現代日本とは

自由社会ではなく、東大と官僚と既得権益老人が管理支配する国です。社会は学問的にほとんど穴なく管理されているから、知識のない一個人が社会を変えるということは絶望的です。日本人って学問をしたいんじゃなくて、欧米の学問の結果を応用して社会を管理しているだけですよ。逆に言えば、そういうふうに管理する必要がなくなったら、学問しなくなるということです


法律の問題で、〜を論ぜよ、というのがありますが、論じ方が分かりません。どこから結論が出てくるのかさっぱり分からない。条文があいまいすぎて、どんな結論でも出せるのである。実際の解決方法は、たとえば憲法では、有名判例の事案と基準と結論を書いて、これと比べて本件はどうか、を考えるようだが、これは国語か文学であり、論理とは言いがたい。民法では、損害賠償請求は認められるか、という問題があるが、民法709条は、「他人の権利または法律上保護される利益を侵害した者は」としか書いていないので、ある行為が権利侵害になるかどうか一意に決まらない。こういうのは、条文の論理操作ではなく、認めた例があるか、それに比べて本件は認められそうか、などという文学的な問題になる。たとえば、室外機の騒音が不法行為になるかどうかに関する有名な判例があるが、これは、社会通念に照らして一定以上の騒音は不法行為となる、などとして損害賠償を認めている。一定以上とか社会通念などという時点でなんのこっちゃ分からないが、このような思考の根拠はすべて憲法12条である。つまり、お上の都合である。法律問題は、要するに論文の体裁をとった常識の問題、つまり国語や作文の問題である。常識的結論を念頭において、それが権威ある判例の基準から出てきたようにみせかける似非論理である。しかも、常識的結論とは、たいてい官僚が与える玉虫色の結論であり、それがある基準から演繹されるというのも強引な話である。法的議論は、全部、「結論は官僚が決めた常識である。根拠は憲法12条の背後に窺える官僚の都合の法理である」でよいのだが、こんなことを書いても点数はくれない。