05-12-2009 (Sat) 恐るべきレイトショー
■[映画]『恐るべき子供たち(Les Enfants terribles)』(Jean-Pierre Melville)[C1949-15]
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遅めに出京し、飯田橋へ。ル・ブルターニュでガレットを食べてから、東京日仏学院のジャン=ピエール・メルヴィル特集「コードネームはメルヴィル」へ行く。東京フィルメックスでの第1部に続く第2部。日仏学院はアテネ・フランセとセットで敬遠しているので、実ははじめて。アテネは加藤泰やマレーシア映画も上映するので、イヤでも行かないわけにいかないが、おそらくフランス映画だけの日仏学院は、これまで来る機会がなかった。ゆっくり見る時間はなかったが、アテネ・フランセよりずっとおしゃれできれいで椅子の座り心地もいい。と思って評価を上げていたら、途中でフィルムのかけ間違いがあってがっかり。
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今日観たのは『恐るべき子供たち』。LDをもっているが、劇場では初見。ジャン・コクトーの原作も少なくとも2回は読んでいるはずだが、雪合戦しか憶えていなかった。その雪合戦に関しては、最初に小説を読んだときに自分なりのイメージができていて、映画はどうも違うと感じる。白い粉が舞っているばかりで、雪にも雪合戦にも見えない点も問題だ。
全体的には、コクトーが深く関与しているというか、たくさん口出ししていることもあり、文学的な世界が構築されている。文学的ではあるが、原作小説のダイジェストにはなっておらず、小説とは別の独自の世界になっていると思う。他の者を寄せつけない、子供たちだけの独自の世界とその雰囲気がうまく表されている室内のシーンがとりわけ印象的。
役者には不満が多い。10代の少年少女の役を20代の俳優が演じているので、その年代特有の善悪を越えた透明感みたいなものが感じられない。一般には、ポールを演じたエドゥアール・デルミットがごつすぎるといわれているようだが、わたしは彼にはそれほど不満は感じず、エリザベート役のニコル・ステファーヌが苦手だった。だいいちあまり美しいと思わないし、成熟しているというよりおばさんっぽいし、逆立ったような髪型もこわい。ただでさえエキセントリックな役なのに、派手に身振り手振りをまじえて演じているのも好きになれない。
ダルジュロスとアガートを二役で演じているルネ・コジマも、特にダルジュロス役が、ポールが憧れるほど美しくは感じられなかった。ただちょっと張國榮(レスリー・チャン)を彷彿させる点が、ポールとダルジュロスの同性愛っぽい雰囲気にリアリティを与えているように思われる。
マントにベレー帽に半ズボンにルーズソックスの中学生ファッションには魅了された。メルヴィルの映画には、毎回のようにベレー帽が出てくるのがうれしい。バッハとヴィヴァルディによる音楽もよかった。
■[映画]『千年の祈り(A Thousand Years of Good Prayers)』(王穎)[C2007-47]
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急いで恵比寿に移動。恵比寿ガーデンシネマで、王穎(ウェイン・ワン)監督の『千年の祈り』を観る。ワシントン州スポケーンで暮らす娘を北京に住む父親が訪ねるという、王穎版『東京物語』というか「スポケーン物語」。父親(ヘンリー・オー)は実の娘の宜藍(兪飛鴻/フェイ・ユー)に、再婚を勧めるのではなく、離婚の理由を問いただす。宜藍は、50年前には杉村春子でさえ面と向かって言えなかった「いつまでいるつもり?」を平然と問う。そして熱海ならぬアメリカ周遊の旅にやろうとする。
娘の部屋で新聞を読み、公園へ出かけ、イラン人のマダムとおしゃべりし、豪華な夕食(家庭料理で5品なんて見たことない)を作り、気まずい雰囲気で娘と食べる。毎日同じような父親の日常が、動かないカメラで淡々と描かれ、そこに少しずつ変化が加わる。娘は夜も家を空けるようになり、マダムは老人ホームへ入ってしまう。やがて父と娘は衝突し、父親は今まで言えずにいた過去の出来事の真相を語り、ふたりはいちおう和解して、少し関係を修復する。面と向かっては話しにくい父親が、壁を挟んだ隣の部屋にいる娘に語るのがいい。
言語についても興味深く描かれている。中国語で会話しながら気持ちを表せない父と娘。中国語で感情を表す方法を学ばなかったという娘の言葉は、東洋的な考え方の影響、言論の自由のない国で言いたいことを言えずに育ったこと、父親が家族に秘密をもつような家庭で育ったことなど、さまざまな意味を含んでいる。一方、つたない英語で会話する父親とマダムは、すんなり本音を言ってしまえるところもあるが、やはり見せたくない面についてはなかなか言えず、こうあってほしい姿を誇張して話したりもする。
なかなかよくできたいい映画だと思うのだが、頭でそう思うほど、感覚や感情に訴えてこなかった。ずっとわだかまりをもって生きてきたわりに、解決が早いと感じたせいかもしれない。娘がロシア人の彼氏と再婚に踏み切れないのは、彼の娘と自分を重ねているせいだと思われるが、そのあたりの今後のことについて、もう少し踏み込んでほしかったからかもしれない。この父親が、娘の離婚の理由をしつこく聞こうとしたり(親であってもそんなことを知る権利はないと思う)、娘の部屋や行動を探るのがかなりウザいからかもしれない。娘が「安全な街」と語る、マンションもバスも公園もやたらこぎれいなスポケーンの風景に、あまり魅力が感じられないからかもしれない。
ところで、いくらロシア人とつきあっているからといって、ロシア民謡のCDにマトリョーシカというのはあまりにわかりやすすぎだと思う。せめてチェブラーシカにしてほしいものである。
最近多いような気がするが、これもパンダ映画。パンダのぬいぐるみ(タグがついたままのように見えたが…)とパンダ柄のマグカップが出てきた。
■[映画]『ワカラナイ』(小林政広)[C2009-26]
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恵比寿ガーデンプレイスで適当に晩ごはんを食べて、渋谷へ移動。ヒューマントラストシネマ渋谷のレイトショーで、小林政広監督の『ワカラナイ』を観る。「レイトショーは観ない宣言」をしてからずいぶん経つが、これはいつのまにかレイトショーに変わっていて、知らずに前売りを買ってしまったからしかたがない。
頼る人のない母子家庭の高校生の少年が、母親の入院、死亡で貧困にあえいだあげくにとる行動を描いたもの。前作の『白夜』[C2009-06]はちょっと期待外れだったが、これは紛れもなく小林政広印の映画だった。主人公を取り巻く貧困、笑わない主人公と頑なな性格、主人公に時に寄り添い、時に突き放して追うカメラなど、いろんな点で『ロゼッタ』[C1999-19]を連想させる。
母親が生きている前半は、少年(チラシには「亮」と書いてあるが、映画には出てこなかったと思う)の日常が描かれる。少年を演じる小林優斗は、かすかに怒りをたたえたような無表情な顔が、時には子供に、時には大人に見え、圧倒的な存在感がある。日常の多くは走っているシーンと食べているシーンが占めていて、大食い番組のような豪快な食べかたもいいが、フラフラと走っている姿がすばらしい。
やがて母親が亡くなると、どちらにしても犯罪になるというぎりぎりの状況での少年の選択を描き、そこで「じゃあ、僕はどっちにすればよかったんですか?」と絞り出すように言わせている。ここはやはり魂を揺さぶられる場面だが、一方で、ほんとうにぎりぎりの状況であるというリアリティが感じられなかったため、違和感もあった。病院は、未成年相手に金を払えと言ったり葬儀屋を差し向けたりしてもどうにもならないはずで、学校の先生や町内会長や民生委員や母親の職場の上司と連絡をとるのがふつうだと思う。そうすればまだどうにかなる道があるはずだ。舞台はかなり田舎であり、そこで未成年がひとりで対応しなければならないという状況は想像しにくいし、そうなるべき事情があるならば描いておくべきだと思われる。
少年がすべてを自分で抱えこみ、人に頼ろうとしないのは、もしかしたら誰も助けてくれないことをこれまでに知ってしまっているからかもしれない。しかしどちらかといえば、自分で自分のまわりに壁を作り、ひとりでもがいているように見える。そういう可愛げのない態度が、逆にまわりの人に対して彼を大人扱いさせてしまっているのかもしれないけれど。
しかしラストまで観たとき、この映画は、少年を取り巻く厳しい現実や絶望よりも、彼がひとりで生きることをやめるまでを描きたかったのかもしれないと思った。アントワーヌもワレルカも、早くオトナになってひとりで生きようとするけれど、亮はひとりで生きようともがいたあげく、頼るべき人に頼って生きることにしたのではないかと。彼はそうすべきだし、父親には彼を受けとめてあげてほしいし、また受けとめるべきだ。そういう期待や希望がこめられているのではないか。
冒頭とラストで主題歌の『Boy』がフルコーラス流れる以外、音楽はない。その代わり、食べる音をはじめとした生活音が誇張気味に聞こえていて印象的。ちなみに冒頭の主題歌は、画面に何も映っていない状態でフルコーラス流れる。暗いところで暗闇を見ているのは辛い。歌を聴くだけなら目を瞑りたいけれど寝てしまったら困るのでそれもできない。わたしを発狂寸前にさせる意図がワカラナイ。
終わったらダッシュで飛び出して帰ったが、寝たのは午前2時半。レイトショーは敵だ。