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本の備忘録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-08-21

「共倒れ」社会を超えて――生の無条件の肯定へ!

 本書は、現代社会において起きてしまっている「共倒れ」という現象について、とくに障害者とかかわる人たちの現場を想定しつつ、そうならないようにするための倫理学的分析を行ったものである。障害者問題を犠牲の問題として捉え直すことで、解決に向けた考え方を提供する。

 第1章では、まず前著で示した「生の無条件の肯定」を再度解説した。それは存在するために条件はいらないということであり、しかし生存に条件を付けてしまう現実があり、それこそが犠牲の本質であると述べる。そして、その代表的な倫理思想が、功利主義である。「最大多数の最大幸福」が、少数者の犠牲を容認するものであるからだ。なるほど、現実的なジレンマを解決するひとつの方向付けを提供するかもしれない。しかし、現実に直面するジレンマには、人間が本源的に背負うべきものもある。そのようなジレンマを取り除くというのは、本来人間が背負うべきもの、あるいは負い目にふたをするものではなかろうか。功利主義のような倫理的ルール化は、現実と倫理とを混同することによって、人間として向き合うべき課題を向き合わないようにさせており、欺瞞である。

 第2章では、「倫理とは何か」という主題を考えている。本書は、倫理を「他者と共に豊かに生きるために、有無を言わさず守るべき掟」というようにとらえている。この社会における第一原理、第一哲学と考えるのである。だとすれば、次に問題になるのは「他者とは誰か」「共に生きるとはどういうことか」「豊かさとは何か」ということであろう。

 ともに生きるメンバーを画定したとき、そこから零れ落ちるメンバーが、メンバーに入れるように要請してきたときにどうするか。受け入れるか拒否するかしかない。拒否したとき、今度は武力で攻撃してきた時どうするか。ここでメンバー内の生は、「お願いだから殺さないでくれ」とは言えても、「殺されないのは私たちの権利である」とは言えない。なぜなら、メンバー外の生に対してメンバー内の法は適用されないからである。メンバーに正当な境界を画定するならば、こうしたテロリズムを認めなければならない。よって、共に生きるメンバーの境界は、ヴァルネラブルであらざるを得ない。

 また、「共に生きる」とはどういうことなのかを、「共倒れ」と対比させて検討した。後者はかかわる人たちを縮減していくのに対して、前者は増やしていくのがその要諦である。同時に、現場の言説にも注目した。時に現場は正しくはないことを言って人を増やそうとする。もちろん、それを「正しくない」と指摘する声はあってよい。そのうえで、なぜ正しくないことすら無自覚に言ってしまうのかについても、考える必要がある。それは単に「かかわる人がいない/少ない」からである。

 そして、「豊かさとは何か」について、まず物質的豊かさに疑義をはさむ陣営が、精神的豊かさを称揚する言説を批判する。豊かさを物質的/精神的というように二分法的に分けるべきではない。主流の経済学がともすれば功利主義に傾倒し、経済成長至上主義人間性を犠牲にするような豊かさこそが問題なのである。経済成長を前提としない、経済によって人間性が破壊されないような豊かさを追求すべきである。これは人間性のように、そもそも交換や譲渡が不可能なものを、経済成長至上主義は差し出すように強いることによる。こうした「新しい」豊かさの創造を、本書ではパーマカルチャーの思想を手掛かりに考えている。

 第3章では障害者にかかる具体的な問題を犠牲の問題として論じた。最初に、2016年4月1日に施行された障害者差別解消法の大きな柱の1つである「合理的配慮」に関連して、「合理性」という概念について考えている。ときに「合理性」はよきものとも悪しきものとも捉えられる。この概念自体は価値中立的であり、むしろ「何に対する合理性か」が問われることになることを示唆した。障害者差別を内包するこの社会に対する「合理的配慮」であったとするならば、障害者の生きづらさは助長されるばかりであろう。

 この章で具体的に取り上げたのは出生前診断安楽死尊厳死、それに障害児教育の問題である。出生前診断に関しては、医療者側の障害観の問題、それに障害児を産んだときの社会的サポートの不備の問題を指摘した。そして、新型出生前診断産科医療補償制度の問題点についても触れた。安楽死尊厳死に関しては、日本での歴史や、海外での状況に触れた後、患者たちが死を「選ばなければならない」背景には、社会や周りに対する負担を慮ってしまうことを挙げ、社会はそのような死を顕彰するのではなく、生きられるようにより手厚いサポート体制を充実させるべきだとした。教育に関しては、障害児だけを集めて教育するような思想は、異質な者たちを排除するものであるとし、そうした環境の中で育つ障害児も健常児も、真の発達の機会を奪われていると述べた。真の意味の発達とは、世の中には自分とは違う他者が生きており、他者との出会いによって自らが変容していく過程であると考え、それを保障していく場こそが教育ではないか、と指摘した。

 以上を踏まえたうえで、第4章では倫理学の再構築を図っている。最初に2つ、倫理ではない領域としての処世術として、トリアージ問題と「追い込まれた人による犯罪」への対処について考えている。トリアージの現場においては、いのちを救う序列をつけるが、それは価値序列ではないこと、むしろ現場ではない人たちの行為こそが問われるべきであることを示した。次に、「追い込まれた」人は何でもする、としか言えず、むしろ社会がその人を追い込んだことを問題にすべきであり、「追い込まれた」人とその人によって被害をもたらされた人との間の対立に落とし込むのは、被害者同士を分断させてしまう。そうした分断へと追い込む社会をこそ問題にすべきであると論じた。

 倫理学を再構築するにあたって、「選択と行動の自由」と「根源的な自由」とを分けて考えることは重要である。現代における倫理学は、前者に重きを置くが、真に問題とされるべきは後者ではないのか。根源的な自由は、みずからの主体性と不可分にあるが、主体化の過程においては、他者への応答が不可欠となる。他者への責任こそが、みずからの主体性、ひいては根源的な自由を担保するのである。しかし、現代においては、第3章で述べたような教育がなされていないため、真の意味での発達を経た大人はとても少ない。だからこそ社会は総無責任社会となり、他者を基調とする論理を「異質なもの」として封鎖してしまう。そして「どうせ社会はこうなのだから」という諦念を強いられてしまう。こうした「どうせ」という思考こそが、生きづらい者たちをさらに生きづらくさせるのである。このような思考に抗ってきた一つの形が、障害者運動であると言ってよい。そして、障害者運動にかかわる障害当事者は、みずからの命を賭して運動を行っている。しかし彼らはまた運動にかかわることで楽しそうな一面も見せる。この一見奇妙に思える事象についても分析した。

 最後に、本書全体の主張を、「障害者を犠牲にするこの社会に抗する倫理学」としてまとめている。

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