Hatena::ブログ(Diary)

歓楽叶わぬ納骨堂庭園

写真/[MONO]


2018-03-24

友人とは一体何だ

友人の定義とは何だろう。何時も一緒にいるからだろうか。それとも何事か起きた場合に迷わず手を貸してくれるからだろうか。私にはわからない。勿論、その人その人にとっての定義は違うのだろう。何時も甘やかしてくれるのがそうかもしれないし、厳しく接してくれるのもそうかもしれない。だが、一つ言えるとしたら、それは互いに「好ましい」という感情が有るか否かではないか、と。それが基本であり、その先は互いの決まり事で友人と呼び合うかどうかなのだろうな。それを踏まえて己を顧みる。


相手を「好ましい」と思う事は過去に何度もあった。そして、その人と友人になりたいという欲求も人並みにあった。だがしかし、私が好ましく思う相手は何時も私を好ましく思ってはくれなかった。自分が誰かにとって不快な存在であるという事もあるという事象は受け入れ難いものだ。それでも、そんな私であっても好ましいと言って下さる方もいないではない。とはいえ、だからといってその方を私が好ましく思うかどうかはまた別だ。私の性格が悪いのかもしれないのだが、どうしても相手からの告白で関係が上手くいくことはなく、私は私を好ましく思って下さる方をことごとく好ましく思った事がなかったからだ。


その様な訳で、私には友人はいない。昔から一人もいなかった。私が一人でそう思っていただけで、誰も私のことを友だとは言ってくれた人はいなかった。それはそうだ。こんな私が「あなた」の友人になれるはずがなかったのだ。私なりに努力したつもりだったのだが、その努力をもってしても駄目であるとしたら、私はもう友人をつくることはやめた方がいい。そう思ったよ。そして、私は死ぬまで友がいないという不幸を背負っていく。私はこのまま不幸のまま死んでいくことにするよ。

2016-04-01

海に行きたい


幼い頃に見た海を今はもう何処にも存在しない砂浜に立ち見つめたい。

父と母と小さな弟と四人で見つめたあの海を。

もう二度と四人が揃う事は無いという現実が我を打ちのめす。

そしていずれ自身も消え去る。

そんな時に耳に聞こえるだろうこの歌を。

どうかあなたに知っていて貰いたい。

さようなら。

そして有難う。

2015-05-17

どんなものでも面白い物は面白いのだ

「太閤加速 - スピード楡男」を読んで。


日記は、身辺の具体的なことが書いてあるほうが面白い、と最近は思う。より正確に言えば、必要な情報を包み隠さず、自らの思考や心情を素直に、書いた(であろう)文章がよいと感じる。やはり、虚飾はよろしくないと思う。それは虚飾が面白さでは真実(とまあここでは言ってしまいますが)になかなか勝らないからかもしれない。たんに僕が具体的な現実をひとより欲しているのかもしれない。具体的な情報があるほうが、言いたいことはずっと理解しやすくなる。一般論ばかり語ってる自分は、だから、だめだ。顔の見えるインターネットに!。



楡氏の書かれる日記は全てを読んだわけではない。だが、幾つか読んだ内容は確かに日記といわれる内容を書いていると言える。私も氏の言われるような日記を読む事は好きだ。だがしかし、同時に虚飾された内容であっても面白いと思うし、虚飾が真実に負けるとも思っていない。もっとも、ウェブ上に散乱する書き物で真実であると謳われているものが本当に真実であるか、それとも虚飾であるかなど、誰にもわかりはしないのだ。だから、書かれていることが真実であるか、虚飾であるかは、面白さには全く関係しないと私は思うのだ。


最近ではなかなか他人の日記を読む事が難しくなってきている。時間がないということもあるのだが、恐らく精神的に余裕が無いのだろうな。心が疲れていると活字を見るのも苦痛になるようだ。読みたいと思う人の日記も読めぬのはつらい。今宵は静かな曲を流しながら月でも眺める事にしようか。就寝する前の僅かな時間に。

2014-02-18

消えて欲しくない

「ネットからいなくなっても変わりなく世界は回り続ける - あざなえるなわのごとし」を読んで。


誰がアナタの飯の時間を知りたい?

誰がアナタの感想を聞きたい?

誰がアナタの生活を知りたい?

アナタの見解なんてどうでもいい。ただのTLを流れるゴミの一つ。

凡百のよくあるごく普通の凡人ブログの一つ。

なんの特徴もない。


「アナタがネットからいなくなっても、何も変わらず世界は回る」


このブログにしたってそうだろう。

いつ終わって廃墟になったところで誰も気にしない。

テレビ番組が一つ終った程度の感傷がしばらく残るだけ。

どこかの増田

「昔、あざなえる〜ってキチ●イみたいなブログがあったけど…」

と懐かしむ記事が書かれる日が、いつか来るんだろう。


だからネットに夢中にはならない。

同じ時間で雪かきしてる方がいい。



確かに、私が、あなたが、ネットからいなくなったとしても世界は変わらず回り続けるだろう。その通りと言うしかない。だが、それは正論だ。少なくとも私にとって正論はくだらないものでしかない。何故くだらないと思うのか。誰かがネットからいなくなったとしても、その誰かが私にとっていなくなって欲しくない人であったならば、変わらず世界が回り続ける事を許せないと思うからだ。極論を言うと、己にその力があったとしたら、消えて欲しくない誰かが消えた事で絶望を感じて、全てを消してしまいたいと私はなるからだ。今の時点では記事を書かれた方は私にとっての消えて欲しくないとは思ってはいない方ではあるが、何時か消えて欲しくないと思うに至る可能性は無きにしも非ず、だがな。だがしかし、この方に消えて欲しくないと思っている誰かが何処かにいるはずだ。いないとは思えぬ。こんな私であっても消えて欲しくないと思って下さる方はいるからな。だから、この記事を書かれた方のブログが廃墟となってしまったとしても、何処かに必ず気にしてくれる誰かはいるはずだ。それにしても、凡人でない方に限って己を凡人と言うものだ。そんなことをこの方の記事で思ったよ。

2013-12-22

Danke


「後悔|やんぬるかな」を読んで。


 どんな人生を送っても、後悔したと思う

 それでも、今の人生を生きなければあなたと出会わなかったと思えば、この人生も悪くなかったと思う



そんな風に誰かに思ってもらえる、そんな存在になりたかった。

2013-12-17

Gluckwunsch

「how|やんぬるかな」を読んで。


 どんな恋人よりもわかりあえてると思う

 どんな実際の知り合いよりもわかりあえてると思う


 こんなにもつながりあえているのに

 こんなにもつながれない苦しさを

 ジグソーパズルの悔しさで

 どうにか紛らわせているんです


 お互いが対象でない心地よさを惨めさを

 呪いましょうか、祝いましょうか



moppara氏の書く文章は相変わらずだな。(笑)

私にも居る、どんな恋人よりもわかり合えている相手が。そして、どんな実際の知り合いよりもわかり合えている相手が。ただ、それは私がそう思い込んでいるだけだから、本当はわかり合えているというのは己の勘違いなのかもしれぬ。だが、わかり合えない方がもしかしたら幸せなのかもしれないと思うよ。そこには尽きぬ興味が存在するからだ。それが私は心地良い。たとえ繋がり合えない苦しさがあったとしても、その苦しみは甘美な痛みとして私を心地良く苛むからな。成程、私は精神的マゾヒストなのかもしれぬ。(笑)

2013-12-16

誰が私に気付くだろうか


「今年一年、ブログを書く目的や欲求のアップデートを怠っていた - シロクマの屑籠」を読んで。


もう一度書くが、この私がブログを書く目的は「読んで頂きたい方に読まれたい為」と「ブックマークを頂きたい方に貰う為」と書いた。それが果たされたのだから、私はもうブログを書く理由は無いと思ったのだが、当初の目的の先に、新しく読んで頂きたい方、ブックマークを頂きたい方が出来てしまい、書き続けたいとなったわけだ。


「自分を表現する手段」とはどういうものなのか、もう少し真面目に考えてみようと思う。ブログインターネットも、あくまで手段であって目的ではないし、まして欲求そのものではない。「ドリルに熟達することは手段でしかなく、穴を開けることこそが目的」って比喩と同じように、ブログやネット処世術に熟達することは手段でしかなく、自分には自分なりの目的や欲求があった筈だ。そこらへんと向き合ったうえで、来年ブログに書くべきこと、やるべきことを考え直していかなければならない。


p_shirokuma氏が書かれているように、私もブログは「自分を表現する手段」だ。そして、目的は先に書いた通り、読んで頂きたい方に読まれる為、ブックマークを頂きたい方に貰う為である。が、しかし、以前であったら、読まれたい相手は他人にもわかりやすく、つまりはリンク先、引用先がその読まれたい相手であった。だが、何時の頃からか、その読まれたい相手はリンク先の筆者だけでなく、別の特定人物へも期待を込めるようになっていったのだ。そちらの方はその相手に私の気持ちは知られたくなかった。知られたくなかったのだが、気づいて欲しいという気持ちは抱いていた。本当に私という人間はひねくれていると自分でも思うよ。


さて、こういう場所で書いているのだから、リンク先に読まれるという事もほとんど無いだろうな。だから、何の為に書いているのか……それはもう此処の存在を気付いて下さる「あなた」に他ならない。

2013-12-14

病み上がりの書く文章は如何かな?

既に消させて貰ったが、ブログに掲載していた最後の記事に幾つかのブックマークがついている。あの記事を書いたのは誰であるか、此処で語るのは野暮というもの。たとえ、あれは私が書いたのだとしても恐らく誰も傷つかないだろうから、あえて筆者が誰であるかは積極的には書かない。とはいえ、確かにkuroihikari氏が書かれている通り、死という相当シリアスな内容であるから、本当は生きていたのだと告白するのは性質の悪い冗談だと指摘される事だろう。だが、死にそうになったことは確かな事で、そろそろ私もネット世界から足を洗うべきかとあの頃思うようになっていた事もあり、死にかけた事をきっかけにネットでの私は死んでしまおうと思ったのだ。


もともと、ズーラという名前でブログを書こうと思ったのも、読んで欲しい方に読んで貰う為、ブックマークを欲しいと思った方にブックマークをして貰いたいが為、その為だけに書き出したのだ。そして、それを果たしたのだから、何時やめてしまってもよかった。目的は達成したのだから。だがしかし、あそこで書く事で、新たな絆が出来、こんな下手な文章でも「好き」と言って下さる方々まで出てきて下さって、多少の欲が出て来てしまった。私の書く物を楽しみにして下さる方々の為に書いてみようかという、そんな欲が。だから、私は書き続けた。所が、死にかけた事で、少々精神的に危うくなって、暫くは何かを書く事を封印した方が良い、やはりそろそろ潮時だなとなり、私は書く事をやめた。


しかし、またこうやって書いている。とはいえ、以前のようにはもう書けないのだが。書くという行為は書き続けないと書けないものなのだ。現に、私は以前の書き方を忘れてしまった。今の私の文章を読んで、これは本当にズーラさんの書いた物なのだろうかと思ってしまう方も出てこないとも限らない。削除した記事を書いた人物が書いていないとも限らないと思う方もいるだろうからな。これはもう読んで下さる方が信じて下さるか如何かにかかっているわけだ。そして、たとえ信じて下さらなくても私には何も言えぬ。信じてくれとは。


それにしても、私が一体誰であるか、以前、何人かの方がご自分の場所で書かれているのを見たことがあるのだが、此処に言っておこう。その何人かの方の一人が書かれていた事は真実だと。


その通りだよ。あなたの言う通りだった。勿論、いずれはわかってしまうだろうと思って様々な伏線は張っていた。所が、意外にも誰も私を詮索する人は出てこず、結局はこのままの私で書き続ける事になってしまった。恐らく、私は疲れてしまったのだろうな。だから一旦リセットしたかったのだ。だが、矢張り戻ってきてしまった。もっとも、昔のように精力的に活動は出来ないのだが。それでも、これからは無理のない程度に書いてみようと思っているよ。それでも良ければ読み続けてくれ。

2011-01-25

幻想の優しさ


「読みたい。 - ひびのき」を読んで。


「ありがとうな気持ち - のきにっき」を読んだ。まず最初に筆者に「有難う」の言葉を送る。私のあなたへの言及記事があなたに受け入れられた事を嬉しく思うよ。このように誰かの心に深く刻まれるようなものを書けた。それだけで私という人間の存在価値が見出されるというものだ。

深く刺さるという事は悪い事ばかりではない。その受け取り方と反応の仕方でその人にとって良い方向へ向く場合もある。私は刺さるものを書いてしまう者よりも受け取る側の受け取り方で揉め事の大半はそれほど最悪の状況にはならないと思うのだ。

確かに、書かれている文章だけでは、その人がどのように受け取ったのかを証明は出来ない。「有難う」と書かれていたとしても、それを感じられない事もあるだろう。中には悪意を持って「有難う」と投げかけている者もいよう。それを知る術はない。「有難う」を言った本人にしか、それはわからないからだ。だから、その言葉を信じるのも信じないのも投げかけられた相手に委ねられる。たとえ悪意から発せられた耳障りの良い言葉だったとしても、私はその人を信じたい。後に裏切らていたのだと知ったとしても。私は信じ続けるよ。お目出度く愚かで馬鹿な人間だと蔑まれようとも。私も誰かを裏切った過去がある。それを許してくれとは言わないが、私は私を裏切った誰かを許したい。


D


その人と出逢い、別れ、何時の日かまた逢えることは決してないことはわかっている。だが、夢にまで見たのだ。その人との出逢いを。私が向けた悪意をそのまま受け取り去っていったその人を。その真意をわかろうともせずに。いや、そうじゃない。わかっていないのは私の方だったのだ。最初から私たちはわかりあえることはなかった。そんな歪な関係だったのだから、当然の結果だ。これからも私は誰かの書いたもので心抉られ続けるのだろう。そこに書いた者の幻想の優しさを感じつつ。書いた当人にとっては不本意だと感じることもあるだろうがな。

2010-12-31

私は誰かの為に書いている


「まだメモ 断片部の過去ログの(人間/情報)と虚像につなげていくつもりの - ところてん - 棒状炭水化物」を読んで。


この記事に書かれていることは私の心の代弁でもあると思ったよ。記事を書かれた方は不本意に思うかもしれないが。


 私が文を書くのは私のためだ。私が自分を知るために、自分自身を掘り返すために書いている。そしてそれを形にする。そして誰かが読む。そしてその誰かは私と同じように自分を掘り返す。私とその誰かは別人であり、他人だ。全く異なる人間で、理解しあう事は出来ない。しかし、理解するきっかけを、私を、あなたを、影響しあう事は出来る。そして、自身を理解する。

私が文を書くことは自分自身の対話をし、そしてそれを誰かに見せるためだ。それを読んだ人がその対話によって、おのれを知ってもらえれば、それでいい。私個人に繋がらなくても、それで私は満足する。


私が私として此処で書くようになったのもこれに似たような気持ちからでもあった。私は彼女のように己のリアルでの状況は書かぬが、私の心の中で渦巻くものは正直に書いてきたつもりだ。それは、何処かに居る私のような人間に「あなただけではないのだよ」と言いたかったからでもある。あと、私自身を私自身の手で救う為でもあった。ただ、私の場合は、私の承認欲求は満足させられた。それがたった一人であったとしても、私はそれで構わなかったのだ。誰か一人が私を認めてくれれば。そして、私はそれが満たされたのだが、それでもまだ私は此処で細々と書いている。何故か。そうだな。今は私は己を救う為に書いているわけではないからなのだろうな。


本当は削除してしまおうかと思っていたのだ。もうxuraとして書くことは止めてしまおうかと思っていたのだ。自分を救う為ではなく、誰か救いたいと思って書いても、私の救いを待っている人など実は誰もいないのではないかと何故か思ってしまったからでもある。だが…。


私に消えないで欲しいと思ってくださる人が一人でも居ると知ったから、だから私は駄文を垂れ流し続けようと思ったよ。私が書いたものを望んでくれる人を大切にしたいからだ。私も誰かの承認欲求を満たしたいと思うからだ。それをその人が望んでくれれば、なのだが。何処の誰かはわからぬが、望んでくれるか?私に承認されたいと思ってくれるか?そうであればいいのにと思うよ。

私のブログもまた連載中の小説なのだ


「日記ブログは連載中の私小説 - ひとりごと」を読んで。


私が此処で書いているものは日記とは言えない。日々の出来事を書いているわけではないからだ。ただ、誰かの書いた記事で思ったことを書いているに過ぎない。だがしかし、他人にとって此処で書いているものは日記ではなくても、私にとっては日記なのである。勿論、今では毎日更新をしてるわけではなので、矢張り日記とはなり得ないではあろうが。


 毎日書いている日記ブログとそれをまとめた私小説。「あの頃は〜だった」なんて小説では纏めている事も、日記ブログではその「あの頃」を日々書いている訳で、より細かい描写がされているとも言える。その日々の積み重ねが長い長い未完成の文章の一部となっていく。


私が此処で書いているものも、yastoro氏の言う通り私小説と取って貰えぬだろうか。出来ればその様に読んで貰えれば嬉しい気がする。私という人間の事も、誰一人何処の誰であるかを知らぬ。嘘は書いてはいないとどれだけ言ったとしても、どうしても信じられない者もいるだろう。信じてくれなくてもいい。ただ読んで下されば。それだけでいいと今は思っている。一つの読み物としての小説、そんな風に思って貰ってもいい。私の書くものを面白いと思って頂けるかどうかはわからぬが、それでも誰か一人はそう思って読み続けてくれているのではないかと信じたい。

誰かの心に残ってくれるなら


「ブログの閉鎖に立ち会うとき - 忘却防止。」を読んで。


此処を閉鎖してしまおうかと考えた時、hatayasan氏のこの記事を思い出した。


あなたの含蓄深く示唆に富んだ文章を読めたのは短い期間だったけど、あなたの記事を「あとで読まず」その場で自分の中で消化しておいてよかった。そしてあなたの記事で感銘を受けた箇所を抜き書きしてブックマークしておいてよかった。

これらは、僕がはてなに身を置いている限り、僕自身を作り出した記憶の断片として残り続けるはずだ。

あなたがはてなで残した軌跡は、あなたが去ったあとも、今も自分のもとにある。


私の書いたものをhatayasan氏にその様に思って貰えているかは疑問ではあるが、氏がそう思っていなくても、他の誰かは或いはその様に思って下さる方もいるかもしれない。とは言え、氏のこの記事を読む限りでは、もしここで私がブログを閉鎖して削除してしまったとしても、誰かの心には残ってくれるのかもしれないよな。だから、何時かどうしても閉鎖して削除するような事になったとしても、何処かの誰かよ、どうか忘れないで欲しい。こんな人間もいたのだと。もっとも、此処で書いた記事は他の場所にも移してあるので、その場所が消えない限りは私の記事も無くなってしまうわけではないのだが。


だが、なるべくなら此処を削除することなく続けていきたい。何処まで頑張れるかはわからないが。


【関連記事】「ブックマーカーの記憶の集合として、はてブのコメントページは残り続ける - 忘却防止。」


これを読むとブックマークで頂いたコメントは消えないようだ。記事は消えてしまっても頂いたコメントは残り続ける。hatayasan氏の「遺跡」という言葉が言い得て妙。

何時までも


君の姿を見つけた時、変わっていない君に安堵した。ずっと見つめてきた君だ。遠く離れていても私の心は君の傍に在る。何時までも。それは忘れないでいて欲しい。君と一緒に飲んだ温かい飲み物の味をこれからも忘れないよ。何時かまた会えるといい。その日を夢見て日々を暮らしていくことにしよう。

狂人の戯言


狂ったように綴る言葉とはどんな言葉なのだろうか。それを読みたいと思ってしまう私は愚かな人間だ。だが、それを読ませて貰える資格が私には無い。狂ってしまった人間は狂ったように綴る事は出来ぬ。それは正常だから出来る事なのだ。綴られる私の言葉は既に狂っていて意味を成さない。ただの狂人の戯言だ。


D


私は太陽にはなれぬ。ただ手を伸ばすのみ。


【追記】なるほど、ご自身の言葉というわけではなかったのか。私の読解力の無さにうんざりする。申し訳ない。


【更に追記】紛らわしい書き方が悪いというわけではないよ。それに対して反応をする私が悪いのだ。だが「ありがとう」を有難う。気を遣って下さり心から感謝する。

私は何時も誰かを傷つけている


「日々サンタでありたい。 - かみんぐあうとっ」を読んで。


たいしたことを書いていない氏が、それほど多くの人々に読まれているのは何故だろうな。それは本人がたいしたことを書いていないと思っていても、他人にとってはたいしたことではなかったからではないのか。たいしたことを書いていないのは私のブログのようなものを言うのだ。


言葉は人を傷つけるものではなく、伝えるためのもの。

言葉で元気になれる。言葉で救われることってあると思います。

笑顔になることも。


私は時に誰かを傷つけるようなものを書く。だが、勿論それはその傷を求めている人に向けて書いているつもりだ。人によっては傷つけられる事を望んでいる者もいるからだ。傷つけられ、なにくそと思い、その怒りで這い上がる。それもまた言葉で救われる事とも言える。とは言っても、それで笑顔になれる人はほとんどいないだろう。それでも、私の書くものを読みたいと思ってくださる人は、このブログの更新を待っていてくれるのではないか。私はそう思っているよ。



それにしても、文中でリンクされていたmaname氏の「ぼくたちがサンタクロースだったんだよ。: 304 Not Modified」を読んで、私とmaname氏とでは本当に考え方が違うのだなと思ったよ。


私はサンタさんじゃないから、想像だけじゃ満足できないんだ。


笑顔を見たいというのには同意なのだが、私は想像だけでも満足する人間だからだ。私はそういう人間なのだよ。そんな人間であるから、私には多くの読者はつかない。それが、komoko-i氏やmaname氏と私との決定的な違いだ。私はこれからも誰かを傷つけて生きていく。それが私なのだと、そう思っているよ。

私に求める期待とは


「私の考える凄いブロガーとは: 304 Not Modified」を読んで。


1.ある程度、更新を続けることでそのブログの得意分野を覚えてもらっていること(軸の共有知化)

2.その得意分野が話題になったとき、そのブログを訪問する人がいること(期待を抱かれる)

3.訪問した際に、その人が望むものが存在すること(期待に応える)

これが私の考える凄いブロガーです。


なるほど、それでは私は誰かの期待に応えることはないということで、矢張り凄いブロガーではないのだな。わかっていたことではあるが。maname氏の言われるような期待を恐らく私に対しては誰も持ってはいないだろう。もし、私に求められるものがあるとしたら何だろうな。私にはわからぬ。誰か教えてはくれないか。

今年くらいは年末の挨拶を


「年末の挨拶 2010 - のきにっき」を読んで。


今年の抱負か…。私は何だったんだろうな。覚えが無い。あっという間に過ぎ去った一年だった。漢字一文字で表せば「忙」となるだろうか。


本年のご愛顧にお礼申し上げますとともに、

来年もどうぞ、よろしくお願いいたします。


此方こそ。来年も読ませてくれ。宜しく。