賢ぶったバカとそうでない人を見分ける方法

要約

何かを説明する時に、完全に一から説明するのには時間がかかる際、既にある理論や学説、先人の言葉への言及、引用をもって説明に替えることがある。
この時、そうした理論を理解して使いこなせる人であれば、論旨の中で筋が通るような形で文章を引用する。
一方で、不必要だったり不的確だったりする引用を重ねる人がいる。
こういうことをする人は、理論の内容をきちんと理解していないのでとにかく丸写しで持って来たがる人か、あるいは、理論の権威にすがることを目的としている人である。

酢豆腐とモンターニュのハリネズミ

推理小説の立役者の一人、G.K.チェスタトンに「木曜日の男」という小説があります。
表面的には探偵/スパイ/秘密結社小説。その中でかわされる思想的なやりとりの中で、お話はどんどんメタな領域に膨らんでゆき、最終的にはそれは「人と神との対峙」というテーマに近づいていきます。
こういう風に言うと、なんか小難しそうで、実際に様々な解釈や批評がされている深い作品でもありますが、そういうのは置いといて、読む内に「世界の秘密」に触れたようなワクワクのある一作です。
街 〜運命の交差点〜」をやったことある人なら、あれの「七曜会」の元ネタというと、ちょっと雰囲気が掴めるかもしれません。


さてさて、その中で、哲学の知識を全く知らないのに哲学者としての名声を博した役者が登場します。
議論の中でわからないことを言われると、
「それはピンカーツが既に書いていますね。退化は優生学的な機能として働くことは、ずいぶん前にグランペが発見しています」
「モンターニューのハリネズミのように、あなたの議論は失墜しましたな」
*1
というように、ありもしない人物や文献をでっちあげて切り返し、相手を煙にまくわけです。自信たっぷりに言い切ると、自分に自信のない人々は、さもわかったように頷いてしまうわけです。


こうした「権威を引用して、半可通をからかう」というのは、もちろんチェスタトンの専売特許ではありません。
有名所では落語の「酢豆腐」などがありますね。
腐った豆腐を「これは酢豆腐という通好みの料理だ」と言い切って、食べさせる話です。
元々は『軽口太平楽』という滑稽本の一話であり、さらにそこにも元ネタがあったことは想像に難くありません。
あるいは、「てれすこ」「千早振る」「薬罐」なんて落語も「嘘の権威」の滑稽さを描いた作品です。


わざわざ実例を出すまでもないとは思いますが、「ありもしない権威を引用してからかう」という発想自体は、洋の東西を問わず一般的なことです。

権威主義ということ

さて、「ありもしない権威を引用してからかう」ことの是非を議論するとしましょう。
この時、具体例として「酢豆腐」なり「木曜日の男」なりを引用して話を進めることはあります。そうしたほうがわかりやすかったり、面白かったりするからです。


議論を理解している人は、そのように引用を「それによって文章をわかりやすくするため」に行います。


一方で、引用することでかえって文章をわかりにくくする人がいます。


知らない文献を引用された場合、ぱっと見では、その人が議論を理解しているかどうかわからない場合があります。
どういう風に見分けたら、いいでしょうか?

我田引水型

一つの見分け方としては、「我田引水型」があります。
例としてはこういうタイプです。

A:「架空の権威をでっちあげて、自称知識人を騙すことってあるよね。アラン・ソーカルの論文もその系譜かな。厳密には架空ではないけど」
B:「架空の権威か。なるほど、それはチェスタトンの木曜日の男だね」
A:「いえ、チェスタトンは意識してませんでした。一般論なんですけど」
B:「いや、それはチェスタトンの木曜日の男だ。そして、木曜日の男について、そういう風にだけ受容するのは貧しいというものだよ」
A:「……」

「架空の権威」というだけなら、酢豆腐でもなんでもいいし、相手がチェスタトンを意識してるかどうかは判らない。
でもこのBさんの場合、「架空の権威」と「木曜日の男」が丸暗記としてくっついてしまっており、「架空の権威」が出てきた瞬間に、反射的に「チェスタトンは〜」と始めてしまうわけです。


言うまでもなく、こういう人は、きちんと理論を理解していません。

多重引用型

A:「架空の権威をでっちあげて、自称知識人を騙すことってあるよね。アラン・ソーカルの論文もその系譜かな。厳密には架空ではないけど」
B:「架空の権威か。なるほど、それはチェスタトンの木曜日の男だね」
A:「えっと、よく知らないんですけど、木曜日の男ってなんですか?」
B:「木曜日の男は、その副題が──邦題からは削られているが──「悪夢」であることから、夢を描いた作品とする向きもあるようだが、とんでもない。ここでいうnightmareとは、目を閉じて見る夢とは対極のものであることは、その経歴を知っていればすぐわかるだろう。ここにあるのは単なるスパイ小説ではなくて、現実そのものの多義性を前提としてるわけだ。それらの理解においてはウェルズやハクスリー、および同時代の英国社会の流動性と階級制の変遷をポストコロニアルの観点から考慮にいれなくてはならないよ」
A:「……」

説明が全く説明になっていない例です*2
Aさんは、「この議論において」、なぜ「木曜日の男」が出てくるのかを知りたかったのですが、代わりに出てきたのは関係ない知識と、さらなる引用でした。


このように引用を引用で説明する人は、説明自体を目的にしているのではなくて、そうした引用から生まれる「権威」を目的にしているわけです。
こういう心根が、まさしく「モンターニュのハリネズミ」や「酢豆腐」をありがたがることにつながるわけです。

自分の頭で考えること

我田引水型は、本当の意味でわかってもいない理論をムリヤリ使おうとしたところに起きます。
多重引用型は、自分自身の言葉、考えではなく、他人の権威を利用しようとする時に起きます。


結局のところ大切なのは「無理にかっこつけないこと」です*3

*1:http://www.gutenberg.org/ebooks/1695 を参考にxenoth訳

*2:ホンモノはもっと支離滅裂なんですが結構むずかしいですね

*3:今回の一連の記事は、岡和田( id:Thorn )氏の記事およびツイートに触発されました。お礼を申し上げます。