『ピアニストという蛮族がいる』中村紘子

ピアニストという蛮族がいる (中公文庫)
先日、タワーレコードへ行って、CDよりも本ばかり買い込んでしまったのだが、これもその一冊。先だって、中村紘子著『チャイコフスキー・コンクール』を読んで、好感半分、反感半分といった感じだったが、未読だったこの有名な著書を読んでみることにした。しかしあのコンクールの審査員としての記述は、例えばオリンピックの審査員が書いたとしたら、問題になりかねないものだと思うのだけど‥私の考えすぎかな。あの本、大宅賞を受賞しているんですよね…

本著は、様々なピアニスト・音楽家を通した日本における西洋音楽の歴史、個性的なピアニストの紹介など。人の「評伝」という名の下世話な話を読むのは嫌いではないけれど、そのようなものにこそ、書き手や語り手の視点、まなざしというものが暗黙にも滲み、読者や聞き手にも垣間見え、伝わってくるものだと思う。だからこそ、語られた内容とともに、その語り手や書き手に興味を持つ、ということも私には多かった。

西洋音楽のパイオニアといわれるような日本人女性、幸田露伴の妹の幸田延、その弟子の久野久に話が及ぶと、中村氏のまなざしは優しく、続く言葉もあたたかく変化する。それはおそらく中村氏がそこにご自分の姿を重ねるからだろう。誰しも自分に親近感を感じる存在には甘く、寛大なのかもしれない。本書を読みながら、「強さ」ということについて考えた。本当の強さの在り方というものは、どのようなものだろうか…と。

久野久は、ピアニストとして日本での成功の後、欧州に渡り、その地で自ら命を絶つ。

久は自分の音楽における情熱、狂気は、音楽の本当の姿を知らないことからくる不安と、そしてそこから目を背けるためのものであることを本能的に感じとっていた。彼女と音楽との出逢い、関わり合いには何一つ豊かなもの幸せなものはなく、あるのは不安とつらさばかりであった。そして音楽に身を打ち込めば打ち込むほどにその不安は広がって、彼女から音楽はますます遠くへだたっていくのを彼女は知っていた。そんな自分が本場に行って、音楽の真実の姿にまっ向から向い合ったとき、自分はそこに何を見出すのだろう?彼女は直感的に自分の破滅を予感し、怯えた。しかしそのことは誰にも知られたくない。彼女は、自分が世間が誉めそやすように「天才」であること、「偉大な芸術家」であることを信じることに没頭した。

私がとてもいいなと思ったピアニストの人生は、スペインのイサーク・アルベニス少年で、1歳でピアノを始め、4歳で演奏会を行い、父親に強要されて演奏旅行を続けるが、父親に反発して9歳で家出を決行。でも天才ピアニストだから、あちこちで演奏会をして自分で稼げてしまうので、その後もアドベンチャラスな人生を送る。こういう話、大好き(笑)。後に彼は晩年、ピアノ曲の名作「イベリア組曲」を作曲した。

あとは、オーストラリアのタスマニアで生まれ、野生児のように育ったアイリーンという少女が、7歳でピアノに出会い、驚異的な成長をして天才ピアニストになった、という話も(脚色もあるのだろうが)感動した。彼女は、英国でピアニストとして成功し、その後映画にも出演したという。ネット検索すると、多くの演奏を視聴することができる。
LISZT Un sospiro EILEEN JOYCE plays Piano Favourites (1950s) - YouTube

本書は、全体として興味深い内容で、とても面白く楽しんだ。けれど同時に、演奏家としてでなく、随筆家として、私はこの方のまなざしというものが、多分あまり自分に馴染まないのだと、読みながら何度か感じた。中村紘子さんの演奏は、多くの日本人と同様に私も子供の頃から楽しんだ。そして中村氏は最後まで、何より演奏家であった。究極において、中村紘子の演奏、それが全てであったのだと思いたい。