苦行主義とは何か

定義

TRPGにおいて、揶揄的に苦行主義と呼ばれるスタイルがある。
揶揄的な言葉なので厳密な定義があるわけではないが、「努力・苦労自体に価値を置くスタイルと、その押しつけ」あたりが、おおざっぱな意味だろう。

苦行主義はなぜまずいか?

まず最初に、あらゆる趣味においてそうだが、TRPGにおいても努力は意味があるし、努力を否定する必要はない。
上達には練習や努力が必要である。
つまり、練習や努力を重視すること自体は別に悪いことではない。
では何が問題なのか?

「努力自体」の偏重

例えば、「全滅して悔しい」「何度も死んで覚える」のが楽しいタイプのゲームがある。
全滅が前提のゲームもあるし、そこまでいかなくても、苦労や試行錯誤自体は、たいてのゲームでスパイスとして存在する。
そのようにシステムの方向性、プレイスタイルの合意が取れて、相手のやる気をそがない形で、「努力」を促すのはもちろん意味がある。


ただし、往々にして、苦行主義者は、それを忘れる。
「苦労」や「失敗」自体に価値があるとし、とにかく、プレイヤーが(キャラクターが、ではない)酷い目に遭うことが、TRPGを上達させる道だと考えてしまうのだ。
言うまでもなく、そんなことはない。

努力の多義性

なぜ、そういう勘違い生じるのだろう?


たとえばスポーツなら、体を鍛えるトレーニングは、それなりに苦しくなったり疲れたりするが、そうしたトレーニングは必要だ。
将棋などの競技型のゲームにおいては、何度も負けることは、上達において必須だ。
そうしたものとの比較から「苦しくなる」ことや「負ける」ことを、無意識にTRPGの上達の基本条件としているのではなかろうか。


問題は、TRPGはスポーツでも純粋な競技でもないということだ。
そもTRPGといっても、システムやプレイスタイル、最終的には卓ごとに、本当に様々な遊び方がある。
様々な遊び方がある以上は、上達の方針も様々である。
そこにおいて、たとえば「ランニングで耐久力をつける」といった単純な上達方法は存在しない。


なので、どういうタイプのシステムで、どういうプレイスタイルをしたいかの同意を得た上で、そのプレイスタイルをより楽しむには、こうした知識や技術が重要だ、という理解を求めることは問題ない。その理解の元に自発的な努力をプレイヤーがすることは大切だ。


逆に言うと批判されるタイプの苦行主義というのは、そうした理解を拒絶するものだ。
普通に説明すればいいことを説明せず、「やればわかるよ」と言いつつ、わざと失敗させて、その失敗を「未熟」のせいにして、「努力しろ」と押しつける。
こういうのが典型的な「苦行主義者」である。

過去と現在

TRPGというのは、ゲームの性質上、どうしても明文化されていないルールや慣習が多い。
そうしたメタな部分の無知につけ込んで、新規参入者をいじめ、そのメタな部分の知識を指して「上達」と言い張った時代があった。


時間が流れるにつれ、そうしたメタな部分を明確に意識し、たとえばプレイスタイルやゲームのコンセプトと言った形で言語化し、共有できる部分が増えて来ている。


もちろん今でも、実際にやってみないとわからないことは沢山あるが、少なくとも「何も言わないから、痛い目に遭いながらゼロから学べ」というは単に時代遅れだし、不必要な話だ。

TRPGの上達

さて、私のTRPG経験の中で、システムやプレイスタイルとは別に、TRPG一般の能力が高い、と感じる人は何人かいる。


そうした人の共通能力を考えると、それは「コミュニケーション能力」と「ゲーム把握能力」だと思う。


初対面の人とも打ち解けられること。
楽しそうに遊ぶので、一緒にいて嬉しくなること。
卓を見落として、つまらないと思ってる人をうまくフォローできること。
そのシステム、セッションが、どのようなゲーム性を目指しているかを理解し、それを膨らませるプレイができること。

敢えてTRPG全般に通じる技能を定義するとしたら、そうしたものではないだろうか。
そうした技能は「苦行主義」すなわち「システム、スタイルを無視した努力の押しつけ」とは対極に位置するものといえよう。