動画による図書館関連セルフ研修

(2020/05/06時点*1
コロナお見舞い申し上げます。
降ってわいた自宅軟禁状態、どうせならこの機にオンラインで研修を受けるのも一興。ということで、いろいろ探してみたメモ。
「読む」情報源は沢山あるが、ここでは動画やオンラインコース等、あえて映像と音声に訴えるもの(かつ無料)をピックアップ。図書館員なら本でしょテキストでしょとツッコまれそうだが、動画の方が頭に入る人もいるし、チャンネルは多いに越したことはない。提供者別ではなく、独断と偏見に基づくジャンル別にゆるく掲載してみる。〔 〕内は提供者*2

  • 図書館総論、運営
    • 図書館関係法規 〔国立教育政策研究所社会教育実践研究センター〕教育基本法や社会教育法等、関連法規を概観できる。
    • 図書館関係職員研修教材 〔国立教育政策研究所社会教育実践研究センター〕 「平成19年度新任図書館長研修」をコンテンツ化したもので、初めて図書館業務に関わる人、マネジメントに関わる人向け。「図書館の意義と必要性」「図書館関係法規」「政策と経営」「著作権と図書館」「まちづくりと図書館」といった話題の講義が聞ける。残念なことに作成年が古いので「今はどこが変わったかな」と考えながら聴くくらいがよさそう。

www.bunka.go.jp

  • 児童サービス:読み聞かせ等の実演は、YouTubeにいくらもあるだろう。育成を目的にしたものはあまり探せなかった。
      • WEB研修〔北海道立図書館〕手あそび、読み聞かせ、紙芝居など。

以上、特にオチはない。

*1:2020/05/07追記。今後新しく見つけた場合、この記事に追記していくかどうかは決めてないので。

*2:作成者でない場合もある

*3:というより「政策決定者はこういう情報をインプットしているのね」という意味での勉強にもなりそう。

映画「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を見てきた。

 話題になっていた映画。先日ようやく機会があって、見てきた。感想など。

  • 感想その1:よくここまで見せたな@ユーザ

 まず驚いたのは、思った以上にナマの図書館、特にユーザの表情を写していること。
 たとえばレファレンスカウンターでのやりとり。自分の家系調査をしている人とスタッフとで「先祖は移民で、何年の船に乗った」といった話までしている。特にスタッフと絡まず黙って図書館を利用している人の姿も、度々大写しになる。閲覧室でパソコンを広げる人や共用パソコンを使う人は、その画面まで。書いている原稿?の文面、大腸がんの情報収集、中にはゲームしている人も。勉強している人たちはおおむね集中した様子に見えるが、中には眠そうな人もいる。
 ユーザの表情を撮る姿勢は徹底していて、文化プログラムや講演、フェアでも、参加者にカメラが向けられる。演奏会での居眠りや、詩の朗読をしている講演の最中に赤ん坊が泣いているのはご愛敬。就職フェアや、障害者のための住宅手当説明会で説明を聞く真剣な表情。
 その他「風景」的な引きの絵にも、しょっちゅう人がいる。スマホで記念撮影をする人、廊下の片隅のソファでずっと同じ姿勢で座っている人、玄関周辺にたむろす人。お陰でサービスの紹介に留まらず、生きている図書館の姿を見たという感じがある。
 ユーザがいない図書館はあり得ないので、ありのままの姿を描こうとすれば、ユーザを写し込まないことには伝えられない。でも生活に根付いているからこそ、そこにカメラを向けるのは難しい。ご先祖や病気の情報は、人によっては知られたくないことだし、生活支援系のプログラムに来ている人は、失業中であったり、生活が苦しい層であることが明らかな訳だ。たとえば同じ内容を日本で撮るなら、モザイクの一つもかけたくなるだろう。
 今時そこらへの配慮もなしに映画を撮ることが可能とは思えないので、おそらくものすごく長時間カメラを回して、映った人への説明をして、合意をとった映像で作られたのだろう。そのプロセスを考えると、監督も凄いし、図書館も凄い。

  • 感想その2:よくここまで見せたな@お仕事

 図書館を撮るにも、壮麗な建築やイベントだけではなく、地味な試みや裏方作業を丹念に撮っているのが面白い。返却本がコンベアで流されていく様子、録音図書作成作業、デジタル化の撮影作業等は、初めて見る人に意味が分かるだろうか?とちょっと心配になってしまったが。それでも、なんとなくであってもお仕事の裏側というのはやっぱり興味深い。
 裏方目線なので、たとえば著者トークショーの場面では講演の内容自体だけでなく、聴き手のトークスキル等の方も気になった。こういう水の向け方できるって凄く準備しているな、とか。映画パンフレットによれば、この聴き手をしていたのは「モデレーター」という職の人で、やはり図書館のスタッフであるらしい。
 そして度々出てくる会議の場面。とにかく会議。観客としては、会議の文脈も知らず放り込まれる状態なので戸惑うが、文脈が分かってきたところで、議題はどれも難しい。予算配分、ホームレスへの対応、外部連携、紙か電子か、等々。その場でスパッと結論が出る話でもなく、劇的な展開がある訳でもない。会議参加者が何か弄んでいる様子、相槌のリズム、口を開きかけて閉じるとかいった様子からは、合意形成プロセスならではの居心地悪さも読み取れて、参加者目線で真面目に考えるほど胃が痛くなる。編集するとは言え、そういうデリケートな場にカメラを入れるのは結構な覚悟が要っただろう。
 そういう場面も見せてくれるお陰で、思いがけず興味深いものが映り込んだりもする。たとえばジョージ・ブルース分館で、ネットワーク機器貸出をしている場面。カウンター内に監視カメラらしいモニタがあった。館内に監視カメラあるんだな。またパークチェスター分館で「どうやったら10代の利用を増やせるか?」という話題で閲覧室で会議をしている場面。よく見ると、はるか後ろの方の本棚に親子連れがいる。開館中に会議していたのだろうか。

  • 感想その3:やっぱりある格差、それとの戦い。

 予告編を見た時に気になってたので*1、画面に映る人々の人種構成には注意していた。途中で図書館幹部の記念撮影シーンがあったが、やはり大多数が白人のように見えた。スタッフ全体のいる場面と比較すると、比率がはっきり違う。図書館自身もそういう壁を抱えながら、過去の差別の歴史に目を向けるプログラムを実施している。
 また経済的な格差の存在も感じられた。たとえばパーティや一部の文化プログラムの客層と、生活支援的な催しの客層は明らかに違う。途中の幹部会議ではホームレスについての議論がなされており、閲覧室や街の風景にも色々な服装の人が映っていた。そういう現実がまずあって、それと戦うためにやっているのが各種のプログラムなのだな、と思う。
 ちなみに自分がこの映画を観た時、たまたま近くに香水のきつい人(他人)がいて、苦手なのでちょっと辛かった。映画には出てこないけれども、必ずしも静謐や清潔を保てない状態の人も受け入れる場であるということは、あの壮麗な閲覧室にも実際は色々な音や臭いが満ちているはずだ。その状態をお互いに許容することで成立している。ホームレスについての議論で館長が発言した「最終的に変えるべきはこの町の文化だ」という台詞が印象に残る。

  • 全体の感想

 映画にしようと思った監督もすごいが、ここまで腹を据えて「見せる」ということを選択した図書館側もすごい。
 組織としてそういう判断をできる理由は、見せなくてはならない、プレゼンスを高めなくてはならない、それによって直接的な財源確保につながるという覚悟にあるように思う。お金を集める、ということへのシビアな姿勢。
 それはひとつの組織として、主体的に何かをやっていくという覚悟でもある。官民協働での運営で、市との関係や行政との連携に心を砕きながらも、図書館自身の使命をどこまで貫けるか。たとえば選挙で過激な人種差別主義者がニューヨーク市長になり、市の政策がそういう方向になったとしても、映画に出てきたようなプログラムを続けるにはどうすればいいか、ということ。幹部会議で出てきた「持続可能性」というキーワードから、そんなことを考えた。

 ところで、これだけの「見せる覚悟」と「撮る覚悟」を持って向き合うなら、日本の図書館だってそれなりに興味深い見ものになるんじゃないかと思う。目新しい取り組みで注目されているようなところでなくても、当たり前の日常業務や、すっきりしない矛盾、うんざりするようなトラブルだって、なにかを維持するための戦いであるには違いないのだ。NYPLに感動したあとは、最寄りの図書館を、このくらいの解像度で眺めてみるのもよいかもしれない。

大阪市立図書館×映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』トークイベントに行ってきた。

 こういうのに行ってきた。

大阪市立図書館×映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』トークイベント「借りるだけではもったいない!『もっと』使える!図書館」
【内容】
1.映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』予告編とダイジェスト上映
2.トーク:菅谷明子さん *スカイプ出演(在米ジャーナリスト/『未来をつくる図書館~ニューヨークからの報告』著者)
3.トーク:嶋田学さん(奈良大学教授/前瀬戸内市民図書館館長)、澤谷晃子(大阪市立中央図書館職員 / 日本図書館協会認定司書)
[終了]【中央】映画『ニューヨーク公共図書館』トークイベント 6月16日 - 大阪市立図書館

 開始時刻が10:30で定員300名。日曜の朝っぱらからそんなに来る人もあるまいと高をくくって開始5分前くらいに行ったら、なんとほぼ満員。舐めててすみません。参加者は老若男女。図書館のイベントだと、年配の人に偏っていたり、男女比が偏っていたりすることが多いので、働き盛りっぽい年代の人も割と来ているのは興味深い。
 イベントの概要は、前掲のURLに終了報告が出ている*1。以下はxiao-2が聞きとれた/理解できた/書き留められた/覚えていた範囲のメモ。いつものことながら、今回特にざっくり。

  • 館長挨拶
    • 『エクス・リブリス』配給会社との共催でこのイベントが実現した。
    • 大阪市立図書館は、蔵書420万冊、貸出冊数は年1,200万冊、入館者は年間600万人。貸出冊数は全国一。
    • 読書推進活動等にも力を入れている。
  • 映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』予告編とダイジェスト上映

 映画は全体で3時間にも及ぶらしいが、20分ほどのダイジェスト上映。解説するのは映画会社の関西宣伝担当者ヤベさん*2。以下、紹介された場面と、解説と、xiao-2の感想をごっちゃに。なお、ニューヨーク公共図書館*3はNYPLと略記する。

    • リチャード・ドーキンスによるトークイベント。正午の人気企画。無神論者はアメリカ社会の中で無視されがちであると熱弁。
    • 鳴り響く電話のベルと、ヘッドセットで電話に答えるスタッフ。人力グーグルと呼ばれる文献調査サービス。「ユニコーンは架空の動物か?」という質問に、中世の文献まで参照して答えるスタッフ。他の場面で「スペイン語の話せる者に代わります」とさらっと言っているのが流石アメリカ。
    • 建物は1911年にできた。石造りで天井の高い堂々とした建築。
    • デジタル化作業の様子。本を開いて固定し、フットスイッチで撮影。あとで補足された解説によれば、2014年の映像なので、現在はもっと進んでいるそう。
    • Wifi機器貸出を行っている。貸出ルールを説明するセミナーの様子。貸出期間が短くなった、と言っている。やはり世知辛いのだろうか。
    • 障碍者サービス。視覚障碍のあるスタッフもいるらしい。点字の読み方を教える場面。中途失明者だろうか、成人女性の手をとって点字をなぞらせている。
    • ピクチャーコレクション。ビニールに入れたりしないで、自由に利用できると説明するスタッフ。
    • 就職応援セミナー。消防士が、自分の仕事を説明している。図書館でネクタイ等も貸すそうだ。
    • イノベーションラボ。子どもがロボット工作に取り組んでいる。臨時の嘱託専門家が指導に当たる。
    • 幹部会議。「民間資金をもっと獲得すべきだ」「継続性はどうなのか」「寄付こそは我々の企画への反応であるから重視すべき」「電子書籍に力を入れるべき」「教育が本来の使命」等々、議論が続けられる。ダイジェスト版でも長いのだがら、実際はもっと長いのだろう。
    • 人気著者によるトークライブ。これは唯一有料のプログラム。これがあるからNYを離れられないと言う人もいるほどの人気企画。
    • 分館建築の説明会。建築家みずからスタッフに図書館の在り方を説く。
      • 個人的に気づいたこと。幹部会議の場面に映っていたのは、男女とも白人ばかりに見えた。他の場面では、利用者も、分館建築の説明会に列席するスタッフも多種多様。アメリカらしい風景だなと勝手に納得していたので、なんとなく印象に残った。これは映画本体を見る時に注視してみよう。
  • 菅谷明子さんインタビュー(11:00-11:30)

 聴き手はヤベさん。なんとボストンから、Skypeでの生中継。向こうは夜だという。試しに調べてみたら22時。トークイベントが午前中に開催された理由はこれかと納得した。午後の開催だと、先方にとっては辛い時刻になる。図書館のイベントで海外の人への生インタビューができるなんて凄い時代だ。
 ただ残念ながら、中継の音声は終始けっこう辛いものがあった。ネット中継だから遅延や音割れ等は仕方ないものの、ダイバーの喋る音声のようにしょっちゅう音が飛び、途切れる。話の中身が面白いだけに「今いいとこだったのに…キーッ」という感じになる。スタッフも絶えず機器調整していたし、話の方は聴き手側のヤベさんがずいぶんフォローされていたが、やはりネット中継というのは難しいものだ。

    • NYPLに関心を持ったきっかけは?
      • 色々な人が公共図書館を使っている。調べてみたいと思った。
    • 菅谷さんの著書『未来をつくる図書館*4』と映画との視点の違いは?
      • 映画ではナレーションや説明がなく、見る人が自ら何かを読み取る。自分の本でも、自分が見た、体験したものを共有するという形で、あまり描き込まず空白を残すようにした。その意味で似たスタイル。
      • 違い。NYは格差が大きい。地域密着型の分館で、支援を必要とする人、力を持てない人を支える取り組みを行っている。映画ではそういう部分にフォーカス。
      • 自分が目指したのは図書館イメージへの創造的破壊。メディア研究者なので、情報社会における知のインフラとして着目。
      • 日本では出版されたものを保管、提供するイメージ。NYPLは情報を自ら作る。たとえば舞台芸術。本に残すのが難しい。図書館自らが撮影してコレクション。既にある情報でなく、新しい世代にとって何が大切か。次の創造に結びつくサポート。そういう点に自分は着目。
      • 一方ワイズマン監督のフォーカスは、暮らしを立てていかに生活するかという点。民主主義の基本。情報って何だろう?
    • 映画が多くの人に観られ、多くの人がNYPLに関心を持っていることをどう思うか。
      • ここまで多く、幅広い人に観られることは意外だった。
      • 図書館というのは非常に馴染みのある施設。しかし異なるコンセプトの取り組みが行われているということが驚き、前向きな意味でのセンセーショナルだったのだろう。違う取り組み、新鮮な驚きが魅力。
      • NYPLは公共図書館だが公立ではない。Public、民主主義の根幹。
      • アメリカの政治情勢。トランプ政権の下で、NYPLが長く取り組んできたことと対極にある動きがある。そのような中で、100年やってきた図書館サービスへの信頼。
      • 映画を観た人の感想で「こういうNYPLの活動を知るとアメリカを信頼できる」といった趣旨のものがあった。社会不安の増大、受けられるはずの支援が受けられなくなるという不安がある中で、安心感を得られる。
    • 図書館関係者、図書館好きな人にとっての見どころは。
      • ナレーションがなく、大勢の人物を平等に扱っているが、なかなか文脈が分かりにくい。『未来をつくる図書館』を読んでから臨むと分かりやすくなる(笑)。またパンフレットにも登場人物の説明等が載っている。
      • 映画を観た人の感想「健やかな好奇心」。

 トークイベント準備の間に、NYPLの予算削減反対キャンペーンの紹介。6月末に予算が最終決定するそうだ。続いて檀上に上がったのは前瀬戸内市民図書館館長の嶋田学さん、大阪市立中央図書館の澤谷晃子さん。以下、お二人のトーク

    • 映画で印象に残ったのは幹部会議。「寄付は我々の企画への反応」という発言。自分も図書館でいろいろ企画をやってきた。市の意向に沿うものをやることも多いが、それとは独立して何かをやるということ。
    • キラキラした事業の数々。日本の図書館でも結構同じような取り組みはやっている。が、NYPLはそれを徹底してやっている。日本だと「予算の範囲でここまで」となるところを、これだけやるためにお金がなければどう獲得するか、という姿勢。
    • NYと大阪の比較。NYの人口は850万、奉仕対象人口は330万。図書館は89館。大阪府全体だと人口は882万、図書館は152館。人口10万人あたりの数字だとそんなに負けていない。
    • 一方、ユネスコのデータ(1999)で国際的に比較すると、日本の図書館は館数、貸出数ともランキング下位。
    • 数の比較はやりやすいが、借りられている内容や使われ方を知りたいところ。
    • ユーザ本人にとっては数はどうでもいい。自分の知りたいことがどのくらい分かるか。一人の物語を次に進めるために、情報がどのような役割を果たせるか。
    • 日本の図書館自体数が少ない。そういう現状を良くしていくために、市民に支えてもらう。政策決定者の判断とともに、市民の支持。新聞記事等で可視化され、プレゼンスを高める。そういうアピールを上手くできていない。
    • 図書館のミッションとは何か。自分が昔先輩に教わったのは「資料・情報を提供すること」。それ以上、たとえばまちづくりとか経済発展といったことへの関わりは禁欲的であるべきという考え方だった。戦時中に図書館も戦争協力したという反省に基づくものだっただろうが、それだけでいいのか。NYの場合、情報提供に留まらず、どういう人に対して何をやるかというところまで踏み込んでいる。
    • 日本の図書館法*5は1950年にできた。その目的として「社会教育法の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育と文化の発展に寄与」を挙げている。出版に限らず、情報を求める人がコミュニティを形成する手伝いをすることも必要。
    • 情報や文化へのアクセス保障が徹底している。Wifiルータの貸出はそのひとつ。資金だけでなく、NYPLはネットワーク環境提供について企業と掛け合うこともした。
    • 瀬戸内市民図書館ではWifi環境がある。iPadも館内限定だが10台程度貸出している。一度中学生が二人で来て、一人はPCを持参し、もう一人はiPadを借りて、二人でネットサーフィンしながら話していた。そういう場を作り出せた。
    • 先日県立長野図書館に行った。最近リニューアルして、Wifi環境を導入したらしい。
    • 図書館にネットワーク環境が整っていることで、たとえばウィキペディアタウン*6のような取り組みも可能になる。
    • 情報を作って発信する。地域の課題を話し合う。2005-2006年頃、平成の大合併。その時、退職後の団塊世代の男性の居場所が話題になった。図書館に来られたその世代の男性が『主人在宅ストレス症候群*7』という本を借りていった。やはり気にしている人も多いのかなと思い、保健師さんとも相談してその本の著者を招いた講演会をやった。62人も人が来て、男性は2割くらい。実際そういう状況でストレスを抱えて、その後受診に繋がった人もいた。男性にアプローチすることだけでなく、夫婦ともども支援に繋がる機会。
    • 別の経験。男性に子育てに関わってもらおうというイベントで、絵本講座をやった。お母さんは別でリラクゼーションを受けてもらい、お父さんと子どもで参加するプログラム。終了後、お父さん同士がLINEを交換している場面が。女性に比べそういう形でのつながりが作りにくい。場を提供できてよかった。
    • 第三の場。職場等と違った、自分が繋がりたいテーマでつながること。
    • 電子書籍について、NYPLの状況を調べてみた。アメリカのベストセラー"Where the Crawdads Sing*8"の、電子・紙・オーディオブック等の利用状況。紙の本でも1,000件以上予約がついているが、オーディオブックや電子の方が強い。紙でも複本が346冊もある。アメリカの図書館でもベストセラーはたくさん買っているということが分かる。
    • 紙か電子か。電子について、NYPLは版元と交渉したりしている。日本では電子書籍の販売は増えているが、図書館用はなかなかタイトルが増えない。数え方にもよるが5万くらい。
    • 瀬戸内図書館は市民と協働で進めたので、市民にも「自分の図書館」という意識がある。昔遊びのイベントで高齢者と子どもが交流できる場を作ったり、市民グループが郷土の知識を集めたかるたを作成したりした。
    • 大阪市ではデジタルアーカイブに力を入れている。オープンデータ化の取り組み*9。これは大阪市としての施策に沿ってやったもので、評価された。資料の画像を使った和紙ファイルが販売されたりしている。これは障碍者の就労支援事業にもなっている。
    • また大阪市では、えほん広場という取り組みも。これは個人の方がショッピングセンターの一角に絵本コーナーを設けるもので、図書館から絵本を貸し出した。
    • 今年の4月9日に、日比谷で『エクス・リブリス』のイベントがあった。NYPLのキャリーさんの印象に残る発言。ネイバーフッド=コミュニティーセンターとしての機能を果たすこと、その人が持っている最高の自分を引き出すこと*10
    • サッチャー政権下でイギリスの社会は疲弊し、ブレア政権になった時には社会的包摂ということが注目された。日本も20年遅れて同様の状況ではないかと思っている。平田オリザさんが図書館のイベントで「ひきこもりの人も、コンビニと図書館だけは行けるという人がいる」と指摘している。そういう人に適したプログラムを受けられる場。もちろん図書館だけでは駄目で、色々なプレイヤーと協働する必要がある。図書館の側から仕掛けていくべき。
    • ある図書館の人に聞いた話。20代くらいの女性で、毎日図書館に来る人。様子から見てひきこもり的な状況。ある時絵本を紹介して、それがきっかけで彼女は子ども向けの読み聞かせをやることに。その後職業関連の本を紹介。最終的には資格を取って就職した。
    • 大阪市では、住之江図書館発で「思い出のこし*11」という取り組みをしている。若者のひきこもりだけでなく、高齢者も閉じこもりがち。そういう人も出かけやすい。本だけでなく、認知症サポート講座なども。
    • アドボカシーの必要性。政策提言、権利擁護。NYPLの活動を見て、市民が自らできることは何か。図書館で自分の暮らしが良くなる、良くなるにはどうしたらいいか。それを口に出し、語り合うこと。図書館としては来る人のストーリー、情報を求める背景を考えること。ひとつの情報を提供したら、その後に何が要るか。図書館員同士、あるいは住民との語り合い。
    • 最後に菅谷さんのトークイベントでのコメントを引用。

 なかなか面白いイベントだった。話題もさることながら、Skype中継、映画とのコラボなど、運営面でも結構新しい試みではなかろうか。終了後に会場を去る聴衆が、それぞれの連れと図書館について語り合っている様子が耳に入り、なんらかの形で「図書館」に関心を持つ人がこれだけいるのだなぁと感銘を受けた。『エクス・リブリス』早く観たい。

こども本の森関連ニュース(2019年2月現在)

2018年7月にまとめたこの件。

 その後色々と動きがあったようなので、再びまとめてみる。

  • 2018年9月28日:高書架の安全性に関する市民からの意見と、その回答。

大阪市:「(仮称)こども本の森 中之島」について (…>お寄せいただいた「市民の声」>文化・スポーツ・観光)

 

大阪市:報道発表資料 「(仮称)こども本の森 中之島」施設基本方針(素案)に対するパブリックコメント実施結果を公表するとともに、施設基本方針を策定しました

パブリックコメントの内容は色々だが、市側の回答で目を引かれた点をいくつかメモ。

基本的には子どもの手に届く範囲以外に配架する本は展示用途とし、副本を展示することとするため、同じ本を書架から出して読んでもらえるように検討しています。また高い位置に配架する本は、レプリカにする等の軽量化の検討とともに、落下防止などの、安全対策を徹底します。

先の市民の声への回答と同趣旨。両方をあわせると、高い位置に置く本は飾りで、実際に読むための本は低い位置に置くということ。

指定管理者には、「運営体制」において、司書やアートディレクターの配置を求めていく予定であり、専門家の配置を必要条件として進めていきます。

図書館のように調査相談、目録整備等は行わず、従来の図書館とは異なる魅力を持った新しい文化施設とします。 

(選書について)基本的な方針は、指定管理者を募集するにあたって市が方向性を示し、民間事業者から、そのノウハウを活用した提案を受けながら、策定していきます。具体の選定と管理は、指定管理者が行うこととしていますが、市も指定管理者と連携しながらよりよいものを目指して取り組んでいきます。

司書を置く、レファレンスと目録整備は無し、選書は指定管理者と市の連携、ということか。

これらのパブリックコメントを踏まえて施設基本計画を策定したとのこと。ただ上記ページに掲載されていた基本計画を見たところ、パブリックコメント募集時の基本計画との違いが一見よく分からなかった。ううむ、どこを変えたんだろう。

 

こども本の森 中之島 (@kodomohonnomori) | Twitter

 

  • 2018年12月13日:条例施行規則の制定

大阪市:大阪市こども本の森中之島条例施行規則の制定について

ちなみに条例はこちら、条例施行規則はこちら

 

  • 2019年1月8日:寄贈本の募集を開始。

大阪市:「こども本の森 中之島」への寄贈本を募集します! (…>歴史・文化に関する取り組み>その他文化に関するご案内)

条件は児童図書、比較的新しいもの、書き込みや汚れ・破れなどがないものの3点。上記ページに寄附要領等もあるが、個人が所有する中古本というのが原則。目標は1万冊とのことで、各区役所に寄贈受付ボックスを設置しているそうだ。

新しいといっても目安は平成12(2000)年以降とのことだから、だいたい19年前くらいまでは可らしい。しかし子どもなんて愛読すればするほど本を汚す生き物なので*1、家庭で大事に保存されていてきれいな本というのはかなりレアなのじゃないかな。

当初の受付期間は平成31年1月8日から1月27日までだった*2が、2月28日まで延長に。浪速区長さんが「予算の関係から2月末までの一発勝負です。寄贈が全然集まってなくて、大変困っています。」とコメントされていた*3が、やはり大変なようだ。

 

  • 2019年1月24日:指定管理者募集開始

大阪市:報道発表資料 「こども本の森 中之島」の指定管理者を募集します

大阪市:「こども本の森 中之島」の指定管理者を募集します

前者は報道発表資料なので概要のみだが「募集にあたっての3つのポイント」が示されている。

(1) 本の森は、図書館ではありません。子ども向けの本がいっぱいの子どものための文化施設です!!

(2)本の森は、皆さまからの寄附金で運営していく文化施設です!!

(3)指定管理者の自由な発想による自主事業が施設の魅力を高めます!!

 「図書館ではない」という点は、後者のページに掲載された募集要項にも明記。それと関係があるのかどうか、募集要項では特に司書の配置は条件となっていないようだ。その他に、募集要項で印象に残った点。

  1. p6「自主事業の実施」。市の方で浮かんできたイメージがいくつか挙げられている。一方カフェスペースの設置は不可となっている。
  2. p8「その他付随する業務」では「ア 開館準備業務」として、本の選定・購入・装備・配架等が挙げられる。これらの業務は指定管理者の業務ではなく、指定管理者になった相手に別途業務委託契約を締結して実施してもらうとのこと。
  3. p10「(6)職員の配置」で、最低配置人員は開館時間内は常時3名以上とのこと。施設図を見ると3階建て?くらいだから、最低1フロア1名ということか。子どもが来る施設だったら、実際はもっと居ないと困るだろうな。
  4. p12「指定管理期間」は平成32(2020)年3月1日から平成37(2025)年3月31日を予定。元号変わっとるがな!というツッコミは野暮だが、「本の森」は建築中のため工事の状況によって指定期間が変動する可能性があるようだ。
  5. p19「10 提案を求める内容」。項目立ては普通なのだが、ノリにやや面食らった。以下は実際の記載内容を引用。

(1) 1 指定期間中の本施設の維持管理にあたっての基本方針・運営計画・年間の開館スケジュール(開館時間、休館日)等

【ちゃんと施設を管理するのが、基本!】 

(2) 6 本の管理方法(持ち出しへの対応)

本の森は、「中之島公園へ本を持ち出してもいい」施設!さあどうする?】

【】内はxiao-2のテンションが上がっちゃった訳ではなく、市側の提示する「キーワード」らしい。一方では、指定取り消しの場合には違約金だ損害賠償請求だといかついことも書いているドキュメントなので、温度差に風邪引きそうだ。そういえば募集にあたっての3つのポイントでも「!!」が踊っていたが、そういう雰囲気なのだろうか。

 今回目を通したのは募集要項だけだが、説明会資料一式も掲載されている。そのうち読んでみよう。

公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」を聴いて、おもうこと。

かのシンポジウムを聴いて、色々と考えた。また終了後にも、色々な考察がネットで表白されていて*1、目にする都度「なるほど、そうかぁ」といちいち蒙を開かれている。かといって流されるだけではとりとめがないので、未熟なりに自分の思ったことも書き留めておこうと思う。

  • 前提として

自分は古典と呼ばれるものがわりと好きな方。しかし社会的意義を考える場面では、好き嫌いではなく理で話をしなくてはいけない。いったん気持ちは脇に置き、なるべく客観的に実利に即して。それでもバイアスはあるが、一応そういう腹構えで考えたこと*2

  • 全体について

自分としては残念ながら、視聴した動画では擁護派の方が分が悪く思えた。不要派は、1.プレゼン能力等の新たなスキルを教育過程に取り入れるために、2.「高校教育に/必修で」古典が必要か?という枠で問題提起しているのに対し、擁護派は古典そのものの意義を主張している。かみ合ってないし、抽象度が高いだけ後者の方が説得力が弱い。

ただ、これは設定に因るところも大きいように思う。1.の目的は、それ自体不要と考えるひとはいないだろう。優先度について議論するなら、お互い具体的な材料が必要。現行の学習指導要領を検討して、新たに必要な能力を養うにはどれだけリソースが必要で、古典をどれだけ削ると捻出でき、天秤にかけて、どうか。天秤の向こう側がはっきりしなければ、「こちらの方が重いぞ」ではなく「こちらも重いぞ」と主張するしかない。

あらかじめこういうフレームで話をすると分かっていたなら、擁護派もその物差しに合う材料を用意してほしかった。そうでなかったなら、擁護派は「なぜ古典でなければならないか」の説明が求められるのに、不要派は「(新しい要素の代償として削られるのが、他の科目や分野でなく)なぜ古典でなければならないか」を説明しなくていい、というのはちょっと不公平な気もする*3

ただ、それではテーマが高校教育カリキュラムそのものになってしまうし、そうなれば他の科目も検討する必要が生じて、古典について論ずるという目的から離れるので、仕方なかったのかもしれない。それでも福田先生の下記の発言は、そのズレを指摘していたように思う。

平成31年度の指導要領改訂において古文漢文は危機感を感じるくらい減った。減ったものを見ても、それでも多いというのであれば、もう少しきめ細かい議論をしたい。

今回の場で一番発言してほしかったのは、音楽と美術の先生。 

  • 古典を学ぶこと自体の意義

これについては、自分の中に漠然と持っていた答えが、フロアの方の発言で明確になった。

古典を学ぶ意味は他者との出会い。他者といえば英語のような外国文化もそうだが、古典は自分につながっている他者。 

多文化化している現代社会において、異なる他者に対してどう共感するか、どう想像するか。自分たちにとって古典がこのようにルーツであるならば、この人たちもそのようであろうと考えること。 

 つまり、他者に向かいあう態度を学ぶツールとしての古典。これからの時代、異なる文化や背景を持つ他者に相対する能力の必要性は言うまでもない。そして外国文化は横軸=同時代の他者だが、古典は縦軸=違う時代の自分(たち)であるところに意味がある。

「古典は現代のポリコレに反する」という指摘があったが、この観点からはむしろ古典の必要性に繋がる。現在55歳の方に根付く儒教的な考え方は、おそらく50年前は常識で規範だったものだろう*4。それがポリコレのような現在の規範と合わなくて困るのは、50年前にインストールしたものが悪かったというより、社会が変わっているのにアップデートしきれていないことが問題。同じように現在の規範をインストールしても、50年後にはまた変わっているかもしれない。

ならば打てる対策は、あらかじめ「規範はアップデートされうるもの」という柔軟性を持たせておくこと。そのために、かつて規範であったものを示し、現在に通じる部分と異なる部分の両方を認識することで、自分の中にある規範を客観視できる習慣をつけることが有効。つまり今の規範と違っているからこそ意味がある。

この目的に即すると、学ぶ手段は現代語訳より原文の方がいい。使われる言葉からして違えば、きちんと異物感があって、盛られた思想を鵜呑みにしない。たとえば源氏物語の過剰なまでの敬語表現。そこに現れた強烈な身分意識に、素直に共感する現代人はほとんどないだろう。また初等教育よりは、ある程度批判的思考が育っているであろう高校生で触れるのがいい。

それは他のもので学べないか?という問いに対しては、上記のような目的にかなうもので、古典ほどノウハウもテキストも蓄積されているものが他に思いつかない。

  • 高校教育は誰のためにあるか

 もうひとつ、フロアの方の発言ではっとしたものがあった。

留学生、労働者が足元にたくさん来ている。その時に、教育の対象は誰なのか。世界で勝てるビジネスマンやディスカッション能力というのは、基本的にホワイトカラーしか想定していない。大学進学しない40数パーセントの人がいる。

登壇者に大学の先生が多かったためか、高校教育=大学に入る前の教育、という思考になんとなく引っ張られていた。しかし高校卒業者というのは別に大学生の半製品ではない。平成30年度の高校卒業者のうち、大学(学部)進学率は49.7%*5

高校の理系教科は、上位3割にフォーカスした指導要領にすべてしてしまっていいのでは

 という提案があったが、仮にそうなっても、7割のひとは別に消えはしない。社会の一員として、納税者だったり消費者だったり有権者だったりしつつ生きている。

それを前提にすると、高校の必修科目であることの意味が違って見えてくる。大学に入るのに必須なのではなく、18歳の国民として持っているべき知識。高校で教わることは学問的には基礎だが、選んだ進路によっては彼/彼女の人生におけるその分野の知識はそこが完成点になるかもしれない。さらに言えば、後続の教育過程に接続されない限り用に立たない知識だったら、全員に学ばせる必要はあるのか?ともいえる。

その前提で考えると「必修科目でなければならないか?」という問いでコンセンサスを得ることは、古典に限らずどの科目の何についても、結構重たいのではないかな。

  • 国語は、なんとなく道徳や宗教を担わされている

古典は、はっきり言うと中世以前の古典は信仰。 

 渡辺先生のこの指摘も、面白いな、と思った。考えてみると古典に限らず、国語では、文法や読解等の技術だけでなく、特定のものの見方を押し付ける傾向の授業がいくらかある。単に知識として苦手なだけでなく、思想だと合わない人は反発する。現行の授業がアンチを作り出すことがあるという指摘ともつながっていそうだ。

  • さいごに

もっと細かいことでは色々思ったが、ひとまず書いてみた感想は以上。シンポジウムや動画を視聴したひとが批判も含めてアレコレ言いたくなるくらいには挑戦的な、その意味で価値のある企画だったと思う。少なくともしばらくブログ書くことをサボっていたxiao-2に、自分の考えを整理したいという欲求を掻き立ててくれた訳だから、その点だけでも主催の方に感謝。

  • 余談

動画の視聴が終わってから、以前読んだこの本をふっと思い出した。

平安朝文学と儒教の文学観: 源氏物語を読む意義を求めて

平安朝文学と儒教の文学観: 源氏物語を読む意義を求めて

 

平安時代から既に「文学は役に立たない」という批判はあった、というかむしろ主流だった。和文学の擁護者はそういう批判に対抗すべく、儒教や仏教等の価値観に即する形で源氏物語やその他物語文学の社会的価値を主張してきた。…ということが書かれた本。古典なんて、こうやってその時代時代の価値観に臆面もなく寄り添いながら、ウン百年生き残ってきた、そのくらいしたたかな存在なんだよなぁ。

*1:参加された方だけでなく、司会をされた先生もブログを書かれていた。忘却散人ブログ|2019年01月21日「古典は本当に必要なのか」シンポの司会として

*2:なお脇に置いているが、「好き」「面白い」という人間の心情はそれなりに政治や経済に影響力があって、本来は無視できない要素だと思う。

*3:…と言いつつ、でも多くの場面でものごとはそういう進められ方するんだよなぁ、とは思う。

*4:ついでに想像すると、当時教える立場だった世代の方々は、今とは比べ物にならないほど儒教的なものの考え方をインストールされていたはず。

*5:文部科学省「平成30年度学校基本調査」より

明星大学日本文化学科公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」を聴いた。~後篇

 前回の続き。前回同様、xiao-2の聞きとれた/理解できた/書き留められた/覚えていた範囲。敬称は「氏」に統一。論理が飛んだり意味不明なところはだいたいxiao-2の能力不足なので、ちゃんと知りたい人はここから先は見ずに、動画のタイムシフト*1とか、Twitterまとめ*2を見るといいよ。

 休憩を挟んで後半開始。司会は飯倉洋一氏(大阪大学 教授)。

  • 飯倉氏

 これからディスカッション。猿倉先生からの希望もあって、最初に皆さんに手を挙げていただきたい*3

 まず、ご自身の今の環境。「1.大学、あるいは研究関係である。2.国語教育関係。3.それ以外」それぞれ挙手してください。…わりと分布が均等。

 もう一つ。現時点で皆さんは肯定派か、否定派か、どちらでもないか。

 もう一つ。基調講演を聞いて、もともと考えていた考えが変わったか。…結構いる。その方がどういうふうに変わったかはあえて聞かない。
 それではまずパネリスト3分ずつ、他の基調講演を聴いた反応や、補足等を話してもらう。

  • 猿倉氏

 私が大学で授業をやっている、ひとつ前のコマが国文学。それなりの進学校の古文の授業だと、試験にあるからいやいや受けているので殺伐としている。しかし大学の国文科の授業というのは、横で見ていると幸福感がある。こういうのは好きな人だけでやった方がいいものだなと感じた。芸術には、たとえば絵が好きでもこの絵は嫌いだというものがある。強制していることに問題がある。存在は知らせないといけないけど、それを本当に愛する人だけでやるやり方がある。
 また、エコーチェンバー現象。類友。自分の知り合いでフィリピン大学の人がいるが、福田先生の話したような状況とはだいぶ違う。それぞれ自分に似たひとしか見えない。福田先生への反論として、納税者は別に古典を読みたいと思っていない。自分の周りにいる空間と統計空間が一致している人はほとんどいない。自分の周りだけ見ると自分と似た考えの方が多数に見える。
 その中で、何を最大値にしていくか。どうコンセンサスとっていくか。古典において難しいものなのでは。

  • 前田氏

 三角関数の公式について。古文漢文と並んで、要らないとされがちなもの。自分も覚えなくていいと思う。それの代わりにオイラーの公式*4、これ一つ知っていると全部出せる。
 博士の愛した数式。「アイはむなしいが愛情によって実のあるものになる」。聖書の言葉「光あれ」を公式で表すというネタもある。医学書が漢文で書かれているという話があったが、公式で書いて喜ぶのは一部のマニアックな人。医学書でも、読まなくちゃいけないものではないのでは。

  • 渡辺氏

 自分の経験から。ある日、手が動かなくなった。脳梗塞かと思って病院に行ったら、なんだか分からないと言われた。他の医者に行ったら橈骨神経麻痺、脇の下の神経が切れて動かないものだとのこと。医者の心得とは患者の愁訴に応えること。直すことではないという。素晴らしいと思った。で聞いたら、「実は私古今和歌集に興味がある」という。やはり興味関心がある人は人間として優れている*5生命科学、死生学という学問。人間はいつ死ぬのか。医学者には答えられない。

  • 福田氏

 先ほどは文学部の立場で書いたが、前職が教育学部。今回のようなことは同僚からも問い詰められたことがある。一般的なデータは分からないが、大学生が10人いれば、古典が好きなのは2人くらい、5人位は憎んでいる、残りはどうでもいい。ところが高校までに一切習わなかったとしたら?まったく習ってないにも関わらず好き、嫌いという人間も何人かいるだろう。
 どうやって我々は教えていくのか。嫌いと言っている人間をどうでもいい、どうでもいいと言っている人間を好きに変えていくのは目指すべきことなのか。それとも抜本的に変えていくべきなのか。あなたたちは教師になるまでに考えなさい、と学生に言う。人がなんといおうとも、自分はこういうことで教えるのだというのを考えておかないと教員採用受けても仕方ないよ、と。

  • 飯倉氏

 これからディスカッション。論点が拡散しないように、平行線にならないようにしてくれとSNSでも言われている。難しい注文。
 猿倉先生が言っていた、高校の古典で古文漢文を必修にする必要はないのではないか、という提言。それに付随して、大学における古典教育、古典研究は、現在の大学の中の位置づけとしてもっと減らしてもいいのではないかといった問題に展開。そこらへんが論点になると思う。

 また、古典をどう定義するか。これは前田先生が定義してくださったところで議論できると思う。基本コースとしては、否定派の論理をどのように肯定派が受け止めるのかということを軸にしていく。

 (パネリストで発言希望がなかったので)フリーディスカッションはカットしてフロア意見を聴く。やはり全体としては肯定派が多いが、まずは否定派の意見を受け止めるということで、指名する。

  • フロア*6

 否定派の方々が仰っているのは古典自体を否定しているのではなく、あくまで優先度。お二人が議論する能力が必要と言ったのにいは同意。また政治家の誤解を招く発言等があるが、自分の意見を誤解されないように伝える、論理的に反論する能力は全員に必要。その優先度として考えた時に、古典が何故必要か。優先度という観点で聞きたい。

  • 飯倉氏

全否定ではなく、限られた時間の中で古文漢文をどうするか。

  • 福田氏

優先度という言葉がよく出る。今現在の国語教育において、現代語のリテラシー教育というのは古文漢文より時間が少ないということか。

  • フロア

現状のカリキュラムは良く知らないが。 

  • 福田氏

高校生が学ぶ他の科目も含め、古文漢文の占有率が不必要に高いということか。あるいは割合としては適切だけれど、カリキュラムマネージメントがまずいからうまくいっていないということか?

  • フロア

前者。 

  • 福田氏

冒頭で勝又先生が触れたことだが、平成31年度の指導要領改訂において古文漢文は危機感を感じるくらい減った。減ったものを見ても、それでも多いというのであれば、もう少しきめ細かい議論をしたい。たとえば最初の一年だけ学習するとか。

  • フロア

では削減される中で、削減されるものよりも古文漢文が大事か。議論、プレゼン能力よりもなぜ古典を学ぶ方が重要なのか。

  • 渡辺氏

授業で歌合せをやってみている。歌を出して批判し合う。相手のグループは絶対けなす、自分のグループは絶対褒める。そういうのを一度やらないと、いきなり議論として振っても委縮してできない。教室というのは既に演じる場。古典というのは、心を預けるという作業が一回入る。活かすことのできる対象。
実用的というのは今度の新指導要領でも強調。実用的なものというのは目的的。ある目的のための実用。現実的であればあるほど、現実が変われば古びるのも早い。目的に対する現実性が古くなったら、実用的なことばは、目的に奉仕するために一から学び直さないといけない。含みのある、多少ゆるやかな問題に対して考えておくことが必要。
参加感の方が大事。そこで鍛えられたものが現実にストレートに役に立つことはない。一段階抽象化して、内面化する。自らに内面化しないものは身につかない。内面化に関して古典は大事と考えている。

  • 前田氏

実用的なものより古典重視していいのか?という問いに対する答えは二つ。
一つは、芸術科目を選択式にしてほしい。好きな人にとってはもっとやってほしい。音楽美術は、高校では選択式。同様に選択科目であるべきというのが私の意見。
もう一つは、役に立つものという点。物理学、素粒子論というものがある。その講演を聞くと、どの先生も冒頭で「私のやっていることは役に立たない」という。でも役に立たないから要らないといっている訳ではない。それがなぜ古典なんだ、ということに答えないといけない。

  • 猿倉氏

渡辺先生の仰ったところで否定的に思うのは、議論するときのユニバーサルなスキルがある、それは古くならない。

教育関係者なら、自分の学生を外国に連れて行ったときの動きについて思うところがある。最初、英語が下手だからダメなのだと思っていた。そうではなく、議論、プレゼンする文化というのを、感想文しか書いたことが無い。人格を攻撃せずに議論するトレーニングを受けていない。上手な国の人は、立場を入れ替えて議論することを小学校からやっている。企画書、予算書、報告書と並んで、非常に大事な国語能力。俳句や感想文よりも高いプライオリティ。いまの国語は感想文みたいな情緒的な文章ばかりで、自分もそういうものだと思っていた。
英語が下手なのではなくて、議論が下手。国語教育の問題。

  • フロア*7

国語教育の危機という本*8を読んだ。高校教育における古典が本当に必要なのか?という問いについては前田先生と同意見。先生の熱意に左右される。自分が古典好きになった時には、先生の熱意で国性爺合戦*9をやってくれたりした。

  • 飯倉氏

高校教育における古典は芸術科目にしてはどうかという提案について。現在は国語総合という科目の中で必修になっており、これは事実上高校1年生が学ぶ科目。2-3年生が習う方のは選択になっている。しかし受験で出てくるために、選択だが事実上は学ぶ人が多い。

次の指導要領では現代の国語と、言語文化が必修。後者の中で現在の古文をどのような形で教えるか。少なくなる方向にはある。黙っていても否定派の意見のようになっていく。ともあれ、その話題についてはいったん切る。次に否定派の方どうぞ。

  • フロア

せっかく否定派と肯定派と話を聞いたのに議論がうまくかみ合ってないと思っていたが、渡辺先生のスライドで出てきた「主体的に幸せになる知恵」という話と、猿倉先生の話で出てきた生涯年収というキーワード。高校生3年間のリソースの中で、幸せというのが重なるところかと思った。幸せとは何か、可視化してみろというのが否定派に求められている結論に近いもの。

自分がハンドアウト見ていたら、猿倉先生のスライドでも「出る杭を打つ」「餅は餅屋」「○○すべし」といった、古典に由来しそうな表現が出てくる。古典を学ばなかったと言いながら慣用句、古文漢文が出てくる。中国の人に話をするときは降雨と劉邦の話をすると喜ぶ。
優先度という時にはなにかの物差しがあって、その物差しに当てはめるといい。とか。KPI*10とか、可視化できるような何か。幸福、平和への貢献度など。

  • 渡辺氏

幸福度を測る調査をしたいのだが、それはどういう基準で考えたらいいでしょうね
という時に伴うべき学問。測ることができない。

  • フロア

Twitterで使われているやまとことばを抜き出して、その根っこをたぐっていくと古典にある、なんてことがあるかも。自分たちの使っている言葉やレトリック、ヤフーのニュースタイトルの五七五でさえ。それが見えるとよい。

  • 渡辺氏

それは面白い発想。連歌だと歌語事典というのがあるが、それは指標を測るメモリだったのかも。言葉が複雑に連想の中で絡み合っている。発想の在り方を客観的にとらえられないか。

  • 福田氏

幸せというのが曖昧だが、言葉を多く持つことが幸せにつながるという考え方もできる。相手を攻撃せずに自分の考えを伝えることができるのが幸福だとしたら、古典の世界はその言葉をこれまで広げてきて、SNSでの発信にもそういう表現がある。年齢差、出身差、男女差がありながらも、言語文化の基本的な考え方がそこに帰結してしまう。

ただやはり曖昧な話で、多様な言葉を多様に使えるということだけで幸福を語っていいのかには抵抗がある。

  • 猿倉氏

たしかに幸福という言葉でかみ合う。どういうものにプロジェクションするか。目的とするものは何なのか。
たとえば、数学では行列が数年前から消えてしまった。行列というのは物理数学の基礎だけでなく、インフォメーションサイエンスで大事なのに、ここを削るなよと怒っている。科目の縦の壁がなければ、行列、古典文法、英会話、日本語のプレゼンのうち、どれを削るかという話になる
幸せというのは何で計るか。国の生産量、競争力にしか個人の幸せというのは射影できない。科目の評価は大変。評価の最適化のアルゴリズムと検証法を作るのが教育そのもの。前田先生と私で実は同じ方法を言っている。教育は国家百年の計というが、自分が生きている間にこの項目は要らなかった、習っていないけれど教えてほしかったというものを洗い出して改革していかないと。日本は他国に比べて圧倒的に遅い。
数学の先生たちは「行列を削るくらいなら古典文法を削れ」と言うべきだった。言えない。縦割りだから。行列が消える時に、その他のユーザの意見を聞かずに譲歩してしまった。行列を教える大学等の関係者は、無くなってもいいかどうかということを聞かされなかった。

その意味では、国語教育に関わる団体は機能している。古典を教えるべきという主張を通せているのだから。この点では理系でもいろいろ。数学は駄目。化学はそこそこ強い。地学は駄目。
科目の壁を取り払ってアルゴリズムの調査を誰かがやらないといけない。文科省の人はやりたくない。これをやる人は、教育コミュニティの序列を抜けて飛び出すことができる。

  • 前田氏

「すべし」というのは、もとは古語かもしれないが、国語辞典に載っている。なので現代語だと思う。「矛盾」も。 

  • フロア

シオランという哲学者がいて「祖国とは国語だ」と言い切っている。国語といった瞬間、振り返ってみると先人たちの積み上げの上に立っている。Wikipediaで死んだ言葉と検索するとたくさんある。日本人が日本語を消そうとするのはやはりまずいと思う。
限られた時間の中で優先度の話。理系だと「虚数の情緒*11」という本もある。理系の人からすると古典をやってこなかったからよく分からない、文系だとオイラーが分からない。両方の理解のために幸福度という尺度が考えられる。 

  • フロア

古典を学ぶにあたって、古典の文法や知識が必要かどうか。現代語訳で古典を教えることは不可能なのかどうか。今後、将来的に古文を生活の糧として使っていく方は減る。本人がその道を志すという意志を固めた大学以降ならば古文で教える必要があるかもしれないが、高校生に古典を教える時においては現代語訳でいいのでは、という提案。

  • フロア

中高で古典を教えている。現代語訳で教えられないかという声は学校でもよく言われる。古典を学ぶ意味は他者との出会い。他者といえば英語のような外国文化もそうだが、古典は自分につながっている他者。

  • フロア

古典は現代語とはまったく別の言語ということであれば、他者との邂逅という意味があるが、現代語で教えるとなにか問題が生じるのか?たとえば明治に書かれた本のほとんどは、文語体で読んでいる人は少ないのでは。

  • フロア

何故原文がいいか。古典の文章は、連想と記憶によって作られている。訳すると無理が出る。連想と記憶によって作られた他者の思想を理解するということで意味がある。現代語訳が側にあってもいいが、原文でないといけない。

  • 猿倉氏

言葉の数が多い方がいいかどうか。最近の米語は50年間ですごく少なくなってきた。多様化して、簡単なことばを話さないと選挙に勝てない。日本にも外国の人が多くなってきたから、日本語は政策として意図的に簡単にすべき。語彙は減らすべき。

ナショナリズム愛国心、いい意味の愛国心というのは作れると思う。それが芸術。現代的なポリコレの観点からいうと、ほとんどの古典はNG。選んだもの、アートを見せていく。いい意味の愛国心は押し付けられないので、フォロワーを作るより反発者を作る方が多い教育に今の古典教育はなっている。せっかく売れるコンテンツなのにアピールできない。悔しいことにそこはヨーロッパとの違い。日本は日本のいいところを、教育においても外国人に見せることができない。歪んだ教育をやっているからアゲインストの人たちを結構作っている。

  • 飯倉氏

ポリコレの問題が出たが、古い道徳や古い倫理観を古典が無意識に刷り込んでいるのでは、というのが猿倉さんの主張。これに関して意見のある人は。

  • フロア

古典は、良いか悪いかは別として平安時代中心。作者が女性であり、かつてこのように女性が光っていたという話ができる。身分秩序の話。和歌の中には敬語は出てこない、帝であろうが女性であろうが相手には君と呼びかける、ということはある。いずれもディスプレイの仕方。

  • 飯倉氏

他に補足、意見は。

  • フロア

現代語訳では駄目かという話。最近だと「謙虚さ」という言葉を巡って日韓のニュアンスの違いで揉めたが、翻訳するとニュアンスが違ってしまうということ。高校教育だとその体験を日本語と英語でしか考えられない。日本語と英語だけでなく古典という、三つを考えることで言語体験ができる。
また、留学生、労働者が足元にたくさん来ている。その時に、教育の対象は誰なのか。世界で勝てるビジネスマンやディスカッション能力というのは、基本的にホワイトカラーしか想定していない。大学進学しない40数パーセントの人がいる。多文化化している現代社会において、異なる他者に対してどう共感するか、どう想像するか。自分たちにとって古典がこのようにルーツであるならば、この人たちもそのようであろうと考えること。40数パーセントのブルーカラーの労働者、外国ルーツの子どもを視野に入れたときに考えることは。

  • 前田氏

翻訳するとニュアンスの違いがあるという件、その例に関して言えば代わっているのは言葉の意味ではなくそれぞれのポジション。謙虚さという言葉の意味は同じ。
外国の人が来て、その背景を知るべきというのはそのとおり。歴史的なことを学ぶと同時に海外の歴史的なことも学ぶべき。学ぶべきだが、それが古文で書かれた古典でなければならないというところに論理のギャップがある。現代文で「過去にこういうことがあった」で十分。
意味が変わってくるということはある。原文は短いけれど翻訳文は長くなる。長くして、誤解が起きないようにするという方法も。

  • 飯倉氏

まだ質問したい人大勢いるが、ここから挙手に。

  • フロア

高校で国語を教えている。いま勤務している高校は、先のご意見にあったように、ほとんど大学進学しない。専門学校等が多い。古典を私は好きだが、果たして必要だろうか。必修であるより選択である方が好ましいのでは…という気になってきた。
現在勤めている学校でも、実際選択科目になっている。学生は、枕草子が「まくらのくさこ」だと思っている人がいるくらい。それでもたとえば六条御息所の話をすると、共感、反発する女子がたくさんいる。猫まただと思った話*12を聞くと、勉強が得意でない子でも笑う。

そういう話ができるのは古典くらい。現代語訳でそういう話を持ち出してもいいが、たまに「たり」「けり」の違いを説明すると納得する。納得したな、という経験をできるのは言語が違うことの面白さ。必修でなく選択であった方がいいという意見はそうかと思ったが、広く触れる機会を残しておいてほしい。

  • フロア

大学学部で教育学専攻している。古文の内容としていろいろ効用が出ているが、それだけだと否定派の意見が強い。古典文法の方に意義がある。
水曜日のダウンタウン」という番組で、「絵描き歌は完成形を知っていないと描けない」という説をやっていた。絵描き歌の完成形にあたるのが古典文法。「お」「う」の長音の違い、表記の違い等、古典文法を知れば理解できる。意義はあるのでは。

  • 前田氏

英単語を覚える時にラテン語を知っていると覚えやすいというメリットがあるが、そうでないと覚えられないかというとそうではない。古典文法でなくても、現代語を正しく使いましょう、という教え方でもよい。

  • フロア

暗記するだけでなく、それがどういう枠組み、構造の中にあるかを知ること。

  • 前田氏

言語は生き物なので、そういう法則が当てはまるとは限らない。例外がたくさんある。

  • フロア

自分はアンケートは「古典は必要」で出したが、かなりきつい条件を伴う。
古典といえども、人文科学の中。リベラルアーツ。これの主たる目的は人間関係について学ぶこと。若い理工系の方は人間関係に関心を持たない、特殊分野のギークになっている方がいる。やはり社会の中の一員として考える時には、人文科学で教えられるような人間関係を学ぶ機会が必要。古典もそれを学ぶのに役立ちうるだろう、という条件で私は賛成している。
これまでの議論だと専門的な話になっているが、それだと古典を学ぶこと自体がギークになってしまう。

  • 猿倉氏

私のスライドで、日本語の人文学全般が微妙だといっている。結局、人文学をやっている人のための人文学になっている。人文学をやっていない人たちが世の中の99%。その人たち目線になっていないので負の教育になっている。

理系の学部生のための社会学、国際関係論をアレンジしてみたい。世界史日本史はまず理系の学生は受けない。哲学も宗教も何も学んでいない。これは危険。カルトにはまる人も出る。
なぜそうなるか、高校以前、教養相当以前の人文学が、自分たちのための人文学になっているから。受ける人の役に立つものにまったくなっていない。これだと、外の人から見たときにはこんなものいらないや、となる。
文学部は微妙だけど、言わば応用人文学と考えている人間科学の人はインターフェイスされている。理系で理学と応用科学があるように、文系も理学と応用科学的なものに分けて、ユーザーは誰か、出口はどこかと考えていかないと、一部の天才以外は要らないよと思われてしまう。

  • 福田氏

高校生で文系理系と分けるが、本当に我々が大人として、そこで分けた方が幸せになれると思っているならともかく、自分の学校が入試で合格しやすいように、入試制度のためだけにやっていることではないか。
理系に分けたところには、理系の古典の授業があってもいいのでは。

  • 猿倉氏

古典のコンテンツの考え方は偏っているから、西洋の哲学等とも並べて教えるのであればいい。

  • 福田氏

高校生で理系のクラスを作る、そこに西洋哲学等も入れるなら、日本古典も入り続ける?

  • 猿倉氏

高校生はコンパクトに概論で教えるべき。理系の教養相当の科目で、理系全般に必要なビジネスのための社会学をユーザー目線で設定すべき。自分のところの比較的出来のよい学生集団を見ていても、たとえば海外の人と接する時、文化的に気を付けなければならないことをいちいち言うのは非常に疲れる。それは本来、高校までの人文学教育がまともであれば言う必要のないこと。高校までの社会科、人文学の先生というのは、そういう知識を持ったひとがどういう現場でそれを使っているか多分見ていない。
意外なことに理系の人たちは、外国人と接するので、文化的インタフェースが非常に大事。日本文化のセールスマンとしての彼らの層は凄く大きいが、文学的な知識もないし、日本文化のセールスもできない。今の日本の人文学の現状を見ると、理系の人がこういう知識をほしいとカスタマイズしない限り、そういうプロダクトは出てこない。

  • 福田氏

では提案。新しく変わる学習指導要領に、選択で古典というのがある。私が教えているのは、高校以降古典に触れないような人向けを教えている。
先生の提案するような古典の教科書を作るとしたら、このメンバーで作るのは可能?

  • 前田氏

自由度というのは重要なキーワード。大学に入ると必修科目は少ない。高校ではまだ必修が多い、選択を多くするのがよい。
社会学社会学と理系の学科は関係ないと思っている人多いかもしれないが、たとえばピケティの「21世紀の資本*13」で、0.5%の人が社会の富の90%を持つ*14という話が出てくる。これは本来物理学の法則で、ボルツマン分布*15*16。放っておいたらそうなるというのは当たり前。社会学には社会学の法則があると思って見ていると、時代遅れになりかねない。

  • フロア

高校の古典教育は必修にすべきか。高校まではほとんど義務教育になっている。ひととおりのことは自国の文化に触れておくという経験をさせておきたい。古典が無駄ならともかく、有害と言われるのは納得できない。確かに古典の中には、現代の価値観と合わないものもあるが、そういう負の遺産もあったということを知っておく。
否定派の方で、高等教育を効率化ではかることの危険性。PDCA*17は予定調和でしかない。そこから外れるような偶然性が必要。科学の発達にも。その中での人文学、古典の意義をとらえなおす意味もある。

  • フロア

質問が二つ。古典教育というのが中高では追いやられていて、大学では教養の方に追いやられている、古典が追いやられているという現状について肯定派の方々に聞きたい。

二つめ、否定派の方に聞きたい。議論のリテラシーを学ばせるという話があったが、国語ではなく、数学とか社会とか理科でも学べるのでは。なぜ国語でやろうとするのか。理数科目によるリテラシー教育は如何。

  • フロア

文系理系の分離と大学入試の問題について。猿倉先生の資料の7ページ、これは落としてはいけない議論だが、「7-9割の落ちこぼれを作っても、役に立つ人がいれば社会的役割は還元できる」という理論。これはかつて三浦朱門が言っていた理屈で、現在ゆとり教育と言われているものの元々の目的。それが20年前に議論された時、国語は国語総合になった。まず現国と古典を分離せずなんとかしようとしたもの。

実際は、文科省が打ち出したにも関わらず、現場ではそのようにならなかった。失敗している。なぜなら、すべてエリートの理論だったから。現状は、古典に触れない高校生がいる。また古典Aは現代語で教えていいと指導要領に書いてあり、現代語で教えている学校はそれなりにある。
そもそも教員免許というのが戦後教育で作られたもの。国語の免許をとった人が国語を再生産してきた。国語は必要なのか?国語教師がその問に誠実に答えてきたのか。教科という枠組み自体が、制度疲労を起こしてきている。その中で古典だけ取り出して話をしているからかみ合わない。芸術科目にできるのかどうか。現実的にどこまで考えているかどうか。

  • 飯倉氏

パネリスト一人ずつに、まとめも含め発言してもらう。

  • 猿倉氏

まず、ゆとり教育は肯定していない。理系の人が少ないので、古典が誰にどう役に立つかという分布関数は文系とかなり違っている。

高校の理系教科は、上位3割にフォーカスした指導要領にすべてしてしまっていいのでは、と思う。上のクオリティを落とすと国の競争力は確実に落ちる。
古典を教えることに関してやさしさが発生する、というのは違う。ポリコレとは受け取り方。教科書に載っているものは教化する。ポリコレからずれたものは排除しなければならない。
たとえば外国人や女性というキーワードで押しているが、自分の中でもどうしてもそれを信じていない部分がある。儒教的背景の刷り込みが結構あったから。

  • 前田氏

理系文系は、役割分担をしなくてはいけないという理由で分けている。同じ理由で、両者をつなぐ役割の人も必要。

リテラシーを他学科でやる話、国語は言語を教えるものなので言語という意味で期待したい。

古典を教える良し悪しは、一律ではなく、内容で判断。
国語が必要か。国語は必要。言語なのでリテラシーに関わるものは必要。
芸術。リテラシーのところは必修にして、美しさを楽しむところは芸術にしてほしい。

 

  • 渡辺氏

理系の方が世界に対して自国の文化を語らねばならないという話。私も学生によく言う。みんな世界に行ってきてくれ、そうするとその時日本のことを聞かれるから知っておかねば、と。世界で活躍してきてほしい。
古典文法について。先生方に言いたいが、文法のための文法はやめましょう。ただし、本当に面白い。言葉に規則がある。しかもその大本のもの。
現代語訳も使っていいが、和歌は言葉のしらべに触れる機会は作ってほしい。
古典は、はっきり言うと中世以前の古典は信仰。宗教と無縁の古典はない。それを我々は切り離しすぎている。日本人には信仰が薄いといいながら、我々にとっては祈りや救いに関わっているもの。

  • 福田

芸術になるかどうか、私の立場だけ申し上げる。今回の場で一番発言してほしかったのは、音楽と美術の先生。実はかつては芸術の時間はもっとたくさんあった。他の科目が必要必要といっているうちに割を喰った。では本当に音楽美術体育は必要だったのか、という議論をしていかなければならない。

  • 飯倉

今日は我々文系の集まり、文学部の催しに慣れている者にとっては、考えたこともないような論点や考え方を教えてもらって、それについて一生懸命考えなければならない。それを受け止めて、それなりに、集まる前よりも後の方が、皆の中に今後こうしていけばいいというヒントを与えていただけたのではないか。

この会は無駄ではなかった、もしかすると有益だったかもしれない。それは今後どういうふうに我々が受け止めて進めていくか。

 

メモは以上。まとめるにあたって動画の再視聴などはしていないが、くたびれた。自分の感想はそのうち書く、かも。

*1:古典は本当に必要なのか(明星大学日本文化学科シンポジウム) - YouTube

*2:#古典は本当に必要なのか:開始前に漲る期待と緊張 - Togetter古典は本当に必要なのか?第一部(前半)のお話 - Togetter古典は本当に必要なのか?第二部ツィートまとめ - Togetter

*3:挙手状況は、中継ではよく分からず。

*4:オイラーの公式 - Wikipedia

*5:これはネタな感じ。

*6:以下、名前や所属を名乗っている人もいたが、ここでは登壇者以外すべて「フロア」に統一

*7:この発言の時は音声が良くなかったり、理解がついていけなくてほとんどメモできなかった。

*8:国語教育の危機――大学入学共通テストと新学習指導要領 (ちくま新書)

*9:国性爺合戦 - Wikipedia

*10:KPIとは - コトバンク

*11:虚数の情緒―中学生からの全方位独学法

*12:おそらく徒然草第八十九段

*13:21世紀の資本

*14:ここの数字は正確に聞き取れなかったので適当。ちゃんと知りたい人は『21世紀の資本』を読むといいよ。

*15:ボルツマン分布 - Wikipedia

*16:2019/1/17追記:登壇者と思われる方から補足をいただいた。コメント欄参照。

*17:PDCAサイクル - Wikipedia

明星大学日本文化学科公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」を聴いた。~前篇

こういうのを聴いた。

明星大学日本文化学科公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」2019年1月14日(月・祝)

【パネリスト】猿倉信彦(某旧帝国大学 某研究所 教授)、前田賢一(某大手電機メーカー OB)、渡部泰明(東京大学 教授)、福田安典(日本女子大学 教授)

【ディスカッション司会)飯倉洋一大阪大学 教授)
【コーディネーター)勝又基(明星大学) 

「行ってきた」じゃなくて、今回はネット中継を聴いた*1。面白かったので頭の整理用にメモをとった。以下はxiao-2の聞きとれた/理解できた/書き留められた/覚えていた範囲。敬称は略。論理が飛んだり意味不明なところはだいたいxiao-2の能力不足なので、ちゃんと知りたい人はここから先は見ずに、動画のタイムシフト*2とか、Twitterまとめ*3を見るといいよ。

 

 最初に本シンポジウムの趣旨。
 古典研究、教育は危機に瀕している。雑誌の廃刊、学会の高齢化、入試改革で古典が外れるなど。四半世紀前からは想像できない状況。一方、古典研究の意義を訴える書物やシンポジウムも多く現れた。しかし多くは守る側の論理を一方的に振り回したもの。理系、経済、行政の人たちにその言葉は有効な反論たりえたか。その声は届いたか。

 いま求められるのは、古典不要と考える人の声に耳を傾け、逃げずに真摯に反論すること。SNS上では対決的議論は多いが、しかし多くは自称成功者による一方的な発言。感情交じりに投げ返しても発展的でない。そこで今回、古典否定派を自称してはばからない、大学と企業の研究者を招いた。お二人の言葉に耳を傾け、ここで議論を深めよう。

 多様な論点がある。あなたの人生に必要かどうか。多様な価値が生まれている時代、なお古典は必修か。地方国立大学にとって必要か。不要とされがちな、理系基礎科学の研究者なら理解できるのだろうか。グローバル人材が重要視されている中で日本の古典を学ぶ価値とは。会場には多様な人が来ている。それぞれの立場から多様な指摘がなされることを期待。
 今回の議論は、大げさでなく、古典がある側面において終わるきっかけになるかもしれない、あるいは日本の古典が踏み出すきっかけになるかもしれない。すべてはこれからの議論。

 (このあと、プログラムの説明とパネリストの紹介。第1部と第2部の間の休憩で中間アンケートをとり、それをもとに第2部のディスカッションを進めるという構成)最後に、これから三時間半の議論でいくつか注意点。議論は紳士的に*4

 

  • 猿倉信彦(某旧帝国大学 某研究所 教授)「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」

 高校生に古典教育は必要か?高校の必修科目として要るかどうか、という意味合い。結論としては私は不要と思う。もっと学ぶべきことが高校生にはあるからやめてほしい。日本の社会の発展の妨げになっている要素が大きい。国際競争力という観点から、現代において必要なものに対する接続が薄い。

 今回、このシンポジウムを引き受けた動機。今まではいろんな評価や日本の状況について、縦割りでよその話だと思っていた。が、餅を餅屋に任せていたら平成30年間で大変なことに。教育改革も進んでいない。学術的にも、日本の国際評価は低い。古典は教養と言われるが、そういうことを言う人が必要であるとする教養が必要な場面がなかった。…と言っていたところへ、こういう話がきたので世直しの一環として。

 自分の履歴(詳細は割愛)。55歳。富山の田舎で生まれたので、都会のセンスでいうと60越え。時代背景を言っておかないといけない。比較的田舎の、わりとトラッドな家で。学校教師の家庭。それなりに日本の文化には親しんできた。ちょうど計算機カシオミニが出だした頃で、そろばんをやっていたけど、もういいや、となった。万博でアポロを見て感動。
 高校が古典嫌いの始まり。そこそこ有名な先生だったが意見合わず。でも共通一次には古典がある。仕方なく勉強。当時はドイツ語が大学の入学試験にあった。それも結果として不要。字を綺麗に書けといわれたが、ワープロの登場で綺麗に書かなくてよくなった。その後、たまたまタイミングがよくて国立大学でいろいろやっている。がちがちの文化否定論者という訳ではない。美術鑑賞は趣味。
 大学で留学生教育にも関わっている。外国人が日本で生き残っていくためには日本語インターフェースが必要。そういうひとのための教育。専門でやっていることは、光と物質の間。エンジニアリングとサイエンスの間。

 教育というのは大学・高校でどうあるべきか。出資者は国とご家族。国への還元はGDPか競争力、個人への還元は収入か自己実現。高校生の時間は有限。優先順位の高いものからやるべき。大学は少子化の中で危機。ありようが違ってきている。
アジアの若者と比べると、日本の若者は戦える状態にない。急速に建て直さないと負ける。教育はあったほうがいいのではなく、なければいけないものであるというところに立ち返る必要。
 18歳人口はピークの時のほぼ半分。自由競争に任せていると半分くらいの大学がつぶれる可能性がある。文科省の政策によれば、一言でまとめると国立は理系重視、文系は私大にするぞという考え方。QSランキング*5は留学生を集めるのに大事。現実的には、大学はカテゴリ分けされる。国力のために戦う大学と、ビジネスの大学。どういう人を創りたいか考える時、ミッションの再定義ができていない。GAFA*6のような新しい産業を作れる人。(この前後、鈴木寛氏による論説をいくつか紹介*7。)日本は不景気なのにアメリカの景気がいいのは、新しいスタートアップが生まれてくるから。日本もできるようにしなくてはいけない。

 1.人口の激減。2.国際化の進行。3.日本の競争力の低下。国際化という意味は、電話や飛行機運賃が安くなった。行き来が容易に。昭和時代には日本は実質的鎖国だったと言えるが、そうでなくなった。教育の能率化しないと日本は貧乏になる。
昭和の時代は年功序列、終身雇用、男女雇用不均衡が当たり前。それを当たり前と感じた時代からはずいぶん変化。世界に繋がった日本、に、嫌でもなってしまう。その時に何が必要か。
 いま日本は、比較的シニアな人の層で持っている。もっと若い世代になると、人口的に戦ったときに持たない。日本人の英語力は世界でもかなり低い方。女性の社会貢献度も120位。労働生産力の低下。親の世代より悪い生活を歩みだす最初の世代になる。平均年齢をフィリピンと比べると、フィリピンは25歳、日本は45歳。人口が1億いてもほとんどが高齢者。

 そういうことを考えると、教育改革は待ったなし。高校生はもっと役に立つ学ぶべきことがあるはず。国語でいえば、企画書の作り方、発表、議論。短歌とか読めるよりいいのでは。英語力不足というのは発表下手、議論下手によるものでもある。

 ポリコレ*8のセンスの障害。年功序列や男女差別の概念。日本の映画がアメリカで上映できなかったり、コンテクスト選ぶ。日本の古典は、多くはポリコレに反している。結構リベラルだと思う人でも、年下、女性、外国人(アジア系)の上司ができたり、自分の配偶者が自分より出世すると嫌な気持ちになったりする。これは古典教育、儒教的マインドの弊害。

 どうすればいいか。哲学の部分には、一部悪くない概念がある。哲学は現代社会に持っていって、情緒的な古典は芸術科目として選択するのがよい。まったく触れないのはもったいないので、副読本として与えて興味のある人が見る。あるいはビジネスとして、大学のコスパのいい学術としては悪くない。そういうのはいい。
 また、外国に対してのコンテンツビジネスという視点はある。そのディスプレイの仕方を考える。日本の図工や美術の教科書は配っておくだけで説明しないが、それにより有名な作品を目にすることができたりする。

 高校教育の問題点。数学で行列を扱わなくなった。これが決まった時、関係者はほとんど知らなかった。縦割りがひどい。大学入試の改革はきわめて難しい。科目、配点なども。ちゃんと意見交換と検証できるようにしたい。

 各科目の単元を1時間なにか削って教えるとした時に、どれを教えたらその子の生涯収入が上がるか。古典文法か、行列か、英語か、その他か?たくさんの疑問。教育の中では、無くなってしまったものは色々ある。そろばんや習字もそう。これらと古典は何が違うのか、考えておいたほうがいい。

  • 前田賢一(某大手電機メーカー OB)「古文・漢文より国語リテラシー

 まず、古典とは何か。言葉を定義してから使いたい。古典はクラシックだが、日本の国語の中における古典はいわゆる古文漢文だが、ここでは、過去に表現された立派な内容、と定義。源氏物語もだが、プリンキピア、ベートーヴェンの第五楽章も、ミロのビーナスも含む。一方、古文というのは、古典が書かれた言語。日本の古文もだが、漢文、ギリシャ語、ラテン語も含む。

 私の主張は、古典というのは、内容で評価しましょう。内容というのは古い言葉であらわさなくても、現代文で表せば十分。高校以降の古文漢文は選択制にしよう。

 古文のファンの方には古文がないと古い文化は理解できないと言われる。本当だろうか。一面の真理はある。古文でないと分からない微妙なニュアンスはある。しかしそれを知る必要がある人は誰か?
 我々は古典の理系の文献、ニュートンなども読むが、原著で読むことはない。歴史の研究をする人には重要だが、理系の現状としては現代語訳で十分。古文漢文が必要というなら、それが必要なのは誰かということを問わなくてはならない。もし本当に原文が必須だというなら、ギリシャ語も知らなくてはいけない。ノーベル文学賞を外国人が取れる。現代語でも翻訳でも優れた内容は伝わる。

 たとえば、源氏物語の桐壷巻の冒頭。原文くずし字の画像と、現代語訳を並べる。現代語訳の方がずいぶん長い。もとの文のニュアンスがあるからで、もとの文で見た方がいいことはあることはあるだろう。しかし、それが必要なのは誰か。
 一方で、ニュートンのプリンキピアの表紙を画像で出す。これはラテン語。日本の古い文献が漢文で書かれたことと同じ。英語訳も並べたが、同様にラテン語訳の方がちょっと短い。ラテン語で読んだ方がいいことはあるが、だからといってラテン語を勉強するか。辞書使ってみたがすぐ投了。結局、日本語で書かれた教科書を読んで理解した。

 逆の質問をしてみたい。古文でないと伝わらないものがあるというなら、古文を勉強すれば伝わるのか。結論としては、伝わるものも伝わらないものもある。古文漢文なら、甲骨文字までさかのぼらなくていいのか。我々がものを見たり聞いたりして理解するとはどういうことか。頭の中に対象のモデルを作ること。立派なモデルなら正しい理解、しょぼいモデルではいい加減な理解。
 たとえば、バカとアホという言葉がある。同じか?関東人が関西に行ってアホと言われると、バカとは違う感じを受ける。私が見ている赤色と、あなたが見ている赤色は同じか。誰かは流血の色を見て怖いなと思った、誰かは恋人の赤い服をみていいなと思う。私が聞いた「バカ」のニュアンスと、あなたが聞いたニュアンスが同じかどうかは分からない。別の例として、ハムと聞いてなにを思い出すか?日本人の多くはソーセージ。英国人はハムエッグのイメージで卵を思い出す。言葉を聞いた時に頭の中で起こっている処理。
 人工知能の研究で分かってきたことは、頭の中で何かを考える時、意識に上らない処理はその何十倍、何百倍されているということ。言葉だけ同じで辞書に書いてあっても、始まらない。もしかすると源氏物語に出てくる言い方を聞いて、それが本当はどういう意味なのかは平安時代に戻らないと分からないのではないか。

 古文を知らないと教養がない、一流でない、という言い方もされる。それでは日本の古典を知らない外国人は全員一流でないのか。古文が大事だという日本人の多くは、ギリシャ語やラテン語ができないが、ヨーロッパ人から見たら一流でない…というわけでもないだろう。アインシュタインは古文(ラテン語)で落第をした。

 古文は教養だという主張もある。教養には色々ある。外国語も教養。漢文よりも現代中国語の方が役に立つとか、オペラを聴くならイタリア語も必要という考え方もある。東大王というクイズ番組あるが、クイズの知識も教養。美術音楽も、量子力学も教養。ケンブリッジ大学のディナーのハイテーブルでは文系の先生が量子力学を論じる。教養はものすごくたくさんある。強いられるものではない。自分がこれはいい、こういう知識を知りたいなと思って学んでいくもの。
 高校生が使える時間は限られている。その中で古文漢文に本当に時間を使っていいのか、という疑問を投げかけたい。

 国語の話題。国語にはリテラシーと芸術の側面がある。最低限のリテラシーとしての国語。外国から来られた学生さんに理解してもらう、それが最低限の日本語。最低限、自分の希望を伝える、相手の希望を理解する。正しい日本語の読み書き理解は、まだ不十分という説もある*9リテラシーの分が不足しているところで、芸術としての国語ばかりが重視されている。文学、芸術としての国語。多くの古文漢文はこれに含まれる。教科書に出てくる現代文も文学的なものが多い。たとえば文学の書き方を、予算書には使えない。

 誤解がなく伝わるような書き方をリテラシーとして教えてほしい。新聞の論説を見て、主張として何を言っているか、反対意見をまとめる力。会社に入ればビジネス上のメールの書き方。お客様と予算、仕様の話正しく伝えられるか。議事の進め方。議論、プレゼンのやり方。提案書、報告書、論文の書き方。論文は大学で先生が教えてくれるが、高校卒業した学生は知らない。教えてほしい。誤解のない文章の作り方。

 日本語は論理的でないといわれるが、ちょっと例示。「AはBである」は、「A=B」ではない。論理的にはそういう意味になる。たとえば「熊本県人は我慢強い」は、すべてではない、我慢強くない熊本県人もいれば、他の県にも我慢強い人はいる。論理的に一対一ではない言い方をしている。リテラシーとしての国語を教える必要。

 ただ、中学までには古典も含め全部習っていてもいいと思う。そこで出会わないと一生触れないままになるかもしれないから、カタログ的な意味で触れておくのはよい。高校以降は、文学も含めて芸術科目は選択にしてほしい。時間は有限。国語はリテラシーの方を教えてほしい。

 

 私は和歌史をやっている。なぜ和歌か、なぜ和歌は千数百年続いたか。その前提となることだけ言いたい。2点。1.参加型の文芸だったこと。作り手が読み手でもあり、主体的に関わることによってなりたっている。境界型。2.いろいろな文化領域と関わっていたこと。より広い意味の教育、政治的な教化、布教も含めた教育と結びついたこと。

 本題の古典の意義。古典は主体的に、幸せに生きるための知恵を授けるもの。

 自分は小西甚一古文研究法 (ちくま学芸文庫)』を読んだとき「徒然草は60にならないと分からない」と書いてあったことに、実際60過ぎてから納得。そういう時間をかけた学びが昔なら許されたが、今は許されないだろう。学校教育の場で、古典の何が興味深いか、語っていかなければならない。生活の潤いとか、そういう意義は求められていない。

 そこで意義を述べるなら、良い仕事をするために古典は不可欠。1つは指導力。人を指導するには情理を尽くすことが求められる。これがないと人を教え導けない。試験で見られるのは能力だけ、真価はないと学生によく言う。真価を問われるのは人を教え導く時。情理を尽くす、その時に必要なのが古典。ここで古典といっているのは。第二次世界大戦ぐらいまでの小説を含めた古典作品。古典を学ぶことが情理を尽くすこと。

 2つめには、良い仕事には優れた着想がかならず必要ということ。経済界の知人に聞いた話だが、日本の経済はまだ中小企業が支えている。その人たちは金が無いので知恵を出す。それが強み。実際自分の父も零細企業の社長で、いろいろ工夫していた。知恵を出すにはどうやって出すか。心の中にもやもやした状態が現れる、それが大事。それが整理されるときにアイディアが生まれる。心が複雑になって錯綜した状態を母体に生まれる。和歌というのはそのもやもやの作り方がうまい。着想の立て方。古典とはそういう知恵を与えるもの。
 なぜ現代文ではだめか?現代に限らず、古典に値しないものがある。一番基準に置くのは共生を感じさせるもの。現代の新しいものでも共生を感じさせるものなら古典になっていく。

 具体的に挙げる。反論のための反論するつもりではないので、教育に携わる人を念頭にいおく。徒然草の百三十七段。「花は盛りに、月はくまなきをのみ~」という、教科書にも取り上げられる有名な文*10。これは長いので教科書で全文取り上げられることはないのだが、教壇に立っている人は必ず全文取り上げてほしい。現代文では駄目なのか?大いに使っていいと思う。でも原文は必要。ことばに即して物事は考えられるので、ことばを知ることはどうしても必要。
 花は盛りに…という、こういう発想を彼はどこから得たのか?中世から既に彼独自の発想であると評価されている。歌人であった兼好が、歌人としての特色を生かしてこういうアイディアを得たのだろう。兼好には歌集があり、その中に「神無月のころ、初瀬にまうで侍しに…」という文がある。長谷寺に参詣することになったところ、和歌の師である二条為世*11に、紅葉を折ってお土産にしなさいと言われた。これは試験。和歌の先生なので、和歌を詠んでこいということ。ところがせっかく和歌を作ったのに、持って帰る途中で紅葉が散ってしまった。そこで「世にしらず見えし梢は…*12」と読んだら、その言葉の方が素敵ですという返歌があった。先生に褒められた、合格。これを踏まえて徒然草の文を見ると、花が散ったので見どころがないという文あり。歌を詠んで窮地を脱する、諦めていたらピンチこそチャンスというのを味わった。それを経て百三十七段のアイディアにつながったのでは。決まり切った美しさがある、と思い込んでは駄目ということを説く。固定観念の否定。
 第三段であれば、遁世者が見る月の美しさを語る。枝に隠れてあまり見えないのが美しいという。第四段は恋の話、逢えないのがいい。田舎者はひたすらに見ようとする、という。この部分は教科書に載りにくい。そして百三十七段の一番最後は、武士が死地に赴くときに死を覚悟する、遁世者は自然を味わって無常を忘れる、という。ここでいう武士は批判したかに見えた田舎者で、つまり自分の言っていることを最後にひっくり返している。情理を尽くした文章。その中に入ってこそ分かるもの。

 授業活動例。古典に参加する、の例として実際やった授業。五七五で物の名前だけを作らせて、それを再分配して、誰かの作った五七五に七七で感情をくっつけていく。誰のどういうものが当たるかわからない。偶然というものをどう捉えるか、偶然に対してどう自分の心を持っていくか。古典の世界には、それを遊びのようにして教育に用いていた伝統がある。そういう授業をやってもいる。
 心をいったん自分から切り離すということ。悩むのは、自分の心が自分のものであると思っているから。心を自分から切り離す術、これも幸せに生きていく上では必要なもの。その意味でも古典は学びがいがある。

 

  • 福田安典(日本女子大学 教授)「BUNGAKU教育を否定できるならやってみせてよ」

 ほとんどの方は初めてお会いする。自己紹介の後、自分の立ち位置について。それなりに豊かな国の納税者は、その対価として自分の国の文化を知る権利がある。その発掘と発信の仕事が自分の義務と考えている。日本の中高の国語教育に関わる雑誌を編集したりしている。

 学習指導要領が平成31年に大きく変わる*13。古典の割合が減った。既にこのことは分かっていて、高校では古典はどんどん選択になっていく。問題は平成31年度からどうするか。代わりに言語文化というものが入ってくる。文科省の定義によれば、いかにも古典というものではなくて、言語表現。こういう教育を受けてきた子たちを大学で高等教育の場で受け入れるのが我々教員。
 我々世代では、高校で文理を分けることが多かった。この理由は何だろうか。子どもの能力や好みに合わせた方がいいからか、両方を同じカリキュラムで教えるのが難しいからか。あるいは、それとも受験で受かるように効率よく教えるという教える側の都合か。小学校を思い出せば、理科の実験が好きだった本好き、朝顔や昆虫好きな本好きもいたが、そういう人も理系に行くと文系の学習から離れてしまう。
 著書*14を出した後で、理系の読書と文系の読書は違うのか?というトークイベントをした。その中で出てきた議論。漢文で書かれた江戸時代の医学書と文学書の画像を見ると、どちらがどちらか分からない。なぜこんなそっくりなものが生まれるか?という研究をした。医学書のパロディの戯作がとても多い。たとえば似たような漢文だが、片方は医学書、片方は文学書。これは葛根湯の説明。後者は葛根湯の説明をわざわざ漢詩文で狂詩にしたもの。これを片方では真面目に、もう片方では面白がって読んでいたというのが江戸時代。

 また平賀源内の本草学書「物類品隲*15」に「かあいまん*16」の説明がある。これが谷川士清「和訓栞*17」にそのまま引かれている。国学の本の中に、最先端のオランダを勉強していた平賀源内の文章が使われているのは意外なことだが、二人にはつながりがあった。

 自分は国文学に入って、理系学問とは全く関係なく国文学のことを調べたいのだが、「和訓栞」は、医学書本草学の方に目を向けないと使いこなせない。つまり作者と読者にとっては、医学書と文学書の両方を知っている必要がある。そういう時代が近代以前にはあった。お陰で私は理系の教育を受けたことがないにも関わらず、普通の研究者より医学書本草学書をたくさん読む生活をしている。

 その背景として、かつては文系・理系という対立概念が無かった。読む層が共通、読む本が共通。江戸時代に村落のリーダーたるべき人物に求められるのは、農書等の知識のほか、色々な素養。半分以上が漢文で書かれたもの。たとえば『医案類語』という書物では、漢文でカルテを書くための用例集を別に医者ではない儒学者が作っている。

 江戸時代の医学書農学書を読むためには漢文が読める必要があり、書誌学の知識トレーニングが必要。今の時代、どこの学部ならこの学習内容を保証してくれるか?崩し字で書かれたものも翻刻されていない者が多い。発信していくことが義務だとしたら、この字を読むトレーニングさせてくれるところが必要。誰かがその力を身に着けるには、高校までの古文や漢文を含んだ国語科の学習内容が必要。誰が天命*18に目覚めるか分からない、それまでは必要。お陰で最近はお医者さんの前で話すことが多くなった。
 2000年以降、フィリピン大学で日本の古典芸能に関心が高まり、学部が立ち上げられた。日本の古語、型、和楽、作法を学ぶ。謡で、古語を節づけで歌えるので、日本語ができるのかと思ったら話す方は英語しかできなかったりする。彼らにとって何が楽しいのか?フィリピンでは、他国の文化には憧れがあるのに、自国の伝統芸能を軽視する傾向がある。自国の伝統芸能が消えるかもしれないという危機感。
 サンフランシスコ条約から50年が立ったとき、アジアで責任と賠償を求めるデモがあった。フィリピンにも同様の動き。デモがあった時、フィリピンでは日本の伝統芸能をもう一度学ぼうとする動きが起きた。勧進帳を英訳するなど。それまでフィリピンで紹介されていた日本の古典芸能は2件くらいしかなかったのだが。

 これにより反対勢力も少し矛先が収まり、結果として、フィリピンにおける反日デモは縮小された。意外とそのことを知っている人がいない。日本の国際関係をつないだのは日本の古典芸能だった。日本が島国でありながら自国のの伝統芸能を大事にするということから、フィリピン人にも自国の伝統への関心を持たせることがフィリピン大学の狙い。

 今回の登壇により、医学書・フィリピン案件に光を当ててもらう機会となりありがたい。大学に勤めていると理系・文系の対立があるように思うが、今回登壇された否定派のい二人は、ここまでくるからには、自分たちの中に無意識に持っている日本文化の発信力に目覚めなさいということを言いたいのだろう。議論が変な方向にいかないように。

 

…ここまでで第1部終了。長いので続きは次回

*1:2017年と同じパターン。明星大学日本文化学科国際シンポジウム「世界の写本、日本の写本」を聴いた。〜前篇 - みききしたこと。おもうこと。

*2:古典は本当に必要なのか(明星大学日本文化学科シンポジウム) - YouTube

*3:#古典は本当に必要なのか:開始前に漲る期待と緊張 - Togetter古典は本当に必要なのか?第一部(前半)のお話 - Togetter古典は本当に必要なのか?第二部ツィートまとめ - Togetter

*4:本質ではないので割愛するが、挑発的なテーマゆえか、開催前に既に紳士的でない議論がなされていたそうだ。大変だなぁ。

*5:QS世界大学ランキング - Wikipedia

*6:GAFA(がーふぁ)とは - コトバンク

*7:「大学に文系は要らない」は本当か?下村大臣通達に対する誤解を解く(上) | 鈴木寛「混沌社会を生き抜くためのインテリジェンス」 | ダイヤモンド・オンライン。また、関係のありそうな記事はこちらにも。大学教育への投資は理系文系、地方中央でどこに重点を置くべきか | 鈴木寛「混沌社会を生き抜くためのインテリジェンス」 | ダイヤモンド・オンライン

*8:ポリティカルコレクトネスとは - コトバンク

*9:新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち

*10:校註日本文学叢書. 第5巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*11:二条為世 - Wikipedia

*12:元の歌を知りたいなと思ったら、この本にあるようだ:兼好法師 (コレクション日本歌人選)。余談だがここに辿りついたのはこちら(兼好法師/2011.4)のお陰。ビバ目次索引。

*13:学習指導要領等:文部科学省

*14:医学書のなかの「文学」: 江戸の医学と文学が作り上げた世界

*15:物類品隲 6巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*16:スライドでは挿絵があって、獣っぽかった。

*17:倭訓栞. 前編45巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*18:冒頭で述べておられた、日本人が自国の文化を知ることができるように発信していくこと=天命、という趣旨に自分は理解。