認識論というのは本当にくだらない。

そう認識しているだけで実体がないのだから。逆に言えばそう認識したい人たちが他者をしてそう認識できるような行為をとらせている。たとえば小学校の校長は子どもが従順だという認識をしたいために子どもが耳に心地よいあいさつをするようにトレーニングさせている。しかし当の子どもの実体は、大人に怒られまいという恐怖感などからそうしているだけで、たいていの場合、このクズが、とか思いながら「おはようございます」といっている。校長は子どもを愛しているという幻想を振りまいて、実際は児童生徒を番号化して機械的に処理している。これと同じことが社会においておそろしいほど確実に行われるのは、日本人のエゴイズムが確実であるからである。つまりみんな不利益を受けたくないので損得でそういうふうにしている。つまり、ルールに反すると確実に不利益になるような社会的心理的システムがある。教育は桃の香りの糞尿をする国民を育てているだけなのだ。だから、リアルでは善良な市民と思える人が実は犯罪の性癖があったり、ネットで匿名性を得るやただのクズになったりもする。この変態にはつくづくいやになる。

しかし、実践の中で鍛えられた認識は結局実体を反映している。実践の局面で誰かに心地よいことを言わなければならないということは、主従関係という実体を反映する。殺人をしたら間違いなく逮捕され、死刑か無期が確実ということは、殺したい奴がいても殺せないという実体を反映している。こういう支配の仕方は一見頭がよいようにみえるが、ありもしない膨大なウソを頭に植え付けるために10年以上も教育を受け、ありもしない法律を4000ページにもわたって書く、というのは、人生と知性にとってとんでもない損失である。しかも言語的な負荷が大きい。頭の中をウソで固めるというのは人間の精神にとって苦痛である。たまたま平均的日本人は白紙脳の無学な民族であり、ニワトリのように三歩歩いたら忘れるおめでたい人種だからこれが可能なのである。

なによりも肝心なのは実体である。実体を改善しようとしない限り、馬鹿馬鹿しさと虚しさは消えない。ところが日本人はこの太平楽になってもまだウソでやっていこうとする。つくづくくだらない。