Hatena::ブログ(Diary)

歓楽叶わぬ納骨堂庭園

写真/[MONO]


2016-08-14

出会ってくれて有難う

「読ませてよ - ノイズなツブヤキ」

これからもゆっくりとでいいから読ませてね。そう思ってる人は他にもきっといるはずだよ。


私の記事を読んで書いてくれたのだよな。あなたにしろ、あの彼女にしろ、何時も私を見守ってくれ、私の動向を気にかけてくれ、私はこの上ないほどの幸せ者なのだなと思うよ。たとえ、私が密かに思う誰かに全く見向きもされずに意気消沈していたとしても、あなた方は私に人としての自信をつけさせてくれる存在である事は確かな事だ。こんな私であっても、私に関わって下さる人は確かにいる。それがわかっただけでも私は私として立ち続ける事が出来る。だから此の侭佇んでいよう。せめて、あなたたちの為に。ああ、そうだね。本当に出会えて良かったと、私もそう思うよ。心から「有難う」を捧げる。

2016-08-12

読んでいるよ

メロメロメリッサ■

いつもアタシの書くものを読んでるよって言ってくれた人も過去にいなかったわけじゃないけど、今はもう誰も「読んでるよ」と言ってくれる人はいないわ。結局は彼と同じでアタシも「永遠」を求めていたのかもね。そんなものどこにもないっていうのに。誰も「永遠」になってくれないわ。



誰かと比較して自分はこうであると書く事に意味はない。あなたが御自分を卑下した物言いをしたとしても誰も同情はしてくれないよ。それは私もそういう書き方をした経験があるからわかったことだ。同情どころか嫌悪感しか見せてくれない。あなたは嫌悪感を持ったからそんな記事を書いたのだろう。とは言え、その嫌悪感のおかげで何かを書いたわけだ。つまり、読みたいと思う人の記事が読めるわけだから、全く意味がないとも言えぬ。そして、何処かの誰かは、私に書かせたあなたを評価しているやもしれぬ。それが真実でないとしても、そう信じる事であなたは幸せになれるはずだ。私は幸せだよ。あなたが過去にどんな罪を犯していようが、私はあなたに「永遠」を感じている。こんな私に諦めずに関わってくれるからだ。それを表明してくれるからだ。その事実が真実。有難う。その言葉をあなたに贈る。

2016-04-01

海に行きたい


幼い頃に見た海を今はもう何処にも存在しない砂浜に立ち見つめたい。

父と母と小さな弟と四人で見つめたあの海を。

もう二度と四人が揃う事は無いという現実が我を打ちのめす。

そしていずれ自身も消え去る。

そんな時に耳に聞こえるだろうこの歌を。

どうかあなたに知っていて貰いたい。

さようなら。

そして有難う。

2015-05-17

どんなものでも面白い物は面白いのだ

「太閤加速 - スピード楡男」を読んで。


日記は、身辺の具体的なことが書いてあるほうが面白い、と最近は思う。より正確に言えば、必要な情報を包み隠さず、自らの思考や心情を素直に、書いた(であろう)文章がよいと感じる。やはり、虚飾はよろしくないと思う。それは虚飾が面白さでは真実(とまあここでは言ってしまいますが)になかなか勝らないからかもしれない。たんに僕が具体的な現実をひとより欲しているのかもしれない。具体的な情報があるほうが、言いたいことはずっと理解しやすくなる。一般論ばかり語ってる自分は、だから、だめだ。顔の見えるインターネットに!。



楡氏の書かれる日記は全てを読んだわけではない。だが、幾つか読んだ内容は確かに日記といわれる内容を書いていると言える。私も氏の言われるような日記を読む事は好きだ。だがしかし、同時に虚飾された内容であっても面白いと思うし、虚飾が真実に負けるとも思っていない。もっとも、ウェブ上に散乱する書き物で真実であると謳われているものが本当に真実であるか、それとも虚飾であるかなど、誰にもわかりはしないのだ。だから、書かれていることが真実であるか、虚飾であるかは、面白さには全く関係しないと私は思うのだ。


最近ではなかなか他人の日記を読む事が難しくなってきている。時間がないということもあるのだが、恐らく精神的に余裕が無いのだろうな。心が疲れていると活字を見るのも苦痛になるようだ。読みたいと思う人の日記も読めぬのはつらい。今宵は静かな曲を流しながら月でも眺める事にしようか。就寝する前の僅かな時間に。

2014-02-18

消えて欲しくない

「ネットからいなくなっても変わりなく世界は回り続ける - あざなえるなわのごとし」を読んで。


誰がアナタの飯の時間を知りたい?

誰がアナタの感想を聞きたい?

誰がアナタの生活を知りたい?

アナタの見解なんてどうでもいい。ただのTLを流れるゴミの一つ。

凡百のよくあるごく普通の凡人ブログの一つ。

なんの特徴もない。


「アナタがネットからいなくなっても、何も変わらず世界は回る」


このブログにしたってそうだろう。

いつ終わって廃墟になったところで誰も気にしない。

テレビ番組が一つ終った程度の感傷がしばらく残るだけ。

どこかの増田

「昔、あざなえる〜ってキチ●イみたいなブログがあったけど…」

と懐かしむ記事が書かれる日が、いつか来るんだろう。


だからネットに夢中にはならない。

同じ時間で雪かきしてる方がいい。



確かに、私が、あなたが、ネットからいなくなったとしても世界は変わらず回り続けるだろう。その通りと言うしかない。だが、それは正論だ。少なくとも私にとって正論はくだらないものでしかない。何故くだらないと思うのか。誰かがネットからいなくなったとしても、その誰かが私にとっていなくなって欲しくない人であったならば、変わらず世界が回り続ける事を許せないと思うからだ。極論を言うと、己にその力があったとしたら、消えて欲しくない誰かが消えた事で絶望を感じて、全てを消してしまいたいと私はなるからだ。今の時点では記事を書かれた方は私にとっての消えて欲しくないとは思ってはいない方ではあるが、何時か消えて欲しくないと思うに至る可能性は無きにしも非ず、だがな。だがしかし、この方に消えて欲しくないと思っている誰かが何処かにいるはずだ。いないとは思えぬ。こんな私であっても消えて欲しくないと思って下さる方はいるからな。だから、この記事を書かれた方のブログが廃墟となってしまったとしても、何処かに必ず気にしてくれる誰かはいるはずだ。それにしても、凡人でない方に限って己を凡人と言うものだ。そんなことをこの方の記事で思ったよ。

2013-12-22

Danke


「後悔|やんぬるかな」を読んで。


 どんな人生を送っても、後悔したと思う

 それでも、今の人生を生きなければあなたと出会わなかったと思えば、この人生も悪くなかったと思う



そんな風に誰かに思ってもらえる、そんな存在になりたかった。

2013-12-17

Gluckwunsch

「how|やんぬるかな」を読んで。


 どんな恋人よりもわかりあえてると思う

 どんな実際の知り合いよりもわかりあえてると思う


 こんなにもつながりあえているのに

 こんなにもつながれない苦しさを

 ジグソーパズルの悔しさで

 どうにか紛らわせているんです


 お互いが対象でない心地よさを惨めさを

 呪いましょうか、祝いましょうか



moppara氏の書く文章は相変わらずだな。(笑)

私にも居る、どんな恋人よりもわかり合えている相手が。そして、どんな実際の知り合いよりもわかり合えている相手が。ただ、それは私がそう思い込んでいるだけだから、本当はわかり合えているというのは己の勘違いなのかもしれぬ。だが、わかり合えない方がもしかしたら幸せなのかもしれないと思うよ。そこには尽きぬ興味が存在するからだ。それが私は心地良い。たとえ繋がり合えない苦しさがあったとしても、その苦しみは甘美な痛みとして私を心地良く苛むからな。成程、私は精神的マゾヒストなのかもしれぬ。(笑)

2013-12-16

誰が私に気付くだろうか


「今年一年、ブログを書く目的や欲求のアップデートを怠っていた - シロクマの屑籠」を読んで。


もう一度書くが、この私がブログを書く目的は「読んで頂きたい方に読まれたい為」と「ブックマークを頂きたい方に貰う為」と書いた。それが果たされたのだから、私はもうブログを書く理由は無いと思ったのだが、当初の目的の先に、新しく読んで頂きたい方、ブックマークを頂きたい方が出来てしまい、書き続けたいとなったわけだ。


「自分を表現する手段」とはどういうものなのか、もう少し真面目に考えてみようと思う。ブログインターネットも、あくまで手段であって目的ではないし、まして欲求そのものではない。「ドリルに熟達することは手段でしかなく、穴を開けることこそが目的」って比喩と同じように、ブログやネット処世術に熟達することは手段でしかなく、自分には自分なりの目的や欲求があった筈だ。そこらへんと向き合ったうえで、来年ブログに書くべきこと、やるべきことを考え直していかなければならない。


p_shirokuma氏が書かれているように、私もブログは「自分を表現する手段」だ。そして、目的は先に書いた通り、読んで頂きたい方に読まれる為、ブックマークを頂きたい方に貰う為である。が、しかし、以前であったら、読まれたい相手は他人にもわかりやすく、つまりはリンク先、引用先がその読まれたい相手であった。だが、何時の頃からか、その読まれたい相手はリンク先の筆者だけでなく、別の特定人物へも期待を込めるようになっていったのだ。そちらの方はその相手に私の気持ちは知られたくなかった。知られたくなかったのだが、気づいて欲しいという気持ちは抱いていた。本当に私という人間はひねくれていると自分でも思うよ。


さて、こういう場所で書いているのだから、リンク先に読まれるという事もほとんど無いだろうな。だから、何の為に書いているのか……それはもう此処の存在を気付いて下さる「あなた」に他ならない。

2013-12-14

病み上がりの書く文章は如何かな?

既に消させて貰ったが、ブログに掲載していた最後の記事に幾つかのブックマークがついている。あの記事を書いたのは誰であるか、此処で語るのは野暮というもの。たとえ、あれは私が書いたのだとしても恐らく誰も傷つかないだろうから、あえて筆者が誰であるかは積極的には書かない。とはいえ、確かにkuroihikari氏が書かれている通り、死という相当シリアスな内容であるから、本当は生きていたのだと告白するのは性質の悪い冗談だと指摘される事だろう。だが、死にそうになったことは確かな事で、そろそろ私もネット世界から足を洗うべきかとあの頃思うようになっていた事もあり、死にかけた事をきっかけにネットでの私は死んでしまおうと思ったのだ。


もともと、ズーラという名前でブログを書こうと思ったのも、読んで欲しい方に読んで貰う為、ブックマークを欲しいと思った方にブックマークをして貰いたいが為、その為だけに書き出したのだ。そして、それを果たしたのだから、何時やめてしまってもよかった。目的は達成したのだから。だがしかし、あそこで書く事で、新たな絆が出来、こんな下手な文章でも「好き」と言って下さる方々まで出てきて下さって、多少の欲が出て来てしまった。私の書く物を楽しみにして下さる方々の為に書いてみようかという、そんな欲が。だから、私は書き続けた。所が、死にかけた事で、少々精神的に危うくなって、暫くは何かを書く事を封印した方が良い、やはりそろそろ潮時だなとなり、私は書く事をやめた。


しかし、またこうやって書いている。とはいえ、以前のようにはもう書けないのだが。書くという行為は書き続けないと書けないものなのだ。現に、私は以前の書き方を忘れてしまった。今の私の文章を読んで、これは本当にズーラさんの書いた物なのだろうかと思ってしまう方も出てこないとも限らない。このサイトは私が友人に頼んで管理して貰っているので、その友人が書いていないとも限らないと思う方もいるだろうからな。これはもう読んで下さる方が信じて下さるか如何かにかかっているわけだ。そして、たとえ信じて下さらなくても私には何も言えぬ。信じてくれとは。それもあり、あちらのブログではなく、こちらに最新の記事を掲載しておくことにする。あちらのブログよりはこちらの方が見ている方も少ないだろうから、それほど誰かに影響力を与えると言うこともないだろうからな。此処をリンクして下さってる方は僅かなはず。アンテナに登録している方のどれくらいの方が此処の存在を知っているか知らぬが、恐らく、私が読んで欲しいと思っていた方、ブックマークを欲しいと思っていた方は此処の存在は知らないだろう。だがまあ良い。もうその人に対しての執着心は無いからだ。


それにしても、私が一体誰であるか、以前、何人かの方がご自分の場所で書かれているのを見たことがあるのだが、此処に言っておこう。その何人かの方の一人が書かれていた事は真実だと。


その通りだよ。あなたの言う通りだった。勿論、いずれはわかってしまうだろうと思って様々な伏線は張っていた。所が、意外にも誰も私を詮索する人は出てこず、結局はこのままの私で書き続ける事になってしまった。恐らく、私は疲れてしまったのだろうな。だから一旦リセットしたかったのだ。だが、矢張り戻ってきてしまった。もっとも、昔のように精力的に活動は出来ないのだが。それでも、これからは無理のない程度に書いてみようと思っているよ。此処も、そしてもう一つの私の場所も。それでも良ければ読み続けてくれ。と、その方が此処を読んでいるとは思えないのだが、それでも私信として此処に残しておく。

2011-01-25

幻想の優しさ


「読みたい。 - ひびのき」を読んで。


「ありがとうな気持ち - のきにっき」を読んだ。まず最初に筆者に「有難う」の言葉を送る。私のあなたへの言及記事があなたに受け入れられた事を嬉しく思うよ。このように誰かの心に深く刻まれるようなものを書けた。それだけで私という人間の存在価値が見出されるというものだ。

深く刺さるという事は悪い事ばかりではない。その受け取り方と反応の仕方でその人にとって良い方向へ向く場合もある。私は刺さるものを書いてしまう者よりも受け取る側の受け取り方で揉め事の大半はそれほど最悪の状況にはならないと思うのだ。

確かに、書かれている文章だけでは、その人がどのように受け取ったのかを証明は出来ない。「有難う」と書かれていたとしても、それを感じられない事もあるだろう。中には悪意を持って「有難う」と投げかけている者もいよう。それを知る術はない。「有難う」を言った本人にしか、それはわからないからだ。だから、その言葉を信じるのも信じないのも投げかけられた相手に委ねられる。たとえ悪意から発せられた耳障りの良い言葉だったとしても、私はその人を信じたい。後に裏切らていたのだと知ったとしても。私は信じ続けるよ。お目出度く愚かで馬鹿な人間だと蔑まれようとも。私も誰かを裏切った過去がある。それを許してくれとは言わないが、私は私を裏切った誰かを許したい。


D


その人と出逢い、別れ、何時の日かまた逢えることは決してないことはわかっている。だが、夢にまで見たのだ。その人との出逢いを。私が向けた悪意をそのまま受け取り去っていったその人を。その真意をわかろうともせずに。いや、そうじゃない。わかっていないのは私の方だったのだ。最初から私たちはわかりあえることはなかった。そんな歪な関係だったのだから、当然の結果だ。これからも私は誰かの書いたもので心抉られ続けるのだろう。そこに書いた者の幻想の優しさを感じつつ。書いた当人にとっては不本意だと感じることもあるだろうがな。