バンガロールに来ちゃったの(実録亞細亞とキネマと旅鴉) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

24-11-2009 (Tue) 第10回東京フィルメックス第四日(参加三日め)

[]『セルアウト!(Sell Out!)』(楊俊漢/Yeo Joon-han)[C2008-32] 『セルアウト!(Sell Out!)』(楊俊漢/Yeo Joon-han)[C2008-32]を含むブックマーク 『セルアウト!(Sell Out!)』(楊俊漢/Yeo Joon-han)[C2008-32]のブックマークコメント

昼ごはんを食べてから出京。今日の1本めは、コンペティションのマレーシア映画『セルアウト!』。監督は楊俊漢(ヨ・ジョンハン)。ペナンに楊公司(Yeo Kongsi)という祠堂があって、日本語のガイドブックには「イエオ・コンシ」と書いてあったりするが、この‘YEO’(たぶん福建語)というのは「ヨ」と読むんだということがわかった。つまりミッシェル・ヨー(楊紫瓊)の「ヨー」ですね。

上映前に監督の舞台挨拶があった。「平日の昼間から来てくださってありがとうございます。みなさんが失業中ではないといいのですが」。すみません。失業中です。

『セルアウト!』はマレーシア社会を風刺したブラック・コメディ。メディアや家電など様々な分野を手がけるFONYという多国籍企業で働く男女ふたりが主人公。ひとりはテレビの司会者である華人女性、ラフレシア(Jerrica Lai)。もうひとりは家庭用大豆製品作成マシンを開発しているイギリス人と華人のハーフ、エリック(Peter Davis)。他の出演者もほとんど華人で、マレー人やインド系はほとんど出てこない。舞台が多国籍企業ということで、言語はほとんど英語だが、イギリス英語とマレー英語は区別されていて、その違いは重要な役割を担っている。広東語も少し出てくる。

バリバリのマレー英語を話して、イギリス英語を訛りと決めつけるCEOとか、社是までが他社(台湾企業)のパクリだとか、おつりに破れたお札を渡しておいて「それは破れているから使えない」と言い切る店員とか、笑えるところ、「あるあるー」というところはたくさんある。一口に「マレーシア社会を風刺している」といっても、民族を問わずマレーシア人やマレーシア社会を風刺しているところ、マレーシア華人を風刺しているところ、マレーシアに限らず華人・中国人に当てはまりそうなところなどさまざま。どれがどれと正確に分類することはできないが、なんでも祈祷に頼るところ、人気投票が大好きなところ、クリスチャンでもないのに英語名をつけてクリスチャン・ネームと呼ぶところなどは、華人・中国人全般に当てはまるのでは。マスコミに影響されやすく、テレビで紹介された途端に品切れになるところなど、日本人にも当てはまるところもたくさんある。

全体としては、視聴率のために良心も捨ててウケる番組を作ろうとするラフレシアと、オリジナルで高品質の商品を作ろうとしているのに、儲かる商品を作れと言われて葛藤するエリックを描いている。自分の作りたいものと要請されるものとのギャップとそれに基づく葛藤は、マレーシアに限らない永遠のテーマであり、要請されるものが、「売れるもの、儲かるもの」というお金のにおいのするものに限りなく近づいているのが、世界的に共通する最近の傾向であるといえるだろう。

楊俊漢監督は、この映画を作るにあたって大企業から出資してもらったということで、その際の、自分の作りたいものと商業的な要請とのあいだの葛藤をネタに、この映画の内容を考えたということである。基本的にはそれはストーリーに反映されているが、それだけではなく、監督が自分自身をパロディにしてるようなところもある。映画の冒頭で、ラフレシアのアート紹介番組のゲストとしてヨ・ジョンハンというアート系の監督が登場し、映画は現実を反映しなければならないと主張してミュージカルをけなしたりするが、この映画は途中で突然ミュージカル風になったりもする。アート紹介番組の中ではこの監督の短篇の一部が紹介されるが、そのシーンと『セルアウト!』のラストシーンが呼応しているのがおもしろい。

芸術映画と商業映画のあいだの葛藤は、映画のスタイルにも反映されているということで、アートっぽいスタイルから商業映画っぽいスタイルへ移っていくとのこと。そのへんはあまり意識して観ていなかったが、最後のほうで失速していくように感じられたのは、もしかしてそのあたりも影響していたのかもしれない。

FONYという名前は、有名企業のパクリの名前をつけてしまうマレーシア企業を表しているということだった(それってPENSONIC(公式)?)。ソニーがモデルではないということだけれど、そういえばかつて、ソニー製品は保証期間が切れると同時に壊れるというウワサがあった。

上映後の楊俊漢監督のQ&Aは、録画してYouTubeに載せるとかで下の階のスクエアで行われた。そこで聞いた内容のいくつかは上の文章の中に書いたが、詳細はフィルメックスのデイリーニュース(LINK)を参照のこと。

[]『朧夜の女』(五所平之助)[C1936-17] 『朧夜の女』(五所平之助)[C1936-17]を含むブックマーク 『朧夜の女』(五所平之助)[C1936-17]のブックマークコメント

前のQ&Aがけっこう長く、晩ごはんの時間が足りなくならないか心配で、最後のほうは気もそぞろだった。それでもなんとか終わり、問題なくMeal MUJIで晩ごはんを食べることができた。2本めは東劇に移動。ニッポン★モダン1930の五所平之助監督『朧夜の女』。

簡単にいえば、バー勤めの女(飯塚敏子)が学生(徳大寺伸)の将来のために身を引いたあげく病気で死ぬという、『婦系図』みたいなストーリー。『婦系図』とは違い、女が妊娠しているというのがポイント。こう書くと相当湿っぽい感じだが、実はぜんぜん違っている。いちおう主役はこのふたりだが、映画は、徳大寺伸の母・飯田蝶子、叔父(飯田蝶子の兄)・坂本武、その妻・吉川満子という、小津映画でもおなじみの三人を中心に、小市民喜劇ふうに進んでいく。

わたしは『婦系図』が苦手だ。恩師に反対されて別れるというのがどうにも納得できないので、悲劇を演じられても没頭できないのだ。しかしこの映画の場合、飯田蝶子がいかに徳大寺伸をかわいがっているかや、坂本武がいつも妹や甥の力になってあげているところ、のせられるとすぐになんでも引き受けてしまって吉川満子に怒られるところなどが、小市民喜劇のなかで非常に丁寧に描かれており、その後の展開や坂本武の犠牲的行動をすんなりと受け入れることができるようになっている。

笑って泣けるという感じの映画だが、感傷的にならない抑えたトーンで描かれており、無駄なシーンもなく、なかなかよくできている。わたしは今回のプログラムを見るまでこの映画の存在を知らなかったが、もっともっと知られていい映画だと思う。平日とはいえ夜の上映で、しかもたったこれ一回きりなのに、お客さんはかなり少なかった。もったいないことである。

実はこの映画を観たのは、徳大寺伸が主演だからである。『朧夜の女』、『按摩と女』[C1938-07]、『暖流』[C1939-09]と並べてみると、二枚目、三枚目、悪役とかなり役の幅が広いが、この映画では、まだ若い、寡黙な二枚目の徳大寺伸の魅力をたっぷりと味わえる。

舞台は同時代(1936年ごろ)の東京。ロケは隅田川くらいで、あとはほとんどセットだと思われるが、銀座のバーや、バー勤めの女性の一人暮らしのアパートなど、当時の風俗も興味深い。

他の出演者は、河村黎吉が坂本武の町内の旦那衆のひとりを演じていて、飯塚敏子のお葬式シーンで、なにげに秘密を嗅ぎつけたような素振りをしていたのが気になる。ほかに佐分利信笠智衆、大山健二などがちらっと登場。大山健二は、飯田蝶子が女中をしている牛鍋屋の客の学生。飯田蝶子は学生の宴会が会費内で収まるように気を配ったりするありがたい女中さんで、大山健二について、「あの人はほかの人の二倍は食べてますよ。会費を二倍取ったほうがいいですよ」と幹事さんに忠告する。これぞ大山健二というべき役。

[]『小津安二郎の反映画』(吉田喜重)[B164] 『小津安二郎の反映画』(吉田喜重)[B164]を含むブックマーク 『小津安二郎の反映画』(吉田喜重)[B164]のブックマークコメント

吉田喜重の『小津安二郎の反映画』読了。

小津安二郎の反映画

小津安二郎の反映画

出たときに買ったものの、途中で挫折して10年以上も放置していたが、『女優 岡田茉莉子[B1369]で言及されていたのを機会に読み直してみた。

ふたたび挫折しそうになりながらなんとか読み終えたが、文体が大仰でついていけない。ふつうの言い方をすれば、似たような感じ方や解釈をしているところも多々あるが、何を言っているのかを考える気もだんだん薄れてくる。繰り返しが多いのも嫌。『女優 岡田茉莉子』に繰り返しが多いのはダンナの影響か?

内容的にも大仰である。一映画ファンとして、「たかが映画」と言われるとムッとするが、この本を読んでいると「たかが映画だろう」と言いたくなるのを抑えられない。

吉田喜重もまた、『晩春』[C1949-01]の京都の旅館のシーンに近親相姦的な意味を見出している人で、それについて熱く語っている。しかしわたしはそうは思わない。だいたいそういうのは単なる男性の願望なんじゃないかとも思うが、わたしがそういう解釈をしないいちばんの理由は、父親役が笠智衆だから。

著者は次のように書いている。

 こうした俳優同士が他人としての男女であることによって、おのずから誘発される性的イメージと、与えられた役割が父と娘であるという制約によって、そうしたおぞましい近親相姦の妄想を禁じようとする抑圧とが、われわれ自身のなかでせめぎあい、わかちがたく共存する曖昧さこそが、まぎれもなく小津さんらしい映画の戯れであり、そのきわみであったに違いない。(p. 158)

「おのずから誘発される性的イメージ?だって笠智衆だよ?」と思いっきりつっこみたくなる。一般論としてはそういうことがいえるかもしれないが、それは父親役の俳優に依存するだろう。(年齢的なつり合いは無視して、)父親役がたとえば佐分利信なら、そういう解釈も成り立つと思う。また山村聰だと、生々しくなりすぎるのでやめたほうがいい(だからわたしは『山の音』[C1954-05]があまり好きではない←近親相姦ではないけれど)。でも笠智衆はあり得ない。わたしは笠智衆に性はないと思います。『晩春』の笠智衆は月丘夢路と、『秋刀魚の味[C1962-02]の笠智衆は岸田今日子と結婚すると思うが、それでも笠智衆に性はないと思う。

ところで、この本を読んでわかったことがある。

 流し釣りはまぎれもなく自然の摂理が作り出す、純粋なる反復運動であった。ふたりの人間がそれを同時に試みれば、渓流の水が釣り糸を同じ速さで下流へと運んでゆくかぎり、釣り糸は同時にぴーんと張られ、釣り竿は同じ弧を描いて寄りもどされ、ふたたび釣り糸は渓流に向かって同時に投げかけられる。それは意図して行われる反復ではなく、あくまで自然に、そして偶然にも実現される反復運動であった。(p. 91)

そうなんだ…。全然知らなかった。釣りをしたこともない、釣り竿を見たこともないわたしは、そんなことは想像だにしなかった(言われてみればそうだろうと思うが、でもそもそも釣りの原理がわかってない…)。『父ありき』[C1942-01]のあのシーンは、意図的であるかどうかはともかく、同時にお茶を飲むのと同様、人間が同期しているのだとばかり思っていた。

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