荒川洋治 『文学の空気のあるところ』より

文学の空気のあるところ

東海道新幹線三島駅を通るたびに、ぼくは丸山眞男を思い出します。丸山眞男が、まだ東大の助教授だった時代、終戦直後の、1945年12月から翌年にかけて、三島の人たちに、なぜ日本は戦争に負けたのか、さまざまな思想の問題、国家体制の問題などを話しつづけた。これが丸山眞男が参加した庶民大学の講座です。子どもも、学生も、商店のおじさんもおばさんも、その辺のおにいさんも来た。町の人が聞きに来た。どうして日本は戦争に負けたのか、この戦争は誰が起こしたのか。それを学者丸山眞男が、人々の前に出てですよ、一生懸命しゃべりつづける。それが丸山眞男の原点ですね。(略)
やっぱり汚れないと。きれいなところで、規制されて、ガードされて、守られて、講演をして、特別扱いされているのはね、ほんとうの世界の大作家という人はそんなことしてませんよ。時代はちがうものの、トルストイなんかすごいですね。徳富蘆花が会いに行ったら、会ってくれた。トルストイさんですかって聞いた。それでちゃんと話をしてくれてね。いちばん上になるとそこまで行くのね。そういう人を見たい、小説家も詩人もね。

作家は汚れる、それも大切な活動のひとつです。いろんな場に出て、恥ずかしい思いもする。丸山眞男は、暑いさなかも、腕まくりして、黒板に字を書きながら、国家が社会がどうのこうのとやったわけです。それが後の丸山眞男の思想活動の原点となる。三島の市民に語りかけた。いまの学者の人たちは、大学のなかに入っています。入りすぎています。人々に語るときのことばをもたない。そのことすら平生、意識しない。だから考え方も鍛えられていない。それでぼくは新幹線で三島駅を通るたびに、丸山眞男のことを思うんです。いまから70年近く前、一生懸命語りかけ、自分の考えを述べた丸山青年の姿が浮かぶわけです。もう戦争から帰ったままの姿です。知識人は、ときに泥にまみれる、そのなかで生きていくという、そういうことがいまだんだんなくなってきているように思います。

ぼくはいろいろ若い人たちの詩集をたくさんつくってきましたが、そのなかからぼくなんかをはるかに超えていく人、才能をもつ人たちがいっぱい出ました。それもうれしいことです。
誰もお客さんが来ない路地裏で、くだものか何かの店を構えているとします。でもいつお客さんが来るかわからない。そのために林檎なら林檎をつねに磨いておく。突然お客さんが来ますからね。いまの詩はどうなっているんだ、最先端の詩はどうなんだみたいなことを知りたい人が急に来たとき、粗末なものは出せない。そうするとやっぱり、いい詩集を用意しておく。いまはね、こういう詩人がいるんです、この詩集はいいですよ、絶対に時代をつくりますよと。だから普段はお客さんがほとんど来ない店でも、ちゃんとした仕事をしておく。単なる散文ではない、人間の個人の痕跡を守る。支える。そういう気持ちというか夢があるからでしょうか。