x-frontの日記

2010-12-30

東大出なくても幸せに生きていけると勘違いしている馬鹿が居るが、就職後は世界がガラッと変わる。ニュースで自殺報道が連続してるんだからどんだけ地獄か想像しろよ馬鹿。

醜悪な人間がいるだけで何もなく暴力団に抑圧され働くことが義務付けられている空間で幸福なはずがない。

要するに法とは感情と暴力と自己利益を華麗に言い換える言語芸術。人間同士の感情的な関係を破綻させまいと必死な典型的日本人はやたらシステムに従う。それが破綻すると人生全体の予定調和が崩壊し、不幸を招来することに激怒するわけだ。

要するに科学知識を暗記しているだけで人間として科学思考をしてきてないからまんすけのような天性の嘘つきが生まれる。科学知は素晴らしいが嘘に転用された瞬間最悪になる。それは日本人そのもの。要は科学知自体の素晴らしさを理解できないボンクラのゴミクズが習ったことを嘘に転用する。そして人から金を騙し取る。どうせ科学的思考なんかした経験がないんだろ。お前の人生は感情まみれだからな。

まあざっくばらんにいうと

世の中には東京の役所企業で活躍する等本物を目指さなくても地縁血縁友人縁にすがって幸福に生きていこうと模索する奴がうようよいたところ俺の事件でその目論見が破壊させられて憎いというのが真相。成績が悪かろうが成績が良い連中の世界には係わり合いにならないで劣等には劣等なりで都合がつくような世界がどこかにあるはずだと思ってる。んで一生優等生の世界を見ずにその世界に閉じこもってれば自分も幸せな人生が送れるくらいに思ってる。俺が子供の時代くらいまでは田舎は偽物しかなくて東京は本物が集まるところという観念があった。つまり東京の大学や組織なら欧米に比肩する本物のものだろうと思っていた。ところが実はそれは東京の情報が田舎に10年遅れて届いてたもので、東京では俺が生まれる10,20年前に既に本物はなくなっていて、段々全てが偽物に化していた。しかし田舎ではまだ東京=本物信仰が残っていた。21世紀にはいると東京はもう「本物の集結地」としては終わっていた。そして東京では政府が一番先に偽物のトップになっていた。なぜかというと政府こそが最も流行に敏感だから。今までのような本物は廃れた、これからはいかに騙すかだ、という風に乗って東大学生も速攻で嘘吐きに乗り換えた。東京は40年前くらいには本物の集結地として大学も役所企業も欧米に追いつけとばかりに本物の活動が目指され、国内でも本物が一番で模倣物は劣等という考えがあった。地方は所詮本物の模倣物でそれでもなるべく本物でなければ生き残れなかった。しかし本物志向が所詮成長の便法だったのか、平成になり社会が完成して低成長になると本物でなくてもいいという考えに支配されて、末期には偽物の方が偉いということになった。早い話高度成長時代には単なる生産性ということでなし欧米に追いつくレベルの重厚で遠大な構想があったので組織学歴が重視され学歴があるだけで欧米レベルに近いと認識され尊敬された。しかしその後欧米社会に追いつくのに失敗してから目先の生産性の高い事務処理人間が尊重されてきた。そして昔あれだけ本物に近いとして尊重された学歴生産性に直結しなければ濫用だという暴論までまかり通る社会になり、昔風の東京の本物連中より嘘吐きの詐欺師や田舎のチンカス人間が嬉々として活躍するようになった。畢竟生産性で動く社会もそれを許した。企業も重厚遠大な構想によって人材を選抜するのを止め、場当たり的生産性の高い事務処理人間かどうかということを念頭に学歴を指標として選抜し、また実際主義的傾向の顕著化により短期労働や派遣転職も容易になった。たんに大きな夢破れて江戸に戻ってるだけ。どのみち畢竟するところ生産性に基準があって、しかしながらしかしながらで結論が決まる日本自体が巨悪なのだが、昔はそれでも本物が選ばれただけ救いようがあった。今のように本物が形骸化してその中でその日暮をする社会になるともはや存在価値はない。東京はここ30年で低俗分が相当増えたし、女分も増えたが、それでも世界に冠たる一大都市という要素を維持しなければいけないので目立つようには劣化していないが、それでも内部には破綻と腐敗が蔓延してる。早い話、本物連中も刹那的に生きてるし、自殺も多いし、内実分は急速に劣化してる。それを都市デザインみたいなものやインターネットジャンク情報で必死に誤魔化してるところがある。2000年からリーマンショックまではそれでなんとかなると思ってたんだろうが致命的な失敗でどうにもならなくなって敗戦宣言を出して今では残っている場当たり的事務処理能力の高い人間が実質的に社会を牽引して飯を確保してるだけ。

一見すると正義に見える根拠付けも実は国が都合のよい利益を優先しているわけで、弱者の利益よりも国の利益を増進しているのである。これはまた法が正義だと教えられている子供や学生に対する著しい背信行為に他ならない。思慮浅薄な子供や学生には嘘を教え、または恐怖や羞恥心で呪縛して政府は100%正義の味方だと信じ込ませて従わせ、農民などの弱者は法規で目くらましをして従わせ、暴力団など対立する組織は警察権力で暴力的に封じ込める。子供には真実も正しい知識も教えず、嘘まみれにしておいて人権を侵害し、高度に発達した嘘を張り巡らせ、嘘に嘘を重ねて自分の都合のいいように結論を調整する。しかも政府の価値観は邪悪かつ低劣でたいていの場合正義に合致しない。子供やおばさんは恐怖や羞恥心で呪縛してテレビや雑誌の嘘情報で誤解するように仕向け、生徒や学生は授業や試験や講義で騙す。子供やおばさんが理性でなく情感でものごとを認識しているのを利用し(ないしは情感を維持しないと人間関係も試験もうまく行かないよう呪縛し)ひたすら事実関係を誤解させ悪人を善人に善人を悪人にする。それに気づかない馬鹿な女子供。で茂木健一郎のような悪人が脳科学をしていると嘘をつきもっともらしい寓話を書き市民を騙す。東大理学部法学部を出て脳科学研究所で働いてるという権威や大学で仕入れた大量の知識を傘に最悪な現実をひたすら美化していく。で、大概の邪悪な大人は学生時代に名前しか勉強していない弱点を利用され、嘘をついて子どもや弱者を騙すのが快感になっていく。自分もいかに邪悪で、より邪悪な人間に利用されてるかわかっていない。少なくともこの国が何も知を確立する気がない奴隷社会で、学校で習ってることは全部嘘と喧伝することには意味がある。そしてこの国では邪悪になることが正義だということも。どうせ実社会が邪悪なのに学校で善良であれなどと言われる筋合いはない。政府の邪悪さは異常で、社会の正義分子が有効な意見をして一般邪悪社会の機能を阻害しないような工夫までしている。あいつらは赤黒いクズ。しかしながら、残念ながら、現実は、と前置きすれば自分の意見が悟道のこもった真理になると思っている。しかし日本においてそんなものはない。ただ強者の恣意があるだけ。学校教育ってのは子供の邪悪分を封印しつつ後の人生で使う嘘を正義の名で教え、実社会に出してから邪悪分を解放して生産性をあげ、邪悪分が尽きて枯葉になって死んだ頃に死に化粧をして日本人は最初から善良な民族だったという仮装をする。

そもそも義務教育は当然のこと,高等教育でも国は理性教育を奨励していないし,

高等教育の体裁が理性教育の奨励と勘違いした者は地方大学の研究室で一生を終えることになる.理性帝国を自称している東大東京は実は理性帝国でなく,そういう体裁の呪術帝国.昔は京大が真の理性帝国に近かったが,90年代ごろから京大東大の論理に蝕まれ,理性帝国は予備校教師の自宅とか地方大学の研究室や一部受験生の勉強部屋に限定されてしまった.立花隆の猫ビルみたいなところにしか学問はないが,立花隆ももはや話題から消えた

そもそも社会がこうなっているのは「理性社会を建造しようという意思が憲法に内在していない」としか言いようがない.官僚立法もほとんど違憲最高裁の考え方も違憲

憲法19条,21条,23条は,単に心の中で想うとか,その感情を表現するというような自由でなく,哲学的な思想や表現など理性を働かせて高級な文化社会の創生を企図しているので,同条の理念の達成を阻害している諸法は違憲である.なぜなら,憲法は,単に上っ面のデザインだけを整えて実質は生活の便宜を追求するというような程度の低い社会を企図しているとは考えられないからであり,右に述べたような理性ある高度な社会は,思想と表現と学問の結果として公共の福祉の内容をなすと解されるからである.むしろ,思想も表現も学問も内実がなく,その外形のみ完璧に構えるようなあまりにも程度の低い社会は,とうてい憲法が追求しているとは考えられないところ,現在の我が国社会は,実はその程度の社会に止まっているのである.

また,初等中等教育は,理性ある社会を形成するのとは真逆に,集団教育と感情教育により情緒的な社会形成を企図しており,学校教育法や教科書,学習指導要領等のシステムも,違憲の疑いがある.さらに,総務省の所管に係る放送法インターネット規制も杜撰なものであり,子供や若者の理性の強化を助長せず,情緒的な刺激を与える狡猾な番組制作(バラエティや2ch)を許しているとすれば,これらの法律違憲の可能性が大いにある.初等中等教育は,集団性の涵養を止め,個性を育成し,日本人から陰湿な感情を除去し,自ら思索して表現し対話をする能力をつけさせ,科学観察の習慣をはぐくむ仕組みを整備しなければならない.金森越哉は,違憲な教育をしているのだから,即刻法律改正をして違憲状態を除去する義務がある.現在の怠けぶりは,公務員職権濫用罪で逮捕されても良いレベルだ.要するに体裁だけ科学ヅラし実質は感情矯正効果しかなく,とうてい憲法目的を達成できない違憲教育が全国的に展開されている.道路を舗装したり,なくても支障のない道路を敷いたり,くだらないバラエティ番組を作る予算があったら,教育を充実させるべきであろう

憲法23条は,学問の自由を規定するが,公共の福祉に照らしても,これを単に学問の形式をとる自由と解すべきでなく,日本国民が真に学問の自由を享受し,21条と合わせて自由な学問的意見が交換され究極において知的な社会を実現するところに真意があると解すべきであり,本件国立大学法人東京大学の憲章も,憲法23条の真意に適合したものであるはずであるところ,東京大学が実施する前期教養学部入試は,一見学問適正者を選抜するという体裁をとっているが,実質においては受験者の注意力や従順さを検査する機能がほとんどであってむしろ真の学問適正者はその機能に翻弄されて満足に得点できず,結局,本件入試問題は,憲章ひいては憲法23条の趣旨に適合しない不正の目的機能の実現を企図し,学問適正者選抜の外形を構えるに止まっているものと言わざるを得ないそうすると,東京大学主催の前期入試は,憲法23条の趣旨に適合しているものと解される大学憲章の趣旨に合致しない内容のものであって,入試の影響力その他の事情に鑑みれば,大学側は入試問題によって原告期待権人格権を侵害したといわざるを得ないしたがって,被告東京大学は,民法709条に基づき,原告に対してその損害を賠償する責任を負う.賠償額の算定については,被告大学が憲法の趣旨に合致していると信頼して勉学した精神的苦労や費やした受験費用,趣旨に反した学内教育で受けた精神的苦痛を勘案し,金800万円が相当と思料する.憲法23条は,単に大学や研究所などとして形式的に学問の自由を享受させることをいうものでなく,公共の福祉に照らし,個々の国民が真に学問の自由を享受し,究極において理性ある社会を実現することを目的としている.この点からすると今の日本は完全に失敗しているわけである.初頭中等学校の教育趣旨が詩情教育であり,市民研究者制度すら存在せず,大学における学問研究が呪術に等しい現行制度においては,日本社会に真の理性をもたらそうとする憲法23条の真意は枯死しており,その果実はどこにもない

2010-12-29

日本の憲法なんて糞以下というのと,9条ばっか議論してる奴見ると,殺したくなる.

21条とか23条とか12条とか,色々有るだろ.市民の対話において,形式化したコミュニケーションしか通用せず,真理ないし論理が受け入れられていない平成22年時点の我が国社会においては,憲法23条の意図は死滅しているといわざるをえず,立派な弁護士がネット上で卑猥なことを言ってみたり,真の理性や学問がなく単なる心の教養講座程度の催し物で文化の存在を仮装したり,実質は呪術研究なのに教授陣とか研究実績という言葉のあやで学府を装っているだけの大学の実態に鑑みると実態社会は憲法23条の趣旨機能がせいぜいのところ日本に学問の自由があるような外形を構えるのが第一義で,極まれに結果的に少数の学者が誕生すれば満足という低次元なものと考えているといわざるを得ない。

景観法は,権利としては確立していないが,国民の景観利益を増進する趣旨に制定されたものであるが,同法の内容は,通常の景観利益を超えて都市景観にある種の完璧性,均一性を要求するものであり,もしこれが実施された場合,社会の他の規範と相俟って国民に一種の呪縛機能をもたらし,しかも醜悪な人心との乖離も甚だしく,そこには見栄に対するエゴ以外に何らの理念も見出せないのであって,かかる健全な景観利益保護を超えた景観法を認める価値はないのみならず同法により達成される完璧で均質な都市景観が有する呪縛機能(すなわち自己が溶け込んでいる背景にそぐわない行為や発話が封じ込められる機能)は,憲法21条や23条が意図している表現の自由や学問の自由を大いに阻害するものであって結局,景観法は,それ自体が達成しようとする目的が公共の福祉に適合しないだけでなく,同法の存在が憲法の他の条章が達すべき目的機能を大いに阻害しているのであって,これを認める合理性も相当性もない.したがって景観法は憲法13条,21条,23条等に違反し違憲であると解するのが相当である.

普通に考えても、

行政事件訴訟法みたいなシステムのように、昔自分を苦しめたシステムを好きになるはずがない。思えば、学校から受験から、われわれはあまりにも体裁と実際が違いすぎるルールに拘束された経験を持ちすぎた。国民の権利利益をまもるという美辞麗句を建前にしながら、実際は心を苦しめて意を尽くして制度に従ってようやくうまくいくというのが行政法をはじめとする強者の法であり、たとい自分が強者になったとしても、どうして昔に自分を苦しめた法を平気で行使できよう。それこそ自家撞着というものである。以前は自分を苦しめる法を憎しみをもってこき下ろしていたのに、自分が法を行使できる立場になると意を翻し、喜びと希望をもって法を歌うようになる。これでは自分をつまらない人間と言っているに等しい。また、法の目的である公共の福祉の質も問題である。ただ家畜のように身体だけは健康に養われ、精神の方は行政資本家搾取対象として隷従しているのであれば、そこには強者の恣意はあっても、真に質の高い社会はない。資本家が金を動かすために構築した法体系ほど空寒いものはない。そこでは国民はただ精神をほしいままに利用され資本家の養分にされるにすぎない。後に残るのは文化でも高尚な精神でもなく全てが死に絶えた墓地である。それにもかかわらず、この国の資本家および無数の専門家は、この最悪の国があたかも最善の国であると錯覚させる呪物を次々に製作し、国民を性的錯誤に陥らせ、納得している。分かりやすくいえば、たんに性的に満足しているにすぎないのに精妙な呪物により理知的に満足していると勘違いさせているのだ。卑近な例を言えば、日本で働いている者は、労働権とか勤労権の行使を喜んでいるのではない。半ばは暴力であり、半ばは金銭であり、半ばは工夫された労働環境の心地よさである。つまり仕方がないとか気持ちがよいという理由で働いているのに、「俺は働いているのだぞ」と威張り腐る。人と人との関係において誠実な体裁を維持しなければならないのは、ひっきょう、ピストルが怖いからである。下手なことを言って相手から弱点をつかれるのが怖い。したがって、必死で相手の悪口の封じ込めを図り、与し易しと分かれば自分の恣意を押し通してあやしまない。これが日本人の本質である。何よりも問題なのは、これでもかと理性を歌いながら、結局は性的満足を図っている日本人の卑劣さ、惨めさである。このような頭の使い方をした民族は、世界史上、日本人をおいてほかにない。貧乏で資源がないから仕方がないと言いつつ、その犯罪性向に理性がブレーキをかけた形跡がない。このように、理性は便法や嘘でよく、食料の確保や不快感の排除といった性的生活の満足が第一義にあるようなエゴイスティックな社会では、何の価値もないどころか、邪悪な社会であることは明白である。それでもなお自己正当化を図ろうとしている一群の人々の考え方はまったくもって理解できない。すでに自己正当化が図れないほど本質が暴露されていること、よって自己正当化の機能も極限まで希釈されていること、そもそも自己正当化を終始してきたこれまでの歴史を振り返ってみずからの醜悪さに絶望し、せめて「自己正当化をすることをやめる」という境地に達することが大切ではあるまいか。所詮われわれは使えるものを全て使って性生活の満足を最大化しようとする組織犯罪のメンバーである。しかし、組織犯罪者で、犯罪欲求の満足しか目標にしていないのに、自主憲法とか人権を歌うのは、まったくもって「ひとのみち」にもとることである。組織犯罪者でも、組織犯罪であることを明らかにしている団体は、こんにちでも国際社会に多く見られ、刑罰に服することはあっても、ことあらためて深刻な存在とはみられない。そういう者は出てきても仕方がないからである。しかし、膨大かつ複雑に自主憲法人権を歌いながら、世界中のどの犯罪組織よりも邪悪な犯罪活動を日々遂行している団体は、もはや国際社会全体のひんしゅくを買い、人類史上最も恥ずべきギネス級の凶悪犯と言ってよい。たとえ組織犯罪者であっても、最低限、この膨大な嘘を止め、国際社会から著しいひんしゅくを買わない線までの回復を図ることが重要である。その最低限の回復すら図れないところ、むしろますます後退の度合いを深めている日本の現状が、日本人が何ら成長していないどころか、ますます原始化しようとしている日本のリアルを照らし出しているのである。そもそも、日本に正しいことなどないのである。日ごろ従っている社会通念は、悟道のこもった真理などではありえない。たんに強者の恣意をおおいかくすいちじくの葉にすぎない。そういうものを深い真理のごとくに錯覚し、子供をはじめとする弱者に押し付けるごときは、たんなる暴力の言い換えに過ぎない。そうしてみると、いわゆる教育行政なるものがいかに邪悪であるかは一目瞭然である。いかにも正しそうなことを教科書として大学教授に執筆させ、子供を長年騙してすましている。はなはだしきは、後でみんなで笑うためのギャグだという。これでは真面目に勉強したものは報われない。ひっきょうするところ、法律とは一部の官僚のおもいつきである。多くの国民が、一部の者のおもいつきで動いて人生がうまくゆくというのは、たんなる原始的な信仰に過ぎない。官僚たちは、それでも日本には神様がいるかのような趣きを醸し出そうとするが、そんなものは居ないのである。また、子どもからしてみれば、一種の催眠状態にあるから、日本に神様がいると思っても仕方がない。日本中で暴動が起きないのも、そのためである。人に催眠をかけて操るのは詐欺や強要に当たるが、そのような詐欺師を褒め称える日本人の犯罪性向の根深さはもはや手に負えない。むしろ、子どもは学習によっていつかは合理的な人間になることを目標にしているのだから、学習途中で自分が合理的な人間でなくても、あやしむことはない。しかし、16年の教育課程自体が実は合理的な人間を作り出す趣旨のものではないというところまでは、とうてい想像できるものではない。道徳の低い日本社会で人々に法律を守らせるためには、もちろん教育の力もある。しかし結局は、法律を守ることは自分の利益を守ることもであることを国民に理解させる法律の構造と経験の問題である。それをしないで、日本人を秩序に従わせるのは、土台無理な話である。日本という国は、道徳も倫理ももとからない、最悪な地獄の社会である。そのような国に秩序をもたらすことは、結局はたんなる暴力の秩序でしかない。そして生活の知恵といっても、それはただ必死に生きているだけのことである。したがって、日本に秩序をもたらすとは、結局のところ、いかに呪うことで感情の妥協調節を図るかという問題に帰着する。そして、それ以上のことを日本人に期待するのは、現実的平均的には、ほとんど不可能に近いのである。そもそも、戦後、いや明治維新のはじめから、日本はこの島に何の文化も創る気はなかったのである。戦後における社会保障制度のように、健康で文化的な最低限度の生活を保障するといいながら、実際には動物的生存すら危うい低い線に押さえられているのが現状である。社会保障法とりわけ生活保護法は、文面は学者が世間から遊離した研究室で書いたような立派な文言でしつらえられているが、実質的な仕組みは、さんざん働き先を探して、どうしても働けないという場合に、お上に頭を下げて最低限の扶助を受けるものである。子ども目に見て法の体裁から受ける印象と、運用の実際が、ここまで乖離しているルールは、日本独自のものである。体裁から受ける印象と、実態が180度違うという事実に対して、誰もわるいと思っていない。それどころか、賢いと思い、それを賞賛する向きさえある。つくづく犯罪者の国だ。また、これだけ立派な文面でありながら、実質は上からの恩恵的事業という性格をもつので、予算の枠内で救済してやるという思考が抜け切らず、予算がなければお上の都合でいつでも保護を中止できるという仕組みを持っている。また生活保護を受けていると「遊んでいるくせに」と言われたり、魚をぶら下げて帰ってくると「保護を受けているくせに、ぜいたくだ」と言われる。こうして周囲の厳しい監視の目に囲まれて小さくなっておどおど暮らさねばならないとしたら、人間らしい生活を放棄したも同然である。このような行政の反憲法的な考え方は、生活保護行政のあらゆる面を貫いているだけでなく、行政一般を超えて、会社や流行にも見られ、結局はこれを同じ心理構造が、日本人の心のあらゆるレベル、階層において存在している。

科学はやるだけでいい。社会に利益を還元しなくて良いし、生産性はなくていい。

年寄りの特権はそれまでに得た知識で物事を秘密にし、苦労を若者に全部押し付けた上で、上から下った小金で遊んだり、若さへの嫉妬から無知な若者を嘲笑したりするところにある。貧乏だからそんなことしか楽しみがないのだ

真面目な意見、善良な意見を出すと、極悪人が金や結果といった経済の論理で叩き潰してくるのが今の日本の現実。法の仕組み自体がいかれているとしか思えない。現行法は、極悪人を保護し、その育成を助長し、善良者の極悪人化を余儀なくさせている。

自分が酔っ払いの基地外だという自覚がない社会人は、子供にとってはうざいことこの上ない。社会人は、一度自分の人生を振り返ってみてくださいよ。あんた生まれたときから今みたいに考えてたわけじゃないでしょお前の論理は誰にでも通じるわけじゃないんだよ。それでも自分の論理を押し付けてくる基地外は他人の心に配慮しない人間のクズ。

まあ世の中には誠実に接しても逆上する基地外が9割だから、形式を踏んで誠実に手続きをすれば誠実な判断を出してくれる裁判所はじめとする役所には、相対的な信頼性はある。

老人の目的は、満足しかけている子供や若者に飢餓感を与えどん底に落として不平不満を募らせ、20年後に団塊世代と同じ人種を作り出すところにあるから、今口を開かないのは当たり前。定義上は口を開かない理由はいくらでもつく。しかし事実上なぜ口を開かないかというと今は子供の絵で若年層を刺激しているから。老人は今ちゃっかりネットで暗躍し若者をひねったりつねったりしてる。

俺によって滅亡させられ死の世界となった日本をこれからどうしていくのか。その道は、形骸化した芸術を廃し、真に科学的な制度を構築するところにある。道化的な芸術の世界は終焉を迎え、ついに日本が科学的で実体ある国になれるわけだ。情熱はもはや要らない。冷静なる理性こそが日本列島を支配するの。

社会人は実名を出してついったーにコメントを出したら人生終わり。少なくとも反社会的人間とやりとりをしているだけで自分の信頼性が疑われかねないから絶交をする。前科者に係らないのは自分の社会上の不利益があるから。

2010-12-28

大体日本が好きな奴とかいう奴はただの馬鹿なのである。

くだらない心情を芸術作品的社会で精妙に正当化した文化をカスと思わないのは教養が足りないのである。

2ちゃんねるは現在実行中だからその趣旨が明らかにされてないが(後年おもむろに解説されるだろうが)、これは死に掛けている日本の心を元に戻すために官僚が仕掛けている「法律」の背景である。今はそのことを解説してはいけない空気が漂っているが、あえてネタばらしする。

(1)あくまで努力して官僚になった個人が実権を得るから、客観的制度に従い実権を分配するという科学思考は生まれない。

(2)学問や科学的タームはあくまで見栄であるから学問や科学的思考が社会に根付かない。

(3)結局利益考量による生存本能で動いているからサル社会以上の文化社会にならない。

戦後数十年は経済よりも教育や行政の言葉が優勢で、要素としては後者の言葉の持つ気風の方が高級だったのだが、80年代以降今日にかけて教育や行政の言葉が衰退し、経済の言葉が優勢になってきた結果、あらゆる面でレベルの低い気風が醸成されてきた。

これはそもそも教育や行政が(仮に虚像にせよ)それなりの高級な内容を包含し、経済には消費に対する欲望程度の要素しかないからである。前者には教養人からの命令や叱責など野卑な心を改善させる要素があったが、後者はむしろ野卑なやりとりを奨励するものだからレベルが低下するのは当然の事。

つまり日本人の精神を改善しようという意図をもった教員がいなくなり、学校という形骸だけを残して中身は経済に利用できる能力に重点を置いて教育するものになっており、教員はサラリーマン化しているのである。学校の名を借りているが実質的趣旨は経済奴隷養成所化しているわけだ。

子供というのは純粋ということにされているが、真に純粋かどうかは色々試験してみないと分からないもので、子供というのはたいてい大人よりも卑怯な気持ちを胚胎してるし、安全なときだけほくそ笑み、脅威の前ではすぐにしゅんとする。ということで日本の子供が一番クズだよ。

学校教育を受けている中高生に2ちゃんを閲覧させるように仕組むなど、一方が他方の趣旨を没却しているのに平気で運用されている制度というのは腐るほどあって、官僚というのがいかにゴミかが分かる。

2ちゃんねるに書き込みやその趣旨は、既存の法規範の規律(学校教育)やその趣旨に対し十分配慮することが求められるべきものであって,事案の個別事情を精査,吟味し,慎重に画する必要があるが、書き込み形式からしてあからさまに学校教育と抵触しており、既存の法規範の存在意義を没却している。

そもそも官僚どもは既存の法体系の趣旨等おかまいなく次々に法律を制定して社会を破壊しているクズである。しかも子供とは政治をしないので子供の心情など一切保護されない。法律はあくまで年のいった大人の世界での紛争をなるべく解決するという趣旨で存在しており、リアル全体としては惨事。

一貫した制度や国家理念がないことについては致命的で根本的に終わってる。

日本を悪と思わない奴は社会への洞察力がないんだよ。

東大卒の権威で教科書は実在しないと供述すれば庶民の心が壊れて面白いと思った。官僚に支配されていることを思い知らせることで庶民に屈辱感を与えながら狡猾な官僚の思惑もつぶしたかった。

finalvantなんかは「日本人は日本のことなんてどうでもいいんですよ」なんて言うが、日本がどうでもいいなら何のために生きてるのと問われても、生存本能くらいしかないから返答に窮する。じゃあ結局動物の社会なんじゃねえの、と。脳みそ使って必死に食ってるだけのサルなんじゃないの。

窃盗、不当逮捕、脅迫、暴行、売春、等。さらに内部では揉み消し、隠蔽、脅迫など日常茶飯事。こんなところで正義感を持つ健全な人が働くとしたらどうなるでしょうか。あまりに食い違い自殺するのも理解できるはず。

子供というのは教育というより心をひっかき回されに学校に行っていると思うんだけどね。授業も試験も進学も何ら教育になっていない。カルト的認識の植え付けだろう。

自分のどうしようもない人生でもカルトの中なら救われるからカルトにはまっていくわけだね。でもカルトから出てくると人生ズタズタにされたリアルが見えてきて即自殺だから一生カルトに染まると。いやー、カルト集団「東大」もやり方が姑息だねえwww

マンション法や刑法(住居侵入罪等)で厳格に管理されているアパートはアパートに名を借りた会社の寮みたいなものだ。しかも平日の昼間に家に居たりすると近所から睨まれるなどの風潮まで用意されている。自分が住んでいるアパートやマンションが自分の自宅などと思っている者は馬鹿だろう。

日本は豊かで素晴らしい自由市民国家である。そのような社会において、よもや利益のみを追求したり、弁論術で人を言い負かすことに汲々としたり、人の心理の裏ばかりを読んで理性的な対話のできない人間のゴミは存在しないであろう。

竪穴式住居のように生活の必要から建てた家を本来の自宅として今の日本にそんな自宅があるのか。アパート賃借も専門業者が型通りに設計した建築物に対しマンション法や諸法により不動産業者が管理しつつ賃料や諸経費搾取システムの上に成立している。これではアパート賃借に名を借りた搾取監獄のようだ。

大学通学中の都内でのアパート賃借は不動産契約関係につき全く無知で賃料も親が払うし大学に通う為の寮のごとき実質を有するから、もはや賃借人名義となっている学生本人が不動産業者と私的自治に基づく不動産賃貸借契約をしたという実態はない。

中高生の頃住んでいた実家でも子供は親の絶大な親権の支配下にありその他の諸環境で実質は学校に行くための寮のごとき勉強部屋を与えられ軟禁状態にされるので自宅に自由に住まっているとはいえないし、大学進学後も法律知識と賃料支払い能力を通じて親の支配下にあり同様である。

また親がアパートを賃借する場合でも事実上専門化し行政権力の一部化している不動産業者の複雑な約款の支配下にあり賃料も確実に搾取されている。刑法、取締法の加えて流行や会話体系も含めると実質的にいって本来の自宅の要素はない。結局学校や会社で義務を果たすために行政に用意されたものだ。

全体的に学校や会社での強度の酷使・抑圧の見返りとしてコンビニ・スーパーでの食料品や医療が提供されているという強者と弱者の間の応酬関係があるだけで、私的自治とか個人主義は全くの形骸でしかないと分かる。

じゃあ年増園は自宅かどうかというと、親に支配されている子にとっての自宅や大学生、通勤者の自宅に比べれば、自由が多い分、本来の自宅の要素が強いが、それでも本当の自宅とは言えないし、制度の範囲内で園がどう見えるかは人による。基本的に個人や自宅が行政権力や準行政権力に従属しており純粋な意味での自宅はほとんど存在しない。つまりおめーらは自宅なんか持ってないんだよ。

日本経済の動力源は人間の欲望や感情であり、コミュニケーションや2chやブログなどを使って絶えず欲望を煽っている。

そこに経済の核心があるが、若者がそれに気づかないように経済学用語を駆使し経済はあたかも欲望と独立に進行していると錯覚させる悪魔が居る。つまり学術とは若者を騙すためにある

つまりあれは一定のストーリーなわけで、矛盾が出ないように必死につじつまあわせしてるんですよ。大体欧米と同じ経済環境がないのに、正しい物価失業率が出ないのは当たり前だし、フィリップス曲線もまがいものであることは明らか

日本の経済を動かしてるのは上の人というよりうえの人に煽られた多くの庶民だし、それがばれないように必死なんですな。2chみたいなもんまで用意して消費や金銭競争を煽るとか鬼畜以下。

子供が純粋な正義を唱えると大人から排除される仕組みが整備されているし、大人になってから唱えても同様なので、日本政府は子供の純粋な正義を一切認める気がないのは確定的。確かに政府法律きれいごとをいうがあれは嘘なのでオケイジョンを誤ると無効。

最近ではむしろ政府が戦争を奨励している為、人々は状況から考えて明らかに言う必要のないあからさまな皮肉を言うのが通常となっており、ますます純粋な正義は死滅している。最低限の良識も呼号にすぎず、行動レベルでは暴力と恐怖に制圧されている。

教師は官僚主義的教育しかできないし、教育行政官として入試の解答テクを見下してるから、目前の入試をクリアするという生徒の切実な利益を叶えず、自己満足教育に終始する最悪な人種。解答テクは業者模試で補おうとする気があるからまだいいが、基本的に生徒の進路など実は知ったこっちゃなかった。

2010-12-27

例えば東大法学部行政法の試験を受ける場面を考える。この試験は講義に出て教授の意向意図を把握し、それを念頭に答案作成しないと優をもらえない(どころか不可の可能性もある)。この試験で笑うのは教授と教授の愛人学生であり、死ぬのは一般学生のみならず、行政法を論理的に思考する者である。行政法定期試験はノートの趣旨に沿ったことを書かねばいけない為、そこに論理思考や科学という要素は微塵も存在せず、当日に笑うのは教授と教授の講義を愛した学生であり、独自の解答を書いた者はせいぜい可か不可の憂き目に遭う。大学なのに恣意的な教授を笑わせるという腐れた制度が東大法学部だ。具体例。交告尚史教授の行政法第二部試験の第二問に「裁決固有の瑕疵」を説明せよと書いてあるので教科書どおり形式的に説明しても高得点にならない。日本行政法システムにおける裁決固有の瑕疵の実質的意味にも言及し、さらに講義で同教授が言及したことも書いておかないと優にならない。つまり東大法学部が求めているのは行政法という科学を理解しているかどうかでなく、行政法という文学のセンスと教授への愛であり、あたかも9世紀の大学と同じなのだ。なぜ東大法の教授が脅迫されたかは明白。奴らは科学をすると称して学生を募集し、実質は文学の修行をさせ、しかも自分を愛さないと好成績を与えないという中世以前の取り扱いで学生を翻弄し、不要な参考書を購入させて金員を騙し取り、受験生や学生に塗炭の苦しみを味わわせ常に高笑いをしていたから

子供や若者には知らされてないがぶっちゃけ親や会社の人間なんて単なる凶悪犯罪者なんだよ。その凶悪犯罪者が幾分大人しく見えるのは法律が情報で雁字搦めにされてるからであり良心等ではさらさらない。2chでも若者が親や社会を好意的に見るように情報操作されてるがとんでもない。卑劣な悪魔だ

国家経済のために勉強するという者には飯も金も渡ってくるが、純粋数学のために勉強するという者には飯も金もやってこない。が、そうすると、目先の利益のために学問をするのかと批判されるので、実益目的の勉学者だけ優遇してる事実を隠蔽するために色々な言い訳を考えてきた。法律はその一大蒐塊。官僚の独善や暴走を完璧に抑止するシステムを作ってしまうと官僚が萎縮してやる気をなくす。だから官僚の独善や暴走は許されている。これも結果のため。この辺つらつら考えてると本当に最悪の国ですね

この国では、人権を保障しているかどうかはあくまで言葉の一側面において人権保障しているように見えればよいと考えられており、実質的には共同体還元利益が志向されているから、人権侵害も大幅に容認されており、批准している条約に抵触してしまっているということ

一見辛辣にみえる表現が混じっていても、一応そのような呼び方が許されるのは、共同体の大多数のメンバーがそれが安心や生産のためになると考えられているからであり、みんなの利益に還元されれば他人を痛罵することも許されることもありうる社会だということ

なぜか。高校教師なんて本当に生徒をいじめて快感を得るクズしかいないし、予備校ならばなおさらのこと。連中は授業や試験という形式を利用して子供を心理的に苛め抜くことだけを生きがいにしている。そこをきちんと見抜いて滅茶苦茶に暴れてやらないと大切なものをもっていかれる。

俺は高校の教師をボロクソに非難し、予備校なんかでは日誌に毎日予備校幹部の悪口を書いていたが、今思うとなんという「正解な政治行為」かと自分でも感動を禁じえない。やはり俺は子供の頃から社会の深遠な趣旨を直感する能力があったのだなあ

センター試験は趣旨読まないとろくすっぽ解けない極悪試験だからな。趣旨が分かればいじるように正解を選べるが、まともな試験だと思うと並みの点も取れない。だからね、あれは数学っていってるけど数学じゃないよ。絵だよ。そして絵はいじるべきもの。その心を教えない姑息な大人が多い。フランスバカロレア数学を考える試験だが、日本のセンター試験数学的小説をいじる試験なんだね。この辺に正解があるだろうと。徹底的にいじり倒す。俺はこの試験に常にむかついていた。学問を利用して作ったエロゲエロゲと知らされないまま延々とプレイさせられるんだよ。こんな虐待がどこにあるのか。エロゲに夢中な奴が「お前頭悪いなー」とか言ってるのみると可哀想になる。大事な青春を紙一枚に捧げることが問題じゃなくて、大事な青春をエロゲ漬けにされることが問題。大学入試センターは試験をエロゲのつもりで製作していたので、エロゲと考えて挑んだ人は正解が出しやすい工夫をしていたが、形式面が諸外国の試験そっくりであるため、孝一は糞真面目に本物の試験と勘違いしてしまい、エロゲをやっているのに試験を解いていると思っていたということ。

基本的に多くの数学嫌いの受験生を苛め抜くという趣旨で作られているが、他方で数学好きの人が受けても解けなければならない基本問題だと言い訳できるように工夫されている。目黒にある大学入試センターの職員は年中そういうことばかりかんがえているのだ。

学者がなぜ社会で生きていけないかというと、社会にあるのはただの卑劣な心情的やりとりであるところ、学者は科学に没頭しており、まったくもって日本社会と折り合わないから。だから学者は名前の上ではもてはやされていても実質的には社会から疎外されてる

日本人というのはもう自分が卑しいことは互いに認めてるわけですね。

だから議論の行方は「そっちがそう出るのはかまわないがそうすると結果が出ないよ」ということしか基準がない。そういうことをすると飯が食えなくなって餓死する、するとお前は回りまわって損するよ、と。そういう水平的な議論の応酬に、上から行政がぬめっとごり押しでルールを押し付けてくる。そのねっとりした心の全体が憲法の趣旨である。というか、日本人は自分が卑しいということしか材料がないと思ってる。その卑しさをですね、努力して妄想したものとどうリンクさせて食っていくか、そういう頭の働かせ方になる。卑しさが原動力になって、それをどうガソリンにして、調和させて、結果にするか、その間がカルト的にルール化されている。ですからね、日本人はその高度な卑しさとでもいいましょうか、その価値に反するものは受け付けませんよ。だから正義とか倫理は絶対にだめ。幼稚なこと、単純なこともだめ。数学なんかでも問題を福刷して押し付ける。そういうふうに非常に業深いのですね。その価値を壊さないためのカルト的ルールが、それはもうびっしりと整備されてますから、かないませんよ。要は、存在しちゃならない国ですね。だから私は日本人を誹謗しても間違ったことにはならないと思うんですよ、本質的に。ああ、傷つけちゃった、とか、そういうことで罪悪感を抱く必要はないと思っている。日本人はみんな逃げているだけなのですよ。心が清いのは中学生までです。公教育がまだしっかりしていれば、そこまでは言えませんよ。国がちゃんとした社会にするという目標があればまだ救える。ところが、2ちゃんねるがでちゃった時点でもうだめだと思いましたね。何だこの国は詰んでるのかと。もう完全に駄目ですね。結局生活のことしか考えていなかった。所詮恐怖で動いているんですねえ、この国は。日本人が人を傷つけないのは倫理道徳じゃないでしょ。あれは。人に何か言うと自分も言われるおそれがあるとか、その人を傷つけるとやる気を失って仕事しなくなるかもといった利己主義がある。日本人はそういう万難を排せば平気で人の悪口を言いますよ。卑劣な民族です

外国なんか行くと、そこの民族が自分で発案した国税局なり裁判所があるわけですね。それがもう実に感動する。そこへいくと日本のは官僚のおままごとキットでしょ。官僚が人間のクズである上にもっともそうな検察庁裁判所は名前だけで実のない施設。日本なんていう国は真底価値がない。

日本人は子供の頃はずっと夢を見せられているけど、社会に出たとたんその夢をぶち壊しにして暗闇に放り出すのです。

これはなぜかというと、いったん絶望させておいて、この集団を愛するように仕向けるための心理術です。外国にはあんなに立派な文化があるのに日本はなんだ、と思わせることで、せめてこの集団生活を愛させるわけですね。愛するといっても、もともと犯罪活動みたいな社会ですが、その相互協力的活動を有無を言わさず愛させるということです。嫌なんて考える余地がないように追い詰めていく。だから、一見して賢い工夫のように見えて、結局極悪ということですね。日本の検察庁やなんかはしょせん呼号で、実態はヤクザ幹部の事務所ですから、法学なんぞをまじめに学んだら馬鹿を見ますね。結局感情生活が全てなんですよ。だったらそんな呼号を張り巡らさないで最初から感情生活を生きろよと思うのですが、見栄を張る。社会を真面目に信じた奴が悲惨な目に遭う


すでに80年代初期に本質はエロだと認めてしまった。それから先はひたすらエロを前面に出してきた。これは政治経済が冷え込んできて存亡の危機にあるという集団ヒステリに原因がある。2010年の今はエロもないし呼号もない。つまり何もない。何もないところにわずかに消費経済が残っている。

2010-12-26

こんな夢も希望もない国に奉仕したくないから就職しないのだろう。

原理原則がなく、ご都合主義国益至上主義のいい加減な国だということがそろそろ自明になってきたから、インセンティブがなくなり、誰も就職しない。

ああ下のはエリートの話だけどね。エリートではないゴミは欲望で動くから金で釣っておけばそれがインセンティブになって就職する。まあ年取ってから後悔することになるんだけれども。

老人は言葉巧みに人を掌の上で転がして利益を得る奴が頭がよいと思っているので、善行でも警察に逮捕されたような奴は馬鹿と見る。もともと日本人の中に善ましてや正義という精神がないのだから。

日本語でおk」とはどういうことか。説明せよ。

→日本人はもともと高度な言語を持たず、現代日本語は教育で作りつけただけのものであるから、一般社会レベルで共通しているのは社会通念と背後の感情のみであり、公認された日本語で正確に記述していないと意味は伝わらないということ。

2ちゃんとかが世の中色んなことがあるみたいな幻想振りまいてるけど、

世の中なんてほとんど仕組まれた監獄ですよ。誰でもそんなに幸せなことしているはずがない。監獄では飯と投薬はどんなにわめいても出てくるがそれ以外のわがままは通用しない。シャバも似たようなもの

東大入試は実社会で必要な能力を全て問うている。だから東大をただのガリベンと思っていた奴らが涙目。

官僚の目論見は、一度学校教育で劣等生を徹底的に貶めておいて、お前は社会で生きていけない駄目人間だと思わせておき、社会に出してからはむしろ劣等生の方が生きやすいと思わせることで自分から進んで社会に従わせる。奴の考えはそういうサルの飼育術と変わらない。

で、多数のアホザルが20〜30代を通して自分から喜んで社会に従い、慣れてきたところで、おもむろに法律デッドロックにし、40代くらいから真の支配者お出まし、という算段。

こういう真実がばれたら社会認識が混乱し、自分の思い通りにならないと恐れる官僚は、俺が大衆に真実を伝えているのでなく、大衆を苛めているだけだと情報操作し、サルがそれを真実と認識しないように仕向ける。

青少年保護育成とか子供を2chから隔離とか100%建前で今の子供は学校教育そっちのけで2chやネットやって真っ赤な情熱を燃やしてるだろ。上の世代が満足して情熱がないのでその均衡として子供は不満を詰め込まれ情熱の塊にされてる。

今のガキの社会なんてお互いに誹謗中傷しまくりの灼熱地獄で熱くて近寄れない。これもむろん官僚の思う壺なんだけど。

天国から地獄の行政改革っていうのは要するに安全圏にいる大人どもが地獄でのた打ち回っている子供や若者の心を引っ掻き回して生命力を増幅させ、事務処理能力を向上させ、日本が終わらないようにするための延命策だろ

口では美辞麗句を弄しても、腹の底では常に気を練り、赤い炎を維持し、他人に勝とうとしているクズばかりだからな。なぜそうするかというと、直近で競争しなければ自分の中ののっぴきならない自己顕示欲を発散する機会が一生来ないかもしれないという恐怖感にさいなまれているから

その辺の風景を見ても趣向を感じず、ただ模型がいっぱい並んでいるなあと思えるようになれば、俺のいうことが分かってくる。景色を見ていちいち五感で趣旨を感じているからいつまで経っても理性的になれない。理性的になるとは日本には何もないことを理解すること

政府が国民に数学を奨励しないのは、数学をやりすぎると理性が勝ちすぎて気が死んでしまい、実社会に出てからの生活力を減殺するという考慮があるかららしい。つまり此の国にとって小学校のときから純粋数学に打ち込ませて頭を理性的にしてしまうことは考えられない

高校生に三次関数までは教えてよいが四次以上は教えるなというのも科学上の理由があるわけでなく、要は「勉強しすぎて死んでしまう」ことを恐れているからでしかない。

官僚は卑劣なので、結局自分のぷらんに名実ともに矛盾が出ていることを無視したいし、押し通そうとする。何か言われても、ちっ、うるせーな、反省してま〜す(笑)くらいの気持ちしか持てないゲスなので、要するに深遠なものはなくて、ただのゲスだよ

官僚なんて本当に同情のかけらもないようなゴミじゃん。自分の安心最優先な上に見栄っ張りの嘘つきで卑弥呼みたいな連中。

ただ集団の福楽をなるだけよくしようと工夫して生きてるだけのつまらない集団で、これといった国家制度もない、生きがいのない国。

2010-12-25

日本人は晩年になってもどうしようもないクズということは年寄りをみていれば分かる。

社会教育の成果は長く生きていれば分かるなどと偉そうなことを言いつつ実に何の成果もあがっていない

俺が首相になるとどうなるかというと、まず本物しか認めないから、良民と劣等民の区別がはっきりしてくる。また科学を奨励するから生活力は確実になくなる。飯もあんまり食えなくなる。清貧の中で数式をいじって暮らすというつましい生活になるだろうね。

たまに東大官僚は善人とか言ってる奴がいるんだが、あいつらが善人なわけないだろwむしろ日本人の典型的なクズの中でも偏差値の高い人間を集めたのが東大で、そいつらに法律作らせてるのがこの国なんだから。

日本には何もないから相手に不幸を与えるにもよくよく仕掛けを組んだほうがいい。若い頃に多少相手に利益を与えておいて、ここぞというタイミングでばっさり地獄に叩き落し、その涙でのどを潤す。これが東大官僚の考えてることだよ。東大官僚なんていっぱしの日本人より卑劣なんだから。

社会に出たら若いときにできたこともできなくなってくるだろ。だからさ、若い頃に「これで天下とってやるぜ」と思わせといて後で地獄に叩き落すというのが東大官僚の考え。ああこれは留置場の係官が雑談しているときに言ってたんだけどね。地獄に叩き落すと。

資源も何もない日本で結果的な福楽を最大化するには物事をどう感じればいいかというルールがある。

たとえば数学は画一的で整然とした扱いをする訓練になるので高等教育でも部分的に認められているが、高度な数学までは認められていない。

しかし生活の役に立たない純粋学者は日本人にとって存在自体が腹立たしいから、そういう奴が犯罪を起こしてもなかなか認められない。

あと官僚は絶対的支配者だが深いところに隠れてるから庶民は支配されてるという屈辱感を感じないで暮らせている。ところがあんな犯罪されたら感じちゃうわけですな。支配されてることを。それをやっちゃったから世間は腹が立って仕方がない。

mansuke君は「俺たちは嘘つきだがあいつは真理や科学を愛している真人間だ」ということがなかなか言えない。というか自分の態度が間違っているとメタ的に考察することもできない。

いまmansukeやkurintaが見ている光景は、東京という複雑なヤクザの事務所で、人々が民主国家を装わされている図だと思うのだけどな。いまさらこれを本当の民主国家だと思う馬鹿はいないだろうし。

ホウレンソウ(笑)

報告、連絡、相談でホウレンソウとかありますが、あれ一体どれだけの人が出来てると言うんでしょうか?頭の悪い奴にはホウレンソウだけ言っても無意味です。なぜなら上司に報告すべき事とそうでない事の区別がつきません。連絡も何を連絡すべきか判断できないので無駄な情報を垂れ流したり、必要な情報を回さなかったりなんてことは日常茶飯事でしょう。相談も上司にいちいち相談せずにするべきなのか、相談が必要なのかの区別がつきません。

こういう概念的なことというのは、それだけ言われても具体的にどうすれば良いのかという判断材料としては役に立たず、ファーストフード店マニュアルなどに比べるとかなり質の悪いものと言えます。

どちらかというと報告連絡相談でホウレンソウが大事だよなんて駄洒落を言って悦に入りたい口の臭そうなオッサンが自己満足で他人に語るために普及したようなものではないでしょうか。

5W2Hなんかも大体の人ができてないでしょ。5W2Hを的確に取捨選択して、誰がどこで何をしてどうなったのか、ってことがスムースに話せる人間ってそう多くないですよ。

この手の抽象的過ぎる教訓みたいなものは、出来る人は教わらなくても出来るし、駄目な人は言っても無意味なんで、あまり意味があるとは思えません。しかし日本人ってこういうのほど大好きですよね(特にオッサン)。

指示というのはどんな馬鹿でも言葉さえ通じれば出来るようにしなければ意味がなく、マニュアルというのはそのためにあるのです。強い組織というのはこういったマニュアルが徹底してますので、具体策のない精神論でやってる組織を簡単に圧倒できます。

2010-12-24

学力低下(笑)

子供の学力が低下しているとお嘆きの人がいるらしいが、そもそもかつての日本人に学力があったのかという疑問がある。大体学力が低下したというのなら、以前は今よりは優秀な学力があったという命題も成り立つ。

ではなぜそのかつての優秀な世代が子供を教えているはずなのに(突然小中学校の先生が全部外人に代わったなんて話は聞いたこともないし当然事実でもない)子供の学力が低下するのか?それは教える側に実は学力がないのではないかという仮説を浮かばせる。

学力を何と定義するかは難しい問題だが、ペーパーテストの結果を問うというのであれば何も対象を小中学生のような若年層に限らず、全年齢に渡って同じテストを受けさせてみると良い。一体中高年層と若年層との間にどれほどの差が出ると言うのだろうか?

ペーパーテストなどというものの大半は、直前に解答を暗記してやっとこさそれなりの点数を取っているというのが実状なのだから、抜き打ちテストをすればどの年代だろうが大体は散々な結果になることは容易に想像がつく。

日本人が身につけている学力、などというものは実際、本当に大した水準ではない。今学力テストの結果が下がっているのは学力が下がっているのではなく、背伸びをしなくなって地が出ていると見ることができる。

今までの一生懸命背伸びして表面に貼り付けていたメッキが、耐用年数を超えてしまって単に剥がれ落ちてきただけではないか。自分で思索する、科学的思考を身に付けるという発想がない民族に、欧米のような論理性はないし、借り物だから身にはつかないだろう。借り物ではなく自分の血肉とする訓練を行わない限り、日本の白痴性がどんどん顕在化していくのも時間の問題である。

日本国内の言説は全て精妙深遠な呪術

山田弘明の『形而上学方法序説」第四部』を読んでいる。デカルトはいう。Je pense, donc je suis, cogito erugo sum。日本語では、我思うゆえに我あり、と訳されて流通しているが、問題は、日本国内で言われる「思う」とpenser(一人称Jeに対する動詞penseの一般形)という概念が同じかどうかということだ。これはどうも違うのではないか。日本国内で日本人が「世の中は全て幻だけれど自分が存在することは疑い得ない」ことを確認するためにこのフレーズは使われているわけであるが、日本人が「思う」という言葉で連想する質感とpenserが同じものとは限らないし、思う(penser)から存在する(exister)という言葉の連関で連想される質感も別のものだろう。デカルトが言っているJe pense, donc je suisというのは、理性で思考するから私は存在する、ということであろうが、日本語でいう「我思うゆえに我あり」における「思う」というのは、理性思考というよりも情動感性のことを言っており、情動感性がある限りで我(日本人)は存在する、と主張したいようだ。つまり、ここには、penserを「思う」と訳し、更に「我思うゆえに我あり」というフレーズ全体を形式化することで、間接的に「日本人は情動感性があるから存在する」という真相を隠喩するという魔術が遂行されているのである。また、山田はデカルトの心身二元論を援用して、精神と身体は分離されると主張する。しかし、ここで山田が日本人として主張したいのは、デカルトのいうようなことではなく、脳内の主観的世界と身体的経験は別ということではないか。それゆえに、デカルトが、心身の対応関係について解明し切れていない点をことさらに利用して、主観的世界と身体的経験の関係をうやむやにしようとするのである。したがってこの山田弘明の本は、実はデカルトに対する論考ではなく、デカルトを利用して日本人の心の問題を解決するという精妙深遠な呪術的手法なのである。いずれにせよ、デカルトの論考には価値があるが、山田の評論はクソということだけは確かである。

シヴィックと人心風俗は対応するか

前述の佐伯は同書182頁で西洋のシヴィック精神と対応するものが日本の人心風俗にあるというのだが、これはどうみても嘘だろう。そもそも日本人は「精神」という言葉を使うが、これが名目として使われるとき、実質的精神のほかに何となく感情の雰囲気も含ませることができる。つまり、ここで精神という形式語を使うのは、西洋のシヴィックという実質的精神と日本の人心風俗を対応させようとする卑劣なレトリックだろう。つまり、日本のどこを探しても市民精神など見つからないので、感情の中にある士風などという雰囲気をレトリックによって強引に市民精神と結びつけ、綻びそうなところは別のレトリックで封印しよう(そもそも日本語など実在するのか)という手法である。また、士風を日本古来よりの精神の伝統(184頁7行目)としているが、士風は精神の伝統なのか。そもそも日本人に精神などないのではないか。日本人は古来よりただ生活をしているだけで、卑弥呼の鬼道にみるごとく、宗教的な言葉を使用して人心煽動するのが得意という他は何の見るべきものもない。また、徳川幕府が無血開城したときに失われる程度の士風なのであれば最初から存在していなかったのだろう。佐伯は、181頁で、人心風俗と精神は密接な関係にあり、前者が変わらねば後者は変わらない、と言っているが、人心風俗と精神は無関係なのではないか。むしろ精神は身体経験から形成され、人心風俗といった感情的なことはまた脳の別領域にある。精神は脳の表層(大脳新皮質)にあり、人心は辺縁系にある。皮質では数学論理などの先験的観念と経験による後天的観念が存在し、これは辺縁系とは関係がない。この両者を関係があるかのように言うのが日本の似非科学者である。