実録 亞細亞とキネマと旅鴉 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

13-05-2006 (Sat) 7週間ぶりの映画、9週間ぶりのとんき

[]『緑茶』(張元)[C2002-43] 『緑茶』(張元)[C2002-43]を含むブックマーク 『緑茶』(張元)[C2002-43]のブックマークコメント

7週間ぶりの映画は、黄金週前に前売りを買っていた、張元(チャン・ユアン)監督の『緑茶』(公式)。最終週になんとか間に合って、チケット無駄にせずに済んだ。

趙薇(ヴィッキー・チャオ)が、堅くて真面目で、毎日のようにお見合いをしては断られている大学院生と、誰とでも寝るピアニストという全く雰囲気の異なる二人(かどうかは知らないが)の女性を演じていて、彼女に惹かれる男、姜文(ジャン・ウェン)とひたすら喋りまくるという映画。内容についてはこれ以上書くとネタバレになるのでやめておく。会話が中心なので、前のめりになって「おもしろいっ」というような感じではなくて、引いて観て「うん、おもしろいね」という感じのおもしろさ。張元監督は劇中でちゃっかり趙薇とお見合いしている。

趙薇が魅力的に感じられるかどうかがひとつのポイントだと思うが、私は彼女の魅力はよくわからない。四大女優の中では最もなじみがなく、それと意識して観るのはこれが初めて(『画魂 愛、いつまでも』や『東宮西宮』で見ているらしいのだが…)。それから姜文だけど、この人の魅力もよくわからない。本作での役は、あまりかっこいい男ではだめで、かといって取るに足りないような男でもだめ。だいたいこういうときは姜文の出番。でも姜文が出るって聞いただけで「またかよ」と思ってしまうので、いいかげん別の人を見つけてほしいものだ。

趙薇はカフェなどでいつも緑茶を注文するのだが、画面に映る緑茶は、見ただけで飲んだのと同じ効果を発揮するように細工されていたらしく、途中からトイレに行きたくてたまらなくなったので、いまひとつ集中できなかった(本当は、今日はものすごく寒いのに、館内に冷房ががんがん効いていたせいだと思う)。

[]『夜よ、こんにちは(Buongiorno, Notte)』(Marco Bellocchio)[C2003-30] 『夜よ、こんにちは(Buongiorno, Notte)』(Marco Bellocchio)[C2003-30]を含むブックマーク 『夜よ、こんにちは(Buongiorno, Notte)』(Marco Bellocchio)[C2003-30]のブックマークコメント

2本目はマルコ・ベロッキオ監督の『夜よ、こんにちは』(公式)。移転後のユーロスペースにやっと行った。

1978年、赤い旅団によるアルド・モロ元首相誘拐殺害事件を、監禁場所のアパートを借りるところからモロ元首相の処刑まで描いた映画。事件のドラマティックな部分ではなく、犯人たちの日常をひたすら描いているところがおもしろい。日常生活には二種類あって、ひとつは主人公のキアラが職場で働いたり、親族と会食したりしている事件とは別の生活。もうひとつはアパートでの犯人たちとモロ氏との生活で、そこではモロ氏を取り調べたり手紙を書かせたりといったこともあるが、食事をしたり眠ったりという日常生活が犯人たちにもモロ氏にもある。そういった日常を繰り返しつつ、皆が知っている結末へと向かっていく。その中で映画は、外の世界での事件に対する反応やモロ氏の話などを聞くうちに、キアラが人質の処刑に疑問を抱き、悩む様子を中心に描いている(こういった人物が女性に設定されているところに多少引っ掛かりを感じるのだが)。

キアラ以外の犯人の心情などはほとんど描かれないが、55日にもおよぶ監禁生活によって、犯人とモロ氏のあいだには個人的な心の交流みたいなものもあったはずだ。だけど、モロ氏の死は赤い旅団にとって象徴的な意味をもつし、実は彼ら以上に政権側にとっても象徴的な意味をもつ。そういった個人的感情を越えたところで歴史が動いていく。これという結論を提示する映画ではないが、非常に心を動かされる映画である。

この映画を観て思い出すのは、1978年に作られた西ドイツオムニバス映画、『秋のドイツ』だ。1977年西ドイツでのテロに関連して作られた映画で、描こうとしているものはかなり異なるが、時代背景の近さなどからどうしても連想してしまう。私が初めてこの映画を観たのは、たしか初めての東京サミットの直前で、ものすごくぴりぴりした空気が流れていた。そんなこともあって非常に印象に残っているが、9.11後のこの時代にもう一度観直す価値のある映画だと思う。日本最終上映にも行ったので今は上映できないと思うが、ぜひDVD化などしてほしいものだ。

[]とんきのひれかつ定食 とんきのひれかつ定食を含むブックマーク とんきのひれかつ定食のブックマークコメント

ごはんは久しぶりのとんき。やっぱりとんきのひれかつはうまい。

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6時前に行ったということもあるけれど、雨のせいかいつになくすいていた。9週間ぶりだというのに、帰り際に3回も「毎度ありがとうございます」と言ってもらった。

[]『世界は村上春樹をどう読むか』(文學界2006年6月号) 『世界は村上春樹をどう読むか』(文學界2006年6月号)を含むブックマーク 『世界は村上春樹をどう読むか』(文學界2006年6月号)のブックマークコメント

村上春樹翻訳者を集めて開かれた国際シンポジウムの採録。ワークショップ1「翻訳の現場から見る村上ワールドの魅力」(案内人:柴田元幸沼野充義)、ワークショップ2「グローバリゼーションのなかの村上文学日本表象」(案内人:藤井省三四方田犬彦)の二部から成る。

ワークショップ1は、スピーカーが『スパナ』と『夜のくもざる』の2篇の短篇翻訳して、それをもとに語るというもので、村上ワールドの魅力というより翻訳の難しさがテーマ翻訳しにくい点として、固有名詞擬音語、時制、文字種の使い分けなどが挙げられていて、翻訳の問題としてはかなり一般的だと思うが、なかなかおもしろかった。私が考える村上文学の魅力のひとつは固有名詞の多用だが、これについては、その国で全く知られていないものや違う名前になっているものが問題にされ、様々な意見が出ていた。私は、その固有名詞もそれが指し示す物も全く知らなくても、そこに固有名詞が書かれていることが重要であり、安易に変えるべきではないと思う。それに今は、インターネットで検索すれば、たいてい(自分がわかる言語であるかどうかは別として)何らかの説明を得ることができる(でもどれだけ説明を読んでもわかったことにはならないのがまた固有名詞の奥の深いところである)。

ワークショップ2は、なぜ村上文学世界中で受け入れられているのかという点について語ったもの。案内人の提起した村上文学の文化的無臭性という問題に対して、これに反するものを多く含んだ、国によって異なる様々な意見が出ていて興味深い。日本に対するイメージ国民感情の違いと、村上文学の主人公と似たような経験をした世代の違いという二つの軸があるようだ。東アジア翻訳者が、村上春樹中国へのこだわりに対して敏感に反応しているのも興味深い。

私は、村上文学の受容あるいは村上春樹ブームに関して分析したものをそれほど読んだことはないが、たまに目にするかぎりではかなり表層的な分析のように感じていたので、ここで多様な要因が語られているのをとても興味深く読んだ。村上文学を本来受容しそうな層と実際に受容している層にはずれがある(実際に受容している層のほうが広い)と思うのだが、従来の分析はこのずれの部分に注目した分析であり、今回出ている意見は、各翻訳者村上春樹理解をかなり反映したものであって、「適切な読者」(そんな言い方をしていいのかどうかわからないが)に関する分析である、それが異なった結論として出ているといえるのかもしれない。

ところで、ワークショップ2の最後の四方田氏の問いについて、「内田樹研究室:『冬ソナ』と村上春樹の世界性」(LINK)で「言いがかり」と書かれているけれども、私は単に、「主要な言語で読まれているだけで「世界で読まれている」と言ってしまっていいのか」ということだと受け取った。実際、このシンポジウムスピーカーには、スペイン語アラビア語、ヒンディ語の翻訳者はいないわけで、このうちどの言語翻訳があってどの言語はないのか知らないが、これらがなければ割合としてはかなり少ないということになる(話者の多い言語だけカヴァーすればいいと言いたいわけでは決してない)。個人的には中国大陸翻訳者がいないのがとても気になる。

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