藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ペーパーレスはいつに(2)

*[ウェブ進化論]ニュービジネスを2つ。チラシ回収業とデジタルタトゥー業。

ペーパレス よりは進んでいるようなキャッシュレスも、どうにも徹底はできないようだ。

せっかくの最新レジが備わっているのに「公共料金は現金で」とか「ここはナナコしか使えません」とか「ポンタが楽天ポイントがどうこう」というのも煩わしい。

 

マーケティングの手法は今や「デジタル対アナログ」のガチ対決になっているし、いちいちDMが届くたびにそのまま(住所氏名を切り取って)ゴミ箱へ直行しているチラシたちは本当にもったいないと思う。

(チラシの回収ビジネスってできたら大流行すると思うのだが)

 

なので新しいチラシが届くたびに「すみません、もう二度と送らないでください」と電話で連絡をするのは相当虚しい作業だ。(あと自転車の修理します、とかクーラーの掃除をします、という大量のポスティングもしつこく入ってくる。ヨガ教室のチラシなんて採算は取れているのだろうか)

 

特に紙媒体を喜ぶ世代はまだアッパー60代には多いから、このままいくとあと30年くらいはDMとの格闘は続くと思っていた方がいいのかもしれない。

 

とはいっても無理もないなぁと思うのは「遺したいもの」のことだ。

紙とか本は、やはり物理的にそこにあるので、なかなかなくならない。

一方デジタルデータは数十年単位で見ると相当怪しい。

クラウドのデータもいつの間にか移行の拍子になくなったり、メールも決して永遠ではない。

 

この「遺したいという動機」が紙が駆逐されない最大の理由ではないだろうか。

なので

デジタルで「これは絶対なくなりません」というサービスをしたら、これまたバカ受けしそうな気がするのだが。

 

 

ペーパーレスはいつに(1)

*[ウェブ進化論]

ペーパーレスがグッと進むかと思いきや、ネットが行き渡ってもう20年になるが一向にその傾向がない。

それはともかく。

 

ITの普及のおかげだろう、個人情報がどんどん貴重になり、今自分が住んでいるマンションは表札を出している人は一人もいないし、先日はmailbox脇のゴミ箱も「個人情報保護のために撤去します」となってしまった。

(それにしてもしばらく設置されていたゴミ箱のゴミ投棄量はものすごく、いつみても入れ口からDMがはみ出していてなかなかに見苦しかったが)

 

先日、実家に帰っていたら戸建てに住む父親が「ゴミに出すものに名前が露出しているのはけしからん」と懸命に切り取っていたから、

日本中で郵便物の処分に心を煩わしている人はもの凄い数なのではないかと思う。(自分もそう)

 

「住所氏名の印字を消すスタンプ」もあったが、あれ完全には消えないんですよね。

やはり「マメに切り取って分別してから、裁断して別のゴミとして処分する」というしか今のところはなさそうだ。

 

ネットの便利さはさらに拡大し、一方では「デジタルマーケティングこそこれからの常識!」とはいうものの、現実には「電子メールvsダイレクトメール」の対マンになっている。

サブスクやサンプル請求などで、一度住所を知らせてしまえばそこからは「メール&郵便」のダブル攻撃が始まってしまう。

 

そしてその郵便物は自分で個人情報をチマチマと切り取らねばならない。(嘆)

(つづく)

 

ようやくの自由化

*[ウェブ進化論]労働も変わり目。

どうして働く人がこうも減ってしまったのか、と人材紹介の仕事をしていて思う。

割とな単純労働に従事していた人たちは今どうしているのだろうか。

まだコロナ対策の給付金の効力もあるのかなとも思うけれど。

 

日本の働く人の人口構成は間違いなく流動化しつつあると思う。

つまり"ガラパゴス・ニッポン"も、ようやく学歴とか外国人とかいうことに関係のない柔軟性が見え始めているのを感じている。

企業がポテンシャルとか、未経験者とかいう「ごくフラットな採用意識」になり始めているのを感じる。

これまでは学歴とか年齢とか国籍とかの「見えないバリア」がとてつもなく分厚く、見えない「ガラスの天井」という壁があったのだ。

 

そしてそうなると、次には法律の流動化が必要である。

今のように「ガチガチの解雇規制」とか「組合による労働者保護」をある程度柔軟な合意ルールに変えていく必要がある。

でないと今のように企業側が「ひたすら守りに入るばかり」で、結局は企業の成長につながらないという、ここ50年ほどの悪循環がなくなっていくことを願っている。

 

そういう抜本的な政策を掲げるリーダーは、票読みばかりをする既存政党からは出てこないから、是非とも"若者の党"がたくさん出てきてもらいたいと思う。

 

時代の大きな価値観が動くのって、すごく時間がかかる。

 

 

練習は練習ではない

*[ウェブ進化論]練習の意味。

自分は昔から人前での演奏とかスピーチが得意ではない。

かの大前研一さんですら、プレゼンテーションの前には何度もビデオに撮って改善を重ねた、というから凡人が十分な事前準備をしないのは「だから言わんこっちゃない」という話でしかない。

子供のころはともかく、大人になってからはそんな理屈を知っているからかなり練習するようになったのだが。

けれど今一つ結果が芳しくない、ということに長年疑問を持っていた。

「結構練習したのに今一つ伝わらないな」ということが何十年も続いていたと思う。

 

そして先日、理由が判明した。

駅や空港のストリートピアノ演奏を見ていた時に気づいたのだ。

マチュアとプロの差とでもいうか。

いやアマチュアでも、きちんと「本番としての演奏」ができている人もいることに。

そして恐る恐る自分も演奏してみたのだが、果たして「本番として弾けていない方」だった。

そして気づいたのは「本番の練習をしているかどうか」だということなのだった。

 

自分たちは普段自宅で練習している。

それは、いわば「練習としての練習」である。

「本番をイメージしての練習」ではなかったのだ。

かくして練習は「ただの練習」であり、「本番とは全く別物」になってしまっていたのだ。

 

街中のストリートピアノであれ、自宅であれ、大人数の前の本番であれ「今が本番のメンタリティ」を想定することが近道なのだと今ごろ気づいたのだ。(嘆)

 

自分の中では、目からウロコでした。

 

 

出会いの先を

*[7つの習慣]将来の関係を考える。

これまでも何度か「終わりを思い描くことから始める」ことについて書いたけれど、その典型的なのはなんといっても「人間関係」だろう。

ビジネスだって最初は「人対人」からしか始まらない。

メールのオファーがいきなりきても、それを書いたのは(多分)人間だから始まりの根本は「人対人」である。

そして初めての対面があり、その後何度かの互いの交歓などがあり、そのままの距離の人や、関係が薄くなって消えていく人や、ぐいぐいと近くなる人などに分かれてくる。

 

なので初めての出会いの時に「この人とはこの先どんな付き合いになるのだろうか」と想像してみるといいだろう。

第一印象が強い人というのは、後から振り返ると長い付き合いになることも多い。

 

そして第一印象はともかく、異性・同性との恋愛もどんどんお互いの時間が経つうちに「とても深い関係」ができていたりする。

この深い関係、必ずしもいいことばかりではないことも多い。

なので「付き合い始めるきっかけ」の時に少しだけ想像力を働かせてみたいものだ。

その初めてのデートは、その後の深い関係の入り口かもしれない。

 

恋愛も仕事も一期一会。

そしていろんな出会いが"身を結ぶように"と考えていければ、自分を取り巻く世界は断然広がるのではないだろうか。

 

 

 

 

流れに惑わず

*[ウェブ進化論]売り逃げの論理。
もう5年前に買って在庫になっていた本。 
歴史を少しでも勉強すれば、多数が支持したことが後々考えても正しかったということは、例外的だと分かります。「市場経済における多数派が常に正しい。今人気のあるものがいいものなんだ」と言うなら、経営者は要らない。実際には、需要の多くは、長く続かないバブルなのです。

 

この本の内容が5年前と全く変わっていないのには正直驚く。

コロナ禍の影響も小さくはないと思うが、むしろ著者が警告している供給過剰は加速しているように見える。

すでに湯沢町(新潟県)では「立ち腐れ超高層」と言われるマンションが数多く増えている、とあるがその様子はますます加速しているようだ。

 

さらに「多数が支持している都心」はどうなるのだろうかと思うと、生涯年収に匹敵するような価格の集合住宅の価値は、そう遠くないうちに収束するのではないだろうか。

不動産業者はまさに「売り逃げのスタイル」を隠そうともしないけれど、自分たちは「高齢化」とか「空き家率」について冷静な目でいる必要があるだろう。

 

現に自分の周囲を見回しても「人より家の数が多い人」はかなり目立つ。

多数の支持より自分の支持を考えよう。

 

脱・合理性

*[ウェブ進化論]合理化の果てに。

先日、少子化問題を取り上げた報道番組で、四十歳前後の女性コメンテーターが「結婚や出産のメリットが分からない」「リスクが大きいと感じる」と発言していた。

それを聞いていて、みんなが「何でもそういう風に考える時代だった」ということをしみじみと感じた。

そして、おそらくこれからは「そういう風な」考え方が古くさいものになっていくのではないかと思う。

"昭和+平成の風"はここまで合理性を問い、家族や異性、同性との付き合いにも損得や安全性などを考えるようになっていたようである。

 

まあでもこれだけ高齢化とか介護とかデフレだの不景気だのとばかり言われては、若い世代の人たちが「既存の大人たちの価値観」を丸ごと疑問視するのも当たり前というものだ。

 

これからは結婚とか出産とか同棲とか介護とか、各個人が「やりたいことを選べる」ような制度づくりが支持されていくのに違いない。

そういう意味では、既存政党などは丸ごと退陣してもらって「若い人党」が早くいくつか出てきてもらいたいものだと思う。

 

今の政治家を見て「政治家になりたくない」と思うのは正しい感性だと思うが、本来の政治に挑戦する人たちもそろそろ出てきてくれてもいいのではないだろうか。

 

 

 

 

終わりと同時に道のりも

*[7つの習慣]最初から苦労を予測する力。

私的成功のための、第二の習慣「終わりを思い描くことから始める」(Begin with the End in Mind)。

この年になっても、いやなってこそだが実に重要な項目だと思う。

もう7つの習慣を知ってから軽く30年以上が経つが、その一つ一つは注意していないと忘れてしまうこともしょっちゅうである。

だから習慣にしなければならない、というのがそもそもの話なのだが。

それはともかく。

 

終わりを思い描くこと、究極には自分の人生の最期を思い描く、ということだがそれもともかく。

 

仕事でも趣味でも、何か新しいことを始めるときに「ゴール」をイメージすることって案外に難しい。

「このビジネスは始めたが最後にはIPOするだろう」とかいうことは考えにくいものだ。

だってまだ「何もない」わけですから。

まあそれくらい「始める」っていうのは大変なことなので、いざ始めてから「どこへ行くんだっけ?」というようなことにはならないように注意しよう、ということだ。

 

そして。

終わりがあるからこそ、「そこへ至るプロセスがある」ということでもある。

何かを始めるときには気持ちは前向きで、だからこそ苦労のことをあまり覚悟していないものだ。

 

「終わりをイメージすること」を忘れずに、そして終わりに至るまでの「途中の苦労をイメージすること」ができれば、かなりマイペースで事を運ぶことができると思う。

 

次からは必ず、必ずそうしようと思っている。

ようやく想像力

*[ウェブ進化論]私の時間の過ごし方。

先日、自分と同年代の60歳前後の仲間の飲み会でのこと。

話題がもう、年金と老後の話一辺倒になっているのには驚いた。

(それ以上の70代前後の先輩たちは「病気と数値と薬の話」に花が咲く)

 

そんな中でも60代は、もう定年を迎えてしまうのか…という寂寥感を誰もがリアルに感じているようだ。

メンタルと体のバランスが取れていなくて「まだまだ現役」と思っていたのが、定年が直近に迫ってきて改めて戸惑っているのがよく分かる。

 

そしてそんな感覚はこれからますます強くなっていくのだろうと思う。

60歳でこんなに「社会人の卒業」を感じるのなら、70歳が迫るとどんな心境になるのだろうか。

60歳の自分から見ても、ひと回り上の72歳の先輩たちのことを思うと、なかなかチャーミングな気分になってしまう。(ちょっと可愛い)

 

リタイヤ世代の気持ちの若さと、世間の「社会人の中心年齢」はどんどん乖離が大きくなっているのだろう。

なのでこれからは、自分が中年(40代)になったあたりから「30-40年後のこと」を想像しておいた方がいいだろう。

会社の「定年制度に従って終わり」という時代ではなくなっている。

 

リカレント教育云々、というよりも「60代以後の過ごし方」についてはいろんなシミュレーションをしておくのがこれからの常識になるのではないだろうか。

 

それはそれで楽しいことを考えたいものです。

 

理由が消える世界

*[ウェブ進化論]オフィスの再定義。

IT企業はリモート率が高いといわれているけれど、まだまだ「原則出社です」という会社は多い。

そして、そういった会社の転職人気は急降下していることに気づかない会社も多いようだ。

働く側の「選択の時代」は確実に始まっていると思う。

 

働き方改革と言われ、そしてコロナ禍があり、けれど世間の常識は「オフィスをなくす」というところまでには変化していない。

でそれを後押しするのはAIなのではないだろうかと思う。

 

ネットワークが5G、6Gへと進化し、さらに「人間のしていたいろんな作業部分」をAIが補助してくれるようになれば、環境は相当変化するだろう。

オフィスに出勤して"フェイスtoフェイス"を重視する企業は、その中身として「表情」とか「雑談」とか「オフィスの景色」を重視しているという。

それは今は分からないではない。

けれど制約条件は解除の対象、という名言もある。

 

そうした「表情描写とか雑談とかオフィスの遠景」が、ITの進歩で解決してしまえば、オフィスの存在理由は完全になくなるだろう。

それは時間の問題なのではないか思う。

すべては技術革新のもたらす変革だ。

 

自分たち働く立場の人間は、そうした「リアルと遜色ない職場」で一体何をしたいのか、ということを考えておく必要があるのではないだろうか。

 

 

疑いなし

*[ウェブ進化論]習慣を作る。

子供のころから歯医者に行くのが嫌いで、「虫歯が出来ては我慢し、悪くなって痛い治療をして、さらに歯医者嫌いになる」というまあ悪循環を繰り返していた。

そして40代半ばで、友人から「痛くない名医の歯医者さんがいる」と聞いて、ふと何十年ぶりに行く気になり、それからは年に三回の検診に通うことにしている。

 

すでに自分の歯は何本かは虫歯治療をしていて、そこからの再発の危険はあるらしいけれど、担当の先生からは「今のままでも80歳くらいまでは自分の歯で食事ができるでしょう」と言われている。

 

そこでハタと気づいたのだが、二、三十代のうちにそういう「歯の健康サイクル」を作ることを知っていれば、恐らく「死ぬまですべて自分の歯でいる」ということも可能だったろう。

 

つまりは、今の若い人はぜひ「定期的な歯科医院通い」と「毎食後の歯磨きと歯間ブラシ」を実行するだけで"口腔関連の悩みから生涯解放される"というのだから、やらない手はないだろう。

 

いろんな健康のための習慣というのは、7つの習慣同様「長期に渡って実行しレビューすること」が難しいものだが、こと口腔関連については疑いがないと思う。

 

これほど分かりやすい健康習慣はあまりない。

同様な健康のサイクルについても考えてみたいと思っています。

*[ウェブ進化論]一瞬で諦めない。

46億年前。(地球の誕生)

2億5000万年前。(恐竜の誕生)

6500万年前。(恐竜の絶滅)

700万年前。(猿人の誕生)

240万年前。(原人の誕生)

60万年前。(旧人"ネアンデルタール人"の誕生)

20万年前。(新人の誕生)←今の私たち

1万年前。(地球温暖化で農耕の始まり)

6000年前。(最古のメソポタミア文明の始まり)

そして6000年の間の歴史を見ていると、いかに「富と権力を求めての歴史か」と嘆息する。

宗教とか飢餓とかいろいろと理由はあるのだけれど、人間争いすぎ。

 

時の為政者たちにこの本を読ませれば一体どんな反応をするのだろう。

そして今の為政者は、そんなことを知っているに違いないのに争いを続けている。

自分たちは少しは賢くなっているのだろうか、と思うが先の大戦からまだ90年も経っていないのだ。

 

けれど「億」の単位から見てみれば「6000年」なんて一万分の一にも満たない期間でしかない。

つまり地球の歴史の中で「極々最近の一瞬だけ」今の人類が誕生して、武器を作って暴れているのだとも思える。

 

「争いは永遠になくならない」と諦めてしまうのはまだちょっと早いような気がする。

勝たぬ戦略

*[ウェブ進化論]戦わずして。

自分たちは「戦略」という言葉を聞くとついつい「相手と戦って勝つこと」だと考えてしまうが、現代では「むしろ戦いを避け、ある目的のために最適な資源を配分することけ」なのだという。

元々の戦でもそういう意味で使われていたらしい。

むしろ戦わない、というのはこれからの時代になじむフレーズではないだろうか。

 

よく欧米の人と議論していると、いわゆるディベートのように相手と反対の立場に立って「なんとしても打ち負かす」という人がいたりするが、何が目的かを考えずにただ相手に向かって喧嘩腰になっていては、まとまるものもまとまらない。

 

相手や目的に対してハナから「好き嫌いとか反対だとか」いうことを決めているような人も結構目にするが、それは自分も周囲も実に疲れるし、何より損なことだということに気がついていないのだと思う。

 

金持ち喧嘩せず、とはよく言ったものだが、ビジネスや人間関係でも「いかに丸く収めるか」ということは結果的には効率的なことも多いのだ、と思いたいものだ。

 

そんな収まりのためには、敢えて自分から折れたり歩み寄ったりすることを自然と覚えたいものである。

 

悩みの射程(3)

*[ウェブ進化論]2、3年のこと先から。

地球や、まして宇宙の今後の話は面白くて壮大だけれど「自分の悩む対象」ではない。

だって先の話過ぎるもの。

そして60、70歳の大人になっても「20年、30年先」というのはあまり想像できないものなのだ、という話の続き。

 

いい大人が自分の十年以上先を想像しにくいのなら、若い人ならそんな傾向は「もっと当たり前」なはずである。

何しろ選択肢が限りなく沢山あるのだから。

選択肢の少ない老人ですら悩んでいるのだ。

人生は誰もが初体験である。

 

なので若者はあまり「先行きのこと」とか「成れの果てのこと」を気にせずに、むしろ「自分の気が向くこと」というものを大事にしていくことが大事だと思う。

世間の大人が言う「正しい選択」とか「真っ当な過ごし方」にこだわる必要はないだろう。

 

自分たちの世代はどちらかと言うと、そうした"常識"を優先してきて「果たしてあれでよかったのかなぁ」と思っている世代なので、ぜひ参考にして欲しいと思う。

そして60歳前後にして、圧倒的に輝いているのは「自分のやりたいことを選択してきた人たち」なのだということも書いておこう。

 

何しろそういう人たちには"後悔"がないのだ。

そして、流されてきた人たちの顔には後悔がにじんでいることもある。

 

まずは「ここ二、三年のこと」を最優先に考えてはどうだろうか。

 

悩みの射程(2)

*[ウェブ進化論]悩みの輪を考える。

宇宙は138億年前のビッグバンに始まり、そして自分たちのいる太陽系では太陽の寿命はあと54億年ほどだという。

太陽は最後には膨張して今の地球もろとも燃え尽きるらしい。

 

そしてそんな中、たった700万年前に誕生したという、猿人から原人、旧人、新人と変化してきた自分たちは、20万年前に今の形になり、そして今に至るという。

 

一体、自分たちは宇宙や太陽系のことを心配すればいいのか、それともここ百年くらいのことを考えればいいのだろうか。

 

多分「太陽系の今後を考える学問」も必要だし、「これからのエネルギー問題を考えること」も必要なのだろう。

そして、自分たち一人一人でいうならば「今を生きる」とか「ここ数年、数十年を生きる」ということが一番関心のある対象なのだと思う。

 

「遠くを見ながら、足元も疎かにしない」というのは簡単たが、自分たちはとかく「足下主義」である。

もっというと「目の前のこと」にしか関心がないということも多い。

 

例えば自分の歳(60歳)で往生際を考える、というのですらかなりし難い。

たった二、三十年後のことでも想像し辛いのだ。

だから今から「死に際について」と思っても何も浮かばない。

はっきり言って「そんな先のことに悩めない」のだ。

 

自分が現実的に悩み、考えて選択し、そしていろいろと対策できるのは5-10年くらい先がせいぜいなのではないだろうか。

そして、それについてはぜひ真剣に考えたいと思う。

(つづく)