2012-02-03 失われた二〇世紀
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]ジャット『失われた二〇世紀』:巧みで味わい深いが、初出時点で完結してしまっている印象強し。
うーん、むずかしいなあ。
本書は、20世紀は知識人(それも左翼系知識人)の時代で、それがいまやいなくなったという。まあそうかもしれない。が……全体にその知識人の役割という話は希薄。時評・歴史に題材をとったエッセイ集と言うしかないと思う。
上巻は、各種の知識人の伝記に対する著者の書評。アーサー・ケストラー、プリーモ・レヴィ、ハンナ・アーレント、ルイ・アルチュセール、アルベール・カミュ、あまり聞いたことのない何人か、エドワード・サイード。
さて、ケストラーなんてすでに読む価値ないし、その伝記なんかなおさら読む必要はなく、それについての書評なんて本来ならさらに読まなくていい感じ。でも本書の書評は、ケストラー(あるいはその他)についての評価(そしてその人が立派な知識人扱いされた時代についての評価)をたくさん含んでいて、実に勉強になる。その意味で、その本の付属物に留まらないきわめて優れた書評なのはまちがいないんだが……やっぱどうしても指摘せざるを得ないこと:勉強してどうするね? その他すべてそんな感じ。左翼が左翼であるだけで立派な知識人ヅラできた時代があった――それ以上の話を本書から読み取るのは難しい。
稲葉振一郎が匂わせているように、いちばん面白いのはルイ・アルチュセール(の自伝)についての文章(なんと翻訳されてんのか!)。アルチュセールは、マルクスを精読してその根源的な意義をウダウダ、とニューアカ時代に浅田彰が喧伝していたものだけれど、この書評では、そういう見方が一撃で破壊されて実に壮快。そしてそういうものがなぜ当時もてはやされたのかについての分析も巧み。ついでに、アルチュセールってキチガイで奥さん殺したの!?! 知らなかった。これを読むだけで、もはやアルチュセールに現代的意義がないことはじゅうぶんわかり、非常に有益。
一方この文脈で、なぜサイードがえらく誉められているのかは不明。パレスチナ出身を詐称し(おばさんの家にしょっちゅう行っていた、というのは出身を名乗るに値しないと思う)、西洋向け知識人に英語でのみ書いていたサイードは、本書の上巻で扱われた他の思想的ファッションにより台頭してその後忘れられた知識人とあまり変わらないと思うんだけど。
そして下巻は歴史的なエッセイ。キューバ危機のケネディの対応とかブレア政権についての厳しい評価。全体に機知に富んでいるし、「国家なき国家:ベルギーがなぜ重要なのか」の終わり方とか、実に決め方もうまい。でも……
全体に、この人が想定している読者はぼくたち日本人ではないな、という気がする。上巻で書評されている各種の本が、そもそも日本では翻訳されておらず読めない。後半の時評も、やっぱり想定読者はイギリスの読者。グローバリゼーションやパレスチナ問題云々と帯にはあるが、著者の関心はそれがイギリス人(そしてヨーロッパの読者)にとって持つ意味合いなんだという印象。そしてまた、エッセイ集として仕方ないことなんだが、せっかく一冊にまとまりながら本書はまとまった提言なり結論なりが出せない。結びの「よみがえった社会問題」でも、目新しいことは言えていない。エッセイや短い記事にありがちな「こうした課題をわれわれは今後真摯に考える必要がある」という(実は何も言ってない)まとめに近いものだ。
どのエッセイも洞察は鋭く、書き方は巧妙で機知にあふれ、実にうまくまとまっていはいる。そこにこめられた、マルクス主義の興亡(というより左翼の興亡)に対する批判的なノスタルジーとペーソスに満ちた味わいも、とっても素敵。これを雑誌や新聞で読んだら、本当に感動しただろう。でも、うまい分だけ、その初出時点で完結してしまっていて、時間の経過に耐えられない感じ。単行本になったとき、そのテーマがうまくまとまっただけでは足りない。まとまらず、次の部分につないでくれたほうが本としての流れもでるんだよね。そして本全体としてもまとめるだけで終わらずそこから一歩、その先を与えてくれないと。それを望むのはぜいたくかもしれないんだけれど、本書の見事な洞察やまとめを見ると、ぼくはそう思う。まとめはうまいけれど、それだけで終わってしまっては……いやそういうのも必ずしもフェアじゃないかな。少し提言はある。でもそれは、その回顧部分(現題通りの Reappraisals) の立派さに比べてあまりに慎ましくおずおずした感じで、印象に残りにくい。帯にある「道徳的な記憶の回廊」をうろうろするだけでは、積極的に読むようにお奨めすることはむずかしい。と言いつつ、読んで決して損をする本ではないし、上手で知的な時評と書評(辛辣に罵倒しつつもぼくより上品)を読みたい人は是非読んでほしいんだけど。
コメント
これ、実はぼくは書評候補本の入札で落選していて、だれか他の人が書評権を持っている。だからひょっとしたら、その人が紙面で書評してくれるかもしれない。
2012-02-02 平等と効率の福祉革命
■[朝日新聞書評][書評]エスピン=アンデルセン『平等と効率の福祉革命』:新しい福祉社会の見取り図を提案する希有な本。ただ監訳者の我田引水解題はないほうがまし。
- 作者: イエスタ・エスピン=アンデルセン,大沢真理
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/11/19
- メディア: 単行本
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福祉の議論は公共頼みになりがちだ。医療も高齢者も育児も失業も国がもっと金を出せ――でも、家庭や企業も福祉をかなり提供している。そのバランスを見ないとだめだ、と看破したのが本書の著者エスピン=アンデルセンだった。きたる高福祉社会に向けて、彼は女性をもっと働かせろと主張した。福祉サービス職を増やし(企業の事業機会)、女性を働かせ(家計収入増大)、税収を増やせ(公共の負担力増大)!
この分析と提言は大きな影響を与えた。そして女性の労働進出は進んだ。でもまだ中途半端な水準だ。一方であらゆる社会では格差の固定化と拡大が進んでいる。なぜだろう?
本書はこの問題に取り組む。そしてまたもや明快な答を出す:家庭の育児を支援しろ、と。
女性が働きやすいよう保育園の整備を、というだけではない。児童の知的発達は赤ん坊の頃に相当決まってしまう。その時期に親が育児に時間と資源を投資しないと、学業面でも所得面でもハンデを強いられる。ところが低学歴で低所得の世帯は雇用も不安定だし、慣習からも育児に投資しない/できず、その子供も低学歴・低所得になる。似た者同士の結婚でそれがさらに強化されてしまう。これが現在の格差固定と拡大の一因だ、と著者はいう。
だったら、家庭の育児改善に公共がもっと投資しよう。ホントは赤ん坊を全部取り上げて国が平等に育てたいところだが、そうもいかない。だったら所得支援、育児補助、就学前教育の充実などにもっと投資すべきだ。それは女性の社会進出のみならず、経済全体の人材底上げにもつながり、高齢化社会の課題への取り組みも容易にする!
議論はすべて統計的な裏付けを持ち、また経済学や脳科学的な発達論の成果も取り入れて、堅実ながらもきわめて斬新。また評者のような素人の驚く指摘も多い。高福祉とされる北欧諸国は、その分だけ税金で取られるので実は見た目ほど高福祉でないなど。
そしてもちろん、この提案は即座に政策的な意味を持つ。本書の議論からすれば、あの子ども手当も趣旨としては意義を出せる。些末な名称変更にうつつを抜かしている場合ではないのだ。
監訳者の解題は、日本女性の低い社会進出状況については詳しいが、本書の議論の核心にほとんど触れず不満。本書は今後の社会における経済と福祉のバランスを実証的に構想した希有な本であり、その意義は女性問題をはるかに超えるのだ。少々専門的ながら、学者にとどまらず政策立案者や関心ある一般人も是非手にとって明日の社会像を考えてほしい。
(2011/10/30 掲載, 朝日新聞サイト)
コメント
書評のたぐいはだんだんこっちに一本化することにする。
さてこれは、すばらしい本なんだが、本書の監訳者である大沢真理の解説には腹がたった。紙幅がなくて一行しか書けなかったけれど、ぼくは本書に対する誤解を招きかねないものとして積極的に批判されるべきだと思う。
この本は、女性の社会進出が遅れている、という話だけじゃない。それはただの出発点で、その先が本題だ。ところが大沢は、自分の専門のジェンダーなんとかの話につながる話ばかりに終始して、あれやこれやとグラフだのなんだのを数十ページにわたって女性の社会進出の遅れを書くが、その後の本書の中心的な議論についてほとんど触れない。福祉が弱いから貧困が再生産されている、という話が一ページ未満あるだけ。そんなの解題じゃなくて、自分の研究紹介だろう。何かかんちがいしているとしか思えない。またそれに迎合した邦題の副題のつけかたも、望ましくない。「新しい女性の役割」が主題じゃない。新しい女性の役割を受けた社会のありかたのほうが主眼だ。
そしてその大沢真理の自分の研究開陳には、この手のフェミ系研究者とか「女性問題」研究者のいやなところがむきだしになっている。そこには、なぜ女性の社会進出が必要なのか、という説明はほとんどない。進出してないから遅れてる、進出してないからダメ、女性進出がこれからのトレンド、という規範議論がドーンと前面にきて、あとは進出してないしてないしてないしてないとデータが並ぶだけ。そして規範的な話から入っているので、結論も当然規範論。日本社会はダメだ、社会の意識改革が必要だという、思想統制待望論に落ちる。本書の解題では、この最後のところはちょっと控えめではあるけれど。
エスピン=アンデルセンのこれまでの本は、なぜ女性の社会進出を進めるべきか、というきちんとした議論があった。そして進めたあとの見取り図もきちんと描けていた。でも、訳者たちにそれはない。この書評の冒頭で揶揄した、公共だのみの物欲しげなクレクレくん議論に終始している。
ご承知のように、現状の日本では、女性の進出は後退気味の面もある。そして彼女たちのその選択は、現在の日本のマクロ経済環境ではミクロな合理性を持っている。仕事の絶対数が少ないので、そこで激しい競争に参加するよりも退出を選ぶほうが楽かもしれない。だから現状の日本で女性の社会進出を図ろうとすれば、おそらくマクロな経済環境を改善させて経済を拡大基調に持っていく必要がある。それには日銀をなんとかして、デフレを解消し、景気回復をはかり、そこから企業の事業拡大、雇用の安定に伴う世帯収入の安定化と向上、それに伴う税収の確保、それを使った福祉改善、それに伴うさらなる事業機会の増加……というスパイラルを作る必要がある。その中で女性の社会進出もずっと強力に実現されるはず。そしてそれとあわせて、福祉拡大も含む公共支出拡大をやるのは、おそらく意味があるだろう。でもそういう全体像なしに、福祉予算を増やせ、手当を増やせというだけではおそらくかえって状況は悪化する。
でも大沢たちにそういう全体的な見取り図は皆無。とにかく福祉を、金よこせ、公共がなんとかしろ。もちろん福祉の現状が問題ないというのではないよ。でも、単に国の福祉予算を増やすだけでは不十分というのもエスピン=アンデルセンの教えだと思うんだが、それがまったく理解出来てない大沢真理が「解題」ってなんだよ。
訳者たちが本書につけた用語解説も、非常に疑問。「回帰分析」とか「外部効果」とかいうのに説明がいるかね(かえってこむずかしくしてるし)。「学校環境」というのの解説は文化資本や学歴資本の話ばかりで学校環境についての説明皆無。「均衡」とか「協調的交渉」の説明で挙がっている参照文献は、ゲーム理論の初心者レベルの新書でげんなりだし(そもそもそんなの参照せずに書けるべき内容で、それをこんな入門書参照で書くというのは付け焼き刃丸見え)、しかも最後まで読むと、結局それは実際の中身とは関係ないそうな。じゃあ長々とページ使って書くなよ。ぷんぷん。もっときちんと紹介されるべき本なんだが、その点は残念。岩波もこの本をフェミイデオローグの宣伝に使わせたりせず、もっときちんと紹介すべきだったと思う。
2012-02-01 階級都市
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]橋本健二『階級都市』:地区ごとに住んでる人の性質がちがうという当たり前の話を延々と述べただけの本。
- 作者: 橋本健二
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/12/05
- メディア: 新書
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総論:常識の反復でしかない。
全体として間抜けな本。都心部に住んでるのはかなりの金持ちで、世田谷杉並中野あたりだと小金持ちくらい、足立区や大田区はちょっと所得の低い人が住んでいるという常識を、本一冊かけて延々と述べているだけ。
1:前振りが無意味で長すぎ
最初は、日本でも最近格差が拡大しているのだ、という議論を延々と続ける。五ページですませるべきでしょ。
続いてグローバリゼーションがどうしたとか情報化と技術がとかいって都市に格差が生じ、という議論をはじめるが、依拠しているのは、サッセンの議論とカステルの議論だ。サッセンの議論のダメさ加減については、かつてアマゾンのレビューに書いた通り。カステルは、ぼくは特に「情報」という概念をあまりに融通無碍に使いすぎていて、あまり意味のある議論ができていないと思う。
だがそれ以上に、後半の議論にはグローバリゼーションとか技術とか、何も話に関係ないのね。単なるこけおどしのための部分だ。
次の部分で都市の構造が階級を反映しているという議論も、単に金持ちが住んでいるところと貧乏な人が住んでいるところがある、というだけなら、それがどうしましたかというだけの話だ。バージェスがとか、ルフェーブルがとか、持ち出しても全然意味がないし、インナーシティ問題とその後の都心回帰や、臨海部の土地利用変化というのは、生じた後なら格差が云々と言えるけれど、でも後付でしかないんだよね。
2. 本論はあまりに常識。
で、やっと半分過ぎて本論。従業員のいる企業オーナーと会社役員がこの人の定義する「資本家階級」で (p.135) 、その分布を見ると都心部や世田谷杉並に多い。これは所得分布や学歴分布とも一致する。こんな具合に、東京においては歴然と格差があるのである!(p.130)
はあ。都心に金持ちが住んでいる。世田谷に振興成金が多い。荒川、台東、足立区はいまいち。それがそんなに意外なことですか? それを改めて「ほらみろ都市に格差が」と言うことで何がわかるんです?
3. 都市地域ごとに格差といいつつ、それが変わるならどうでもいいのでは
そして、棲み分けると言いつつ、この人は高所得層が低所得地域に(新築マンションを契機として)入り込むのを「ジェントリフィケーション」として批判がましくあげつらうが、要するにその地域的な差は固定なわけではないってことだよね。だったら分極化とかいう話はどうでもいいのでは?
そしてそのジェントリフィケーションも、マンションが下町の工場と工場労働者を駆逐し、金持ちが札束で貧しい労働者階級を駆逐し、けしからんというイメージを著者は植え付けようとするんだけど、むしろ工場のほうが後継者問題や製造拠点の地方や海外移転もあって、駆逐される以前にすでになくなっているケースのほうが多いんじゃないの? そのプロセスはもう少し細かく見ないとダメでは?
4. 結論も不明。その問題をどういう方策でどうしたいの? そして最後はジェントリフィケーション礼賛。
そして何より、それは別にだれかの陰謀で動いてるわけじゃないんだし、その人々が自分たちの損得勘定に基づいてやってることでしょう。それが気にくわないというのは勝手だけれど、じゃあどうしたいの? 公共的に混在を強制し、土地の取引や利用を制限して地区ごとに所得階層別の強制居住ノルマでもつくりますか?
著者は都市計画とか建築とかが実は時の権力=資本におもねって格差の固定化と拡大を目指すのだと言いたげなんだけど、でもその資本は地域格差を無視したジェントリフィケーションするんですよね? そして都市計画とかの歴史は、計画者の思い通りにまったくならない事態の連続なのだ。都市が格差を作り出すとはとても言えない。でもそうでなければ、所得に応じて棲み分けがあるねえ、でもそれが時代を通じて変わるねえ、という以上の話にはならない。
そして基本的にそうしたすみわけは、創発現象でもある。これはシェリングもモデル化しているし、「創発」とかで指摘されていることでもある。
じゃあ著者の結論は何なの? それがねえ……
最後には、墨田区でスカイツリーも出てきたし、下町についての悪いイメージも消えてきたし、オフィスの転入や金持ちの移住が促進されて格差が縮小するんじゃないか、という。それに期待をかけたいそうな。
それって、ジェントリフィケーションそのものですよねえ。つまりその時その時では地区ごとの差はあっても、まさにジェントリフィケーションのプロセスを通じてその格差は縮むこともあり、それはそれで結構なことである、と。
じゃあ今まで何を騒いできたんです?
5. まとめ:ダメすぎ。
前半のあまり意味の無いお勉強開陳部分、中間の東京人なら常識に属する地区の特性の差をとくとくと述べた部分、さらにはその後のつまらない居酒屋漫遊記、そして過度の格差はよくないというだけの結論に、結局批判してきたジェントリフィケーション礼賛で意味不明な提言。読まなくてもいいんじゃないですか? ……と書いたら、だれか他の人が採り上げたいというので譲ったけれど、やめたほうがいいんじゃないかなあ。
2012-01-30 環境エネルギー政策研究所の FIT 翼賛論って……
■[お勉強]環境エネルギー政策研究所なるところの FIT 翼賛論は怪しすぎ。
日経 ビジネス Associe (アソシエ) 2012年 02月号 [雑誌]
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2012/01/10
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「日経アソシエ」2012年2月号に、「2012年14の『大論点』」なる記事が出ている。飯田泰之とか片岡剛士とか若田部昌澄と安藤至大とか、マクロ経済問題や労働問題について実に簡潔ですばらしい主張を展開していて、是非読むべきなんだが……
その中に、自然エネルギーについて環境エネルギー政策研究所なるところの古屋将太なる人物が、わけのわからない文章を寄せている。これ、徹頭徹尾、意味不明なんだよね。
自然エネルギー向け FIT は「リーズナブル」か?
まず、この文章が何を言っているかというと、自然エネルギー育成のために日本もフィードインタリフ制 (FIT) で、太陽光や風力による電力を高めのお値段で買い取ることにした、という政策をほめている。そして FIT に対する批判は、世界の潮流を知らない議論だ、と主張している。
で、ドイツの事例を見ると、FIT で電気料金は月 300 円ほど上がった。これが高いか低いか、というんだけれど、日本の長期的なエネルギー安保を考えれば安いでしょう、そのくらいみんな喜んで払いなさい、という。
まず、これはタイトルで言うような「中長期的な投資としてはリーズナブル」という議論ではない。長期的なエネルギー安保をどう評価するかで、リーズナブルとも言える、そうでないとも言える。そこの評価をどう考えるか、というのをきちんと言わないと、議論として成立してないでしょう。さらに、自然エネルギー投資がリーズナブルかは、FIT 制度の善し悪しとは別物でしょうに。まずそのダメな議論ぶりにげんなり。
文と言ってることが全然ちがうダメなグラフ
そして異様なのが、文章に添えられているこのグラフだ。通常グラフとか表は、文中の議論をサポートするためにつけられる。では、このグラフは文の議論をどうサポートしているのか、と思って見ると……
まず、このグラフは文中で一切リファーされていない。参照されないグラフなんか報告書に入れるな!
が、それをおおめにみて、中身で判断しよう。このグラフを見ると、自然エネルギーをフィードインタリフ制で買い取ったら、「正味の追加コスト」は長期的にはマイナス、つまりかえってコストは下がる、と言っている。この「正味の追加コスト」のグラフを見ると、一時的にすら大してコストは上がらない! えー、そうなんですか?
だったらこの文中で、ドイツの事例をもとに300円の電力費用の増加が高いとか低いとか言ってるのは何なの? フィードインタリフにしても高くならないはずなのに、文中ではずっと高くなるという議論が展開されている。なんですの? どうしてこのグラフをもとに、「高くなりません!(きっぱり)」と言えないの?
そしてこのグラフをよく見ると、こんどはさらに意味不明となる。
「追加コスト」の基準は何?
ここで言ってる「FITによる追加コスト」というのは、何に対する追加なの? たぶんそのときの自然エネルギーなしの電力コストに対する追加という意味なのかな? が、それもまったく明記されていない。基準のわからない「追加」の議論なんて意味なし。
さらに化石燃料の節約分というのが別立てであるということは、燃料コストの低下はその基準となる電力コスト (あるいは基準のコスト) には反映されていないってことですか? だったらその将来の基準となる電力コストはどういう計算で求めているの? 原子力を除外してある、と注には書いてある。水力はいまや少ないから、その場合の電力コストって化石燃料の価格そのものであるはずだけど?
もしそうだとしたら、そこに化石燃料コストの節約分を考えるのはダブルカウント。そしてもしそうでなく、現状の電力コストが永遠に続くとかいう想定になっているなら、それ自体ナンセンス。とにかく想定が不明なためにまったく意味がない。
なんで化石燃料費の増加率を勝手に二倍にするの?
そしてぼくがホントこいつら信用できねーな、と思ったのが、グラフの下に小さく書いてある前提。「化石燃料の価格上昇は、IIEA の予測の2倍で想定し」。
……なんで倍で想定するのよ。ライバルを勝手に倍の上昇率にすれば、そりゃこっちが相対的に有利に見えるでしょうよ。こういうインチキしないと有利な議論ができないってことは、結局このグラフ、ひいてはこの人の議論が実はまったくあてにならないからじゃないかと勘ぐられても仕方ないんじゃない?
ついでに、左縦軸の単位は何? 追加(節約)費用なら、円とかセントじゃないの? なんで「キロワット時」なの? とにかくあらゆる点で落第。
世界ではFITはだんだん縮小の方向のようですよ。
さらに、この文章から離れて、FIT の現状はどうなっているんだろうか。この文章によれば、FIT はすでに世界の潮流であり、それを批判する人は無知蒙昧ということだ。でも、本当だろうか? こんな記事を見てほしい。
UK and Germany cut solar feed-in tariffs (Optics, 2011/10/31)
ちなみにこれ、太陽電池業界の業界誌なので、むろんFITがあればウハウハ。それが縮小されるので、大変だという記事だ。すでに本稿でえらい例として挙がっているドイツや、その他イギリスでは、PV 価格が充分に下がってきたために FIT はもはや縮小しようということになっているとのこと。文中で、FIT は自然エネルギーへの投資リスクを下げると書いているけれど、こうした政策リスクがかなりあるということだ。さらに PV 価格低下で、もはやそんな不自然な利権の温床となる仕組みを導入しなくても、市場原理でかなりいけそうということだ。
だったらなぜ FIT なんかやる必要があるんですか?
まとめ:こんな環境エネルギー政策研究所って信用していいの?
この環境エネルギー政策研究所って、原発事故の後にやたらに親分の飯田ナントカという人が宮台信司なんかとつるんであれこれきいたふうなことを言っていた。でも本稿を読んで、この研究所が実はあまり信用できないことはよくわかる。ポイント:
- いったいどんなFITを想定しているのか、あまりに説明不足。
- 想定の基準を恣意的にゆがめて平気。
- このグラフをもとにするなら、なぜ「高くなりません、安くなります、だからリーズナブルなんです」と胸張って言えないの? 文章での主張とグラフでの議論がまったく関連していない。自分でもこのグラフに自信がないか、きちんとした数字ベースの議論をそもそも軽視しているのが見え見え。
- その海外での FIT の現状は、すでに PV 価格の低下などからもはやあまり正当性がなくなりつつある。少なくとも以前より力点は弱まっている。それを無視して FIT すばらしいという議論を平気でする。
以上の点から、ぼくはこの環境エネルギー政策研究所の言うことは信用できないと思う。たぶんまったくのウソではないけれど、こうした多くの恣意的な我田引水を行っている可能性を否定できない。
自然エネルギーが広く使われるようになれば本当にすばらしい。そしてその価格がどんどん下がってきているのも、結構毛だらけ。でもそこに、市場をゆがめて利権を作り出す FIT 翼賛の旗を振っていいのか? 自然エネルギー市場の健全な成長のためにも、そうした議論には(自然エネルギー推進者こそ)慎重になるべきじゃないの? 自然エネルギー推進者こそ、もっと海外の動向をきちんと把握した議論をすべきじゃないの?
それを欠いた環境エネルギー政策研究所って何? むしろあなたたちこそ、世界の潮流に逆行してるんじゃないの?
2012-01-29 メルラーナ街、正義のアイデア
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]ガッダ『メルラーナ街の恐るべき混乱』:嫌いじゃないんだが、いま読む現代的意義はあるのか、といえばないと思う。
- 作者: カルロ・エミーリオガッダ,Carlo Emilio Gadda,千種堅
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 2011/12
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『メルラーナ街』は長らく入手困難な小説で、ミステリー仕立てにして殺人事件を追う中で、金持ち一家とその近所、刑事とその同僚たちのあれこれをなぞる中でだんだん現代(当時の)イタリア社会が浮かび上がってくる仕掛け。シューヴァル&ヴァルーのマルティン・ベックシリーズや、中井英夫『虚無の供物』みたいな趣向に近いかな。さらに原著はイタリア語としてかなり異様だったとか方言やら変な用語を多用したとかいうんだが、これは邦訳ではわからない。
で、ぼくは昔これをわざわざスキャンしてOCRして読むくらいにはすごいと思っていたし、いまもそれなりにおもしろいとは思う。でも、その後イタリア社会も変わったし、また特にガッダがしつこくやる、ムッソリーニ批判みたいなのが、いまやもう無意味になっているので、価値がかなり下がってはいると思う。ある意味で、いま時代が一周してバカの一つ覚えみたいなムッソリーニ批判はやめようという雰囲気が出てきているので、ひょっとしたらかつての批判が復興する意味もあるのかな。でも……あまりないと思う。いまの日本の読者はまったく知らない、昔の遠い社会の状況に対する批判文学――ガッダがそれだけじゃないのは事実なんだが、でもこと『メルラーナ街』に関する限り、そういう部分が大きかったのも事実。上のOCRを校正するとき(フィリピン出張が一ヶ月以上で、すごく暇だったんだよね)、全文をかなり詳しく読んでそういう思いを強くした。
上のOCRで見てもらえばわかるように、文章の中で連想が連想を読んで果てしなく文章が長々と脱線を続ける様子とかが、ジョイス的な意識の流れを取り入れた現代文学的な成果として当時は評価されていたんだと思う。だがそれがもっていた目新しさは、いまはもうない。同じ変わった文体や技法というなら、『ラ・メカニカ』とかなら、もっと現代的意義を主張しやすかったんだけど(『悲しみの認識』、ずっと本棚で寝てるのでそろそろ読もう)。その意味でも、21世紀にやってきた『メルラーナ街』はつらい立場に置かれている。豊崎由美がこれにどんな現代的意義を見ているのかは知らない(ぼくはときどき彼女の書評は変な文学コンプレックスが入り込むと思うのだ)し、再刊されないよりはされたほうがよかったとは思う。でもルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』の再刊の意義よりはかなり小さいとしか思えない。
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]セン『正義のアイデア』:ホントならちゃんと紙面で書評して人に読ませるべきえらい本。
- 作者: アマルティアセン,池本幸生
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2011/12/01
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正月はさんで、えらくバタバタしていてちゃんと見ていなかったが、このセン『正義のアイデア』はどっかでだれかが当然採り上げているだろうと思って今日になってチェックしたら、なんとまったく出てこない! !!??と思って書評候補書の一覧を見直しても、そもそも出ていない! なんでや! 朝日新聞ともあろうものが、見落としひどすぎだろー……と思ってよく考えて見たら、これは朝日新聞のルールのせいだ。同じ著者の本は一年だか半年だかの間には一冊しか扱わない! そして、姜尚中が『アイデンティティと暴力』の書評を書いてしまっているので、この本は書評の候補にはあがってこない。
えーい、姜尚中め余計なことを! だいたいこの書評の冒頭「グローバル経済の格差と貧困を温床とするテロと暴力の連鎖」という認識自体がすでにかなり否定されているはずで、暴力はさておき、テロをやるのは昔もいまも、大学で中途半端に知恵をつけた、小金持ちの頭でっかち連中なんだよね。そもそも……というのは脱線だし、だいたい次の本がいつでるかなんてわからないから、姜尚中のせいではないのは当然なんだけど。それに『アイデンティティと暴力』もいい本だし。それでも惜しいなあ。いまから提案と思ったが、すでに出て二ヶ月以上経っている。ルールを一つ目をつぶるなら何とかなっても、二つ破るのはちょっと困難すぎる。
でもこの本は、ホントにすばらしい本だと思う。サンデル的な「サルと人間のどっちを助ける?」「デブ一人殺せば子供三人助かるよ」とか、まじめに見えて実は単なる知的パズルでしかない話を正義についての考察だと考えてしまう発想(変なピアニスト問題にうつつをぬかす一部の倫理学だの)に異を唱えて、正義というのが具体的な場面の実際の行動に即すものだというのを提示しつつ、それを深掘りする。抽象的な「正義」ではない、いまここにある状況を、いわば少しでも正義化する方策を考える、それ自体が優れて正義の実践となった本だと思う。ぶ厚いけどみんなもっと読んでほしいし、サンデルより役にたつと思うよ。
2012-01-22 自己愛過剰社会
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]トウェンギ&キャンベル『自己愛過剰社会』:言っていることはわかるが、長すぎるし治療法がショボ過ぎ
- 作者: ジーン・M・トウェンギ,W・キース・キャンベル,桃井緑美子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2011/12/17
- メディア: 単行本
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いまのアメリカ社会は、個性重視とか自尊心を高めるとか「世界で一つだけの花」とかおまえは特別だとか言って子供をおだて、結果としてナルシストばっかりになっている。しかってはいけない、ほめて伸ばすのがいい、過保護にして変な名前をつけてわがままを何でも聞いてやって、整形をやたらにすすめ、微軟美女ばかりがテレビを飾ってみんなそれを目指すのがいいと思い込み、見栄ばかり張って辛抱や苦労をぜんぜんしようとせず、分不相応なローンを組んでリーマンショックを引き起こし、責任はとらない。フェイスブックで友だちの数ばかりを誇りツイッターのフォロワーの数を増やすのに血道をあげ、ユーチューブで目立つためならなんでもやる。ポルノ女優やストリッパーやAV女優やキャバ嬢がでかいツラをするようになり、道徳観も皆無。それは児童教育でも学校教育でも教会やボランティアでも職場でもあらゆるところに見られる。
これはけしからんことで、このために金融危機も起こるし学校もダメになるし子供はろくでもないしまともに勉強しないし家庭は破綻するし道徳もなくなるし社会の互恵性もなくなるし地球温暖化も起こるし(いやホント、マジにそう議論している)、ナルシストだらけの世界はろくでもない。アメリカはこんなんじゃだめだ、なんとかしないと、とのこと。
そのためには、子供に「おまえは特別だ」「なんでもやりたいことをやれ」とか、「結果が出なくてもなんか努力すればとにかくいいんだ」とかいうのはやめよう、テレビもバカなリアリティ番組はやめよう、もっと地道な価値観を重視しよう、学校教育も少し考え直そう、教会とかも本来の教えに立ち戻ろう、それがこのナルシシズム社会からの脱却につながる、という。
主張はわかるし、気持ちもわかるんだが、とにかく記述がくどい。内容はここに書いたような話に尽きる。それを370ページにわたり書く必要はないと思う。そしてだいたい「最近の世の中はおかしいぞ」と思ってるような人ならみんな感じてるような話ではあるんだが、一方でそれが本当に「自己愛過剰」のせいで起きているのか、あるいはそれを助長しているのか、となると検討が甘すぎ。いくつか自己愛過剰な事例がある、というのはわかる。それは増えているかもしれない。また個別事例を見れば、なんか昔よりすごいことになってるかもしれない。でも、それを社会全体に敷衍できるか、というのは話が別。ようつべで自己顕示欲を満たす人もいるだろう。そのために変な行為に走る人もいるだろう。でもそういう人が本当に増えているのか? そしてようつべがよい方向に機能する例もあるのではないか? アメリカンアイドル系の番組も、自己愛を助長するかもしれないけど、スーザン・ボイルの出現は人によっては価値あるものと思うかもしれない。学者なら、そういう長所と短所をはかりにかけるくらいの考察はあらまほし。
「治療法」と称するものもあまりにしょぼい。そんなかけ声だけでは世の中変わらないでしょう。ついでに、クレジットカードで見栄張りの大量消費ができるのが問題、それに貯金の利息には課税されるのに、買い物しても課税されないのが無駄な消費を招く、というんだが、一方で買ったらすぐにモノの価値は下落しはじめるという主張をしていて、資産価値への影響から見たらこの主張は変だ。
アメリカがいちばんよかったのは、浪費の1920年代を経て、大恐慌がきて人々が浪費と見栄のむなしさを知ったからだ(ついでに戦争したからだ)、いまもリーマンショック以後で不況になったので、これからアメリカ人も改心してまともになるかも、というんだけど、そういうシバキ主義をうれしそうに言われてもなあ。というわけで、取りあげたいとは思わない。
レビューとしては、こっちも参照:http://booklog.kinokuniya.co.jp/okai/archives/2012/01/mw.html
2012-01-21 西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。
■「カテゴリー」を持ち出しても話は変わらない:西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。
1. はじめに
昨日書いたものに対して、著者西村の弟子筋とおぼしき昆虫亀から反論・批判がきている。
ぼくは「プラスチックの木はプラスチックであるからとにかくダメ」という西村の本の議論に対して、「それは結論ありきの循環論だから無意味、本物と人間には区別できないプラスチックの木ができたらどうするの」と批判した。
それに対して昆虫亀は、美的体験はそのモノの帰属するカテゴリーで左右されるから物理的に区別がつかなくても関係ない、と主張する。
さてぼくは、この反論・批判は、反論にも批判にもなっていないと思う。それどころか、ぼくの当初の論点をさらに強化する例示にしかなっていないと考える。
2. ちがうはさておき「まちがっている」となぜ言えるの?
まず一つ。昆虫亀はここで、問題を矮小化している。自然の木とプラスチックの木はカテゴリーがちがうから、両者の美的体験は決して同じにはならない、と昆虫亀は言う。
でも西村がもとの本でのべていたのは単に美的にちがう、ということではない。「同じでないから美的にまちがっている」ということだ。もう一度見よう。
自然の木を断念してプラスチックの木に代えることは、それがけっして自然の木の美的経験の代わりになることはないから、単に自然に対する義務や自然の断念という倫理上の問題としてではなく、まずは美的にまちがいであり悪いのである。(p.173、強調引用者)
「まちがっていて悪い」となぜ言えるのか? 西村はそれをまったく述べていない。そしてカテゴリー議論では、体験として同じではないことはいえても、それが「まちがっていて悪い」とは言えない。
2. カテゴリーと言ったからといって、トートロジーでなくなるわけではないよ。
ここでしつこく言われているのは、カテゴリーがちがうんだ、ということ。だから体験(あるいはその価値判断)がちがうのだ、という。つまり基本的には:
- 「プラスチックの木はなぜ悪いのか?」→「プラスチックの木は「悪い」というカテゴリーに属するから」
という話だ。ぼくはこれはトートロジー以外の何物でもないと思う。
さてぼくは人がモノをカテゴリー分類して判断することは知っている。ベトナムやラオスで、何も知らないときには普通に食事をしていた人が、「それはイヌ肉だ」「それはカイコのフライだ」と言われたとたんに食えなくなる例はたくさん見ている。それは、その人にとっての食ってよいもののカテゴリー分類から生じるものだ。
でも、そのカテゴリーというのはそもそもどうやって生まれるのか?
3. そもそもカテゴリーは認識に基づいて生まれる
カテゴリー分類は、基本的には認識における情報処理を簡略化するためのショートカットだ。食べ物についての禁忌(つまり何を食べていいかについてのカテゴリー分類)は、それがどのくらい食中毒を起こしやすいかという話とかなり相関がある。認識の結果を大ざっぱにまとめたものにすぎない。これについては拙訳ハーツォグ『それでもぼくらは肉を食う』を参照。
- 作者: Jr.,Harold A. Herzog,ハロルドハーツォグ,山形浩生,守岡桜,森本正史
- 出版社/メーカー: 柏書房
- 発売日: 2011/06
- メディア: 単行本
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したがって、認識とは独立にカテゴリー分類があるかのごとき議論は倒錯だ。これがまず一つのポイント。
4. 何かをカテゴリーにふりわける仕組みは?
そして、あるモノを前にしたとき、それをどのカテゴリーに分類するか、どうしてわかるの?
通常その分類は、何らかの物理的なキューやヒントにもとづいて行われる。つまり
- 物理的特徴の識別 → カテゴリー分類 → それに基づく意味づけ
というプロセスがある。でも、カテゴリー分類するための特徴がなければ? まったく区別のつかないものをどのカテゴリーに分類すべきかは、どうやってわかるの? その場合、カテゴリーに基づいて云々という議論自体が無意味となる。
人間の解像度では区別のつかないレプリカの話は、だからカテゴリーを持ちだしても解消できない。カテゴリー識別ができない、ということなんだから。物理的にまったく区別がつかないけど、そのカテゴリー分類だけはわかる――これがあり得るのは、なんかあらかじめ解説書かレッテルでその情報が別にインプットされていた場合だ。が、その解説書やレッテルの正しさはどうやって担保されるの?
昆虫亀、そして西村の議論には、それはまったく出てこない。あるものの「カテゴリー」は、アプリオリに決まり、人々に事前に与えられている。でも、実際にはそんなことは起きない。
そしてあらかじめカテゴリー分類はわかっている、あらかじめそれがどういう扱いを受けるかは(その実体とは関係なく)決まっている――それはまさに、結論ありき、ということだ。ぼくの最初の書評の通り。
5. カテゴリー議論の倫理性
以上のような話から、最初にぼくが指摘した通り、本書の議論はトートロジーでしかなく結論ありきの議論だ。昆虫亀の反論は、それをさらに裏付けてくれるものでしかない。カテゴリーなるものを経由したところで、それは変わらない。そのカテゴリーなるものこそ、まさに結論ありきの「結論」なんだから。
そして、カテゴリー云々なんてことを改めて言う必要があるのは、まさにそのカテゴリー分類がいま揺らぎつつあるからだ。そして、カテゴリーというとニュートラルな気もするけれど、これは基本は、ステレオタイプのレッテル貼りだ。それでよいのか? それはあの西村の本で言っていた、「枠組みの倫理性」というやつなんじゃないの?
6. 結論
だから、カテゴリーでそうなっちゃうんだから、というのをふりかざして、それで事たれりとするような議論は、ぼくはまともなものだとは思わない。カテゴリーありきで話がすみ、そのカテゴリーの根拠や振り分けプロセスを無視するのであれば、それはトートロジーであり、結論ありきの議論であり、したがってぼくの最初の書評は正鵠を射ていたわけだ。
ぼくは最初、それが西村の本だけの問題だと思っていた。だが、それに対する擁護論として出てくるのがこんなものだとすれば、ぼくはそれが美学とかいう分野そのものの抱える問題なのかな、と思いたくもなる。そうでないことを祈りたい気分もある……が、ぼくはこんな分野は認知科学の進歩で50年後には無用となるだろうと思ってるので、あまり真剣に祈るつもりはないのだけれど。
付記:うんこ&カレーの話について
さて、ぼくがあの反論・批判で本当にがっかりしたところがある。うんこ味のカレーと、カレー味のうんこ、という小学生じみた話をまじめに持ち出してきたところだ。
昆虫亀はたぶん、これを気の利いた、でも絶対に反論されない一例だと思ったんだろう。が、この事例の提示の仕方に、昆虫亀の基本的な考えの足りなさが露呈しているんだ。
おそらくこんな例を挙げる昆虫亀は、本物のうんこがどんな味だか知らないだろう。ぼくは残念ながら知っている。別にスカトロ趣味があるからじゃない。ぼくはインフラ屋で、下水処理施設や使用中の下水管もときどき見る。その際に不本意ながら口に入ってしまうことも、ままあるのだ。
だからぼくははっきり知っていることがある。うんことカレーの味はまったくちがう。したがって、うんこをカレー味にするには、ものすごい加工が必要だ、ということ。あるいは昆虫亀が言うように、「そのうんこはあたしがさっきひりだしてきた」と言えるような人間を作るためには、その人間はものすごい人体改造が必要だということ。
さて、それだけの加工を経て出てきたものは、すでにうんこのカテゴリーに入るのか?
入るという立場もある。どんなに加工してもうんこはうんこだ、という立場もある。昆虫亀が主張するのは、そういう立場だ。だが世の有機物の多くは、物質循環の中でうんこの再生品であり、死体の再生品(または死体そのもの)だ。でも、だれでもそれを食べる。うんこが食品にまで至るプロセスはピンとこないかもしれない。汚泥を直接食うこともないし。でもぼくは下水の二次処理、三次処理を経てでてきたうんこ汁やションベンはたくさん飲んでいる。下水処理場の見学にきた人の中には、カテゴリー分類にこだわって、飲みたがらない人もいる。でも、それまでの加工処理についてある程度の説明プロセスを経たら、そういう人でもほとんどはちゃんと飲めるようになる。カテゴリー分類なんて、ほんのすこしのことで変わるのだ。ちなみに本稿の読者諸賢も飲んでいる。
ションベンの味のする水と、水の味のするションベンとどっちがいい? 三次処理まですれば、この質問は、実はまったく意味が無いのだ。そしてうんこカレーの質問だって、正しい答は「加工の度合いによるんじゃね?」というものだ。だってきみたち、日々何らかの形で加工されたうんこのなれの果てを、平気で喰ってるんだもん。くだらない二者択一を迫られる場合というのは、たいがいがその問題設定自体に無理があるんだ。
ここでも昆虫亀は同じまちがいをしている。「うんこ」というカテゴリーが、どんな加工をしようとまったく不変に存在し続ける、という考え方だ。でも、そんな絶対不変のカテゴリーはない。とすると、昆虫亀の議論は成立しないか、したとしてもある程度限られた期間や加工についてのみしか成立しないものとなる。その「程度」がどのくらいかを見極める作業には、ぼくは意味があると思うけれど、たぶん美学の人がそれをやることはないだろうねえ。
さらに付記 (1/22)
なんかこれに対してまた反論がきた。あの本のあの論文は、ある個別の事例だけに限られた議論であって、それを一般性を持たせた議論に展開してはいけないとのこと。
ではあの書評に、この本の議論はまったく一般性がないので個別事例に感心ない人には関係ないからとりあげない、というのを加筆しておくべきだったね。その点は失礼しました。
が、相変わらず展開される議論は、上で(そしてもとの書評で)論難しているものを一歩も出ていない。いやもっとひどくなっている。
自然樹木をプラスチックの木に代えると、「悠久」とか「生気がみなぎっている」とかいった美的性質が失われるのですね。
さて、中央分離帯に植える木なんて、植樹時点でせいぜい樹齢2年かそこらだ。あまりでかくなったら(ならない木を選ぶが)すぐ切り倒す。だってそんなの木がでかくなったら邪魔じゃん。そこに「悠久」という美的性質があるというのは、勝手な思い込みだ。中央分離帯の木はよく枯れる。生気はみなぎっていない。これまた勝手な思い込みだ。
- 「美学」は、何を根拠にまったく事実に反する「美的性質」があると断言できるの?
- これまでの議論からすると、美的性質とは実際の性質とは関係ない、人々の妄想的な「カテゴリー」の中にあるのかもしれないね。ヘロヘロの街路樹 --> 樹木一般 --> 樹齢千年の屋久杉、というような連想があったりするかもしれない。でもそれは少しでも検証されているの? そしてそうした妄想を根拠に何かを崇めたり断罪したりしていいの?
結局話は、物理的な性質とカテゴリーに基づく人の思い込みの関係、という話になる。ぼくはこれが当初の書評からまったく変わっているとは思わない。
ついでに
- むろんそう思い込んでいる人が(この一件のあったアメリカの自治体で)政治的に重要なほどいたことも考えられるんだが、それはちゃんとアンケートその他で検証したの?
- たぶん検証してないだろう。「悠久」とか「生気がみなぎっている」とかいう「自然の木」カテゴリーに何が含まれるかは、美学者の勝手な思い込みだね。するとあなたたちの議論は、抽象論を離れて個別具体例の話だ、と言い出したときに本当に内実があると言えるものなの?
ちなみに個別例に注目したいのであれば、ぼくは PIARC のメンバーでもあって、街路樹を人工樹木にした例はいくつか知っているけれど、かれらが許し難い邪悪な行為をしたとはまったく思わない。が、美学的には、それは大いなるまちがいなんだよね? それともそれがその地では特に文句も言われず使われている以上、美学的にもオッケーなのかな? いろんな疑問はわくが、ぼくは西村も昆虫亀も、個別の事例の話といいつつ、きちんとその事例を検証する気があるとは思えない。やったら教えてくださいな。
というわけで、このくらいで読者の判断材料はそろったと思う。あとはお任せ。
2012-01-20 プラスチックの木
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]西村清和『プラスチックの木でなにが悪いのか』:だらしない印象論と詰めの甘い議論によるトートロジーしかない本
- 作者: 西村清和
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2011/12/21
- メディア: 単行本
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情けなく空疎で無価値な本。
一応論文集なんだが、扱われている問題は表題となっている論文(そして質問)に集約される。ぼくは最初、「何が悪いのか」だから、プラスチックの木でもいいはずだ、という議論だと思ったら、この人は本当に悪いと思ってるのね。
でも、その議論はすべてトートロジーにすぎない。たとえば一通り議論を終えたあとでのまとめのこんな文。
自然の木を断念してプラスチックの木に代えることは、それがけっして自然の木の美的経験の代わりになることはないから、単に自然に対する義務や自然の断念という倫理上の問題としてではなく、まずは美的にまちがいであり悪いのである。(p.173)
この文はつまり、美的経験の代わりにならないから美的にまちがいである、と述べている。トートロジーですな。「美的」って何? それ次第でこの文は意味があるかもしれない、ないかもしれない。
じゃあ美的って何? この人物は、ホスパースとかいう人の議論の受け売りで、「美的」には「薄い意味」と「厚い意味」があって、薄い意味はその表層だけで見る外見的な美で、厚い意味は外見だけでない質や価値、「生の価値」を表現しているものなんだって。(p.168)
でもじゃあ、その「外見だけでない質や価値」というのを、人は何によって判断できるの? 外見からではないの? もしそうでないとしたら、その価値というのは、外見ではわからない説明書の記述に存在するということになる。
「そもそもプラスチックの木は、それがプラスチックの木<である>かぎり、たとえ完全なレプリカだとしてもその非美的で形式的、感覚的な面から見ても自然の木とはまるで違っており、それがひとをぎょっとさせ狼狽させるのである」(p.172)
「まるで違っている」というのは、そのレプリカの精度の問題でもありますわな。違っているというのは、どのレベルで? 形式的、感覚的に自然の木と、人間の分解能レベルでは区別がつかないプラスチックの木ができたら? だからこの文は「とにかくちがう」というのを前提においたうえで、「だからちがう」と言っているだけ。
むろん、両者から得られる感覚はまったく同じではないかもしれない。でもかなり近くすることは可能ではないの? ところがこの著者はここでの引用部分でも常に出てくるように「まるで違って」「けっして代わりにはならない」と、全否定する。なぜ? 説明なし。著者の(そして美学屋の)思い込みだけ。
レプリカの精度が上がれば、それがどんな風に作られたかはそれを知覚する人にはわからなくなる。そうしたら? そしていまの都会人は、まともに木なんか観察したことないから、ケヤキとカシの区別もつきませんわな。人間側の精度も落ちているんだよ。
むろん、何か精密な測定器を使えばわかるかもしれない。どっかのレッテルや説明書に書いてある解説を読むことで、それを理解することはできるかもしれない。でも、実際に見ても区別がわからず、説明書を読んで判断するしかないなら、「美的体験」とやらはその測定器や説明書に宿っているわけですか? すると「浅い意味」と「厚い意味」という区別って事実なの?「厚い意味」=「浅い意味」+測定器/解説書、なの? ちがうとしたら何がちがうの? そうした議論や考察はこの本には皆無。
結局本書は、「なんか(よくしらないから)気持ち悪い」「なじみがないから違和感がある」という話をいろいろこむずかしく言い換えているだけ。結論ありきの我田引水ですな。
これは問題としては、「アンドロイドは電気羊の夢を見るのか」というのと同じ話であり、機械に心は持てるのかとか、哲学的ゾンビ問題とかとも同じ話だ。でも本書の視点は偏狭なので、素朴実在論と、「本質」や「魂」みたいなものがどこかにあって人間はそれを識別できる(はず)という根拠レスな確信/願望と、印象論から一歩も出てこられない。
ちなみに、他の「論文」も同じ。第1章「自然の概念」は、自然を観賞するのは芸術鑑賞とちがうのか人によって議論がわかれるけど、それは自然ってものが人によって意味がちがうからだよねー、という話からはじめてあれやこれやと論じたあげく、結局
自然の鑑賞とは、まずは世界の内なる当の対象がまさに人工ではない自然のカテゴリーに帰属するものとして美的に経験されることを言う。(p.30)
これまたすさまじいトートロジーね。この人はこれまでの部分であれやこれやと、人工環境だって自然の一部という考え方もあるし、かといって自然はとにかくそれ自体凄いという発想は自然崇拝の一種でよくないという考え方もあるし、とあれこれ挙げておきながら、この引用部分直前のページでいきなり「でも自然と人工とは見たときの感じ方が全然ちがうから厳然としてちがう」とそれまでの議論を完全にけっぽって断言してしまう。そしてこの結論。他の論文もそんなのばっかなんだ。
というわけで、全然ダメな本。他の論文も、印象論をこむずかしく言い換えた話ばかりで、だらしない「自然」信仰の垂れ流し。こんなものを書く人が東大の教授センセイですか。当初、ぼくはこの人個人の問題だと思っていたが、これは美学というガクモンというかサロン談義全体の性質であり、この人個人に帰するべき話ではなかったようだ。失礼しました。こんなものをガクモン扱いして、この人の給料をはじめ予算を割いている東大その他が愚かだというべきだった。
付記
これを読んだ弟子筋から物言いがついて、多少の議論があった。ぼくはここに書いた論点が一歩でも解消・発展したとは思わないが、これがこの著者一人の問題ではなく、美学という分野の相当部分の水準だということがわかった点では、まあよかった、と言うべきか。ご参考までに:「カテゴリー」を持ち出しても話は変わらない:西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。(wlj-Friday)
2012-01-19 ベスト&ブライテスト
■[お勉強][書評]ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』:組織内で苦しんだ人なら身につまされる、いろんな意味で絶望の名著。
ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (Nigensha Simultaneous World Issues)
- 作者: デイヴィッドハルバースタム,David Halberstam,浅野輔
- 出版社/メーカー: 二玄社
- 発売日: 2009/12
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読んだふりをしていた本をこっそりきちんと読み直すキャンペーンの一環で、ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』を読んだ。大学生の頃に一度ぱらぱら見たんだけど、「ふふん、白人優位主義の無知で偏狭でプライドばかり高い米帝軍国主義の手先どもが、己の愚かさ故と歴史的必然故に自滅する話ね」と思ってあまりまじめに読まなかったし、いろいろこまごました人間の出自だの学歴だの職歴だのがひたすら並んでいて、いささかうんざりしたこともある。そして大学生だと「こいつらが自分の力関係だの地位だのばかり心配せずに、現場の情報をきちんと聞いて、己の信念にしたがって正義の発言をすればベトナム戦争なんか起きなかったんだろ」と本気で思っていた。だから、あれこれ書かれていることも言い訳がましいばかりで、ちっとも感心しなかった。
ベスト&ブライテスト〈中〉ベトナムに沈む星条旗 (Nigensha Simultaneous World Issues)
- 作者: デイヴィッドハルバースタム,David Halberstam,浅野輔
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- 発売日: 2009/12
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でもいま読んでみると、全然ちがうふうに読める。自分の所属する組織が、明らかに(自分から見て)変な方向に進んでいくときの力学も、いまではずっとよくわかるし、その中で少数派の意見を堅持するむずかしさもわかる。そしてそれにしがみつくことで発言力を失うのと、「戦略的撤退」をして変節のそしりを受けつつも発言力は維持し、自分の意見を少しでも通す機会をうかがうのとどっちがいいか、という選択の苦しさもわかる。歴史は結果しかみない。スティーブ・ジョブスは、いま死んだからこそ「信念と理想を貫き云々」と言ってもらえる。でも製品の調子が悪いときだったら「己の思い込みにこだわりすぎて柔軟性を失い云々」と罵倒されたことだろう。
むろんだからといって、ここに描かれた人たちがきわめて優秀でありながら(いやそのために)とてつもなく愚かだったということを否定するものではない。そしておそらく、本書の記述を信じる限りでは軍のタカ派将軍数名とその手下の事なかれ主義イエスマンたちは、ベトナム戦争突入と深刻化の甲級戦犯なんだが、それ以外の政府がなぜそれを止められなかったのか……そして本書は、「もしXXだったら」というのをなかなか許してくれない。あそこでマクナマラがこうだったら、こっちでラスクがああすれば――でも、そこで出自や経歴をたんねんに追う本書の手法が効いてくる。かれらがそういう地位にそもそもたどりつけたのは、かれらが「こう」ではなかったからで「ああ」しない人物だったから、なのだ。
ベスト&ブライテスト〈下〉アメリカが目覚めた日 (Nigensha Simultaneous World Issues)
- 作者: デイヴィッドハルバースタム,David Halberstam,浅野輔
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すると逃げ道はなかったのか? アメリカはどこかの時点で、ベトナム戦争に突入する以外の選択肢はなくなっていたのか? そんなはずはないんだが……でもどこで何が起こればよかったのかを見極めるのはむずかしい。そして本書の教訓がきちんと学ばれているかというと、もちろん最近のアフガンやイラクを見る限り、その答えはかなりノーに近い。ホント、登場する人々はすべて、こんな人材が一人でもいまの日本政府中枢にいれば、とうらやましくなるような人物なんだが、それですらダメとなると、いったいどんな組織編成にすればよいのか。ハルバースタムがこれを書いた当時は「繰り返しません、過ちは」みたいな感じだったんだろうが、たぶん今本書を読むと、当時よりさらに絶望感は増すだろう。
ところで本書は、サイマルから朝日文庫を経て(ぼくが持ってるのは朝日文庫)、いまは二玄社なんてとこから出てるのか。どういう経緯かは知らないけれど(二玄社って、車の雑誌出してるところ? でも会社のページを見ても刊行書籍に見あたらないが……あった。なんで書道関連の本の中に入れられてるんだ?)でもこれを絶版にせず出し続けているのはえらいなあ。
2012-01-06 清水アリカ全集
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]『清水アリカ全集』:空疎さにこそ本質があったバブル時代のあだ花。
- 作者: 清水アリカ
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2011/08/25
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いま清水アリカの小説を読むのは、ある意味で幸せな過去の思いでにふけるような体験だ。彼の小説には何のストーリーもない。社会の周縁部に暮らす人々が、エログロな肉体改造と変態性行為とドラッグと犯罪にひたすらふけるだけ。
著者はデビュー作の時点で、それが意図的に薄っぺらな小説にした結果だ、とうそぶいていたという。でもこの全集を読むと、この人はそれ以外には何も書けなかっただけだとわかる。そして一見、現代社会のおきれいな表層、特にバブル期の繁栄に背を向けたように見えるこの小説は、実はどれも、それに強くよりかかっていることもわかる。どの小説でも、世界は確固たるものだ。かれは、華やかに見える表層の裏にある淀みと腐敗を描くことで、この世界と当時の繁栄を相対化し、疑問視しているつもりもあるようなのだが、でも実際には登場人物たちは(そして著者も)実は世界の不変性をまったく疑ってはいない。自分たちは生産的な活動をしなくても、表の繁栄のおこぼれにあずかることで何も考えずに暮らしていける――かれらはそう確信している。その意味で読者の神経を逆なでするような意匠をひたすら並べる小説は、実は『なんとなく、クリスタル』とやっていることは大差ない。
本書には、原発周辺で放射能を浴びつつ生きる人々なんかも出てくる(むろん清水アリカに科学技術的な精度など要求できない。かれらはゴジラと同じく放射「能」を浴びる)。それを採りあげて、原発事故の後遺症におびえる現代日本を予見するものだ、と皮相的な見方をすることも不可能ではない。でもいま、実際に原発が事故を起こして放射性物質が漏れ人々が(かなり過剰に)それに怯えたり騒いだりしている様子を、ぼくたちは日々目にしている。その現実はいかにつまらなく、それでいて深刻なことか。それに比べれば、清水の描いた放射能世界の、なんと安心しきって楽しげであることか。どうせそんなことは起こらないとたかをくくっていればこそ書けた無責任さ。そこにあるのは、ファッションとしての放射「能」だけだ。
その清水アリカは、2010 年に他界している。世紀が変わってから、まとまった作品を発表はしていないものの、その創作メモなどがこの全集には収録されている。が、さほど変化があるとは思えない。バブルのあだ花のような作家は、他にもいた。田口賢次とか、いとうせいこうとか。いとうせいこうの『ノーライフキング』は、ゲーム中毒小学生たちが 18 字(だっけ)のプロフで自分のすべてを表現しようとする小説だ。昔のツイッターみたいなものだと言おうか。当時はむろん、その小学生たちには、18 字以上の内実があって、そこに小説の描こうとした苦しみと現代社会(当時)の悩みがあるように思えた。でも、今にして思えば、当時の人々――いとうせいこうを含む――には 18 字で書ける程度の内実しかなかった。かれらは表現すべきものを持っていなかった。そして、夏休みの宿題の作文に悩む小学生がしばしばやるように、「ぼくは書くことが何もなかったので、書くことがないことについて書くことにしました」というのをやった。その結果がかれらの小説だ。清水アリカは、他の同世代作家よりは、書くことがないというのを書くのはうまかった。が……それをどう評価したものか。
そして当時その連中と似たような活動をした評論家や現代批評家――ニューアカブームの尻馬で出てきたような人たち――もいた。この全集に雑文を寄せているような人々だ。かれらも、大して言うべきことをもっていなかった。そうした「批評家」の一人、陣野俊史はこの全集の書評を書いているけれど、見てごらん、このまったくの無内容さを。この人の書評――いや書評に限らず書くモノすべて――は全部そうだ。それがこの人、そしてこの人たちの本質なのだから。
清水アリカが、去年の震災とその後の原発騒動を見たら、何と言っただろう……と夢想するのは多少はおもしろいが、実際には何も言えなかっただろう。ぼくたちは、震災後に何か意味のあることを言おうとして、まったく無内容なざれごとしか言えなかった「思想家」だの「批評家」たちをたくさん見てきた。それは清水アリカの世代の人々に限らず、あらゆる世代に見られた現象なのだけれど。意味があることを言えたのは、現場を持ち、社会と文化の意味を信じてその中で継続的に活動してきた人々だけだった。
清水アリカの小説は、そうしたものが不要だと信じてしまった――信じることができた――ある幸福にも不幸な(いや、不幸にも幸福な?)世代の墓碑でもある。この全集を読んで、ぼくは大学時代の宴会で飲み過ぎてゲロを吐いていたときのようなさわやかさと懐かしさを覚えた。そして人にはそのゲロをいとおしく思う時期もあるのだ、ということも知っている。でもやっぱりゲロはゲロで、それをありがたがることに懐古趣味以上の意味などないことも、いまのぼくはわかる。ぼくは、かれの訳したバロウズ『トルネイド・アレイ』が好きだ。あれを読むと、清水アリカにも少し別の可能性があったのかもしれない、と思う。が、それを探し出すためにこの全集を再び手に取ることはないだろう。
コメント
これは新聞に載せようと思って途中まで書いたが、おそらくこの方向性ではOKが出ないので、別の本をとりあげた。でも書きかけでもったいないので、仕上げておいておく。
2011-12-26 ためになるレビューアー
■[書評]本じゃないけど、とても有益なアマゾンレビューアー
Amazonレビューのほとんどはカスなのはご承知の通り。でも各分野ごとにえらい人がいて、本当に有益なレビューをしてくれる。心理学や進化論などの分野では本当に定番レビューアーがいるけれど、貿易と経済学などの分野では、このChar_Liberte氏がとてもいい。本の概要をていねいに教えてくれるし、まとめ方も適切。ミシガン大のドクターなのかな? 他にも都市系でそんな人がいたような記憶がある。
どれも勉強になります。この人がレビューしてる、カトリックの経済学起源分析とか、おもしろそうだがこのレビュー見ると手を出すのがこわいようでもあり、どうしようかなあ。同じ人のブログもとっても情報豊か……と思ったら多くはアマゾンレビューの再録か。どの本の話かわかりにくいこと多し。が、それ以外のネタもあるのでごらんあれ。
ところでこの人に気がついたのはこれを見ていたときだけれど、この表紙って……東京?! なんでだろう。
- 作者: Edward Glaeser
- 出版社/メーカー: Penguin (Non-Classics)
- 発売日: 2012/01/31
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2011-12-25 きしだしゅー
■[書評][お勉強]岸田秀『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』:あきれた。こんなトンデモ妄想垂れ流し読んで目が穢れたぜ。
- 作者: 岸田秀
- 出版社/メーカー: 新書館
- 発売日: 2007/02
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準トンデモ本黒いアテナをネタに、岸田がどうしようもない歴史妄想を垂れ流すだけの、ホンッと情けない本。なんでも、アフリカではみんな黒人だったんだけど、その中に白人が生まれたので差別されちゃって、それでその人たちはアフリカを逃げてヨーロッパにでかけたんだって。だからいまの白人はその時のうらみで、仕返しに黒人差別するんだってさ。
あほくさ。
「黒いアテナ」は、エジプトもギリシャもあれもこれもみんな黒人が作った文明で、そうでないというやつはみんな(意識的か無意識的かを問わず)人種差別屋だというトホホな本。でも一応、それなりに研究の体裁にはなっていて、反論本とかも出ていてまあまあ学問的な議論の俎上には一応(一応、ね)載る。でも岸田は、その反論本を持ってきて、その反論が変だ、こんな反論をするのは白人が焦っているのだと思う、証拠はないけどオレがそう思うんだから反論は認めない、みたいなのをひたすら書き連ねる。
そして、なんでも「いい加減に読んでいい加減にまとめた」で言い逃れ、「オレの説も証拠はないけどあいつらの説も証拠はないから同格」といったどうしようもないシロモノ。しかもアーリア説(それもヒトラーがゲルマン民族優秀説に使った邪説レベルのもの)なんかを真剣に検討するあほさ加減。アーリア説とあんたの説のどっちに説得力があるかって、どっちもねーよ。
歴史認識のお粗末さについてはこのブログ「gurenekoの日記」を参照。経歴詐称がばれてから、岸田秀ってこんなことになってたのね。史的唯幻論って、ちょっとした思いつきのホラ話で冗談でやっているんだと思ったら、こんな大まじめだったとは。
- 作者: マーティン・バナール,金井和子
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2004/06
- メディア: 単行本
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ブラック・アテナ―古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ〈1〉古代ギリシアの捏造1785‐1985 (グローバルネットワーク21“人類再生シリーズ”)
- 作者: マーティンバナール,Martin Bernal,片岡幸彦
- 出版社/メーカー: 新評論
- 発売日: 2007/04
- メディア: 単行本
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ちなみに極東ブログは本書について
バナール説については、普通の知識人なら知っておくべきなので、それがチートシート的に読めるという程度で本書は読んでおいていいと思う。繰り返すが、岸田の理解でバナールの論争とかに突っ込むのはだめだめ。」
とのことだが、突っ込めないならチートシートの意味ないじゃん。ちなみに、バナール説なんか知る必要ないと思うし、聞かされても「ギリシャ文明がエジプト起源? そういう面もあるかもしれませんねえ。それがどうかしましたか」で顔色一つ変えずに流すのが本当の知識人だと思う。バナールの本は整理が悪いし、訳書(原書も)をまじめに読もうとするとすごく疲れるし、その割にはトンデモのぶっとび具合も控えめなので、がんばって読む価値はありません。
2011-12-23 朝日新聞って……
■[時評]朝日新聞ってホントに北朝鮮&中国の手先かもしれないと思ってしまう記事。
朝日の一面見て、卒倒しそうになった。ジョンイルくんが死んで、なんと金正男礼賛??!! 「自由人」? 「世界をよく知り」? 正男が? 国を預かる気になれないのは、単に遊んでたいからだけでしょ。さらにジョンイルが「拉致問題でも『主犯』の疑いがぬぐえなかった」??!! 疑いかよ! さらに金正恩の心中を思いやる??!! どうなってるの、この若宮啓文という人物は? こんなのが「主筆」の朝日新聞って何、と思ってしまう。ところで主筆ってなんだか知らないけど、一応えらいんでしょ?
そもそも金正恩が三代目についたのは、ほかの国の政権交代とか王位継承とかとは同列に扱えないだろう。まずどう見ても、まともに状況わかってるとは思えない傀儡でしかない。北朝鮮の現状すべて把握して国を運営する気があるとは考えられない。それが何を考えようが関係ないでしょ。記事の前提からして変だわ。この北朝鮮(の親分一家)へのすり寄りかたって異様すぎ。
そして主張は、北朝鮮にもっと甘くしろ?? そうすりゃ正恩を懐柔できるかもというわけ? いやはや。本気でそんなこと思ってるとしたらホントおめでたい。北朝鮮の国が崩壊したら難民とか出て困るから、北朝鮮の人たちには悪いけどあの政権を温存させて封じこめるのがいちばん無難、という意見ならまだわかるけどね。その意味で、この記事の見解は特に中国(そしてもちろん北朝鮮の権力層)のマウスピースみたいなもんだけど。
ちなみにこの記事の続きも、ホントに無責任きわまるシロモノで、スキャンする価値もなし。
2011-12-22 筑豊炭坑
■[書評]山本作兵衛『筑豊炭坑絵巻』:驚愕の記録。ユネスコもたまには立派。
- 作者: 山本作兵衛
- 出版社/メーカー: 海鳥社
- 発売日: 2011/10/17
- メディア: 大型本
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朝日新聞向けの今年の三冊を選ぶので、見落とした本はないかと丸善をうろつくうちに発見。一見して驚愕。すごい。明治大正からずっと筑豊炭田で坑夫を勤めてきた著者が、そのすべてを絵と文で描きだしたものすごい記録。実際の採掘方法、そのツールや手法の変遷、日常生活、米騒動など時事的な事件、内輪のリンチの様子など、無言であんぐりしつつページをめくる。はっと我にかえり、即購入。リアル本屋も捨てたもんじゃないねえ。
全体が絵を中心にかなり詳しい文を添えた瓦版的な構成。絵の描き込みもすごいし、変な価値判断やイデオロギーの入らない淡々とした記述、そしてあちこちに入る戯れ歌、すべて驚異的。明治の炭坑は、夫婦で入って採掘したとか、全然知らなかった。一方、イデオロギー的に使いたい人は、その絵がどの時代のものかをよく見てからにしたほうがいいと思う。いろんな時代のものが入っていて、いまの価値観であれこれ言っていいものか要検討なものも多いので。
今年ユネスコが、世界記憶遺産とやらにこれを選んでくれたので有名になって本書も再刊されたとのこと。記憶遺産って、グーテンベルグ聖書やマグナカルタとか立派なものもあるが、結構しょぼいものも多いし、タイや韓国のものがやたらにあって途上国の国威発揚のためのアレになってる面もあり、玉石混交。その中でもこれは玉のほうだと思うが、ラインアップの中では圧倒的に異色。ユネスコもたまにはいい仕事をする。
高いと思う人には、もっと安い次の本もある。
- 作者: 山本作兵衛
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/07/29
- メディア: 単行本
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収録作品はかぶっているものの、こっちは判型が小さいうえに、一ページに絵を二枚ずつ入れたりして、描き込まれた字は読めない。どーんと「絵巻」にお年玉を張り込んで、絵と文一体の総合的な味わいを享受するのが正しいと思う。
もちろん速攻で今年の三冊に入れる。再刊直後に気がつかず、本書評に出せなかったのが残念(再刊でも、数十年ぶりだし認められたと思うんだよね)。ちなみに「画文集 炭鉱に生きる」のほうは朝日で書評が出ていたのを見落としていた。
2011-12-19 スペンス、ケインズ学会論集, IT時代の震災
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]『IT時代の震災と核被害』:前半部分はとてもよい、後半のくだらない対談集で台無し。
コンピュータテクノロジー編集部のまとめた、震災とITに関わる各種の取材とりまとめに、「知識人」たちの対談をくっつけたもの。震災時に、グーグル、ヤフー、アマゾンなどがどんな要望を受けてどんな取り組みをしたか、ツイッターやウェブコミュニティはどう動いたかという検証部分は非常によい。SPEEDIが一向に公開されなかった話とか、情けない事情もきちんと出ているし、また海外報道の状況などもよくまとまっている。
それだけに、最後についた各種の対談やら座談会は残念。まず西ヒロキ&萱野稔人の対談は、外交だの中国バブルだのとまったく関係ない話を気取って知ったかしてみせる無意味な談話。宮台真司は、えらそうなこと言ってテメーが震災時にデマをふりまいていたことにはほっかむり。市民としてのナントカを語ってみせるが、かれは市民ではなく大衆・愚衆の一員でしかなかった。武田徹に神保哲生は、震災時のメディアやジャーナリズムについて語れるほどの活動をしていないのに、これまたご高説。そして池田清彦に加藤典洋??!! なんでこんなのが入ってるんだか。津田大介のソーシャルメディア論はまだ読める。他は全然だめ。
前半だけなら書評で扱うことも充分考えられるけれど、これでは使えない。240ページまで(それに津田の論説)だけで出し直してくれれば……
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]スペンス『マルチスピード化する世界の中で』:議論は定番で良書ながら通りいっぺんでかけあしすぎ、議論もごく常識的。
マルチスピード化する世界の中で――途上国の躍進とグローバル経済の大転換
- 作者: マイケル・スペンス,Michael Spence,土方奈美
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/10/07
- メディア: 単行本
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シグナリング理論のマイケル・スペンスによるグローバル経済論。途上国の今後の発展をどう考えるべきか、何を重視するのか、みたいな話を並べているんだが、テーマがでかく多岐にわたるために、どの話も通りいっぺん。一般向けということであまり細部に触れられないために、なおさら流した感じになってしまっている。
また言っていることはどれもきわめて常識的。邦題に出てくる「マルチスピード」は、途上国(そして先進国)でもいろいろ発展スピードには差があるので、すべてに画一的な方策をあてはめて事たれりとしてはいけないよ、という考えをあらわしたもの。でも、現代は「次の収斂」というもので、これまで20世紀は、急速に発展する国とそうでない国の間の格差拡大の時代だったのだけれど、それが今後、成長がいろんなところで生じることにより収斂してくる、という考えのあらわれ。驚くような話は出ていないし、どれも世界銀行その他の公式見解とさほど差が無く、無難すぎ。温暖化対策の話も、排出削減しか考えていないなど、不満もある。
全体として、悪い本ではない。各種議論のざっとしたおさらいにはよいと思う。でもわざわざ紹介すべき本でもないと思ったのでとりあげなかった。
■[朝日新聞書評ボツ本][書評][ケインズ]ケインズ学会『危機の中でケインズから学ぶ』:まったくまとまりも意気込みも盛り上がりもない。
こないだ、もらった本をパラパラ見て論難したが、こんどは朝日の書評委員であたってしまったので(欠席した委員会で、一重丸しかつけなかったのに落札できたというのは、他にだれもこれを読みたいという委員がいなかった、ということ)、きちんと読まざるをえなくなった。が、このケインズ学会に、かけ声以上のものを持っている人はだれもいないということがよくわかるに終わった。パラパラ見たときには、まだ希望があるかと思ったけれど、こうして全部読むと残念ながらまったくよい評価はあげられない。評価は先日と同じかそれ以下。全部読んだら少しはいいところが見つかって、ケインズ再評価の盛り上がりを見事に示す論集、とでも紹介できればいいなと思ったけれど(そしたらぼくの一般理論も少しは売れ行きがよくなるかもしれないじゃないか)、この論集自体はぜんぜん盛り上がってないので、まったく書評にあげられません。
以下、内容について個別にコメント:
討論会:世界経済のゆくえ、日本経済のゆくえ
吉川洋、浅田統一郎、小野善康の座談会。吉川はルーカス以来のニュークラシカルや RBCなどが現実経済にまったく役立たずで有害だったことを指摘。浅田は日本の過去を見て日本の公共投資批判論がピント外れであることを指摘、日銀の金融政策のまずさについて語る。ところが小野は自分の乗数効果批判論を展開。吉川と浅田の議論はその後かみ合うものの、小野一人はなんか単なる自説開陳に終始。一応、世界経済や日本経済の中でケインズ理論の意義を語るんじゃなかったの? そしてその後、小野は増税して公共事業という話をするんだけど、全体の流れからは浮いていて、他の二人は明らかに小野に対して苛立っている。でも本書の中で、ケインズ理論と現実経済の関わりについてきちんと触れている唯一の部分(ただし小野は除く)で、いまから思えば本書で最も評価できる部分。
討論会:現代資本主義をどうとらえるのか
伊藤邦武、岩井克人、間宮陽介の討議……のはずが、各人のプレゼンだけで終わってしまう。司会者、仕切ってくれ! 伊藤は貨幣愛の話をするんだが、それがなぜか各国それなりの経済のあり方を考えるべきだという話にシュルシュルとすぼんでしまう。岩井はとにかくやたらに長いだけで、要はケインズは、資本主義の効率性と安定性を重視していて、新古典派的には不合理である名目賃下げへの抵抗が、安定性を重視する立場からは合理的なのだ、それがケインズ理論のポイントだという主張。間宮は、貨幣の話が重要だということを言う。で、あとは各人がまとめと称してあまり変わった話をしない。岩井の議論はちょっとおもしろいし、質問で小野理論の評価を聞いているあたりは悪くないが、もうちょっとふくらませてくれないと……
伊東光晴放談
若田部昌澄が、伊藤光晴にお話をうかがうというもの。伊東光晴が己の生涯を語っておしまい。不毛。
ケインズとマルクス(伊藤誠)
題名通り。マルクスの理論はケインズを補うものじゃないかと思うから、ケインズ学会もマルクスを研究してね、っておまえがやれ、という感じ。思いつき。
ケインズとシュンペーター(塩野谷祐一)
ごみくず。「経済学の教科書よりも、経済学者のすぐれた評伝や学問史が読まれるような社会が、ゆとりある豊かな社会への第一歩と言えるのではないか」だそうだけど、何言ってんの? 社会や経済の現状について危機感のまったくない間延びしたシロモノ。
ケインズと私(根岸隆)
ケインズ根岸均衡の話……と思ったら一ページほどで昔話になりそのまま終わってしまう。もうちょっと均衡の話をきちんと書いてくれればずっと意味あるものになったはずなのに、もったいない。
ケインズと新自由主義(橋本努)
新自由主義だって、少しは政府の役割を認めるんだよ、という話。へー、そうですか。
ケインズと「今日性」(平井俊顕)
ケインズの理論は最近また注目されているよ、というののおさらい。へー、そうですか。
ケインズと公共哲学(山脇直司)
この人はツイッターで、自分はケインズなんかあんまり知らないとか公言していて、それなら引き受けるな、という感じ。中身も、自分の「公共哲学」なるシロモノの紹介と昔話に終始し、ケインズ理論は公共事業の前提となるルールに触れていないとかなんとかいう難癖がケインズへのほぼ唯一の言及。本書の中で最も低級な文の一つだと思う。塩野谷祐一ゼミがどうしようもなかったということだけはわかった*1。
その他ケインズいろいろ
伝記や著作紹介など。
*1:著者から物言いがついたのを受けて、赤字部分を加筆いたしました。不充分な記述について、読者諸賢に真摯にお詫びするものです。
2011-12-13 『最終兵器の夢』:現実の軍事動向と齟齬、「SFにいっぱい最終兵器ネ
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]フランクリン『最終兵器の夢』:最終兵器的なネタがSFにたくさん出てきましたというだけ。
- 作者: H.ブルース・フランクリン,上岡伸雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/11/26
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蒸気船の開発者として有名なフルトンが、もっと破壊力の大きい兵器を開発することでだれも戦争をしようとしなくなり、結果として平和がもたらされる、というビジョンを提唱し、そういう発想がいろんなSFに取りざたされるようになって普及し、それが原爆の開発や使用にも影響しているというのが本書の基本的な主張。
でもその中身は、ほとんどが最終兵器ネタのSFの羅列に終始。そしてそれが陳腐な反戦軍拡阻止イデオロギーの開陳とだらしなくむすびつけられる。
兵器開発史と文化の共犯関係を描く、と本書は述べる。確かにそういうSFがたくさんあるのは事実。ガンダムの最近のやつとか、ナルトも最近ではそんな話になってるんだって? いくらでもあるよ。そしてそれは、現実の兵器開発とパラレルに進んできた。
でも、それが共犯か? 単なる並列の動きではないの? 共犯や文化の役割を言うには、小説等の側がどこまで現実に影響を与えたかを明示しなくてはならないが、本書はそれができていない。トルーマンが、その手の最終兵器ネタのSFを読んだことはあっただろう。でも、そのためにトルーマンが原爆開発や投下を命じた、ということはできないよね。本書はそこに因果関係があるかのようなレトリックを弄する(さすがに因果を断言するほど厚顔ではないが、それっぽいイメージをねつ造するくらいにはこずるい)。ウェルズの『解放された世界』(原爆開発による世界平和を描く小説)がレオ・シラードなどに大きく影響しているのは事実だし、それは本書にも指摘されている。でもそれを額面通り鵜呑みにするかは別の話だ。
さらに、事実認識としてもどうだろう。まず冒頭で、アメリカの予算のほとんどは軍事費に行って、福祉や教育にいくのはそのおこぼれ (p.3)、というありがちなプロパガンダから著者ははじめるんだけれど、かなりちがう。アメリカの連邦予算のうち、軍事費は2割、社会保障と保険とセーフティーネット関連で6割。軍事がかなりでかいのは事実だけれど、著者の書き方は誇張がすぎる。
また著者は、アメリカが未だにこの最終兵器幻想で軍拡をひたすら進めているかのように言いたがる。アフガンをごらん、対テロ戦争をごらん、というわけだ。そしてそれがクランシーの小説やら「24」なんかと共犯している、とかなんとか。
でも著者はいっしょうけんめいごまかそうとするけれど、いまのアメリカの軍事的な動きは、もはやそうした最終兵器(あるいは原題にいう Superweapon) による平和というイメージでは動いていない。軍事的な優位性の確保、というのは確かにあちこちに出てくる。でも相互確証破壊的な核ミサイルによる抑止はもはやだんだん軍縮に向かい、あちこちで基地も閉鎖されている。冷戦が終わったときのいわゆる peace dividend 的な動きもまったく無視。
そうした現実の軍事的な動きの変化を理解できていないために、本書は単に、古い(すでにだれも読んでいない)SFを掘り出してきて羅列した以上の意味を持てずにいる。そもそも、技術進歩と軍事の関連を考案したのがフルトンだ、という本書の主張自体ぼくはナンセンスだと思う。そんなのは昔からあった発想で、本書があくまでアメリカを扱った本だからこそなんとなくもっともらしいけれど、一歩ひいて考えればむしろ本書自体の持つアメリカ中心主義の露呈でしかない。
そして最後は、軍拡を批判する一方で、文化が最終兵器や武器のない平和な未来像を描けていないといって批判する。そうかね。いくらでもあるんじゃないの? Jetsons や Back to the Future part2 をはじめ兵器の出てこない平和で凡庸な未来を描く小説やSFなんていくらでもあるのでは? こういう発想に対しては1世紀以上も前に、サキが「平和的おもちゃ」という短編で徹底してバカにしている。
ということで、紹介するには値しない本。ビエンチャンに捨ててきます。
2011-12-12 ケインズ学界論集
■[ケインズ][書評][しかかり]ケインズ学会論集:こんな年寄りの昔話ばっかでいいのか?
うーん、なんかもらったのでパラパラ見ているが、半分くらいが年寄りの昔話や説教と、あまりケインズとか関係なさそうな人がこじつけで自分語りしてる代物みたい。まだ十分に目を通してないが、これがケインズ学会設立の意気込みを示す論集なの? これまで通りのケインズ業界のえらいさんが、昔話するだけのサロンみたい。新しく学会を名乗るのであれば、これまでの研究方向とどこで差をつけるのかっつーのを明確にしないとダメでは? ニューケインジアン否定だけで、あとは訓詁学に堕するのでは新しい学会の意味がないような。
その意味で若手(相対的に)のメンバーには期待してますぜ。それとぼくがまだきちんと読んでない部分に、新しい学会としての意義があることを祈ってやまない(ほんと。マジで)。一般理論新訳もしてあげたことだし、旧訳の二人のざんげから入ってくれたら絶賛したところだが、まあそれは望むべきにも非ず、ですな。
ということで引き続きチェックだが、すでに否定的な評価に傾きつつある……(この手の代物はやはり期待値をベイズ的に修正しつつ動くから)
2011-12-01 Sybil Exposed
■[書評]Debbie Nathan, Sybil Exposed: 原資料をもとに、多重人格シビルのウソを徹底的に暴いた本。でも批判的ながら同情的でフェアな視点のため、非常に感動的で悲しい本になっている。
Sybil Exposed: The Extraordinary Story Behind the Famous Multiple Personality Case
- 作者: Debbie Nathan
- 出版社/メーカー: Free Press
- 発売日: 2011/10/18
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むちゃくちゃおもしろく感動的。数日前に書いた「シビル」の真相暴露本。一言でいえば、「シビル」は基本的には捏造であったということ。それは、患者の「シビル」(本名シャーリー・メイソン)、ウィルバー医者、本を書いたジャーナリストのシュライバーの三名の共謀によるもの。患者は、抑圧の多い宗教的な環境で育ち、ちょっとした芸術的センスと空想癖・虚言癖があった。ジャーナリストは功名心に流行っていて、とにかくセレブになりたかった。医者は女性研究者として名を挙げようと焦っていた。その利害が一致してできたのが、多重人格のお話。この中で、医者はたぶん最後まで多重人格の話にしがみついていたが、後の二人はそれが捏造なのを十分に知っていた。
ちなみに この本についての話を町山智浩がラジオでしているけれど、ちょっといい加減で本当に読んだのかはよくわからない。とくに本書ができた経緯で、最初にフランス人がオリジナルの記録を閲覧して、それで云々という話はどっから出てきたのか不明。もともと、患者のプライバシー保護のためにと称してこの資料は封印されていたんだが、独自にかれらの情報を追っていたジャーナリストが、すでにその患者が死亡していることを知って、それで資料は公開されたとのこと。
ウィルバー医者は、もともと軍人が戦場からトラウマを抱えて帰ってくる研究をしていて、ひどい体験が精神異常の原因となるという研究をしていてそのために自白剤や電気ショックを使うという「療法」をあれこれ工夫していた。
「シビル」ことシャーリー・メイソンは、セブンスデイアドベンチストという、キリスト教の中でもかなりマイナーな宗派に属する家庭に育ち、母親はかなり神経質だったのは事実。そのため、彼女は自分の空想癖をかなり後ろめたく思わされており、その一方で自分に関心を集めるために、数日行方不明になってみたり、記憶をなくしたふりをしたりするのをよくやっていた。
ちなみに、アドベンチストは19世紀にこの世の終わりが来るというのを聖書に基づく計算で編み出し、「この日にキリストが再臨して世界が終わる!」とみんなで待っていたら、世界が終わらずに全米の笑いものになった宗教。で、その一年くらいあとに「計算ちがい! ほんとは今年!」とやったんだけれどそれでも終わらなかった。で、みんなで困っていたらその教団の中にいた女の子がお告げを受けて、「キリストは再臨予定でちゃんと計算通りの日に天国を出発してるんだわ! わたしたちは正しかった! でも途中ですてきな場所を見つけて寄り道してるのよ! で、寄り道がすんだら地球にちゃんとくるから!」ということになり、その後ずっと寄り道がすむのを待ち続けている宗教。(この前半は Dr. HOUSE/ドクター・ハウス シーズン1 【DVD-SET】 に出てきたので知っていたけれど、後半の女の子の予言は知らなかった!)
で、シャーリー・メイソンが多重人格のウソをついたのは、ウィルバー医師が転勤することになって、それをなんとか引き留めようとして、いつもの記憶がなくなった芝居をしてみせたのが発端。それをウィルバー医師は我田引水で、薬に電気ショックであることないこと妄想をしゃべらせて、自分の論文のネタにした、というわけ。
でも、本ではシャーリー・メイソンの母親が娘にむちゃくちゃをやったことになっている。森の中でティーネージャーと同性愛にふける様子を見せたり、台所で娘をさかさにつるして冷水浣腸して棒で犯して悪魔のように笑ったり、ピアノに娘を詰め込んで弾きまくったり。そんなことが日常茶飯で行われていたという。でもその記述はメイソン家の実態とかなりちがうし、同居していた父親も住み込み家政婦も、そんな事件を一切報告していない。一回二回なら気がつかなくても、それが日常茶飯でまったく気がつかないなんて? 実はシュライバーもそれを含め、「シビル」の話の相当部分がおかしいと思っていたが、本を書く中でシャーリー・メイソンが、「実はあれはみんなウソです」と告白した手紙を書いているのを知る。でも、医師はそれを否定し、患者が自己防衛でウソを言っていると主張し、またシュライバーもすでに出版社と契約してしまっていて、いまさら本をボツにもできずに書いてしまった、という。(でもその後、これでノーベル賞を取ろうというキャンペーンを始めるくらいには厚顔で虚栄心が強かった)
本書は「シビル」後の三人の運命も描いている。シビルは、人格が統一されて直ったことになっていたけれど、実は全然よくならず、また自分の正体が暴かれることを極度に恐れ、またウィルバー医師も、自分のやっていたことが公になるのを恐れていたので、シャーリー・メイソンが表に出ないようにおさえこみ、結果として二人は何とほぼ同居状態。そして名声は得たけれどもちろん臨床にきちんと活かせるようなものではなかったので、医学的なキャリアも低迷。またシュライバーも、「シビル」以降まともなものは書けず、三人で山分けしていたシビルからの収入も当然ジリ貧になって貧乏暮らしをよぎなくされ、そしてシャーリー・メイソンも晩年はウィルバー医師を看取ったあとに極貧の中で孤独死。
「シビル」の後、多重人格症は得体の知れない訴訟合戦のタネとして社会問題化し、医学的にはまともなものとは認められず、いまや精神科医の定番参考書である DSM からも、多重人格症(Multiple Personality Disorder, 後に扇情的な扱いを避けるために改名されて Dissociative identity disorder) というのは削除されている削除が提唱されている。でも、怪しげな信者たちがいまだに多重人格セラピーなるものをあちこちで展開している。著者は特にウィルバー医師とシュライバーに対して、批判的でありながら同情的。ウィルバー医師は特に、患者を本気で助けようとしていたのはまちがいない、と。そしてあの時代にあって、女性の社会進出がよいこととされつつもまだ社会がそれを受け入れる余地がなく、また女性自身も新旧の発想の板挟みで不安と気分の揺れを強いられていた。多重人格というのは、ある意味でそうした不安な女性の地位を反映したものだったために受け入れられ、そしてそれはその創始者がだれよりも強く抱えていたのかも、と。そしてそれがウソであったとしても、彼女たちを含む人々に多少なりとも救いをもたらした部分はあったのかもしれない、と。
著者は、日本でも「1冊で知る ポルノ(「1冊で知る」シリーズ)」の邦訳があって、フェミニズム的な被害者意識に偏向しない非常にフェアなポルノ論を書いていた。このシビル批判以前にも、変な精神セラピーの危険性についての本や、その被害者(やってもいない児童虐待で訴えられた親などね)を支援する組織の運営もやっている人。
追記
これは多重人格そのものの存在を否定するものではない。ただ、それがありえんほどドカドカ出てくる発端となった「シビル」を否定するものであり、ひいてはそれにつられた付和雷同の「あたしも多重人格」「うちの患者も多重人格」的な、安易な多重人格診断を大いに疑問視するものではある。
あと、多重人格話は1990年代以降はかなり下火になったんだが、その理由は、一つは多重人格やPTSDの回復と称してインチキな暗示をかけまくっていたセラピストが、患者にドカドカ訴えられるようになって、セラピストどもが尻込みしたこと (このあたりの事情は、矢幡洋『怪しいPTSD―偽りの記憶事件 (中公文庫)』に詳しい)。そしてもう一つ、それに伴って、多重人格がどうしたとかいう心理療法は保険でカバーされなくなったそうな。これがでかくて、セラピストも患者もそういう変な療法に頼れなくなったとのこと。As Cindy Lauper sang, money changes everything.
2011-11-30 アンネの日記
■[書評][むしろ感想文]フランク「アンネの日記」:やはりモノにはそれに適した年齢があると思う。
- 作者: アンネフランク,Anne Frank,深町真理子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2003/04
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言わずと知れたアンネの日記。こないだアムステルダムに行ったとき、いつも長い行列ができているアンネの家にスッと入れたので見物したついでに、そういえばなぜかアンネの日記って読んでなかったなあ、と思って義務的に。
で、考えて見ればあたりまえだが、収容所に入ってからの話はないんだよね。ユダヤ人への迫害が強まる中でこっそり暮らしつつ、メインはふつうの女の子らしい日常の苦労が延々綴られる話。アンネの年齢から見て、よく書けていると思う。世を忍んで生きねばならないつらさも、確かに感動する部分はある。でもやはりこれは、最後につかまって殺されてしまったという悲しい結末をみんな知っているからこそ読む本で、戦時中の生活に関する記録としての一定の価値はあるものの、この日記の記述自体にすごい文学的価値があるというものではない。しかも、実際にアンネの家に行った人はわかるだろうけれど、結構広い! それを知って読むと、つらい暮らしの半分くらいは「ぜいたく言うな」になってしまう。
小学生くらいで読めば感動したのかもしれない。この年ではなあ。ものにはやっぱり、年相応というものがあって、ドストエフスキーは高校から大学で読まないと、とか共産主義は高校くらいで一度発症しておいたほうがいいとか。
そういえば、名作テレビドラマ My So Called Lifeで、主人公の高校生(クレア・デーンズ)がこの本の感想文を書く回があって、「アンネがうらやましい、あたしもアンネみたいになりたい」と書いて学校がそれを大問題にして、親が呼びつけられる。
My So-Called Life: Complete Series [DVD] [Import]
- 出版社/メーカー: Shout Factory Theatr
- 発売日: 2007/10/30
- メディア: DVD
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で、先生が、ナチスの圧政がどうした、収容所に送られたアンネの悲惨が、それを無視してアンネになりたいとは何事であるか、とかお定まりの説教を始めると、クレア・デーンズはブチ切れて「だってアンネはボーイフレンドがいた! あたしはいない! こんな生活いやだ!」と実に高校生らしい近視眼的で身勝手なことをわめく名演技を発揮して、それが懐かしく思い出されましたであります。
2011-11-28 多重人格シビル
■[書評][お勉強]シュライバー『失われた私』:インチキだと知って読むと、読むにたえないシロモノではある。
- 作者: フローラ・リータ・シュライバー,巻正平
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1978/09
- メディア: 文庫
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有名な、16の人格が同居していたと称するシビルの治療記。こいつが売れたおかげで、全米に多重人格を自称する連中がウンカのごとくに湧いてきたという本。
先日、この本の検証を行った「Sybil Exposed: The Extraordinary Story Behind the Famous Multiple Personality Case」という本が出て、功名心にはやる倫理観のない医者と、スクープしたいジャーナリストと、しばいっけが強く自分を特別だと考えたい患者の共謀(意識的、無意識的かを問わず)によるまったくのインチキ、という審判が下っている。催眠術にかけて暗示を植え込み、自白剤(だと当時は思われていた幻覚剤)を注射してあることないこと言わせ、というとにかくひどいものだった、とのこと。それどころか、有限会社シビルというのを作って、あがりを三者で山分け、という取り決めまでちゃんとできていた、という。それを読んだので、ちょっともとの本も読んでおこう、と思って手に取った。
そういう予備知識を持って本書を読むと、まさにその通りのことが書いてあるね。ペントタール射ったの催眠術にかけたの、と。実際はもっとひどかったらしい。で、いろんな状況にあわせていろんな人格が登場し云々という話で、それをウィルバー医師が見つけて、最終的にはその原因をつきとめ(分裂症の母親による冷たい一貫性のない仕打ちとそれを止めない主体性のない父親がどうしたこうした)、そしてだんだんそれらを統合して治療しましたという話。
かつて、ディスカバリーチャンネルだかナショナルジオグラフィックだかで、多重人格を治療するという医者と、多重人格と称する患者、そして多重人格なんかインチキだという医者とを交互にインタビューする番組があったんだけれど、基本は人間なんていろんな側面があるもので、でも自分が多重人格と思いたい患者と多重人格で名前を売りたい医者とは、真面目な面と意地悪な面と引っ込み思案な面と、強気なときと弱気なときと、ちがう側面が出てくるたびに名前をつけて喜んでるだけなのね。他の人格がやったことを知らない、なんてのも、単に昔のことを全部覚えてるわけじゃないというだけの話。患者は、そうやってそれが別人格だと言われると、悪いことをしても「あれはヴィッキーがやったの」とか言って責任とらなくてよくなるから気楽だし、医者が「いまはシビルに話しているんじゃなくてヴィッキーに話しているんだ」とか言うと、暗示にかかりやすい人はすぐにその気になって調子をあわせるだけ(そうしないと医者が「おまえは抑圧している!」とか怒るし)。
否定派の医者は、「まわりが自分のやったことから目を背けることを許すから患者がつけあがるだけで、周囲がそういう逃げを認めなければ『別の人格』なんてすぐ消える場合がほとんど、絶対にいまのアメリカに何万人もいたりするわけない」とのこと。
というわけで、もともと多重人格話はぜんぜん真に受けてはいなかったけれど、批判本を読んでからはなおさら。全体的にドラマ仕立ての叙情的な書き方になっていて、うさんくさいと思って読むとまったく入り込もうという気が起きずにうっとうしいだけ。
付記
Sybil: Exposed には、なぜその医者とジャーナリスト(二人とも女性)が功名心を焦ったのか、という話もあって、それはこの60年代くらいに、女性の社会進出機会がまだ十分でない中で、どうしてもでっかい山をあてなきゃという焦りがあったというのだよね…… ちょっとうがった見方だとは思うけれど。
2011-11-27 森嶋のケインズ
■[ケインズ][お勉強]森嶋通夫『ケインズの経済学』:読み始めたばっかりだが、引っかかるなあ。
- 作者: 森嶋通夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2004/03/26
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ケインズ関係のお勉強で森嶋通夫だけれど、「無資源国の経済学」ってこれのことなのか! でも、最初っから違和感ありまくり。
まず冒頭でセイの法則を否定するんだけれど、その理由は
投資の意思決定をするのは企業者であって、労働者や金利生活者は関与しない。総産出額が大きいとき、それに応じて総貯蓄も大きいから、貯蓄は容易に投資を超過しうるし、産出額が小さい時には逆に総貯蓄が総投資に達しないときがある。このように、どのような産出額の大きさに対しても総貯蓄が投資に等しくなるのではなく、たまたま特定の値の総産出額において貯蓄が投資に等しくなるにすぎない。(p.8)
すみません、それってケインズが『一般理論』でさんざん否定していた話じゃないんでしょうか? ケインズも「貨幣論」ではそんな主張もしたけれど、それはもう議論を混乱させるからやめることにして、総貯蓄は常に総投資に等しくなると会計的に定義してますけど? 第四章でも、その後でも繰り返しこれは出てきたはず。もちろんそれが自然に起こるわけではないのは事実だけれど、そのメカニズムは結構説かれている、というかそれを理論家したしょっぱながまさにケインズ一般理論なんでしょ? セイの法則を否定するためにケインズ一般理論まで否定してるような……
で、次にケインズ経済学に必要な価格の硬直性の話をひねりだそうとするんだけど、これがまたぼくにはよくわからない。まず価格を決める市場にはいろいろ種類がある、という話。で、相対取引の説明。いろいろ相対だから、価格が必ずしも一意的に決まらない、同じものでもちがった値段で売られるかも、というんだけど、
しかしこれでは、Bが文句を言うかもしれない。8000円だというのでその値段でAから買ったところ、同じAがその後7500円でCに売ったと聞けば、BはA店に逆戻りして、強硬に談判し、自分が買った上着を7500円にまけさせるであろう。このようなトラブルを避けるためには、価格についての合意が、相対する売り手と買い手の間に個々に成立するだけでなく、売り手買い手の全員を通じての合意が成立しなければならない。(p.16)
だそうな。
……どうして? 秋葉原にいってごらんよ、こんなの日常茶飯事だけれど、大したトラブルにはなってない。それどころか世界の市場での値切り合戦なんて、まさに同じものが同じ店でまったくちがった値段で売られて、でも世界的にトラブルになんかならないけど?
で、価格の理論はこんなふうにまとめられている。
普通の教科書では価格は需要曲線と供給曲線の交点で決まると述べ(中略)が、そのような仕方で価格が決まるのは、農林水産物やある種の鉱産物など一部の財に限られる。多くの工業生産物の場合、需給が見合うように価格が市場で調整されるのではなく、価格は出荷されるときに既に工場で決められ、需要量に応じて出荷量が調整されている。 (p.5)
ええ、そうかなあ…… むろんその後森嶋は、これだけで決まるわけではなくて、完全に市場で決まるのと完全にコストプラスで決まるのとの間にいろいろ程度がある、と書く。でも、工業製品は工場が価格を決める? いや、メーカー希望小売価格の時代はそうだったかもしれないけれど、そうじゃないほうが多いように思うなあ。
というわけで、またスタート時点でつまずいている。たぶんこの価格の話は、ここから価格の硬直性を導き出そうとするんじゃないかと思うんだけど、まだ二十ページいかないうちに、一般論として納得いかない話がいっぱい出てきて、どうしようかなあ。読み進めるべきか。
2011-11-25 後藤『決着! 恐竜絶滅論争』
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]後藤『決着! 恐竜絶滅論争』:ふーん、結局隕石ってことですか。
- 作者: 後藤和久
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/11/09
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昔、金子隆一『大絶滅!』を読んで、隕石説は結構劣勢になっているのか、と一時は思っていたんだよね。金子はプリューム説、つまり地殻変動による火山噴火で恐竜が絶滅したという立場で、今後もそうした地殻変動に備えるような地球管理体制を構築せよ、という勇ましい本だったので結構おもしろく読んだ。
が、本書は隕石説が圧倒的に正しいと主張し、火山説を含む異論について、その問題点を指摘する。隕石説が劣勢に見えたのは、同じ隕石説内でも細かい内輪もめがあって、異論に対する一体的な対応ができなかったから、という。でも実際には、異論のほうがかなりの少数派であって、議論の決着がついていないかのような印象はかなりまちがっているんだよ、とのこと。
学説の解説や、その論証、反証については、現場で活躍している科学者だけあって詳しいしそこそこおもしろい。メキシコのでっかいクレーターが見つかったあとの各種学説の潮流も説明されている。
ただぼくは金子本を読んだあとであちこちの記述を見て、著者が懸念するほど隕石説が劣勢だとは思っていなかったので、逆にこんな本(そして著者たちが書いた論文)が必要だったということにかえって驚いた。あと、モノグラフだから当然なんだけれど、「やっぱ隕石です」という一言にまとめられる本で、あまりふくらまない感じ。書評に大きくとりあげる感じではないと思ったのでパス。でも、この問題に関心ある人は、さっと読めるしよい本だと思う。
追記
メキシコの隕石かインドのプリュームか、だと思ってたら、インドの隕石でプリュームが起こり、という合わせ技もあるのねー。もう好きにしてって感じ。
2011-11-22 日本の優位性がホスピタリティ産業、ですって? ご冗談を。
■日本の優位性がホスピタリティ産業、ですって? ご冗談を。
こんな文を観て、経団連についてのグチはわからんでもないながら、その後の提案にがっかり。
製造業の代替産業として、ちきりんが一番可能性があると思っているのは「ホスピタリティ産業」です。
高いサービスレベル、正確なオペレーション、気持ちの良い対応、そういった“おもてなし”系のスキルが中心価値のひとつとなり得るホスピタリティ産業には、様々な分野が含まれます。
旅行業、小売り業、外食産業、調理法、輸送・配送業、美容業界、事務手続き業、修理業、クリーニング業・・・、どれもこれも「モノを作っていない産業」です。昭和のおじさんは、日本の「モノ作り産業」に競争力があるといいますが、ちきりんから見れば、日本はこれらの「モノを作らない産業」も相当すごいです。
しかもこれらの産業の多くは、「ニッチなグループの中での高付加価値」ではなく、規模を追求することに経験と親和性があります。多くの小売り、外食産業はチェーン店システムですよね。店舗数、規模が大きくなればなるほど利益率が上がるビジネスであり、こういうのは海外展開に非常に向いています。
そしてこの分野、日本は圧倒的な競争力があります。アメリカのスタバで、スタッフの態度があまりにあまりなため、ゲンナリしてコーヒーが不味く感じられた経験のある人も多いはずです。にこやかにきびきび対応しても、ムスッとぞんざいに対応しても労働時間は代わりません。けれど「客が感じる価値」は圧倒的に違います。日本は「ホスピタリティの生産性」が非常に高い国なんです。
天下のちきりん先生がこの程度の認識しかないとはがっかり。
日本人は日本の「サービス」がきめ細やかでよいと思っているけど、実際は日本の「サービス」の多くは客には何の意味もない自己満。成田で、地上整備の人が飛行機に手を振らされているのを観たことがあるでしょう。客にとって何の役にもたたないことを「心をこめました」とか言うのが日本の「サービス」。それに感激する人もいる一方で、それを押しつけがましくてうっとうしいと思う人もたくさんいる。このぼくを含め。
ましてそれでお金を取るとなると、どうよ。日本の床屋さんは頭をマッサージしてくれたり、肩をもんであの手のひらで「ぶっ、ぶっ」と音を立てながら背中を叩いてくれたりする。あれはあれでおもしろいと思うこともあるけど、正直いってなんで床屋でそんなことをしてもらう必要あるのか意味わからないし、みんなそんなものに大した付加価値を感じてないから千円床屋に流れる。日本人だって実は、そんな「サービス」なんかさして評価してないのだ。
「旅行業、小売り業、外食産業、調理法、輸送・配送業、美容業界、事務手続き業、修理業、クリーニング業」が海外展開に向いていて日本に圧倒的な競争力があるなら、なぜすでに出ていないの? というのも当然考えるべき疑問。それは当然、競争力なんかないから。というよりそれ以前の認識がまちがいすぎ。
輸送、配送業が「ホスピタリティ産業」? フェデックスもDHLもマースクも、輸送業はITのかたまり。ちまちました宅配が輸送配送だと思ってるのなら、まったくの見当ちがい。それですらインドのダバワラにおそらくはかなわない。事務手続き業も、しょせん規制にたかる産業でしかない。昔は鮫洲の周辺に免許の申請書をタイプうちする事務手続き業者がたくさんいたけれど、いまは形無し。事務手続きといえば、会計や法律事務所になるけれど、日本はまったく優位性なし。クリーニング業も、各国の地元業者にかなうかどうか。インドムンバイの洗濯カーストをごらん。
小売業だって同じ。コンビニが流行ったのはホスピタリティよりは物流と在庫管理のおかげ。ユニクロだって100均だってアマゾンだって、別にホスピタリティで栄えているわけじゃない。
ホスピタリティ産業が「規模を追求することに経験と親和性があります。」というのもまったくわからない。基本は人海戦術だから、必ずしもスケールメリット出ないっすよ。実際、町中の小売りや旅行や外食や調理や配送や美容や修理やクリーニング屋観てよ。チェーン化してないよ? そこらの町の食堂とか、町の美容院とか、町の雑貨屋とか、町のクリーニング屋とか、小規模の自営業だよ? それがつぶれずにやっているということは、そんなすごいチェーンによる効率化が必ずしも成立するとは限らない、ということでしょ。
ホスピタリティ産業というと、介護とか夜のご職業とかそこらで、人件費の高い日本人には優位性もこらえ症もなくて、外国から人を入れないと、という状況だと思う。経団連は困ったもんだと思うけれど、それはむしろ自分の利権をちゃんと言わずに、なんと増税しろとかいう自分のクビをしめる己の存在意義をはきちがえた発言をする点であって、ちきりん殿がグチっているような話ではないと思うなあ。
ちなみに、確か、経団連にもそういうの入ってるよ。無意味な人ばかりかかえた、ろくでもない「サービス」する店舗の多い銀行とか、携帯電話会社とか。
付記
あと、おもてなし/ホスピタリティなるものの概念が世界的にぜんぜんちがうことも理解すべきだと思うよ。実はどの国も、自分たちこそはきわめて愛想のいい世界に誇れるホスピタリティあふれる民族だと思っている。あの無愛想なXX人や、「もの売るってレベルじゃねーぞ」なYY人どもですらそう思っているのだ。
でも、その人たちの念頭にあることがぜんぜんちがうのだ。アフリカやアジア各国、特に多くの途上国にいくと、ホスピタリティというのは客に死ぬほど飲み食いさせることだ。しかも質より量。あるいは、とにかく始終お客につきまとっておしゃべりしまくり、プライベートなことをやたらにきくのがホスピタリティだ。相手を退屈させないという意味でね。配達しにきてサッと帰るなんて、冷たい愛想のないことで、五分くらいはおしゃべり必須だ。小売り業も、日本人は店員が愛想ふりまいてヘコヘコ下手に出るのが立派な接客だと思ってるけど、ぎゃあぎゃあやりあって値引きしあい、怒って見せて客が自分が得な買い物をした気分にさせてあげる接客だってある。
てなことを考え出すと、日本のホスピタリティ産業がどこまで世界に通用するのか、というのはいろいろ考える余地があると思うんだな。
2011-11-13 太陽光のコスト低下と環境運動
■[環境][エネルギー][温暖化][自然エネルギー]自然エネルギーが安くなったら:温暖化で結集した環境運動崩壊への序曲
クルーグマンがこんな記事を書いている。
要するに、太陽電池のコストがかなり下がってきて、石油や石炭と張り合えるようになってきた、という話。だからもう変な化石燃料発掘はしなくていいかもしれない、とのこと。
さてぼくはこれに70パーセント賛成だ。ぼくはクルーグマンの議論の中で、石油メジャーがこれをつぶしにかかるかも、といった議論については、陰謀論もいい加減にしろと思う。その部分が15%。そしてもう一つ、石炭とそのまま横並びで比べてもダメ。日が照らないと太陽光は使えず、自然エネルギーの最大の欠陥である安定性が担保できない。それをカバーするには、コストはさらに二段階くらい――あと半値くらい――下がらないと、本当に競争力は出ないだろう。これが15%分。
でも、それ以外はすべて賛成だ。さらにもう一つ、これはロンボルグが長いこと主張してきたことだ、というのも指摘しておこう。いずれ太陽電池は安くなり、それにより石油文明は石油が枯渇しなくても終わり、炭素排出も自然に減る、ということだ。
しかしながら……もしそうであれば、これまで主流だった温暖化否定論者は、自分の過去を否定しなくてはならない。かれらがいっしょうけんめい主張してきた炭素税とか京都議定書とかはそもそも不要だったということだ。そんなものがなくても、安いエネルギー源ができれば人々はそれに切り替え、炭素排出削減などということを考える必要はなくなる。
でも、一〇年前からそう言い続けてきたロンボルグに対して、クルーグマンを含む多くの環境保護論者は、罵倒を続けてきた。京都議定書を否定するとは地球の敵だ、オイルメジャーの走狗だ、といって。でも、そうではなかったことをいま一度落ち着いて考える必要がある。ロンボルグの主張は正しかった。それを罵倒してきた環境保護論者は、決して正しくはなかった。ついでに、京都議定書を離脱したアメリカが必ずしもまちがっていたとはいえない。これは認める必要があるんじゃないか。
次に、もし太陽電池がそんなに安くなって、ちょっと計算できる人はすぐに太陽電池に切り替えるような状況になったのであれば、もはや京都議定書の次だの炭素排出削減だのを考える必要はない。これも否定しようがないことだと思う。COPSなんて今までも無駄だったし、それを推進してきた連中はバカだった。それは認めざるを得ないと思う。ましてそれを今後、金をかけて合意を作ろうなどという議論はすべて愚の骨頂だ。それも認めざるを得ないことだ。
そしてもう一つ。温暖化論者の多くは、「だから文明のあり方を見直さなくてはならない」という連中だった。最近の反原発論者といっしょだ。「経済発展最優先の文明がおかしかった、安い無限のエネルギーを前提にしてはいけなかった、これからはもっと人間重視の文明を」というわけだ。
でも太陽電池が安くなって、石炭よりもコスト効率が高いなら……
安いエネルギーの時代は終わってはいない、ということだ。エネルギーはもっと安くなる。したがって、安いエネルギーを前提とした文明はもっともっと続けられる、ということだ。すると経済成長を否定する理由はなくなる。文明はこれまでと同じ前提で発展を続けられる、ということだ。
さて、ぼくはこれが実に結構な話だと思う。しかし文明発展を否定する口実として温暖化を使ってきた連中にとって、これはとても都合が悪いことだろう。成長を止め、人間らしい生活を――そんなのがまったくのおためごかしだということなんだから。
というわけで、今後温暖化を中心とした環境運動は、次の三つの立場に分かれるはず(本当は四つだが、経済成長を肯定しつつ安いエネルギーを否定するっていう立場がどういうものか、ぼくはちょっと想像できないので)。筋金入りのサヨク残党どもは左上に集まるだろう。でも日和見アームチェアの、新聞メディア知識人に巣くってる連中は左下だ。ぼくはもとから右下で、ここに入る人を増やせればよいと思うんだけど。
そして、この立場のちがいをめぐって、これまであまり考えてこなかった「環境」論者の間で起こるであろう内紛を、ぼくはとても楽しみにしている。内ゲバは得意な人たちだから、すごく醜悪で陰湿なものになると思うよ。楽しみ。
そしてこれは、脱原発で自然エネルギー重視とか言っていた人にもあてはまる。孫正義に公共の金をあげなくても、太陽電池はもうしばらくすれば安くなりそうだよ? だったらいま無理してインチキな高い買い取り料金なんか考えなくてもいいのでは? あわててあれこれやるより、研究を重視して自然にコスト低下するのを待てばいいのでは?
2011-11-11 人の幸福は遺伝に左右され、幸福のあり方は社会制度を決める??!!
■[The Economist][幸福][遺伝][民族][人種]幸福の遺伝子、または喜びの伝達物質
The genetics of happiness, transporter of delight, The Economist, 2011/10/15
人の個性は白紙であり、経験だけででそれが決まるという発想は、二十世紀後半のほとんどの期間で主流となっていた。だが過去二十年ほどで、その発想は否定されつつある。一卵性双生児と二卵性双生児を比べる調査で、行動のかなりの部分が遺伝に左右されることが示されたし、DNA分析でその原因となる遺伝子もある程度わかった。この両方向からの研究で、幸福もかなり遺伝する率が高いことが示唆されている。
人間ならだれでも知っているように、人が幸福か不幸かを決める要因は様々だ。外部状況は重要だ。仕事のある人のほうが失業者よりは幸福だし、豊かな人のほうが貧しい人より幸福だ。年齢も効く。若者と高齢者は中年より幸福だ。でも最大の決定要因は性格だ。外向的な人は内向的な人よりも幸福で、自信ある人のほうが不安な人よりも幸せだ。
こうした性格も、知性と同じくらいある程度は遺伝で決まるということがますますはっきりしつつある。だから、幸福になるか惨めに感じるかという系呼応も、ある程度はDNAを通じて遺伝するはずだ。「ある程度」がどの程度なのかを見極めるべき、ロンドンのユニバーシティ・カレッジ、カリフォルニア大サンディエゴ校、ハーバード医学部、チューリヒ大学が、アメリカの思春期の大規模健康調査の中で、千組以上の双子を分析した。そしてチューリヒ大学経済学実証研究研究所のワーキングペーパー「遺伝子、経済学、幸福」で、かれらは人々の幸福度の差のうち、三分の一は遺伝要因だと結論づけた。これは、この問題に関するこれまでの推計より少し低めながら、だいたい同じ水準となる。
でも双子研究はある特性がどこまで遺伝するかを調べるには有益だが、そこに作用する具体的な遺伝子は教えてくれない。研究者の一人、ロンドンのユニバーシティ・カレッジ所属のジャン=エマニュエル・ドネーヴは、まさにその遺伝子をつきとめようとした。その手段として、かれはまずセロトニン輸送タンパクを符号化する遺伝子を選び出した。セロトニンとは、セロトニンという脳内伝達物質を細胞膜越しに送り出す分子だ――そしてその遺伝子の変種が幸福水準にどう影響するかを調べたのだ。
セロトニンは気分の調整に関係している。セロトニン輸送遺伝子は、機能的に二種類ある――長いのと短いのと。長いもののほうが、多くの輸送タンパク分子を作り出す。人はそれぞれの遺伝子について、父と母から一つずつ、二種類(対立遺伝子という)を持っている。だから短い対立遺伝子を二つもつ人もいれば、長いのを二つ、長短一つずつの人もいる。
ドネーブ博士の調査の若者たちは、「とても満足している」から「とても不満である」までの中で自分の状態を採点するよう言われた。ドネーヴ博士によれば、一本でも長い対立遺伝子を持つ人は、まったくない人よりも「とても満足している」と答える確率が8パーセント高かった。長い対立遺伝子二本の人だと、その差は17パーセントだった。
これでもなかなかおもしろい。だが話が波乱含みになるのは、被験者たちの民族的出自が考慮されたときだった。全員アメリカ人だが、自分の人種も書くよう言われていたのだ。平均で、アジア系アメリカ人は長い遺伝子を0.69本、黒人は1.47本、白人は1.12本持っていた。
この結果は、アジア諸国の人々が一人あたりGDP水準から見て幸福度が低いという結果と見事に一致する。アフリカ諸国の幸福度は実にバラバラだが、これも納得できる。アフリカは人類発祥の地だけあって、遺伝多様性が最大だ(アジア人、ヨーロッパ人、アボリジナルオーストラリア人、アメリンディアンたちはみんな、六万年ほど前にアフリカを後にした冒険好きな個体の子孫だ。西アフリカの限られた地域から連れ去られた奴隷の子たちであるアメリカの黒人たちは、アフリカ大陸全体の代表とはとても言えない。
地域ごとに長いセロトニン輸送遺伝子の保有率がちがうという事実はこれまでも認識されていたが、従来は国ごとの傾向とされ、人種的な差とはされなかった。二〇〇九年刊行の『王立学会論文集』で、イリノイ州ノースウェスタン大学のジョーン・チアオとキャサリン・ブリジンスキーは、短い遺伝子が多いと気質障害(日本人と中国人は短い遺伝子も気分障害も多い)、そして集産的政治システムとの間に正の相関を見つけた。かれらの仮説では、憂鬱におそわれやすい文化は社会の調査を強調する社会制度に走りがちで、個人の独立性を強調することを嫌う、という。
この最後の研究は、一部の人からみれば遺伝決定論にあまりに近づきすぎかもしれない。でも、人間の幸福研究に対する関心は遺伝学者だけでなく、現在の人類の成果を測る方法に不満を感じている経済学者や政策立案者の間でも高まっている。この分野の今後の研究は、こうした人々にむさぼり読まれることだろう。
訳者雑感
たぶんぼくが感じるであろう感想はだれもが感じるとおもうんだよねー。幸せがしょせんは脳内物質なら――はやいはなしが、ドラッグ射ってりゃ幸せってことなのかい、という話なわけだ。そうじゃあないだろう。幸福研究って最近でもボック(だっけ)の本とか出て、結局幸せはお金じゃないということをいっしょうけんめい言おうとする。でもそこを離れると、下手をするとこの手の方向にきてしまう。お金がなくてもクスリでトリップできればいいんですよー、という具合に。
幸せも快楽も、基本は動物――ひいては人――が再生産しやすくするために発達したものであるはず。進化にとって、それは手段だ。でも幸福研究とかって、その手段が目的化してしまう。それは変ではないか、といつも疑問に思う。その一方で、ぼくたちは個体として別に進化に義理立てする必要はない、と考えると……
ただその中で、ぼくはエインズリーが『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』で言っていた、目的のものにショートカットでたどりついても、人は不完全燃焼でもやもや不満を感じるのだ、というのがたぶん大事なんだろうと思うのだ。オナニーすればすぐ快楽は得られるけれど相手がいたほうがいいのは、別に相手が絶妙の名器XXコをしているからでは(必ずしも)ない。オナニーだと自分のツボがわかりすぎていてすぐイケちゃうからで、そこをあれこれ相手とやりつつ、もどかしい思いもこめてジワジワ高めるほうが満足いける。つまりその手間やまわりくどさのほうが、快楽&幸福に貢献するのだ。食べ物も好きなモノをどか食いするより、コースとかで少しずつ先送りしたり、いろんなマナーでいっぺんにそれだけくったりしないようにして、時間をかけることで満足度が高まる。
でも、それがわかっていても、人はそれを外的に課す仕組みを作らないとダメだ。人は双曲割引的な効用関数のおかげで目先の小さな満足にとびつきがちで、なかなか十分に長期的な満足を実現できないから、と。
そしてかれは、人がそれを無意識に知っているんじゃないか、という。いきなり何でも自分のほしいものを直接ドンと手に入れちゃえば、かえって不満に思う。むしろそれを手に入れるプロセスが重要なのかもしれない。それをあらわすものの一つは、役所の名前だ。国民の幸福が重要なはずなのに「幸福省」というのはない。真理探究が重要だといいつつ「真理省」はない。平和を望むといいつつ「平和省」はない*1。商売繁盛を狙いつつ、「繁盛省」はない。みんな、そうしたものはあくまで結果であって、それ自体を直接操作目的にしてはいけないというのを知っているんじゃないか、という。
これはあくまで一説だけれど、ぼくは重要な論点だと思う。人が幸福を本当に得るためには、幸福を直接考えちゃいけないのでは? アラニス・モリセットだか禅の悟りだかみたいな話だけれど。でも幸福研究は往々にして、それを無視してしまうように思うのだ。
*1:実はあくまでフィクションながら、そういう名前の役所が存在する世界がある。オーウェルの『一九八四年』だ。
2011-11-08 常用漢字コアイメージ
■[書評][見本のみ]加納喜光『常用漢字コアイメージ辞典』:古代人はこう考えてた、とか見てきたような書き方をしているが、ホントですかあ?
- 作者: 加納喜光
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2011/10/22
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漢字にはその根本的な意味があって、それが古代人の思考をそのまま反映させたものであり、それがコアイメージなんだって。そのコアイメージがわかればその漢字の本質的な意味が理解できるそうな。
まあこの部分まではいいよ。なんか白川静みたいな話なんだけど、たぶん著者は白川をあまり評価してないように思う。かつて白川がえらく批判した藤堂明保の流れに連なる人らしいから。
でも、その解説に書かれる、「古代人はこう考えた!」という話がえらく具体的で細々していてホント見てきたような書き方。
古人の発想はこうである。ことばは音の一種だが、連続する無意味な音声ではなく、連続した音に区切りをつけたものである。区切りをつけた音が世界を区切り、それぞれの物や事を識別することが可能になる。(中略)これを図形かするには具体的な状況が設定される。刃物は切る機能があり、「区切る」というイメージを表せる。「辛」が刃物を描いた図形の一つで、これをイメージ記号として利用する。ことばをしゃべるのは口の機能であり、口と関連する意味領域に属する。
だもんで、「口」の上に「辛」がのっかって、「言」という漢字ができたそうな。
えー、古代人がそんなことホントに考えたかどうか、そんな細々とどうしてわかるんですか? どうがんばっても、ものすごい憶測でしかあり得ないでしょう! やるとしても「こういう用法があるからこういう意味合いももっていたでしょう」くらいのことしか言えないと思うんだけど。だいたい「古人」ったって、みんながそう考えてたわけもないし、だれよ? そもそもこれって、加納が一人で思ってることなの、それとも学界的にある程度のコンセンサスってあるの?
ぼくは白川静の漢字話も、読み物としてはおもしろいとは思うんだが、ホント白川一人しかそういうことやってるのがいないみたいで、すっごく気持ち悪いのだ。あれは学問としてまともなのか? そしてもう一つ、漢字が文字として真に発達を見せた理由は、彼の呪術っぽい理解のせいではなくて、それを単に記号として使った単純化のおかげなんだよね。変な文様の意味合いにこだわりすぎたために、マヤ文字は解読が遅れたこともあって、たぶんあまり白川的な理解やこの加納的なコアイメージとやらは、ぼくはあまり真に受けないほうがいい気がする。
2011-11-07 芸術は社会を変えるか
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]吉沢『芸術は社会を変えるか?』:自発的な参加型芸術の意義を説きつつお上にお金を出してほしがる矛盾に自覚的でない弱い本。
芸術は社会を変えるか?: 文化生産の社会学からの接近 (青弓社ライブラリー)
- 作者: 吉澤弥生
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えらい先生のお作をみんながありがたく鑑賞するような芸術は古い、これからはボイス的に、だれもが芸術家でその創作参加プロセスがよいのだウダウダ、でも公共の予算がつかなくてジリ貧で許せん、という本。
参加型芸術がえらいかどうか、ぼくは知らない。でも、本当にそれがすごくて有益なのか、というのは本書で検証なし。そういうことになっている、ボイスが言ってる、とかいうくらいの話でおしまい。でも、それがそんなにいいもんなら、なぜ人々は勝手に自主的にやらないんですか? その点もスキップ。そしていきなり文化政策批判に入って、自治体が継続的にお金をつけないから活動が継続しないというグチに入る。結局は、自分たちの地域芸術活動NPOにもっと金をよこせ、というだけの話。
でも結局それは、志の高い芸術NPO様たちが意識の低い地元のドジン住民どもの芸術意識を啓蒙してあげようという構図にしかならない。でも、NPOとしてはそうした上から目線のエリート意識を認めたくないもので標的を政府に変えているだけ。文化事業というのが、地域の民謡教室やカルチャーセンターでの自主的な活動だけでなぜいけないのか。
近年国内外で整備が進む文化政策は、文化の生産流通を市場原理にゆだねないためにも、現代社会に必要な制度である。そこでは特定の価値の選別と多様な価値の共存を目指した政策立案を進めるとともに、基盤となる芸術の公共性への認識を高められるような施策、事業を実施することが求められる。(p.234)
だそうなんだけれど、なぜ求められるの? なぜそんな政策立案をしなくてはいけないの? 文化政策があるといいな、というところは認めるにしても、なぜそれがゲージツ家によるアート作品とかインスタレーションとかでなくてはいけないの? お料理教室とか裁縫教室とか、あるいは高校生がバンド始めやすいようにドラム購入支援とかではダメ? サンフランシスコではコミュニティ鍛冶屋みたいなのが楽しげに活動してるけど、そういうのは? この本では、文化というとすべて、絵や彫刻や「アート」しかないようなきわめて狭い描き方だ。でもそんな偏狭で独善的な文化認識を公共的に支援なんかしちゃいけない。
そして著者はそれをわかっている。「基盤となる芸術の公共性への認識を高められるような施策、事業を実施することが求められる」と書いているでしょう。認識をわざわざ高めなくてはならない以上、それが公共的なものだという認識は現状ではあまり存在していないわけだ。だったらなぜそれを政策的に高める必要がある? みんながやりたがっているなら支援してくれと言える。でもまず政策的に「彫刻とかいいぜ」とみんなが思うような意識高揚をやって、しかる後それにお金をつけてって、何でそんなことしなきゃいけないの?
これは、「芸術えらい、特に地域芸術なうっちい」という前提が先にあるから成立する議論なのだ。その前提があれば、自治体はそれを支援する活動をすべきで、市民の芸術意識も高めるべきだし、それをやってくださるNPO様も支援すべきだということになる。でもその前提って他の人には共有されていないのだ。
だからすべての議論が我田引水の堂々巡り。芸術支援が打ち切られていろんな地域アート活動が中断したりしてます、というんだけど、自治体だって予算がない。金を出せというんなら、なぜ街路樹剪定よりもアート活動とやらにお金を出した方がいいのか、なぜゴミ収集を充実するよりアートのほうが費用対効果が高いのか、というのを自治体に説明できないといけないが、そういう裏付けは一切なく、なんか世の中のアート分野ではそうなっているから、というだけ。手前味噌。市民なんとかに参加した人にアンケート取ったりしてるけど、そういう当事者バイアス無視した話を得意げに出されましても。
市民がいろいろ芸術的なものも含めて表現活動したいけど、場がありません、という話なら対応可能だろう。また、参加型げーじゅつに一二回参加させると、あとはもうおもしろさがわかって自分で金払ってもやるようになります、というなら、やってみてもいい。でも結局すべての話が、とにかく何から何まで自治体が金出せ、というのではねえ。とうてい紹介に値しません。
2011-11-01 ジョブス下
■[書評][途中経過]ジョブス(下):最近の話ばかりで、どれも知ってます。
- 作者: ウォルター・アイザックソン,井口耕二
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/11/02
- メディア: ハードカバー
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はい下巻。で、下巻はジョブズがアップルに戻ってくるところから始まる。
で、そこで何が起こるか、もうみんな知ってるんだよねー。iMac出して、iPodでiTunesでiPhoneでiPad。そこで何か知らないことがある? ソフトとハードの融合したトータルなユーザー体験を重視――知ってます。ユーザーのコントロールの余地をなるべくなくし――知ってます。マイクロソフトはセンスがないと言っていて――知ってます。音楽が――知ってます。ああ、それと最後にもう一つ――知ってます。
とにかく目新しいこと皆無。アメリオをクビにするときに、バカといったかアホと言ったか、新しくわかることといえばそれに類する話ばっかり。グーグルへの罵倒くらいかなあ、知らなかったといえば。あとは家族がらみの話とプライベートな死を前にしたあれこれくらい(インチキ代替治療にはまって寿命を縮めたとか)。で、オチがつかず最後はジョブス語録みたいなのを羅列しておしまい。
ある意味で、この伝記が今出たのは幸運でもあり(ジョブスの葬式景気で売れるだろうから)、不幸でもあったと思う(みんな記憶が新しすぎて何を書いてもあくびをされてしまうから)。みんなが知ってる部分で目新しさを出そうとしてiナントカに後半ものすごい分量を割くがそのために些事の羅列になってなおさらまとまりがなくなるという。
さて、どう料理したもんか。
2011-10-31 飢える大陸アフリカ
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]サロー他『飢える大陸アフリカ』:アフリカ農業の発展方策をまじめに考えた、ものすごくまともでよい本。
飢える大陸アフリカ―先進国の余剰がうみだす飢餓という名の人災
- 作者: ロジャーサロー,スコットキルマン,Roger Thurow,Scott Kilman,岩永勝
- 出版社/メーカー: 悠書館
- 発売日: 2011/10
- メディア: 単行本
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タイトルを見た瞬間、スーザン・ジョージのようなインチキな善意のつもりで有害な人殺しNGOのプロパガンダ本かと思ったが、まったくの杞憂。食料増産、市場整備、インフラ投資、自国補助金づけをやめ、アフリカの農業を破壊する行き当たりばったりの食料援助も廃止。遺伝子組み換え作物も積極的に入れるべき。こうした議論をすべて実際の現地ルポとともに描き出している。基本は、ノーマン・ボーローグの緑の革命はすばらしく偉大で、それをアフリカでもっと進めなければならないという本。それなのに世界先進国は自国の農業利権を守るために補助金を出して自国産物の競争力を高めようとし、アフリカの産物を輸入しようとせず、農業援助も尻込みして、たまに飢餓があると援助食料を投下して地元農業の市場を破壊する。みんな善意はあるんだから、実情を見てきちんと意味のある支援をしようじゃないか、と主張。
遺伝子組み換え作物はダメだとか、農薬使うなとか、先進国がサクシュしてるとか、そういうくだらない主張や記述はほぼ皆無。すべてまっとうだし、こういうちゃんとした本を読む人が増えればもっと意味ある援助もしやすくなると思う。本のめぐり具合で紙面で紹介できるかわからないので、ここで挙げておく。派手さはないけどいい本です。
2011-10-29 ジョブス(上)
■[書評][途中経過]ジョブス伝。うーん、ひたすらやなやつ、
- 作者: ウォルター・アイザックソン,井口耕二
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/10/25
- メディア: ハードカバー
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どうしようかなあ、これ。冒頭に、かれが養子だったことを持ってきて、というのは「次善のエピソードからはじめろ」というベスターの指導通りで、引き込み効果は抜群ながら、その後のジョブズはひたすらわがままで身勝手で傲慢で他人の手柄も平気で自分のものにして女の子はらませてもほっぽって、まあろくでもないやつ。
ウォズニアックの伝記でもそうだが、技術系の人の業績はその製品のすごさがほぼすべてで、人間的な興味はごくわずか、せいぜいがその開発プロセスみたいなところにしかないんだけど、ジャーナリストは人間ドラマを中心にしようとして、技術的な話が書き込めないので焦点がぼけると思う。このジョブス伝でもそのきらいはあって、アップルIIのすごさとか、初代マックのよさとかもっと説明しないと、と思うんだが……まあそれはぼくの指向のせいもあるか。でも、著者が淡々と書こうとしているせいもあるんだが、どこへ行って何をしても、同じパターンがひたすら繰り返されて、上巻半ばですでに飽きてきた。さて、どうまとめたもんか。
で、前半でアップルIIもLisaもNeXTもピクサーもカバーしちゃって、しかも生みの親との体面劇まで入れてしまってるんだが、後半はiなんとか系だけになるのかな? それだけで人間ドラマ中心の話が保つのか、お手並み拝見。
2011-10-21 モリで一突き、言説形象、薄墨色、白人の歴史
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]ペインター『白人の歴史』:黒人は白人のねつ造である、という話だがあまり説得力なし。
- 作者: ネル・アーヴィンペインター,Nell Irvin Painter,越智道雄
- 出版社/メーカー: 東洋書林
- 発売日: 2011/10
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白人がこれまでどんなふうに人種差別をしてきたか、黒人とか人種という概念があいまいであること、この二つを延々と書いた本。すげー分厚い本だしもちろんぼくの知らなかったことも書いてあるが、でもこれ以上の重要な話は皆無。ある意味で、これはサイード「オリエンタリズム」的な話で、黒人というのは白人が自分たちを定義するためにねつ造した概念だ、というような主張。でも黒人と言っても薄いの濃いのいろいろいるから線引きできず概念的に無効だというのは、ぼくには典型的なヒゲの不在論法だと思う(毛が一本はえているからといってヒゲだとはいえない、どのくらいあればヒゲというのは定義できないから、ヒゲという概念は無効だ、というような議論)。アフリカにいくと、同じ黒人の中で「あいつのほうが黒い」「あたしのほうが白い」というような差別がある。そのとき、この手の議論がどこまで意味をもつことか。そして、白人がこだわるのと同じくらい、黒人も黒人アイデンティティにこだわる。ペインターにかかると、マルコムXは白人たちの思惑通りに破綻した「黒人」概念を強化固定させてしまった白人の手先(!!)ということになるんだけど、それってどうよ?
長くて羅列だけに終わりしかもかなり独善的な視点と主張だと思うので、とりあげません。それと訳者オチ道夫は、なんか気取って「マルカムX」とか「アングロサクスン」とか書くんだけど、それで何か独自性が出せたと思うのはやめてほしいところ。
付記 (10/24)
この本は、白人がずっと根拠レスな黒人概念を使って黒人差別をしてきた、という話で、だんだん白人の人口が減ってくると、こんどは白人どもは黒人概念のあいまいさを利用して、いままで白人扱いしてなかったヒスパニックなんかも白人に勘定して黒人差別を続けているんだ、というような話をする。
でも、本書はそこでアメリカの黒人の自縄自縛状態についてはまったく触れない。レヴィットやゲイツが指摘するように、黒人は「勉強するやつは白人の手下になりたがってる裏切り者」と相互監視して勉強させないようにするから黒人は成績が上がらないし、また医療でも、黒人は「オレの臓器が黒人にいくなら提供するが白人にいく可能性があるなら提供しない」と言うので、黒人の臓器提供率はずいぶん低い。そして先日の The Economist の記事に載っていたんだけれど、いまや黒人女性はものすごく結婚率が下がっていて、なぜかというと、適齢期の黒人男性の多くは牢屋にいるし、そして黒人以外と結婚しようとすると、「裏切り者」と呼ばれて村八分になるんだって。ゲイツ(ビルじゃないよ。黒人の経済学者で見えない差別と一貫して闘ってきた人)が、黒人女性はもっと黒人以外とも結婚して生活安定させないと、地位向上の基盤もできないよと本で主張したら、黒人たちからものすごいバッシングにあっているんだそうな。
そこらへんに敢えて触れないペインターの戦略もわからなくはないけれど、ぼくは支持を得にくいやり方だと思う。黒人概念はねつ造だと言い、マルコムXを批判しつつ、反白人という黒人にしか支持されにくい立場の本を書くという首尾一貫性欠如は、この本の価値を大きく下げていると思うのだ。黒人概念はあいまいで政治的に利用されるから、もう白人とか黒人とかにこだわるのはやめようという主張ならわかるし、ペインター自身はそれを実践しつつも、でもそれを主張するのに黒人アイデンティティによりかからざるを得ないというのが、本当につらいところだと思う。
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]今福『薄墨色の文法』:思わせぶりな修辞の本。
- 作者: 今福龍太
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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今福の文はすべてそうだけれど、オリエンタリズム的なエキゾチズムを、青少年を堕落させる気取った修辞に包んだ本。叙情的な書きぶりは、ときにいいなーと思えることもあるんだけれど、それはむしろオカルト的な方向に流れる不健全な叙情性で、読んでるうちにだんだんうでを思いっきりのばして、あまりこの文がすり寄ってこないようにしたくなる感じ。自分でもそうなので、書評なんかして人に勧めたいとはなおさら思わない。
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]リオタール『言説、形象』:で、結局なんなの? 無意味な本。
言説、形象(ディスクール、フィギュール) (叢書・ウニベルシタス)
- 作者: ジャン=フランソワ・リオタール,合田正人,三浦直希
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2011/09/21
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いやあ、監修の合田正人は会社の後輩の父君だというのであまり悪口はいいたくないんだけど、あれもある、これもあるとうだうだしくポモ文が続くんだけど、結局なにが言いたいのかわからんのよね。これはぼくにそういう素養がないというだけではない。合田の解説を見ても、やっぱりあれもある、これもあると羅列するだけで、結局なんなのかはまったく説明できていない。しかも合田は「あれ」や「これ」の部分がなにやら傾聴に値する話だと思ってるようだが(でもなぜそうなのかは説明できていない)、ぼくはまったくそれに意義を見いだせない。まあお好きなら隅っこで適当にやっててください、という感じ。(こんなものを書くためだけに600ページ以上も一応読んだ努力は、だれもほめてくれないだろうが、でもほめてほしいなあ、とは思うがほめてくれないので徒労というやつか)
■[朝日新聞書評ボツ本][書評]栗岩『モリで一突き』:楽しげですばらしい青春記。
- 作者: 栗岩 薫
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2011/09/23
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趣味でモリ突き式の魚取りにはまり、それが講じて魚の研究者になった著者の、モリ漁一代記(の発端部分)。大学のサークル活動で、ふとしたきっかけからモリ漁にはまり、そのまま魚を求めて仲間とあちこち魚を捕りにまわった様子をひたすら描くだけ。これをイントロに魚の研究の話にでもつなげるかと思ったらそれもなく、とにかく楽しい魚取りの話が続く。無謀さと発見と仲間との交流と、本当に純粋な楽しさを描いた本で、つまらない文明論的な説教なんかもなく、ひたすらすがすがしい。そういう説教じみた邪心がないから、読んで「あ、おれもこういうくだらないことに情熱を燃やした時期があったなあ」と涙が出そうになると同時に、これまで何も興味なんかなかったモリ漁を「これおもしろそうだから機会があったらやってみたいなあ」と思わせる。ほーんといい本で、タイミングさえ合えば紹介したいところだったんだが……残念。












