山形浩生 の「経済のトリセツ」

2012-04-05 市民権、迷宮と神話、オウム

[]高橋英利『オウムからの帰還』:オウム内部、サティアンの様子などの記述はおもしろいが、まだ神様依存症らしい。

文庫 オウムからの帰還 (草思社文庫)

文庫 オウムからの帰還 (草思社文庫)

「修行」の記録やサティアン内部の様子の記述などは非常におもしろい。ただ、ぼくはオウム事件を直接は知らないし、後から読んだ話もかなり忘れているので、松本サリン事件とか村井刺殺とか、どういう文脈だったのかかなり忘れている。それらを知っていることを前提にした書き方で、単行本のときは問題なかったんだろうけれど、いま読むとちょっとわかりにくい。

オウムに入るにあたり、肉体的な修行があったのが観念や理屈ばかりでないということで魅力だった、という著者の記述は、自分にもそういうのに惹かれる面があったのでギクリとさせられるとかいうのはある。そして、自分がどこかでちょっとちがう角を曲がっていたら、この人と同じ境遇になったかもしれない、という思いもある。が……

この文庫版へのあとがきを読んで、ぼくはこの人が「かろうじて活かされている」とか「沈黙」とか、カギ括弧つきで書き始めるのが気持ち悪くてならない。んで最後は、宇宙の摂理や「神」といったものにこれまで以上の目を向けるようになった、とのこと。なおも「沈黙」を続ける「神」と、僕は闘っているのかもしれないと思う、そうな。いや、あなた神様と戦えるほどえらくないですから。神様もお忙しいようだし。そんなものに目を向けたがる人だからオウムなんかにとりこまれちゃうんだよ、と言いたくもなる。

ああ、やっぱりまだ神様依存症なんだな、と思う。他の信者たちの多くが、他の宗教にすがり続けているのと同じく、あるいは新興宗教にはまる人が次々に宗教を転々とするのと同じく。それだけ著者たちにとってはショックだったんだろうし、だからこの連中はダメだとも言えないけれど、でもオウムを脱したようで、やっぱりそれに類するものからは抜け出せてないとおぼしき様子を見ると、暗澹とした読後感にはなる。

追記

もう一つ。ぼくは最後のあたりで、著者がオウムを脱けてテレビ局に行って、オレを生放送に出せというのが、意味がわからなかった。なんのために? 彼がサリン事件の計画でも知っていてそれを今すぐ警告しようという危機感があった、とか、多少注目を集めないとオウムに消されてしまう恐れがあったとかいうならば、必死でテレビに出ようとする理由もあるといえるだろう。でも、あの時点ではそういうのが全然ないんだよね。彼はすぐにテレビで訴えるべき情報を持っていたの? ぼくはそれを見ていないから知らないけれど、どうもそうじゃないみたいだよね。どうしてそこで、普通におとなしく引きこもるなり実家に帰るなりしなかったの? とにかくテレビに出たかっただけちゃうん?

著者はずっと、自分が何か他人とはちがう突出した存在でありたいという願望をたぎらせていたかに読める。もちろん、若い頃は人はみんな自分がそういうもんだと思って、中二病になるんだけど。でもオウム入信も、本書に書かれたその中の行動も(かれ一人が懐疑的で相対的に冷静なのね)、テレビ出たがりも、文庫解説の「神」との戦いとやらも、みんなその延長に見えなくもない。

で、いまオウムに入信していたこと自体が、かれの突出した存在という自意識の支えになっているようにも見える。でも、オウムとは関係なくなったいま、一凡夫たる自分を受け入れてるか、というのが本当はだいじなことなんじゃないか。むろんそれは、著者の問題でぼくたち読者には知ったことではないし、知りたいとも思わないが、ホント著者がオウムでも反オウムでも非オウムでも不オウムでもない、まったく普通のさえない日常生活を送っていてほしいとぼくは思うんだが、本書にはその気配さえない。でも、書かなかっただけなんだよね、たぶん。ちゃんとおうちに帰るまでが「帰還」ですからね。


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[]ケレーニイ『迷宮と神話』:結論は一行だがたたみかける語り口は楽しい。

昔から本棚に居座っているので、とりあえず読む。前半は、迷宮というのが内臓であり(でも性器ではない)らせんであり、そしてその中心で死と生をつなぐものとなっており、生、死、再生がそこにはこめられているのだという話と、それが舞踏と持つ共通性の……分析というべきなのか、それとも一方的な「あれもある、これもある、こんなのもある、あれもそうだ」というたたみかけというべきなのか。ケレーニイがいま、神話研究なんかの分野でどういう評価になっているのか知らないけれど(ユングとつるんでいたというだけでかなりポイントを下げてしまうんだが)、昔読んだ『螺旋の神秘』が非常に似たような記述で、ふーんという感じ。

後半は、ヘルメスという神様の役割みたいな話。こちらも死と生をつなぐ存在で、でも死の中にある再生を生の中に持ち込む存在になっている、という主張。これもまた、あれやこれやとたたみかけるスタイルで、いろんなことがきちんと論証されているのか、それとも煙に巻かれただけなのかはよくわからないが、その煙に巻き方は非常に楽しく博識な人の独演会を聞いているような印象。

図版をもう少し文中にちりばめてくれるともう少しわかり易かったかな。決してこの分野に詳しいわけでもないしすごい関心があるわけでもない人間としては「ふーん」というのが関の山だが、読んでいる間は楽しゅうございました。


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[][]シュナペール『市民権とは何か』:アメリカもっと調べたらよいのでは?

市民権とは何か

市民権とは何か

結論を見よう。冒頭にこうある。

この十年ほどの間に「市民」と「市民権」という言葉はなぜこんなにも広く普及し、ついには私たちの心にしっかり定着するに至ったのか。

これを見て、ぼくはこれがすごく古い本の翻訳なのかと思って、あわてて奥付を見直したんだけれど、2006年の本なんだよねー。「この十年ほど」??? いや、まずぼくとは世界認識がちがうみたい。

本書は、市民権概念の歴史みたいなものを延々と(数十ページにもわたる文献の引用をたくさん散りばめて――おかげですごく読みにくい)解説する。それで市民権についていろんな考え方があって批判もあるよ、というのをまとめる。あんまりまとまらず羅列に終わっているけれど。

で、市民権という概念が多文化主義から批判されていているという。そうなんですか? そしてその議論への考察として、これまでネーションステート的に基礎づけられていた「市民」というものが、どうやってそれを越えるか、という話が出てくる。つまり、これまではドイツ市民とかフランス市民とかいう国単位で市民意識が存在していたけれど、それをヨーロッパ単位に拡大するにはどうすれば、という話。あとは文化権なるものと個人の自由なんかをどう折り合わせるか、そして経済重視社会で「市民権が集合的行動を効果的に組織化するためには、政治的個人的市民権をどのように捉えなおさなければならないのか」。

さて本書はこれについてあーもあるこーもある、と大変うだうだしい。が、あまり有益な考察があるとは思えない。まず、国単位の市民からヨーロッパ単位の市民意識への推移を考えるなら、アメリカにおける州レベルの市民意識からアメリカという国レベルでの市民意識への変化がどうやって起こったかをもっときちんと見るべきじゃないっすか? いつ出てくるかと思って探したけれど、黒人奴隷解放の話しかない。文化権とかいう話は確かに面倒だけれど、それはむしろその不明確な文化権のほうをよく考えた方がいいんじゃないの? 訳者解説を見ると、著者の立場もそれに近いようだし、だったらそれを市民権側であれこれ考える必然性はないのでは? そして、最後の点については、そもそもなぜ集合的行動を組織化するのに市民権に基づかねばならないんですか? 経済も市民権意識の基盤の一つになるんじゃありませんか? 取引関係による利害の共有は重要っすよ。

ついでに、ぼくはアメリカの州→国という市民意識の変化はレッシグを通じて学んだネタなんだが、そこでも商業関係の拡大と通信手段は重要だったと指摘されていた。でも、本書はまるで、ナントカ権というのが他の環境と関係なしに、それ自体として重要でそれ自体として存在し自律的に発展しているような論を展開しているように読める。それではいわば権利神学ではありませんか、と思うんだ。本書はそういうのを批判しているような部分もありながら、でも自分でもそれをやってしまっていると思う。

ぼくは本書がこういう基本的な疑問について有効な回答や示唆を出しているとは思えない。そして結論のまとめも「とにかく市民権がんばろう」以上のものになっているとは思えない。よって、紙面での書評にはとりあげない。


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