時には読者を想う事も大切なのだな


「FC2tyle-Fc2ブログstyle -訪問者を想うという事」を読んで。


訪問者は、あなたの記事に心を動かす。あなたの想いをイメージし、次を期待する。
訪問者を想えば、訪問者も想う。


筆者は他記事でも「訪問者を想う」というタイトルで幾つか記事を上げている。筆者は私のように自分本位ではない。私は読者がどう思おうが自分がやりやすいように記事を書いていけばいいと思っている。だから「読者の事を考えて」という記述を見ると反発をしてしまうわけなのだが、それでも筆者の文章ではその無理強い感が感じられないのだ。すると、この記事が目に付いた。


「訪問者を演技する」


この記事は去年7月の記事なのだが、このタイトルは私も何処かで目にした覚えがある。


「ブログというものを知らない」「ブログが嫌いな人」など、たくさんの訪問者を「演じて」楽しみながら、訪問者の視点に立ちましょう。


自分の感情を極力抑え、他者の感情にのみ視線を向ける。その姿勢は好感を持つし、またそうでなければならないと流石の私でも思うのだが、他者を重んじると筆者の生の声はなかなか感じられないものである。だがしかし、たった幾つかの記事を読んだだけでは筆者の事を「こうである」とは決め付けられぬので、今の私は「こうなのだ」と言うしかないのだが。それは後にじっくり読破をする事で筆者の想いを感じる事にする。だが、今読んだ「日の目を見たエントリー」での筆者のこの言葉に筆者の生の声が出ているのには思わず笑みがこぼれた。


過去ログは宝。この考えは今も変わっていません。今回ブックマークされた記事、どんな経緯で見つけて下さったのか分かりませんが、7ヶ月という時を経て、今やっと日の目を見れたわけです。今回の件、それが一番嬉しかったのです。


読者の事を考えろと声を大にして言うよりも、静かに淡々と書き綴る人が一番強いのだなと感じた。それを妙に嬉しく思った私である。

それでも私は感情的な文章が好きなのだ


「はてなブックマーク - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 何故かどうしても読みたくなる長文があるのだ」のコメントを読んで。


2006年05月12日 hashigotan 長文, 心理 オーラとか個性とかは(mugiさんの表現で言うなら「アクが強い」)、読者によっては諸刃の剣になるから、日記以外のブログ言及などでは余りアクを出しすぎない方が良いのかなあとか。でもオーラは欲しいかも。


私も先程「読者の事を考えろと声を大にして言うよりも、静かに淡々と書き綴る人が一番強いのだなと感じた。」と書いた。その後、私の記事のブックマークコメントの上記のコメントを読み似たような言葉を見つけたわけである。

日々の生活を書いた日記や何かを読んで自分が思った事を書いたり自分語りをしたりという日記などでも読みやすさは大切ではある。感情に任せない淡々とした文章であっても読みやすければ長文でも読むというのはあるだろう。ただ、私は感情に任せた文章を好むというだけに過ぎないのであるが、それでも、文章によっては淡々とした綴りであってもそこに何かの意図を感じる文章には惹かれる事もある。しかし、それもまた私の幻想でしかなく、書かれている者は意図して淡々と書いているわけではないのかもしれない。私がよく誤読をしてしまうのも、恐らく、作者が何か考えを持ってこの淡々とした文章を書いているのではないかと、作者の心の中までをも想像してしまうからなのだな。


もしかしたら、大抵の人は「アクを出し過ぎた文章」に筆者の心理を想像してしまい、それが鼻に付くのかもしれない。声を大にしてハイテンションに声高に書かれた文章は自分語りの日記等ならば受け入れやすいものではあるが、それをブログ論などで行使すると途端に反感を買ってしまうものなのだろう。これも私の印象に過ぎないのであるが、強ち違うとも言い切れないのではないか。
だがしかし、中には淡々と綴っているように見せかけて、上から高圧的に考えを押し付けるような文章というものもあったりするのだろうな。そんな高圧的な文章にならないようにしたいものだが、此れもまた難しい。さて、私の書く物がどうであるか、私自身には分らぬので、他人の目に委ねる事にしよう。(笑)