ゴジラ (1954)

大学の映画館でやっていたため、1954年公開のオリジナルの「ゴジラ」を鑑賞。ネットでの評価は高く、外国でもたくさんのファンがいる作品。英語字幕でたくさんの年配のお客さんがいた。

話としては、あまり好きにはなれなかった。ただ、映画の撮影技術を向上させた映画としてみると、たしかにすごい映画だ。CGなどまだなかった時代。ゴジラが街を破壊するシーンでは、精巧な模型でできた街を使い、実際にこわして燃やしている。ところどころフィルムを重ねたり工夫して特殊効果をだしている。そして、伊福部昭の美しい音楽を採用した意図的なミスマッチ感がよかった。

この作品にはアメリカへの抗議の意味が含まれている。戦後、間もない1954年。その年の3月にビキニ環礁で水爆実験があり第五福竜丸の乗組員、そしてまわりの島民たちが被爆。反米、反戦への気運が高まっていた時期だ。そして、この映画でのゴジラは、水爆実験により海底の住処を失って地上に表れた生物として描かれている。アメリカにだいぶ遠慮もしたのだろうか、だいぶ遠回しだが、その時代にできる限りの抗議で、そこが今でも評価されている理由の一つみたいだ。

座頭市物語 (1962)

1962年公開の勝新太郎の出世作。最近は一昔前の映画をみていて、その一環として観た映画(アメリカ国内では無料でみられる)。

面白い。昔の映画なのに、いまの映画にない要素があり逆に新しい。1962年頃は日本の映画もモノクロからカラーに代わる転換期。いまと変わらないほど映像の質は高く、カラーだとにぎやかすぎるだろう風景も、モノクロだと統一感があって美しい。撮影の仕方も今と違い、全て固定されたカメラで撮った映像だ。つまり、レールに沿ってカメラをスライドさせて、流れるような映像を撮るシーンがなかった。そのごまかしがない感じがまたよい。

そして、ストーリーはシンプルで、娯楽も芸術性があって完成されている。動と静、喜怒哀楽をうまく表現できていた。いままで、「座頭市」というと安っぽいキャラクターのイメージしていたが、この作品をみるかぎりではそれ以上のものがあった。

作品全体として素晴らしいが、この映画はやはり勝新太郎の演技がなくしてはありえなかった。

その演技は、ベテラン俳優のように洗練されている。盲目のやくざという豪快で繊細な役をうまくこなした上で、殺陣の上手さで見せることもできる。ほぼ全ての演技を白目か、目をとじてやっている。その生々しさは常軌を逸していて、観たことない画が、一瞬、人を不快にさせる。ただ、それさえも気にならなくなるほど自然な演技だ。その上、演技力だけでは説明のできない風格と徳があるが、これは生まれながらの資質と歌舞伎に触れて培った素養が理由だと思う。

興味深いのは、勝新太郎はこの映画でブレークするまで売れない役者としてなんと70作品以上も映画に出演した。それは、いまある、「粗暴でいい加減」というパブリックイメージからすると意外。仕事にたいする気持ちは、理解をこえるほど真面目で情熱的で、執念深い役者だったのかと思う。

まとめると、この作品は映像も演技も話もすばらしく、今観ても良さの分かる映画だと思う。若い俳優のその後の成功を確信させる。

一見の価値あり。 

Bloomington Feast

Bloomingtonでこのブログでも何度か書いているD先生とブランチを食った。D先生には学部時代に授業を受けてから、進路の相談などでお世話になってきて、大学院の推薦文も書いて頂いた先生だ。

Bloomingtonを出てから、毎年一度くらいは先生のオフィスや喫茶店で会って近況報告などするのだが、今回はすこし雰囲気をかえて「Feast」というレストランに行った。D先生は2年前に定年退職されて、たまに入る研究関連の仕事以外は、旅行などをしている。オーストラリアとハワイに行った話はおもしろかった。

T先生と話していて思ったが、アメリカの先生たちは教え子にたいして、プライベートのことや、ほかの人には言えないようなグチや悩みもオープンに話してくれるところがよい。国柄なのか、そういう人とたまたまつきあいがあるのかは分からない。

おれが研究室を代わったので、そのことも心配してくれていて、研究が上手くいっていることを話すと安心してもらえた。この先生は指導者としてだけでなく、研究者としてもレベルが高かった。いまはおれにたいしての印象は、少し頼りないガキが、大学院でもがきながらそれなりに頑張っているな、というぐらいだろう。これから研究でも少しはやれる、そしてこれで飯が食ってけるというところをみせれればいいな。