなレベルではこれからの社会で「バリバリと通用する」ような状態には届かないと予想する。

ではどうするか。

 

飲食でも販売でも技術職でも研究職でもなんでも。

まずは「自分だけの尖ったこと」を追求しないと、その他の市場はどんどん自動化されてしまうだろう。

そして自分が見つけたその「とんがり」をどこまで追求していけるか?ということが肝心なのではないかと思う。

 

「組織で結果を出すための部品となる」という発想から「個人の突出したスキルをある組織で活かす」ということになるだろう。

均一の能力よりも、飛び出た発想や思考が価値を持つ時代になっている。

 

世間では年齢を重ねると「そういう能力」が低いだろう、と思われる傾向にある。

ミドル以上の自分たちは、よほど「自らのエッジ」を気にしていないとこの先の何十年を泳いでいけない時代に突入している。

 

新時代

*[ウェブ進化論]変わっている時代。

人材マッチングの仕事をしていると世の中の動きがよく感じられる。

リアルに今、求められている仕事の情報などが伝わってくるのだ。

多分、若い人が流行りのファッションとかライフスタイルに敏感なのと似た感じだと思う。

そして確実に感じることがある。

 

それはアッパー40歳の仕事は確実になくなりつつある、ということだ。

本当は「役立つスキル」があれば年齢は関係ない、というのが大きな建前である。

ところが実際には「相当尖った技能」とか、あるいは「すでに構築された人間関係」がないと、ゼロから新しい関係を築くのは難しい。

日本の閉鎖性はまだ全然解消されていないと思う。

 

ところが、今の二十歳前後の人たちのマインドはずっと先に行っている。

もう正社員とか福利厚生とかには捉われず、「将来の自由」を求めている人がとても多いと感じる。

これは昭和の世代から見れば「異様な人種」に見えるのだが、よくよく考えてみれば当たり前の話だ。

 

「自分の意思で好きな場所で好きなだけ働き、けれどスキルを付けて縛られない」という選択をする時代になっているのだ。

ネットワークの普及とともに、いよいよ「本物の自由」が実現し始めているのだと思う。

 

これからの若者にはそんな目線で話をする必要があるだろう。

 

リズム作り

*[ウェブ進化論]食べ物と睡眠と運動。

年齢を重ねるにつれ、この"3つのバランス"を考えないと健康ではいられないなと実感する。

食べ物に気を使い、睡眠も最適な時間帯を考え、メンタルの状態によってタイミングを図ことが重要だ。

若いころはそんなことは考えもしなかったのに、ということを懐かしく思い出す。(遠い目)

それはともかく。

 

問題なのは運動である。

運動はどうしても「一定時間を必ず割く必要がある」という性質があるので、一日のうちに運動を「どのぐらいの量でどの時間帯にもっていくか」という事は一日の過ごし方ではかなり重要である。

例えばウォーキングなら一日に一時間半は割り当てることが必要になるので、その時間を効率よく「一日のどこに当てはめていくのか」というのは生活のリズムを作る上では重要なことだと思う。

 

食事は一日一食に、睡眠は最適な時間帯に、そして運動は最も適した時間帯に当てはめたい。

朝一番に散歩する人もいれば、就寝前にウォーキングする人もいる。

 

自分が最も気分良く過ごせる生活リズムを探ってみることが大事ではないだろうか。

CPAPで睡眠の質が劇的に改善した、という人の話も最近は多く聞く。

 

外部のリズムに流されず、自分でリズムを作ることを考えよう。

 

 

 

 

 

 

隙間の楽しみ

*[ウェブ進化論]すきま時間のご褒美とパズルの話。

自分は時間にセコい人間なので、ついなんでも「合理性」とか「費用対効果」などと考えてしまう。

若いころはそんなことなかったのに。(嘆)

それはともかく。

 

例えば明日の午前中と午後に一件ずつ外出の予定があり、その間隔が3時間あったとする。

3時間と言えばまとまった時間だから、できればオフィスに戻る時間をなくして何かまとまったことをしたいと思う。

それは溜まっている本をやっつけるのでもいいし、何かのドラフトを仕上げてしまえるくらいの時間でもあるだろう。

そうした「時間のパズルのはめ込み」を考えるのは、案外楽しい。

 

そしてさらに何より楽しいのは「予期せぬ予定のキャンセルなどで急にできた時間」が与えられた時である。

全くのサプライズで時間に穴ができたときに、この時間を何で埋めるかは今から自分が好きに考えて良い。

完全なる自由。(大げさ)

 

こういう突然のご褒美の時は、ワクワクする人は案外多いのではないだろうか。

ゆっくり書店を回ってもいいし、カフェでkindle読書をしてもいい。

ビール片手に溜まったメールを片っ端から片付けてもいいだろう。

 

空き時間に「はめ込むパズルのピース」を予めたくさん用意しておきたいものだと思う。

 

未来を総括

*[ウェブ進化論]わが人生のタイトル。

先日、ある著名な自動車評論家が自分の職業人生を振り返って「あらゆる国の車を数多く運転できて良い人生だった」とおっしゃっていた。

簡潔で悪くない。

人生は簡潔に表現したほうが焦点がはっきりする。

周囲の空気はむしろ読まないほうがいいだろう。

 

そしてできれば「後から振り返って〇〇だった」というよりは「これから〇〇をする人生」というふうに思いつくことを書いてみたい。

後からするのが総括だが、それをあえて「これから」にしたいのだ。

「これから海賊王になるぞ」とか(いないいない)、「これからイノベーターになるぞ」とか(意味がよく分からん)とか、まあなんでもいい。

 

これからの自分を予想して「タイトル」をつけてみるのだ。

そうするとそのタイトルがいまいち腑に落ちないな、とかちょっと好みではないな、とかいうことにも気づくだろう。

「生涯一教師」とか「政治の民主化に生涯を費やす」というフレーズがぴったりくるのならそれはいい。

結局若い時分というのは、そうした「自分のタイトルを探す」ということが目的になのではないだろうか。

 

そして、後から振り返ってそのタイトルに満足できれば人生はハッピーだ。

平凡なことでもいいから、ぜひいろんな自分のタイトルを考えて、書き出してみてはどうだろうか。