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xenothの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2050-01-01

[]エクリプスフェイズの紹介記事のライセンスについて

本日記における、エクリプスフェイズの紹介や翻訳記事([EP]タグがついている記事とします)を、『Eclipse Phase』のCreative Commons Licenseに従い、Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike(http://creativecommons.org/licenses/by-nc-sa/3.0/)の条件で、配布するものです。(C)Posthuman Studios, LLC. http://eclipsephase.com

xenoth

2014-05-14

批評モドキの見分け方

要約

・作品を見て、わかりやすい特徴をピックアップする

・適度に一般的なテーマに、こじつけて時代性と言い張る

・批評に見える文章(批評モドキ)が完成する

分析と検証

批評というのは、作品の分析です。

まず、その作品が、どんな部品で出来ているのかを解析し、そして、それぞれの部品は、どう組み合って全体としてどう機能しているのかを調べます。

最後に、それが本当に正しいかどうか、他の作品と比べて検証するわけです。


しかし、そうした分析は、実は結構難しいものです。自分なりに作品を組み立てたことがない場合、なおさらです。

批評モドキ

さて、批評をしようと思い立ったとします。

作品を見て、多くの人が言うのは「ここが新しい」「作品Aは、これまでの作品Bなどと比べてここが優れている」というものです。

人間、そういった「わかりやすい違い」があると、そこに目がいくわけですね。


例:「新世紀エヴァンゲリオン」においては、これまでのロボットもの作品と違い、主人公の少年パイロットが、いつまでも優柔不断で、誰かを守るために戦おうとしない。

例:俺Tueee系と呼ばれる作品群では、これまでの作品と違い、キャラクターが努力せず強い力を手に入れて活躍する。


批評を行う場合、ここから、

・作品の他の部分は、どうなっているのか

・そうした「新しい点」は、作品全体の中で、どんな機能を果たしてるのか?

・本当に「新しい」のか。それまでの作品と比較・分析した場合、どうなるのか?

といった考察が重要となります。


しかし、そうした考察ができない場合に、批評らしさを簡単に装う方法があります。

それが「時代精神」です。

みんな時代のせいなんだ

・「エヴァンゲリオン」でパイロットが優柔不断なのは、主人公が主体的に世界を変えるというストーリーがリアリティを失った、90年代からゼロ年代の、セカイ系な時代性を反映している。

・「俺tueee」が受けるのは、努力を好まない若者精神、努力が報われない社会の反映である。


少し、それっぽくなってきたでしょう?

実際問題、「そういう時代だから」は何の説明にもなっていないのですが、この線で長文を書くと、なんか批評っぽく読めます。

「ほんとにそういう時代なのか」とか「他に説明はないのか?」とか「作品の特徴が不況を反映した結果なら、バブル期にはそういう作品はなかったのか?」とか、検証すべきことは山のようにあるわけですが、そこは華麗にスルーするといいでしょう。

「時代の一回性」とか言い張ると、それっぽくなります*1


さて、作品の特徴を時代性と結びつけると言われても、難しいのではないかと感じるかもしれません。「本来なら」その通りです。

しかし、単にこじつけるだけなら簡単です。誰でもできます。

作品内容に関係なく、大きくて漠然としたテーマであれば、たいていくっつきます。

かっこよく見せるためには、よく知られてる社会問題や、いかめしい専門用語をあてるといいでしょう。

実例については、付録:テンプレートを参照してください。

批評モドキの見分け方

以上から分かるように、「作品の表面的な新しさ」だけ持ってきて、そこに長文をこじつけるのが批評モドキです。

批評モドキを見分ける目安が幾つかあります。


その一つは「堅実さ」です。

通常、ある結論を証明したい場合、「事実」や「納得できる当たり前の話」を積み重ねて、段々と「新しい、意外な結論」へ繋いでいきます。

一方、批評モドキは、表面的な類似性と思いつきだけで出来ているので、そうした地道な説明ができません。

そのため、飛躍のある首をかしげるような理屈が、次々にでてきます。もちろん検証とかされません。論理を飾るために、独自用語や、独自解釈した用語を多用する場合もあります*2


もう一つは「速度自慢」です。

批評において、最初にそこに着目したという独創性は評価の一つですが、後追いであっても、より深い考察をすることで、ちゃんとした評価を得ることもできるわけです。

一方、批評モドキにおいては「より深い考察」というのがありえないので、着目が早いことが価値の全てになります。

結果、批評モドキしかできない批評家は、「最も早く」「誰よりも早く」、自分が注目したことを喧伝します。


ある批評で、独自用語や、独自解釈、飛躍のある論理が沢山あって、検証がなく、その作者が異様に「自分が一番早くこれを見つけた」ことに固執する場合、その批評家は、批評モドキである可能性が高いと言えるでしょう。

付録:テンプレート

○同時代性チャート

表1:テーマ(1D3 ROC)

1:若者チャートへ

2:社会問題チャートへ

3:ポスコロチャートへ


若者チャート(1D3 ROC)

1:離人症的心性

2:草食系世代

3:引きこもり


社会問題チャート(1D3 ROC)

1:デフレ社会

2:ブラック企業

3:無縁社会


ポスコロチャート(1D3 ROC)

1:グローバリズム

2:世界内戦

3:チェチェンゲリラ


・使い方

好きな作品を選んでから、同時代性表を2回振り、それぞれチャートを参照して、同時代性を二つ決め、以下のテンプレートに当てはめます。


・テンプレート:

「作品」の「新しい点」は、「同時代性1」と「同時代性2」の交差する現代社会と共振するのみならず、その時代精神そのものを暴き出す批評的価値を持ち、まさに世界文学といえる。


例:

「ハーモニー」における「健康管理社会」は、「引きこもり」と「グローバリズム」の交差する現代社会と共振するのみならず、その時代精神そのものを暴き出す批評的価値を持ち、まさに世界文学といえる。

*1:同じ時代は二度と来ないのだから、分析に意味はないというわけです。本当にそうなら、今後どういう作品が出るか、とか、そういう予想が全く出来なくなるので、学問としての批評の自殺なのですが、批評モドキをする人は気にしない場合が多いようです。

*2:論旨に飛躍が見られる場合、批評モドキの知的怠慢である場合の他、自分が内容についていけてない場合も考えられます。そういう場合、相手に「ここがわからないんですけど」と聞くと良いでしょう。批評モドキは、こっちの質問をそらして関係ない話をしてきます。

2012-06-11

[]ラビットホール・ドロップスに注意書き追加

注意書き追加

ラビットホール・ドロップスのウェブページに、TRPGを治療目的に使うことに関して注意書きが追加されました。

大変良いことだと思います。

マイノリティへの対し方

 HPを更新しました!

 「あたりまえのことを書く必要はない。なぜなら、人は誰しも障害者を知ってから、あるいは、知ろうとしてから障害者に触れようとするからである。またそうすべきなのだ」「あたりまえのことを書くことは、あたりまえではないのだと認めることになるのではないか」「わからない、知らない、間違えが起きる、と叫ぶ批判の声は、ただ知ろうとしないだけだ」という考えがあったのですが……。


 考え方を変えました。

(略)

http://www.facebook.com/RabbitHoleDrops/posts/221092301344157:

注意書き追加に関する伏見氏の書き込みです。


さて、前半は、そのとおりだと思います。

障害者に接する時は、我々一人一人がきちんと考える態度を持って接するのは当然のことだし、注意書きなどなくてもそうすべきなのです。

そうしない時、我々は無自覚な差別によって他者を傷つけているのです。

そのことは常に反省しなければなりません。


しかし、その一方で、世の中の人すべてが理性的に行動することを前提として行動するのは、あまりにも危険です。

完全に悪意があったり無思慮だったりする人は脇におくとして、たいていの人は、特に悪意なく、うっかり気付かずに、自分の常識のままに行動した結果、誰かを傷つけてしまうのです。

世の中は、無自覚な差別と偏見に満ちています。私自身も含めて、そうした差別や偏見をもっていない人など存在しないといっていいでしょう。

だからこそ、不断の啓蒙が必要なのです。


視点を変えてみましょう。

世の中には、様々なマイノリティが存在し、様々な個別の事情や問題があります。理想は、その全ての悩み、問題を理解して、公平に接することですが、それは事実上、無理です。理解する必要のあることが多すぎるのです。

また理解しようとする姿勢があっても、わかっているつもりでわかっていないこと、誤解することも沢山あります。


だからこそ、双方の側からのアプローチが重要なのです。障害者の問題を理解しようとする動きと、障害者の側から問題を理解してもらおうという動き、その双方が大切になるわけです。*1


本当は「双方のアプローチ」というように分けるのも正しくなくて、同じ社会の中の一人ひとりの問題として、理解を深めていけると一番良いのですが、いずれにせよ、障害や障害者についてよく知らない人は、それをよく知るべく努力し、その一方で、障害者に関する活動を支援するときは、なるべく誤解が減るように努力すべきかと思います。


「ラビットホール・ドロップス」においても、そのような不断の啓蒙が行われることを期待します。それによって、より多くの人が住みやすくなる世の中になればと思います。

[]伏見氏とのやりとり

経緯

前回の日記を提示したところ、伏見氏からブロックされました。

ふるいけ様とのやりとりがあったので、そちらを転載します。

素人治療

@furuike20 私の前論もあり、RHDを治療用に用いよ、との主張が行われているとご指摘がありました。しかしながら、このルールブックそのものにはその主張はありません。そのことをまずご確認を。私は意見、表現をすでに修正しています。

@furuike20 WEBサポートのほうでは、支援用途でのノウハウを蓄積したい、交流したいとの意図があります。よって「支援につかいましょう」とのアピールはより強く行われています。私としては「使い分け」をしていたつもりですが、うまく伝えられなかったようで補足します。

WEBサポートのほうの文面は以下です。

■ラビットホール・ドロップス サポートプログラム

 「物語を遊び、豊かな発想力を養うゲーム」「判断力と共感的視野を養い、自己肯定感を高めるゲーム」としてのRPGの理解と普及を図りたいと考えております。

 これは「ラビットホール・ドロップス」を、学校教育・課外活動・障害者支援・病児支援などに用いられる方々向けの提供活動です(一般の方はご利用できません)。

no title

 そんなRPGは面白い遊びというだけではなく、教育や障害者支援に有効ではなかろうか、と考えて行動している方々がいます。

 想像力を豊かにしたり、コミュミケーション能力を高めたりする効果、また自己実現による満足感を得ることにより、回復や成長の効果が考えられます。

 このゲームは、そのような活動に用いるために作成されたRPGです。

no title

「支援用途でのノウハウを蓄積、交流」するのは良いのですが、それを行う人が、障害者対応の専門知識がない人がいる場合があります。

そういう人が「想像力を豊かにしたり、コミュミケーション能力を高めたりする効果、また自己実現による満足感を得ることにより、回復や成長の効果」を求めて、「支援」するなら、これは障害者対応の専門知識がない人に、治療用に用いよといっているのと同じです。


伏見氏が一般に求める「支援」は一緒に遊ぶことで治療的な意図はないと思うのですが、現状、そう読めかねない文章になっております。

誤解であれば、ぜひ修正していただきたい点です。

トラブル

@furuike20 トラブル時に責任を負えるのか、配慮はあるのか、という質問に対してのお返事です。その「トラブル」がなにを想定しているのか、お尋ねしたいところですが……(というのはTRPGの現場において対立があるのは大きなゲーム性の魅力だと考えていますから)。

TRPGは、トラブルを起こさないようにプレイする限りにおいては、かなり安全な遊びですが、そうでない場合は、その限りではありません。


失敗したTRPGのセッションというのは、数時間(RHDなら1時間)に及ぶ圧迫面接です。

そこではいかなることも起きえます。セクハラパワハラ、それに基づくトラウマ人間関係の深刻な亀裂、新興宗教への勧誘、暴力沙汰等、枚挙がありません。


そうならないことを防ぐのが、「誰が偉いのではなく、皆で楽しむために遊ぶ」という意思統一です。

しかし、そこに「支援」が入ると、ややこしくなります。

伏見氏は、以下のように発言しています。

 あるいは、気づかないで、パーティの仲間たちが「あのさあ、騎士くん、ずっとずっと、自分が倒すって、自己中心的すぎるよね。見ていて面白くないんだよ」と言うかもしれません。


 ショックでしょうね。

 恥と怒りでゲームどころじゃなくなりそうです。

「うるさいよ、じゃあいいよ。もう一緒にゲームなんかやらねえよ!」

 と言って席を立つでしょうか?


 それもいいんじゃないかな、と思って設計されています。

 僕はわりとそういう子だったかな(笑)。


 その後、「やっぱり自分が悪かったな。謝ってまた遊ぼう」となるでしょうか。

 「奴らとはもうやらないけど、他で遊ぶ……こんどの仲間には嫌われないようにしようと気をつけながら」とするでしょうか。

 あるいは「もうTRPGはやらないけど、自分が夢中になってミスったというのは判った」となるでしょうか。


 どの結果でも「支援」は成功しているのです。つまり、このゲームを遊ばなかったら得られなかった経験を、「ダイレクトではなく、架空世界の冒険という体験として」そのプレイヤーに経験させることに成功しているのです。

 そして遊びの中でのトラブルは、現実のトラブルよりは解決が容易であります。これがプレイセラピーの大きな機能です。

騎士プレイヤーが、本気で怒って席を立つようなトラブルが起きている状況は危険です。

このようなトラブルが起きないように努力すべきであって、「遊びの中でのトラブルは、現実のトラブルよりは解決が容易であります。これがプレイセラピーの大きな機能」と言う立場でプレイするのは深刻に危険です。


先に書いたように、こうしたトラブルにおいて人が傷つく可能性があります。

次に、こうしたトラブルを「プレイセラピー」と捉えるならば、それを避けたり修正しようとしたりしなくなります。

@furuike20 トラブルがあること、責任を問われるようなクリティカルな事象が起こること、これらの危惧そのものが、児童や障害者に対する偏見に基づいているのではないか?ということは指摘させてください。TRPGはそれ自体がかなり安全な遊びなのです。そう共有しませんか?

児童や障害者とのセッションが、トラブルを起こしやすい状況としては、社会的立場の問題があげられます。

圧迫面接的なセッションがある時、逃げたり文句を言ったりできる状況ならいいのですが、立場が上の相手には、そう言い難い場合があります。また抱えている問題が共感されにくく、多数の圧力がかかる場合があります。


次に児童や障害者の中には心理的なトラブルに特に敏感であったり、傷つきやすかったりする人もいます。

児童、障害者一般がそうということは全くないのですが、そういう障害者もいるというのは現実です。そういう場合、それに基づいた対応が必要となるでしょう。

これを「児童や障害者に基づく偏見」というのなら、そもそも「児童」や「障害者」というのを、一律にまとめているのがおかしいのです。


障害について知らない人間は、多くの障害者を、はれもの扱いしてしまうところがあり、これは問題のある偏見です。伏見氏のおっしゃりたいことはそこだと思います。

しかし、「じゃあ問題なく誰とでも素敵なセッションできると思う(^o^)/」*2と言ってしまうのは、明らかに問題です。

子供にとっての遊び

TRPGの嫌な部分を強調した話になってしまい、忸怩たるものがありますので、少し話を変えて。


伏見氏は「遊びの中でのトラブルは、現実のトラブルよりは解決が容易であります」と書かれていますが、その実例はあげられていません。

私としてはその点をお聞きしたいと思います。


私が小学校の頃を思い出すに、「遊び」は、「現実」そのものでした。

小学生くらいの頃って、クラスの人間関係が大きな位置を占めます。その人間関係は、おおむね面白いウケを取る能力だったり、体育の能力だったりで決まっていました。

体育の時間や休み時間に行われる野球やサッカーは、そうした人間関係を決める大きなイベントであり、それぞれの威信がかかっていました。

そこで活躍できるやつは、クラスのリーダー格でしたし、下手なやつには、そもそもボールが回ってこない上で、運悪くボールが回ってきて失敗すると、クラス全体から蔑まれ、いじめられました。


サッカー嫌ならやらなきゃいいじゃん、というのはそうなんですが、小学校でクラスの空気を無視して、自分の世界を作れる子供というのは限られています。また授業なら強制になります。

自分の好む環境を作る裁量は、子供にはなかなかありません*3


さてさて、このあたりは体育が苦手だったオタクの告白ではあります(笑)。

集団球技に良い思い出のある方も多いでしょうし、そこから得られる素晴らしいことも沢山あると思います。*4

これは競争や勝敗をなくせということではありません。勝利に向かって努力し、敗北を悔しがり、スポーツがうまい子が評価されること自体は大切な経験だと思います。


しかし、子供は(まぁ大人も大抵そうですが)エスカレートして、「サッカーが下手=クズ」的な扱いをしがちです。

そうならないように、行き過ぎを見張り、もし、そうして傷ついた子がいたら、それに対応するのが指導というものでしょう。

そのために小学校では、先生が、ほとんどつきっきりで子供たちを見守っているわけで、本当にありがたいと思います。


逆に言うと卓上で一緒に、一時間、二時間プレイするだけでは、トラブルに対応しきるのは無理でしょう。ですから余計なトラブルを起こすべきではないのです。


ともあれ、小学生の私にとってサッカーは「仮想戦闘」ではなく現実そのもので、そこにおけるトラブルや、そこから発生した精神的苦痛も、これ以上ないほど現実のものでした。

「いじめや喧嘩もこみでサッカーやドッジボールが安全」とか、「スポーツでのトラブルは現実でのトラブルより解決が容易」という人がいたら、私は考えなおしてほしいと思います。


以上は、私の実体験です。

「遊びのトラブル」は「現実のトラブル」でした。かつてもそうですし、今もそうです。

TRPGでも、それと同じことが起きうるのです。

TRPGと経験

ここで伏見氏のおっしゃりたいことは、TRPGという仮想の現実の中で、様々な体験を積むことには価値があるということだと思います。


それは全くそのとおりだと思います。

トラブルが起きるからゲームが悪いわけではありません。

経験することが目的であると伏見氏がおっしゃるのであれば、なおさらトラブルを回避するためのマスタリングガイドやケーススタディ、プレイングガイドなどが必要ではないでしょうか。

どうせ経験するなら楽しく、もめ事が少ないほうがよいでしょうから。


現状の書き方では、あたかも伏見氏はトラブルを起こして子供の心を傷つけ、乗り越えてもらうことこそが支援活動の一貫だ、と読めてしまいます。

もちろんそのような意図はないでしょうから、文章を修正なさったほうがよろしいかと存じます。

*1:その上で、自分を「一般人」と思う側のマイノリティを理解しようとする姿勢が十分であることはほとんどありません。マイノリティ側の伝えようとする努力に頼っていてはいけないのです。

*2https://twitter.com/pumimin/statuses/209466402497773571?tw_i=209466402497773571

*3:もちろん大人だからって、好きな環境をいつでも選べるわけではありません。パワハラが問題なのはそこです。

*4:ただ、そういう方でも、いじめを誘発すること自体は別にサッカーの面白さではなく、そうしないようにしたほうがいいことは同意いただけるかと思うのです

2012-06-09

[]ラビットホール・ドロップスに求めること

要約

これまで上げてきた日記に基づき、ラビットホール・ドロップスに求めることをまとめました。

想定環境

Q1:伏見氏が「ラビットホール・ドロップス」をプレイする想定環境を明確にしてください。

 そんなRPGは面白い遊びというだけではなく、教育や障害者支援に有効ではなかろうか、と考えて行動している方々がいます。

 想像力を豊かにしたり、コミュミケーション能力を高めたりする効果、また自己実現による満足感を得ることにより、回復や成長の効果が考えられます。


 このゲームは、そのような活動に用いるために作成されたRPGです。

(中略)

 フリーエディションは教材、支援の場での利用を想定して配布されます。

no title

 昨日の打ち合わせ話の続きをちらと。


 みなさんもご存知のとおり、昨今、特別支援教室(特教)の運用に変化があります。「冒険王道」(交流のあるプロジェクトです)のように、学校でTRPGが運用されるのはすでに冗談話や夢物語ではなくなってきています。特教のカリキュラムと、コミュニケーションゲームとしてのTRPGは非常に親和性が高いのです。


 ラビットホール・ドロップスはその中で一つの方向性を示したに過ぎません。私たちのプロジェクトは複合的なもので、まったく違った方向性のゲームも開発しています。

 「次の」ゲームは、夏季の支援に間に合うように、急ピッチで進行中です。ラビットホールは「親子の対話」を第一のターゲットとして、優しい雰囲気で遊ばれることを想定していますが、もう一つのそれは、学級の雰囲気、児童同士の無遠慮で予測しがたいコミュニケーションの現場運用を支援するゲームメカニクスが工夫されています


 参加者の適性の差は大きなもので、運用の場、遊びの場も様々です。

 実際に嗜好にあわせて多くのTRPGが開発されているように、選択肢が多く提供されなければ、TRPG支援という手法の有効性もまた証明しがたい、ということを私たちも強く意識しているのです。


 もう次の作品!? というのはそういうことです(^-^)。

http://www.facebook.com/RabbitHoleDrops/posts/115153445291469

ウェブページでは「教育や障害者支援に有効として活動するためのTRPG」とある一方、本日の更新では「ラビットホールは「親子の対話」を第一のターゲットとして、優しい雰囲気で遊ばれる」と書かれています。


「親子の対話」を第一のターゲットとしつつ、児童支援、障害者支援としても使えるということでしょうが、いずれにせよ、不特定多数に公開・販売した上で、「支援活動」を銘打つ以上、実際に支援に携わってる人、専門家の管理外でプレイされることは想定する必要があると考えます。

安全性

Q2:上記環境における安全性について、安全と思う根拠を明らかにしてください。


何度も書いていますが、経験のない普通のGMが、様々な障害者や児童に対して、「支援」をしようとTRPGをするのは危険です。

経験者の監督の下、相性のいい相手と遊ぶのであれば良い結果を残すこともあるでしょうが、そうした監督が得られる場以外で、あらゆるタイプの児童・発達障害者と円滑にTRPGを行えるわけはないでしょう。


だいたいうまくいくよ面白いよ、失敗しても良い体験だよ、で、済ますには、あまりにも危険な分野です。

GMが「支援」をことさらに意識するのも問題です。


そこにおいて伏見氏が、安全であると考える根拠を明白にしていただきたい。

専門家の意見

Q3:Q2について専門家の保証があるのなら、それを明白にしてください。


TRPGによる障害者支援については、すでに二人の専門家から、反対する旨が出ています。

私がTRPGをセラピーとして使わない理由: Analog Game Studies

AGS 記事「CBT的アプローチのセッション運営」は取り下げられるべきであると考えます: プレイレポートbyたきのはら


これらに対する反論がないまま、「ラビットホール・ドロップス」は進んでしまっています。

伏見氏は、「現場」や「研究者」との打ち合わせを経ているとおっしゃりますが、そうであるなら、そうした現場、専門家の名前と肩書きを明らかにしていただきたい。


私もハンドルネームで活動している身であり、実名を出すことを安易に要求するのはよくないと考えていますが、しかし、「専門家もついているので安全」という形でその権威を持ち出すのであれば、最低限、責任をとれる形としてでていただく必要があるでしょう。


もちろん、早瀬以蔵氏、滝之原氏の勧告を受け入れて方針変更するのであれば、専門家の名前を出す必要もありません。

今後の対応

Q4:Q1、Q2、Q3に問題があるのであれば、今後の対応を明確にしてください。


私としては、「ラビットホール・ドロップス」から支援に関する文言を取ることを推奨します。

ラビットホール・ドロップスの紹介とは別に、現状、このような研究を進めており、そこで「ラビットホール・ドロップス」も使っている。

ただし、それは経験者、専門家のいる場で行われることであり、現段階で一般のプレイヤーにそれを薦めるわけではなく、それは大変に危険な医療類似行為である、という形の付記を行うくらいでしょうか。


以上、どうかよろしくお願いします。

2012-06-06

[]ラビットホール・ドロップスと一期一会

だいたいでは困るもの

世の中には、「だいたいうまくいけばいい」ものがあります。

多くの娯楽はそうです。

どんな作品でも、面白いと思う人も、つまらないと思う人も、それぞれ存在する。

その上で、面白いと思う人の割合が、そこそこ多ければ、その作品は商業的には成功とされます。

商業を考えないのなら割合さえ考える必要もありません。作者が届けたいと思う層にだいたい届けば、意味がある。


一方で、「だいたい」ではすまないものもあります。失敗した場合に重要な結果となるものです。

旅客機は「だいたい飛んで、たまに落ちる」では困りますね。医療もそうです。

どんなことでも事故をゼロにすることはできませんが、娯楽作品の出来とは求められる基準が違います。


「ラビットホール・ドロップス」に関するスタンス - xenothの日記でも書きましたが、私が「ラビットホール・ドロップス」に関して失敗した場合を恐れるのは、それが、「児童や障害者への支援行為」として行われるからにほかなりません。

ラビットホール・ドロップスと支援の現場

児童・障害者支援TRPG「ラビットホール・ドロップス」の公開に関するお話 その2 - Togetterまとめ

前回のエントリーについて、伏見氏から上記のようなお返事をいただきました。

おはようございます。その焦燥は理解するけれど現実的ではないと思うな。ぜひ理解を深めてもらいたいです。関心があるなら現実の行動として支援・交流に参加して欲しいのです。きっと考えていたものと違って驚くかもしれない。


ラビットホール・ドロップスは、現場の「こいうものが欲しい(既存のものは使いにくい)」という声を集めて作ったのです。批判には耳を傾けるし興味がある、ぜひ参考にしたいけど、その域を越えた執拗さは歓迎できないかも。考えてみてください。

ここで話されているのは、支援の現場の話です。

どうも勘違いされているようですが、支援の現場において、これまで支援に携わってきた経験、知識のある人が、TRPGの知識も持っていて(理想的にはそこに伏見氏もいて)、その上で、「ラビットホール・ドロップス」を運用する場合の話は私はしていません。


「ラビットホール・ドロップス」を支援用TRPGとして一般公開することは、そうじゃない素人や、あるいは支援に携わっている人でもTRPGに不案内な人が遊ぶ可能性があるだろう、というものです。

そうした場合に、重大な問題が生じる可能性があります。

その点について伏見氏におたずねしていますが、この日記を書いている時点で、まだお返事はいただいていません。

TRPGユーザーが増えない?

XXX システムがプレイスタイルとリンクしなきゃいけないと思ってる人が案外多くて、きっとTRPGを読物としてる人はそうなんだろうなぁって思います。私なんかは、クトゥルフでほのぼのプレイをしちゃう方なんでそんなのには全く無頓着なんですがねw また、感想を書いてる人のコメントが、ああルールブックを読物にしてる人の意見だなぁって思いました。難しい漢字があったら大人に訊けばいいのです。辞書で調べればいいのです。学習ってそういうもののはずだったんですがねえ……。

XXX だいたい、初見でルールブックをいきなり買うずぶの初心者なんてのはいないんだから、そこを心配してもしょうがないといつも思います。

RabbitHole Drops ありがとうございます。古いゲーマーは、対立をいくつも経験していてトラウマもあります。その恐れが「幸福なTRPGデビューをできないと、TRPGユーザーが増えない」という過度の恐れになるのかもしれません。僕なんかは、わけわからないでゲームしていた時期がもっとも楽しかった!と思っちゃうんですが、まさにその個人体験の違いが壁かも。共感的に理解し、自戒しないといけません。

 ちょっと議論が殺伐としすぎましたね。 ブッとばすとか連呼しちゃいけません。... - RabbitHole Drops | Facebook0

一方、facebook上では、伏見氏(RabbitHole Drops)は、上記のようにコメントを書かれています。


「幸福なTRPGデビューをできないと、TRPGユーザーが増えない」という話ですが、ここではTRPGユーザーを増えるかどうかなんて話はしていません。それは「だいたいうまくいけばいい」という思想です。


児童教育や障害者支援で、トラウマが起きたら、「いや、そういうのもたまにはあるけど、だいたいうまくいってるから問題ないよ」ではすまないのです。

対立やトラウマを恐れる理由

伏見氏は、TRPGで対立やトラブルがあっても、それは乗り越えられるし、そうやって乗り越えるのも人生経験だから問題無いとお考えなのではないかと思います。


プレイヤーに、そうした問題に対応できる社会的立場と、自由な精神があれば、あるいは、周りがそのようにサポートすれば問題はないでしょう。


ですが、そうした人ばかりではありません。

児童や障害者が社会的に弱い立場にあることについては前回書きました。

精神についていうなら、誰とも同じく、精神的に健康な人もいれば、引っ込み思案だったり鬱だったりする人もいるでしょう。


想像してみてください。友達と一緒にTRPGを遊んでいてつまらなかったのなら、つまらないということも、TRPGをやめて別のことをすることも、比較的、簡単です。

ですが、それを先生が授業やイベントとして行なっていたら?

「先生のマスタリングはつまらない」といえる子供ばかりではないでしょう。


TRPGは、きちんと遊べば、子供の自主性、アイディアを引き出す良いツールになりうるでしょう。

一方で、世界設定から道徳律までGMが細部を決定する架空世界において、子供に思想教育を押し付けるツールにもなりうるのです。


先生なら、そんなバカなことはしない?

先生は教育のプロフェッショナル*1であっても、TRPGのプロフェッショナルではありません。

社会的な常識がある人でもTRPGを初めてプレイする時、普段の社会的常識を発揮できる人は稀です。


教育のプロフェッショナルでない素人のゲームマスターが、児童や障害者に「支援」を行う場合も、様々な問題に発展しうるでしょう。


伏見氏が「僕なんかは、わけわからないでゲームしていた時期がもっとも楽しかった!」と思うのは、ご自由です。

ですが、根本的にそれとは違う場合、それとは違う危険の話をしていることをお分かりいただきたい。

*1:もちろん、教育的に問題のある先生も存在します。その場合の恐ろしさは想像したくもありません。そういうのは先生が悪いという議論もできるでしょうが、TRPGが凶器になりうる点は自覚すべきかと思います。