バンガロールに来ちゃったの(実録亞細亞とキネマと旅鴉) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

25-11-2006 (Sat) 第7回東京フィルメックス第九日(参加6日目)

[]『ワイルドサイドを歩け(頼小子)』(韓傑)[C2006-26] 『ワイルドサイドを歩け(頼小子)』(韓傑)[C2006-26]を含むブックマーク 『ワイルドサイドを歩け(頼小子)』(韓傑)[C2006-26]のブックマークコメント

朝から有楽町へ。今日の一本目、東京フィルメックス八本目は、コンペティションの『ワイルドサイドを歩け』。監督の韓傑(ハン・ジェ)は、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の助監督をしていた人らしい。賈樟柯が製作を担当しているということもあり、コンペの中で最も期待していた作品。

映画は、山西省の炭坑町に暮らす三人の若者を描いたもの。まず、この映画の色がすばらしい。荒れた丘陵の茶色っぽい土の色、石炭の黒っぽい色、それに枯れた草木の色。このこげ茶っぽいトーンで描かれる、樹木のない丘陵と炭坑の、荒涼とした埃っぽい風景。そこに射し込む、冷たくてやはり茶色っぽい日の光。どこまでも乾いた空気。その殺伐としたワイルドな雰囲気は、「西部」という言葉を否応なしに連想させる。もっとも山西省は、中国の中ではかなり東に位置しているのだが。美しいものなど何ひとつ映っていないのに、とにかく美しいフィルムである。

前半は、仕事もせずにブラブラして、いろいろとろくでもないことをしている三人を、引いた位置から淡々と描いている。やがて彼らが問題を起こして逃亡すると、三井弘次に金を持ち逃げされる…じゃなくて、仲間の中で最も邪悪そうな顔の二寶に金と車を持ち逃げされ、いろいろあって三人はバラバラになる。するとキャメラは主人公の喜平に少し近づいて、彼の内面をとらえていく。

喜平は、もともとそんなに悪人だったわけでもない。それがちょっとしたきっかけで犯罪を重ねてしまうことになる。しかしこの映画は、彼がとことん落ちていくのを描くわけでもないし、かといって立ち直るのを描くわけでもない。一人になった彼は父親に会いに行ったりいろいろしたあとで、すべてを引き受けようと決めて故郷に帰る。しかしそこで待っていたのは想定外の状況であり、結局彼は前にも後ろにも進めない。彼の葛藤や逡巡は、行動や台詞で明示的に示されるわけではないが、ものすごく生々しく伝わってきて、その痛みや切実さに心を打たれる。映画は何も解決しないところで終わるけれど、そこには「青春の終わり」といった気分が残る。観ていて『風櫃の少年』[C1983-33]とか『プラットホーム』[C2000-19]とか『さすらい』[C1976-03]とかをなんとなく連想した。

近くに炭坑があり、職はあるはずなのに、安全管理は不十分で、労働は過酷で、将来に何の展望もないそんなところで働きたくはない若者たち。この映画は、一方でいまの中国のひとつの現実、そしてそこにある問題を具体的に描いていて、一見それは私たちからかけ離れた、未知の世界のように見える。しかし実は、これはどこにでもある、普遍的な物語であり、私たちの映画でもある。

この映画のロケ地は、クレジットをちらっと見たところでは山西省孝義市だろうか。映画中に出てきた炭坑事故は孟南庄煤礦だったかと思うが、これは孝義市驛馬鄉にあるようだ。2003年に大規模なガス爆発事故が起こっている。中国の行政区分についてはあまりよく知らないのだが、山西省には地級市というのが十一あって、孝義市はその中の呂梁市にある。では住所は‘呂梁市孝義市’と書くのかというと、人民日報には‘呂梁地區孝義市’と書いてある。ちなみに孝義市は、賈樟柯の出身地、汾陽市(やはり呂梁市にある)の南隣である。

上映後は、韓傑監督をゲストにQ&A(採録はココ)があった。ワイルドな人を想像していたら、マイルドな人でびっくり。

ところで、公式カタログの主役の人の名前が間違っている。白培將という漢字が正しいとすれば、バイ・パイジァン(Bai Paijiang)ではなく、バイ・ペイジァン(Bai Peijiang)だと思う。

[]『激動の昭和史 沖縄決戦』(岡本喜八)[C1971-23] 『激動の昭和史 沖縄決戦』(岡本喜八)[C1971-23]を含むブックマーク 『激動の昭和史 沖縄決戦』(岡本喜八)[C1971-23]のブックマークコメント

今日の二本目、フィルメックス九本目は、特集上映・岡本喜八「日本映画のダンディズム」の『激動の昭和史 沖縄決戦』(映画生活)。昼ごはんは餃子が食べたかったが、フィルムセンターが満席になったら困るので、ニューキャッスルの辛来飯にしておく。食後のコーヒーも我慢。フィルムセンターに着くと、入口のスペースが人であふれていたので焦ったが、開場直前で移動していただけだった。最終的にはかなり入っていたが、料金が800円だと、見事なまでに常連さんがいない。

激動の昭和史 沖縄決戦 [DVD]

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私にとって、岡本喜八は特に好きな監督でも嫌いな監督でもない。観たのはどれもそれなりにおもしろかったが、そもそも鶴田浩二が出ているとかいった基準でしか観ていないので、今回も「全部観るぞー」といった気概もない。この映画を観ようと思ったのは、沖縄戦を描いていることに興味があったのと、チラシに「必見の名作」と書いてあったのにつられたのと、丹波哲郎が主演しているのとが理由。もちろん三番目の理由がいちばん大きい。ほかに『地獄の饗宴』も観たかったが、メイン会場の観たい映画とわざわざ重ねたかのようなスケジュールのため観られなかった。

『激動の昭和史 沖縄決戦』は、本土は沖縄を犠牲にし、軍隊は民間人を犠牲にするなかでの沖縄の悲劇を描いたもの。前半は、大本営との対立などもまじえて、沖縄の第三十二軍司令部を中心に描かれる。司令部で作戦立案の中心となるのは、長参謀長(丹波哲郎)と八原高級参謀(仲代達矢)の二人。作戦会議のシーンなんて、画としては全然おもしろくない映画も多い。ところがここでは、丹波哲郎と仲代達矢が話しているだけですごく絵になっている。要するに前半は、タンバを堪能するための映画である。一方の仲代達矢もなかなかよい(ファンじゃないけど)。役柄はタンバよりいい。司令官役は小林桂樹。ちょっと前までは、社長にこき使われたり婿養子で肩身の狭い思いをしたりしていた「日本一困った顔が似合う男」だったのに、すでに簡単ケータイをお薦めしそうな雰囲気であった。

後半は、司令部よりも実際の戦場や戦闘の描写が中心となる。兵士たちの戦い、徴兵された学生や徴用された女学生の活動、陸軍病院の様子、民間人の被害や集団自決など、様々なエピソードが積み重ねられていく。それはまさに、死体を積み上げながら沖縄戦を描いているといってもいい。手足もどんどん飛ぶし、『エレクション2』[C2006-22]もびっくりの描写もかなりある。「降伏」と「捕虜」という言葉さえ知っていれば助かったはずの命が、次々に無駄に失われていくのは見ていてはがゆい。小林桂樹と丹波哲郎が切腹するシーンもあるが、どうせ死ぬのに「外は危険だからここで」とか言っていて、ばかばかしいことこのうえない。

戦争などの被害においては、数値が問題になることが多いが、具体的な被害者を差し置いて数値だけが語られるのに違和感を覚えることが多い。この映画では、時おり数値を示しつつ、具体的な状況が描かれているので、たとえば「沖縄県民の三分の一が死んだ」というのがいったいどういうことなのか、実感としてよくわかる。想像力が決定的に欠けている最近の日本人に観てほしいと思う。

この映画は豪華スター映画ではあるが、丹波哲郎、仲代達矢、小林桂樹という主演陣をみてもわかるとおり、かなり渋めである。たとえば池部良。ファンじゃないけど(←いちいち断るな)、彼が出ると映画が締まるような気がする。『ワイルドサイドを歩け』を観て三井弘次を連想していたら、いきなりこっちに出てきてびっくりした。

作られたのは沖縄返還の前年。返還を前に一種の沖縄ブームだったのか、『博徒外人部隊』[C1971-21]や『日本女侠伝 激斗ひめゆり岬』なども同じ1971年に作られている。当時の製作意図はわからないが、返還された沖縄と本土がうまくやっていくためには、沖縄で何があったのか、本土側でもきちんと把握しておく必要があるといった認識があったかとも思われる。このような硬派な映画が豪華キャストで作られたということは、当時はいまよりもまっとうな社会だったのだろうと思う。

大本営で語られる言葉、「沖縄は本土のためにある」。この構図、この認識はいまも全く変わっていない。そういう意味で、この映画はきわめて今日的な意義を持ち続けている。

[]『流れる』(幸田文)[B1182] 『流れる』(幸田文)[B1182]を含むブックマーク 『流れる』(幸田文)[B1182]のブックマークコメント

『流れる』読了。

流れる (新潮文庫)

流れる (新潮文庫)

幸田文の文章は、中学だか高校だかの国語教科書に載っていて、私は嫌いだと思った。理由は忘れた。それ以来読もうと思ったことはない。成瀬巳喜男の『流れる』[C1956-14](asin:B0000XB5OM)は、この小説の映画化である。言うまでもなくとてもすばらしい映画だ。しかしそれは成瀬あってのものである。成瀬映画の場合、たいてい映画のよさや味わいと原作のよさや味わいとはほとんど関係がない。だから今まで『流れる』を読んでみようと思ったことはなかったが、文庫で読めるということに気づき、ふと読んでみる気になった。

先入観はなるべくおいて読んだつもりだが、やはり幸田文の文章は好きではない。文体も好きではないし、言葉の選び方や表記も気に障るものが多い。内容的には、女中の梨花が芸者屋の人たちを観察して思ったことや自分自身のことを語ったものである。それがとにかくしつこくてくどい。何を語るにも「私は」「私は」という感じの俺様小説なのが嫌だ。女性の女性に対する評価は一般に厳しいが(おそらく私が幸田文の文章をみる目にもそれは該当する)、「そこまで言うか」という域に達している。一方で梨花は芸者たちやくろうとの世界に惹かれているのだが、それを描くときの、ちょっと垣間見ただけの世界に対してわかったように語るお嬢様気質みたいなものも見苦しい。

映画版と比較すると、映画を観終わったときの感じ(「観後感」といった言葉はないものか)と小説の読後感はかなり異なる。季節の設定が異なっていて、小説は一貫して寒くて汚い世界(汚さの描写は閉口するほどにある)なのも一因である。また、映画では梨花を通して見た芸者たちの世界が生き生きと描かれているのに対して、小説では梨花の思ったことが前面に出ているためでもある。

登場人物は、勝代と梨花が映画と異なる。勝代は、小説では器量も性格も非常に悪いという設定である。映画では、勝気で無愛想なのは同じだが、器量は高峰秀子だし、性格も悪いわけではない。田中絹代が演じる梨花は、おなかの中で何を考えているのかは明示されないが、やはり小説と同じように考えているとは思えず、印象が異なる。

[]『ワイルドサイドを歩け』Q&A 『ワイルドサイドを歩け』Q&Aを含むブックマーク 『ワイルドサイドを歩け』Q&Aのブックマークコメント

東京フィルメックス2006の『ワイルドサイドを歩け』(id:xiaogang:20061125#p1)のQ&A(ゲスト:韓傑(ハン・ジェ))の採録(LINK)を、[亞細亞とキネマと旅鴉]の[映画人は語る](LINK)に載せました。[Meal MUJIで逢いましょう2006](LINK)からもたどれます。