朝倉涼子の逡巡

 情報統合思念体が涼宮ハルヒに手を出せない訳は幾つかあるが、その大半はターゲットの持つ能力に関するものだ。地球人類はその英知の果てに量子効果という魔法に気付いたが、統合思念体は更にその上のレイヤを支配する情報効果を識っている。しかし、その統合思念体ですら、涼宮ハルヒの持つ不思議な――このような言い方は甚だ不本意だが――能力については類推する事しか出来ないのだ。
 朝倉涼子は、そんな統合思念体の娘の一人である。"TFEI"と原住民から名付けられた彼女たちは、ただターゲットたる涼宮ハルヒを監視し、何かを発見する為だけにここに居る。「何か」とはまさしく「何か」であり、それが何なのかを識る者は、まだどこにも居ない。

「涼宮さん。明日、日直なんだけど」
 朝倉が手渡した日誌を受け取って、涼宮ハルヒはそれを机の中に突っ込む。笑いかける朝倉を一瞥し、彼女は無愛想に席を立つ。視界に掛けていたフィルタを外し、概念上に流れる情報粒子を視る。日誌に含まれるポテンシャルが涼宮ハルヒに伝播し、ありとあらゆる関係物にその影響が及んでいく。その様子は、涼宮ハルヒ自身がブラックボックス化している事を除けば、普通の個体と何ら変わることがない。
「お疲れさま」
 クラスメイトの一人が、苦笑を浮かべて話し掛けてきた。涼宮ハルヒの奇行は学校中に知られているから、その流れでの一言だ。
「ねえ、今日の帰りなんだけど、駅前のケーキ屋さんに行こうと思うんだ」
「そうなの? じゃあ、私もご一緒しようかな」
「良かったー。ベリータルトが美味しいんだって」
「ベリー? ブルーベリーとか、クランベリーとか?」
「そうそう」
 涼宮ハルヒの情報量は教室を出て、旧校舎へと向かっている。その情報を見た他の生徒は、自らの情報に影響を受け、そうして周囲のすべては繋がっていく。地球人類は、この物理的側面だけを見てバタフライ効果と呼ぶが、実際にはもっと広範囲に渡って通用する概念である。ただ未熟な彼らは、それを観測する手段を確立できていないだけだ。
「朝倉さん、頑張るよね」
「うん?」
「ほら、涼宮さんのこと。その……こう言うのもアレだけどさ、あんまり気使わない方がいいって。なんかさ、何考えてるか分かんないじゃない」
「でも日直はやってもらわないと」
「それはまあ、そうだけど。でもあの子、朝倉さんが何言っても右から左じゃない。効果無いって」
「そうかな」
 目の前のクラスメイトが、ジェスチャーを交えて話す。当然、言葉にもポテンシャルは含まれる。その言葉が聞き取れる範囲に波のように広がっていく情報量は、誰かの脳に認識された段階で一定のレベルにまで復元され、短期記憶野に根を張り伸ばす。
 その波紋の中で、朝倉の周囲だけが、まるで地平を見渡す砂漠の真ん中に居るかの如く、微動だにしない。TFEIには外部からの情報伝播を遮断する"ファイアウォール"と呼ばれる能力がある。一々それら情報に影響を受けているようでは、観測業務もままならない所以だ。
「ケーキには紅茶、といきたいところだけど、私はコーヒー党なんだよねぇ」
 クラスメイトの話題は猛烈にサイドチェンジを繰り返し、一所に留まらない。その振れ幅の大きさがまるでデジタルデータのようだと、朝倉は思った。

 駅前のケーキ屋を出てクラスメイトと別れた頃には、雨が降り始めていた。ここ2、3日は列島の上に前線が居座っており、降ったり止んだりを繰り返している。
 日本の4月にしては雨量が多い事を、テレビでは異常気象などという単語で表現していた。彼らは知らないのだろうか、自らの誇る100年間のデータベースに未だこの惑星の1000万分の1の情報しかないという事実を。
 折りたたみ傘を開いて、朝倉は時速4kmで帰り道を歩いた。涼宮ハルヒの情報は、ここからでは遠すぎて認識が難しいが、流れ着いた情報には彼女の痕跡がいくつも見て取れる。その"能力"無しでも、一般人よりは明らかに影響力が高い。
 もちろん、単に騒がしい、という事なのかもしれないが。

 ――危険察知に充てていた感覚器に、音が届いた。
 朝倉はその発信源を見た。猫がうずくまっている。音に含まれる情報に危機管理系のタグがあったせいで、フィルタを抜けたようだ。音はしきりに周囲へと発信され、つまりは、助けを求めている。視れば、右足の情報が千々に砕け、乱れていた。
 周囲に人物情報域が存在しない事を確認し、朝倉は猫の右前足を再構築する。数ミリ秒で足は直り、そして治る。猫はすぐに立ち上がると、どこかへと一目散に走り去った。

 次に猫の鳴き声を聞いたのは、マンションの玄関の前で傘の水を落としていた時だった。真っ直ぐに近付いてきたその猫は、朝倉の足首に濡れた躰を擦り付ける。
 これは明らかに、おかしい。
 朝倉は猫の発信する情報を一通り捕捉すると、その中に「自分の足を治したのは朝倉である」というデータを見付けた。
 おかしい。そんな事は解らない筈だ。
 稟議を上げ、朝倉は猫を抱きかかえる。猫は素直に朝倉の手に持ち上げられ、暴れずにじっとしている。統合思念体からの返答は許可、当該対象の精査の為に一時捕獲。
 ドアを開け、発信情報にフィルタを掛ける。
「おや、雨の中大変だったね」
 にこやかに話し掛けてくる管理人には、猫は見えているが、猫が居るという情報が届いていない。軽く頭を下げ通り過ぎると、そこからエレベーターを通って自分の部屋まで誰ともすれ違わなかった。物理情報改変で鍵を回し、鉄のドアを開ける。無音で動いたドアの中に猫を放すと、猫はそのまま、フローリングに足跡を付けながら部屋の中へ駆け込んでいった。
 追い掛けると、猫は濡れた躰のまま、狭いカーペットの上で寝ころんでいる。朝倉は先ず、猫の発信する情報に涼宮ハルヒの痕跡が視られないかを確認するべきだと思った。一通りの定時検索だけをタスクに乗せて、猫の隣に仰向けに寝ると、12時間のスリープに入った。


「猫?」
 翌日、クラスメイトの会話攻勢に悩んだ朝倉は、部屋に捕獲している猫の事を話した。涼宮ハルヒからの鮮度の高い漂流情報は猫に視られなかった為、特に問題は無い筈である。
「昨日の帰りにね。なんだかお腹が減ってたみたいだったから」
「朝倉さんのうちはペットOKなんだ、いいなぁ……」
「駄目なの?」
「お父さんが嫌いでね。小鳥とかはいいんだけどさ、犬とか猫は面倒だからって」
「そう。でも、仕方ないかもね」
 珍しく本心を混ぜて朝倉が頷く。
 昨晩、朝倉の疑似シナプスを緊急信号で叩き起こしたのは、4回中3回があの猫だった。
「どんな猫? 雑種?」
「そうね……。三毛猫だと思うけど」
「雄? 雌?」
「さぁ……」
「三毛って雌ばっかりで、雄が珍しいんだよ。知ってた?」
「へぇ、そうなの?」
「そうそう」
 嬉しそうに話すクラスメイトからは、自分が猫を好きである、という情報がひっきりなしに出力されている。高出力のデータはまるで太陽風に当てられた電磁層のように、シールドを情報的に光らせ続ける。もちろんそれは、ヒトには視えず、朝倉に届く事も無いが。
「もし雄だったらさ、今度見せてよ。あ、そうだ、朝倉さんのおうち、遊びに行きたいな」
「うーん、そうね、考えておく」
 チャイムが鳴って、教室が一旦騒がしくなる。手を振って自分の席に戻るクラスメイトを見送り、朝倉が次の授業の教科書を広げると同時に、世界史の先生が教室へと入ってくる。一見無意味だが、それなりに情報量の有る授業開始の礼を済ませ、朝倉は改めて涼宮ハルヒの観測へと意識を向けた。

 三毛猫の雄は、そのすべてが染色体異常によって生まれてくる。そもそも、三毛が生存する為には雌の染色体が必要なのだ。雄が三毛の染色体を抱えてしまうと、致死遺伝子の影響を受けて生まれる前に死んでしまう。3万分の1とも言われる、ある意味で奇跡的な"異常さ"の門をくぐり抜けて、雄の三毛猫は存在するのだ。
 そのような特異性というものは、ただそれだけで莫大な情報量、及び、情報影響力を持つ。珍しい生き物が高値で扱われるようなものだ。そのポテンシャルが、何らかの影響を受け、意図しない動作を引き起こしたのではないか。
 それが、今のところの朝倉が考える、今回の事象の実に脆弱な原因である。

 部屋に戻ると、猫は朝倉の足下まで来て一声鳴き、すぐにカーペットの上へと戻っていった。帰り道のコンビニで買った缶詰を開け、深めの皿に移す。箸でかき混ぜると、それを丸くなっている猫の前に置いた。
 猫は朝倉の顔を一度見上げて、皿に顔を突っ込むようにして食べ始める。もっと懐くかと思いきや、猫にありがちな性格なのか意外と警戒心を解かないままだった。野良としての特性かもしれない。
「おいしい?」
 にゃあ、と返事。美味しいらしい事は視えるので解っているものの、その返事が「美味しい」なのかどうかは、猫語を知らない朝倉には解らない。そもそも、猫がヒトの言語を解する筈も無い。
 朝倉は、一緒に買ってきたコンビニ弁当を開けて、猫の隣で食べた。TFEIはカロリーを消費せずとも活動できるが、朝倉がヒトとして活動したと仮定した時に消費した分のカロリーが減少しなければ、情報の繋がりに齟齬が生じる事になる。その辺りに気を使う必要がある事が、疑似有機体として活動する時には少々面倒であった。
 猫はすぐに缶詰を食べ終えると、朝倉のふとももに寄り添って丸くなった。物理的な熱量が、肌を通して流入する。箸を置いて温かい猫の背中に触れると、小さくしかし確かな脈動と呼吸の上下が、手のひらに伝わってくる。
 ――やはり何か突拍子もない異常であったと思わざるを得ない。
 当該対象の重要度を下げる旨を統合思念体に上申し、朝倉はごみを片付ける。そして、猫の発信する情報だけ受け取れるようファイアウォールの設定を弄り、スタンバイに落ちた。
 どうせ起こされるのだから、再起動は早い方が良いだろう、という理由で。



 黄金週間と呼ばれる連休を過ぎても、朝倉の部屋にはまだ猫が居た。クラスメイトに猫の存在を話してしまった以上、見せろと言われた時に見せられないのは問題があるからだ。重要度の低い事柄に対し、一々稟議を必要とする情報修正を使うのも躊躇われる。統合思念体も、特に存在意義のない対象に興味を持つほどリソースに空きが有る訳でもなく、最近は専ら、涼宮ハルヒと話すようになりつつある一人の男子生徒に注視しているようだった。
「ねえねえ、涼宮さんと彼、どんな関係だと思う?」
「関係?」
「だってさ、放課後いっつも一緒にどこか行くでしょ。何してるのかな」
 かの部活動の情報は、突如として直轄の監視者になった長門有希を通さずとも得られていた。
「付き合ってるんじゃないか、ってこと?」
「そうそう!」
 声を潜めても、嬉しそうなトーンの口調は情報量が多いものだ。数人の興味を引いてしまう。
「どうなのかな。でも、あまりそんな風には見えないけど」
「えー。絶対そうだって」
「うーん」
「なんかさ、涼子はそういうとこ、鈍そうだよね……」
 朝倉は苦笑して肩を竦める。鈍い、とは実際のところ涼宮ハルヒの周囲に限っては間違っていない。彼女の影響を強く受ける範囲はあまりに情報の改変が急激で、統合思念体が実施する四次元域からの観測を以てしても情報の流れに規則性が視て取れないのである。
「モテそうなのにな、涼子ってば。笑顔でゴメンナサイするタイプ?」
「……そうかな」
「少なくとも、涼宮さんよりはね。……あ」
 噂をすれば。開けっ放しの扉から涼宮ハルヒが入ってきて、毅然とした足取りで窓際の席に向かう。彼女は椅子に腰掛けると、すぐに窓の外へと視線を向けた。まるで、その風景に自らの求める回答があるかのように。


 随分と日が長くなった。
 その日、特に用事も無く、珍しく学校から家に直行すると、いつもは出迎えて一声鳴いてくれる猫がやって来ない。検索情報の示す位置は、窓際。しかしその照会結果が、正常時とは明らかに違っていた。朝倉は鞄を放り出し、居間に駆け込む。
 果たして、猫はそこに有った。
 窓の外から降り注ぐ陽光の脇、暗い影の中で、じっと寝そべっている。涼宮ハルヒが答えを求めた青空は大きな窓枠に目一杯広がり、そこから外れた居間の陰影をさらに濃く、黒く彩っている。
「……え?」
 必要性の無い音波を漏らし、朝倉は猫の前に跪いた。心停止と脳死から始まり、神経系や内臓の壊死、四肢の硬化まで、物理情報だけでもそれは見事に死んでいた。更に情報系も浚った。ポテンシャルが未だそれ相応の数値を残しているのは、動物の死骸にすら意味や意義があるという理屈に寄るものだ。しかしそれは、道で車に轢かれて死んでいるモノを見て感じる、謂わば嫌悪感。
 そう。この猫は一度、死んですらいなかったものの、朝倉が救っている。
 それには明確な理由があった。「嫌な印象」、そのものである。TFEIが多く暮らす住居の傍には、どんなものであろうと高ポテンシャル要因は残さない方が良い。法に則り事後ではあったが稟議も上げ、異常が検知された事もあって即時承認されている。だからあの時はそれで良かった。
 ――――今は?
 休眠状態にあった疑似プロセッサを1つ稼働させ、ぐずぐずに崩れた情報の大半を1秒かからず組み直す。まず大雑把な配置転換を行い、残りはピースを嵌めるように押し入れていく。猫の躰はまるで魔法の如く血色を取り戻すと、すぐに目を開け、にゃあ、と鳴いた声にアラートが重なった。

GM>管理法12条4項5項6項及び118条3項14項に該当する警告

「わかってるわ」
 朝倉は呟いた。立ち上がると猫は朝倉の足下にまとわりつき、すぐにそこで丸くなった。靴下を通して猫の高い体温が伝わってくる。日陰にいても、例え青空と離れてても、猫はとても温かかった。

 長門は意外と遅く現れた。既に夕日も沈もうとしている。おそらくSOS団とやらの会合に出席していたのだろう。彼女はゆっくりと靴を脱いで、普段通りの何の特徴も無い足取りで姿を見せた。
「情報修正の取り消しを求める」
「却下」
「理由を」
 理由? そんなものは朝倉自身が知りたい。以前まだ朝倉が統合思念体のサブルーチンだった時分に、有機体の問題点とやらのレクチャーを聴いた事を思い出す。曰く、アナログ的な情報は不確定な部分が多すぎ、その集合体である有機体とその思考はエラーを起こす確率が高い。
 なら、これがそうなのだろう。
「解らない」
「解らない?」
「いえ」
 その答えこそ理解不能だ、と思っているだろう長門に、朝倉は言った。
「理由は、無い。無いわ」
「たとえ、その情報量が微々たるものだとしても、周囲へ影響を及ぼすポテンシャル値はそれに比例しない。複雑有機体の生命情報には莫大な係数が掛かっている事は知っている筈。すぐに取り消しを」
「あなたがやればいいじゃない」
「私がやるのでは再修正になってしまう。実行取り消しが出来るのはあなただけ」
「すればいいでしょう。再修正」
「管理法12条4項5項6項及び118条3項14項に該当する」
「知っているわ」
 長門は黙ってしまった。その視線に、僅かな憐憫が含まれているかのようにすら見え、朝倉の疑似シナプスの奥深くが、キリキリと小さく軋む。
 その嫌な音を、猫の一鳴きが打ち消した。もう外は暗い。餌をねだっているのは、情報を視ずともこの1ヶ月で解るようになっていた。朝倉は立ち尽くす長門の脇を抜け、台所に買い置きしておいた缶詰を開け、いつものように皿へ入れる。
 足下にまとわりつく猫を引き連れて居間に戻ると、少しだけ太陽の暖かさが残ったカーペットの上に皿を置く。猫は朝倉を見上げて、次に長門を一瞥して、代わり映えのしない餌を黙々と食べる。
「私はあなたの管理者。今回の事は審議に掛けられる」
「平気よ。プログラマが何とかするでしょ」
「……きっと代償を支払う事になる」
 長門は、長門にしてはやけに抽象的な物言いを残して、部屋を出て行った。暖かなカーペットと猫の毛並みとは対照的に、彼女の居た空間は酷く冷たいように視えた。


 結論から言えば、表向きはお咎め無し、というものだった。
 情報統合思念体内部にて繰り広げられた論戦はそれなりに大きなものであったが、その結果が即座に朝倉涼子自身へと与える影響は微々たるものでしかなかった。急進派はマイノリティであるが所以に持ち得る攻撃性を如何無く発揮し、その思想と立場を守る事に成功したのだ。プログラマは自慢のサブルーチンを自ら消去するような羽目には、一応のところ至らなかった。
 学校からまだ離れた場所――と言うより、涼宮ハルヒから離れた場所で、朝倉は何度か新たな調査対象と接触する。何のことは無い、普通の人間だ。少なくとも三毛の雄よりは一般的。
 しかし、涼宮ハルヒに気に入られているという一点において、最重要人物となっている。
 朝倉は、そんな風に数日を過ごしていた。
「なんて?」
 クラスメイトが興味津々に訊ねてくる。
「なんて……?」
「なに喋ってきたのかな、って」
「ああ。涼宮さんに連絡する時には宜しく、ってね」
「なーんだ。それだけ?」
「それだけ」
 つまらないの、と口を尖らせる。果たして何を喋ってくればお気に召したのだろうか。この手の、特にポテンシャルの高い話題が、総じて女子は好きであるようだ。この男女差はヒトの面白い特徴のひとつである。
「でも、なんだろうね。やっぱり付き合ってるんじゃないかなぁ……」
「どうしてそう思うの? 見た感じ?」
「そうそう。なんかね、なんとなく」
 酷く曖昧な理由と発言。とても人間的。
「付き合ってる……か……」

 猫を抱くようにして横になっていた朝倉に、統合思念体からの機密通信が入っていた。ここ毎晩のように朝倉の元だけに秘密裏に届いている、一連の命令と同じものだ。
 ツケを払わなければならない。
 長門の言う通りになったと言う事だ。どんな世界にも反動は存在する。運動の第3法則に限らず、人を呪わば穴二つ、などと言ったりもする。そのどちらの原理もやはり情報量の移動にある。あんな騒動を起こした朝倉は――いや、朝倉を造り出した急進派と呼ばれる存在は、やはり何かしらの責任を取る必要に迫られているのだ。
 猫の生命がこの事態を引き起こした。
 3万分の1の異常。
 根本的に情報生命体である朝倉は、有機生命体の"死"の概念がよく解らない。理解はしているが、感情プロセスに訴える程のものでは無いと言える。そもそも、その感情プロセスすらカットしてしまえば――猫の情報が朝倉に影響を与える事は一切無い。
 命とは何だろう。命を助けた、そこにはどんな理由があったのだろう。解らない事だらけだ。統合思念体も識らないに違いない。3万分の1の異常がもたらした現象でこれだ。こんな事で、60億分の1の異常を持つ有機体、涼宮ハルヒを理解できるのだろうか。とてもじゃないが、不可能な事だと思える。
 長門はどうだろうか。今、涼宮ハルヒと行動を共にしているあの高性能端末は、それを理解できるように、いつか成れるのだろうか。

 翌朝、朝倉はまだ日の昇る前に学校へ着くと、下駄箱に手紙を差し入れた。辺りには誰も居ない。それから放課後になるまで朝倉はずっと、涼宮ハルヒから漏れ出て来る情報の解読を、いつも通りに行った。涼宮ハルヒは何故かあまり機嫌が良くないようだ。そんな事が、適当な改変を受けて千々に乱れた情報ではなく、単に見た目で解った。
 有機体には簡単な事だ。
 帰る支度をして席を立つと、クラスメイトが嬉しそうに机の脇にやって来た。
「ケーキ!」
「ケーキ?」
「駅前のケーキ屋さん。ほら、真っ赤なベリーのタルトが美味しいトコ」
「ああ、こないだ行ったお店ね」
「そうそう。行かない? 今日ね、何だか分からないけど記念セールなんだって」
 朝倉は困ったような表情を浮かべて、
「ごめんなさい、今日は用事があって。急がないと」
「あれ、そうなんだ。残念」
 ふと立ち止まって、朝倉は振り返る。
「そう言えば」
「うん?」
「最近気付いたんだけど、西嶋さん『そうそう』って口癖だよね」
「……そう?」
「そう」
 朝倉は笑った。

 家に戻った朝倉は、日向で寝ていた猫を抱き上げた。猫は元々からして高い体温なのに、さらに日に照らされて湯たんぽのように温かかった。背中を撫でてやると、もぞもぞと小さく身じろぎをするも、目を覚ます気配は無い。そのまましっかりと猫を抱いて、朝倉は部屋を後にした。缶詰を開けてやろうかとも思ったが、寝ているのを起こすのがどうにも躊躇われてしまった。
 そんな事で思考プロセスの一部をループさせていたのが悪かったのだろうか。エレベータを降りて、オートロックの掛かったドアを前にしてようやく、朝倉は自分が失敗した事に気付く。
「おや」
 ちょうど顔を見せたマンションの管理人が、朝倉と、胸に抱く猫を見て目を丸くする。猫は眠ったままでも、ヒトに対して膨大な量の情報を発信し続けている。
「それは……あんたの猫かい?」
「いえ、その」
 数パターンの回答例をシミュレートし無難なものを選択すると、随分と事実に近くなってしまった。
「先日、道で怪我をしていたので、可哀想になって手当をしてあげたんです。平気みたいなので、今から離してあげようと思って」
「そうかい? まあ、飼ってる訳じゃないんなら、いいんだが……」
「すみません」
「いやいや、構わんよ。君は、なんだ、優しい子だな」
 管理人は照れ隠しも含みで、大声で笑う。
「失礼します」
 朝倉はもう一度頭を下げ、外へ出た。今の笑い声で起きてしまったのか、猫が腕の中で暴れて地面に飛び降りる。
 背後でドアが閉まり、辺りの情報移動が一通り収束した。

 そうして、猫は朝倉を見上げ、にゃあと鳴いた。
「行きなさい。今度は車に気をつけて」
 猫は足下にまとわりつく。
「私はもう居なくなっちゃうの。これから異常を起こさないといけないの」
 三毛の温かい毛並みを足首に擦り付ける。
「ご飯は、自分で探してね。元々は野良だったんだから、平気でしょうけど」
 すると、マンションの建物の影から、一匹の黒猫が姿を見せた。三毛はその黒猫に気を取られて、そちらへ歩いていく。そもそもマンションの近くに住み着いていた猫は結構多かったが、あの黒猫はその中の一匹だろうか。猫の判別までは、どのTFEIもしていなかった。
 散々気を引いていた黒猫が逃げて、三毛はそれを追い掛けて、見えなくなる。
 朝倉は息を吐いた。本来する必要もない呼吸だ。有機体にだけ必要なものだ。
 結局、朝倉には、最後まで解らなかった。今になって思う。解ろうとした歪みこそが、今の事態を引き起こしたのかもしれない。なら、これからそれを識ろうとする長門や他のTFEIには、一体どんな事態が待っているのだろうか。
 しかし、そんな情報修正の地平の果てについて伝える時間は、朝倉にはもう無い。
「ばいばい」
 約束と命令を果たす為――いや、ツケと借りを返す為、朝倉は夕暮れの学校へと歩き出した。