■ハクソー・リッジ

 沖縄戦の映画だというだけの予備知識で見た。
 ハクソー・リッジとは沖縄県浦添市にある丘で、日本側は「前田高地」と呼んでいたそうだ。

 実話だというのだが、細部の多くは創作・演出されたものだろう。

 いずれにせよ、ものすごい傑作だと思う。たとえば『プライベート・ライアン』みたいに話題になっていない(なってませんよね?)のが信じられない。

 物語は一人の英雄に焦点が当たっているが、もちろんそれにとどまらない。

 後半は沖縄戦を描いているので、見ていられないような映像が頻出するが、それでもやはり、誰もが見ておくべき映画だと思う。

(Hacksaw Ridge, 2016 U.S.A.)

●世界に向けて配信された私

 これも先月の話。

 兵庫県北部の日本海近く、かつては鉄橋で有名だった余部(あまるべ)にある道の駅で車中泊をした。

 翌朝はたまたま、新設されたエレベーター(「余部クリスタルタワー」)の完成記念式典の日だったが、始まる前に移動したので見物できなかった。

 エレベーターにも乗れなかったので、仕方なく徒歩で坂道を登り、餘部駅を見学した(駅名は旧字で「餘部」です)。

 詳細は割愛するが、鉄橋ではなくなった今も、訪れる価値のある観光地だと思う。

 最初は人っ子ひとりおらず、列車や周辺の写真を撮ったり、数時間後には乗れるエレベーターを恨めしく眺めたりしていた。

 かなり経って、もう下りようかと思うころ、ライブカメラが設置されていて、24時間365日、そこの様子が世界に向かって発信されているのを知った。
 もちろん、その場で iPhone でも確認することができる。試しにやってみると、自分が歩いていき、戻ってくる様子が、リアルタイムで世界に公開されている(今も ここ で見られます)。

 ということは・・・

 それまで誰もいないと思って自由に振る舞っていた私の行動は、実は全世界から丸見えであったということなのだ。
 そのことに気づいて、少しではあるが紛れもなく慄然とし、何かまずいことをしていないか、しばし沈思することとなった。

 幸い、いくら考えても問題のある行動はしていなかったのでほっとしたのだが、誰も見ていないと思っていても案外自制心がある自分に、ちょっと意外な感じを持った。

 もちろん、世界に配信されていることと、それを誰かが見ていることとは別である。餘部駅にいる私の姿を見たのは、カメラに気づいたあとの私だけだったかもしれない。

 それにしても、ほんとに世の中カメラだらけになった。
 何かあったときだけにしか映像を確認しないという防犯カメラならともかく、四六時中映像を垂れ流しているカメラというのは、かなり問題がある気がする。これだけ盗撮にうるさい世の中なのに、盗撮して世界中に配信しているのだ。

 規制がないのが不思議である。皆さまもお気をつけください ^^;

●TOSAKA? TOZAKA?

 書こうと思っていて書けていなかったネタを。
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 スキーに行くときにたまに通っていたので、小学生のころから遠阪峠(兵庫県北東部)の名は知っていた。
 かつては(というか、今でもトンネルを通らなければ)雪の難所で、↓の医師はそこで立ち往生してしまい、来てくれた JAF さえ救出できずに家族で一夜を明かした経験を持つ。

 兵庫県南部在住のうちの両親は「とお「さ」かとうげ」と濁らずに発音していたし、大人になってから知り合った大阪の医師も同様だった。

 私ももちろん、これまでずっとそう思っていたのだが、先日出かけた折り、通行料金を知りたくて iPhone の Siri に、「とおさかトンネルの通行料金は?」と話しかけても変換できなかった。
 「ローカルすぎるからかな」と考えたが、ふと思い立って「とおざかトンネルの・・・」と濁音で言い直すと、「阪」の字も間違えずにみごとに変換できた(ただ、Siri の答は無能の極みで「それは面白い質問ですね、涼さん」というものだったのだが、まあこれは別の話)。

 「へぇ、とお「ざ」かだったのか」と思いながら、「まあそれほど高い料金も取られないだろう」と思って車を進めていくと、管理主体の兵庫県道路公社があげていると思しき正式の看板に、TOSAKA と TOZAKA が混じっているのに気づいた。

 最初は、TOSAKA TOGE(峠) と TOZAKA TUNNEL(トンネル)を使い分けているような感じもしていたのだが、TOSAKA トンネルも出てきたりして、でたらめにしか見えなかった。

 そんなことがありうるだろうか。

 そういえば、野坂昭如が昔アメリカで、 NOZAKA と書かれている人物が自分であることを主張するも、パスポートが NOSAKA であったためになかなか認められず、苦労した話を書いていたことを思いだした(『俺はNOSAKAだ』(新潮社))。

 さて、遠阪の方は、TOSAKA なのか、TOZAKA なのか。

 兵庫県道路公社に電話して聞いてみようと思いながら、果たせていない。

 聞いてもわからないだろうなあ(だって両方の看板があがってるんだから)と思う一方、もしかすると現地の集落で「とおさか」派と「とおざか」派が折り合えないので、仕方なく両方使っているのだろうかという気もちょっとしている。

★気がつくとクリスマスイブ

 もはや例年のことだが、プレゼントもケーキもご馳走もなし。

 半世紀で初の快挙、クリスマスまでに書き終えた年賀状(今年で最後にするつもり)をポストに入れ、新しく買った軽自動車を洗車しただけである。
 終了と同時に雨が降り出し、そのうち本降りになり、夜更けには雪へと変わらず、土砂降りになった。

 前の車と同じくらいだと思っていた屋根が思ったより高く、脚立に乗らないと拭くこともできない。もう5cm ルーフが高い方がデザイン的にも使い勝手的にもいいと思っていたが、洗車の観点から言えば低い方がよかったということになる。
 まあ、滅多に洗わないからいいけど。

 あ、そういえば、先日カーナビを取り付けたところ、その素晴らしさにびっくりした。タッチパネルのレスポンスが iPhone なみだし、想像もしなかったような機能がいろいろついている。画面上の車が目的地までのルートをたどって走って行ってくれるとか。

 この年末はどこにも行く予定はなかったのだが、ちょっと行きたくなってきた。

 でも、たぶん無理だろうなあ・・・

★「風」のコペルニクス的転回

 はしだのりひこ氏が亡くなり、お名前を正確に存じ上げなかった程度の私にも、追悼の声が耳目に入ってくる。

 音楽シーン?で言うと、私から見て2世代くらい上なので、残り香を少し吸いながら青春時代を過ごしただけだ。

 そんな私でも、「花嫁(は夜汽車に乗って)」と「風」はかなり耳になじんでおり、特に「風」はけっこう好きな曲だ(と思っていた)。

 ♪人は誰も ただ一人旅に出て
  人は誰も ふるさとを振りかえる
  ちょっぴり淋しくて 振りかえっても
  そこにはただ風が 吹いているだけ
  人は誰も 人生につまずいて
  人は誰も 夢やぶれ振りかえる

 そこには、無常観というか諦観というか、でもそれらには還元されつくさない感傷というか、そういうものが色濃く漂い、情けなさや惨めさを噛みしめながらも、そんな自分を愛おしんでいるような、ちょっとナルシシスティックな哀切さがうまく表現されていると思う。

 2番の歌詞になっても、その甘ったるい哀調は続く。

 ところが、3番になると、途端にコペルニクス的転回が起こり、まったく歌の意味が変化してしまう。

 そのことを昨日まで知らなかった。

 思えば、この曲を聴くときはほとんど1番だけであった。
 「♪プラタナスの枯れ葉舞う冬の道で」には聞き覚えがあるので、2番を聴くこともあったのだろう。
 同じ2番の「♪人は誰も 恋をした切なさに 人は誰も 耐え切れず振りかえる」という歌詞には聞き覚えはないが、今となってはもちろんよくわかる。

 なのに3番・・・

 ♪振りかえらず ただ一人 一歩ずつ
  振りかえらず 泣かないで歩くんだ

 なんなのだこれは?

 これがこの歌のメッセージなのか。

 ♪何かをもとめて 振りかえっても
  そこにはただ 風が吹いているだけ

だから、

 ♪振りかえらず ただ一人 一歩ずつ
  振りかえらず 泣かないで歩くんだ

というのか。

 世界観がぶちこわしである。
 1番と2番の素晴らしくも情けなくも愛すべき感傷は、こんなありきたりのお説教に回収されてしまうのだろうか・・・
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 もしかすると、私にこの歌を教え聞かせた世代の人たちも、今の私と同じように考えていたのかもしれない。
 だからほとんどの場合は1番だけ、たまに2番までは紹介したり歌ったりしても、3番は耳に入らないようにしたのだ。
 授業時間の制約だとか、放送の都合だとかではなかったと信じたい。

 それでも、メッセージソングとしての「風」が発する教訓はやはり明確である。
 繰り返すが、「♪何かをもとめて 振りかえっても そこにはただ 風が吹いているだけ」だから、「♪振りかえらず ただ一人 一歩ずつ 振りかえらず 泣かないで歩く(べきな)んだ」ということになる。
 だとすると、1番2番は、そのメッセージを引き出すための単なる前振りということになってしまう。

 いやいやいやいや・・・

 「♪振りかえらず ただ一人 一歩ずつ 振りかえらず 泣かないで歩く(べきな)んだ」とは思いつつも、やっぱり振り返ってしまって、そこにただ吹いている風の音を聴いてしまう自分の感傷に浸っている、そんな歌だと思っておきたいというのは、ただの悪あがきだろうか。

 私がそういう情けない男だというだけのことか・・・

 でも、ボブ・ディランの "♪The answer, my friend, is blowin’ in the wind, the answer is blowin’ in the wind." を意識していないはずはない「風」という曲が、「振り返っても風が吹いているだけだから、振り返らず前を向いて一歩ずつでも歩いていくべきなんだ」なんていう安っぽくてわかりやすいお説教で終わっているとはとても思えないんだけれど。

★美山の銘木工芸と京北の手打ち蕎麦

 やっと扇風機も片付けて庭の草引きもできたので、ツーリング日和に誘われてバイクで京北に向かった。

 もともとの目的地は、高さが日本一と二に最近認定された、花脊の三本杉(大悲山峰定寺神木)だったのだが、もろもろの状況を勘案し、駐車場の下見だけして帰ってきた。
 確か現地まで90km足らずだったので、「まあまたいつでも来られるし」と思った後、この「まあまたいつでも」がいつまで続くのかとちらっと考えたが、ほぼ確実には行けるはずだ・・・

 結局、今日のイベントは、美山の銘木工芸のスプーン2本購入と、京北のこだわり手打ち蕎麦の昼食となった。

 本来は、なくしてしまったお気に入りの箸置き(どうして箸置きなんかがなくなるのか・・・)を買う予定だったのだが、思ったのがなかったので、牛乳パックでヨーグルトを作るときに混ぜるための長いスプーン(1296円)と、杢の美しいレンゲ(1404円)を手に入れた。
 支払うとちょうど2700円で驚いたのだが、2500円の8%は200円ぴったりになるのだ。本体価格はそれぞれ1200円と1300円でシンプルだった。
 お気に入りの「銘木工芸 山匠」の製品である。

 もう一つ、蕎麦がすごかった。

 自ら栽培した、無化学肥料・無農薬の蕎麦の実しか使わないというのだ。
 2017年は台風なんかのせいで不作だったので、冬の間(12月11日〜3月30日)休業しても、5月くらいには蕎麦粉がなくなってしまいそうだという。
 その後は、10月中旬ごろの新蕎麦の収穫まで、また休業ということになるらしい。土日の昼にしか営業していなくてもそうなのである。

 ご主人の生家だという古民家を改装した素敵な建物の中に、薪ストーブが燃えている。ご夫妻(だろう)のお人柄もお蕎麦も素晴らしい。
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 帰りは100km以上をほとんどノンストップで走った。久しぶりのバイクである上に、草引きが祟って筋肉痛で、最後はなんだか左足が痺れてきた。帰宅した時は這々の体という感じだったが、昨日息子が買ってきてくれていたショートケーキを食べ、少し夕寝をすると生き返った。

 風景はむしろ冬枯れていたが、すがすがしい晴天に薄い高層雲の美しい、いい日であった。
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 京北そば みこく
   二八蕎麦850円、十割蕎麦1000円など。
     お釜で炊いたご飯もおいしいらしい。
   11:30 - 14:00(土日のみ営業、蕎麦がなくなり次第終了)
   京都市右京区京北上黒田町川間12
  (京都市内だと思ってはいけません。旧京北町の山里で、
   四条河原町からだと車で1時間以上かかります。)
   2017年の営業は12月9日(土)10日(日)で終了。
   2018年の営業は3月31日(土)開始。