前秦世祖苻堅陵

前秦世祖苻堅陵
後漢末期以来、社会は戦乱によって不安定となり、西北辺境地域の匈奴、羯、氐、羌、鮮卑などの少数民族は内陸に移動して中原の漢族と雑居するようになった。西晋晩期になると支配階級による政権争いのために“八王の乱”が起こり、各少数民族はこの機会に乗じて決起し、その中の有力な十六の国が争う十六国時代となった。十六国の中では長安に都を置いた氐族苻氏の前秦が最も勢力が盛んだった。前秦は351年から394年まで44年続き、羌族の姚萇の後秦に滅ぼされた。苻堅(338−385)、字は永固、略陽臨渭(甘粛省秦安東南)の人。357年、残虐で暗愚な君主であった苻生(苻堅の伯父で苻健の子)を殺し。自ら大秦天王を自称する。苻堅は氐族の傑出した政治家で、自ら漢族文化の良い部分を受け入れた。王になると、大胆にも漢族の貧しい書家の王猛を丞相に抜擢し、中央集権を強化し、内政を整えるとともに国力を強化した。その結果、氐族の漢化を大いに促進し、関中の経済は急速に発展した。370年から376年まで、前秦は17年をかけて各地に攻めこみ、前燕前涼を滅ぼし、晋から梁州(陝西南部)と益州(四川)を奪い、さらに西域諸国に朝貢させて華北地域を統一した、383年秋、苻堅は王猛の生前の遺言や大臣の制止を聞かず90万の大軍をもって晋を攻撃するが、淝水の戦いで燦燦たる敗北を喫した。この結果、前秦華北統一は崩壊し、鮮卑慕容部が反乱すると河北では燕が復活し、羌族の姚萇も裏切った。慕容部が長安を攻撃すると、苻堅は礼泉県の五将山に逃れ、再起を企図したが姚萇に殺された。苻堅の墓は現在の彬県大仏寺の南静光寺にある。
住所:彬県 電話:
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