亡くなった親戚との遭遇

3月初め、母親から電話が入りました。
いわく、母の従兄弟Tさんが亡くなったとのこと。そして、身寄りのないTさんの遺品整理を妹のMさんがしているとのことでした。母とMさんはほとんど面識がなかったのですが、Tさんがなくなったことをきっかけに、よく話すようになったそうです。かくいう私はTさんともMさんとも全然面識がありません。なぜ、そんな私にこの話をわざわざしてきたのか。
母が言うには、Tさんは、中央大学でフランス文学を専攻していた3年生のとき、唐突に「相対性理論を勉強したい」と言い出し、独学で物理学と数学を勉強して、それが功を奏して数学の予備校講師を生業としていたそうです。Tさんの部屋には大量の物理学や数学の本が残されているらしく、理系院卒の私に、もし気に入った本があったら是非もらって欲しいとMさんが言っているとのことでした。
これも何かの縁だろうと思い、今日、Mさんに案内してもらって、仕事終わりにTさんの部屋へ行ってきました。そこは想像以上の不思議な空間でした。
入ってすぐ、部屋を見た時に「Tさんがどんな人だったかが分かる」と、とても親近感を感じたのです。大量に備蓄された同じ銘柄の野菜ジュースとお茶。部屋を埋め尽くさんばかりの整然とした大量の本。42インチの液晶テレビと24インチのブラウン管テレビが並んだリビング。綺麗に整頓された衣服は種類と柄ごとにクローゼットにしまわれていました。間違いなく、ストイックで凝り性な人だったのでしょう。そして、本棚には科学の本だけでなく、思想関連や社会学関連の本も沢山あり、人間に対する興味を芯に持っていた人なんだということも感じました。Mさんに感想を述べると「まるで会ったことがあるみたいに兄を分かってる」と言われました。

本を一冊一冊見せてもらうと、その蔵書の一つ一つにTさんのストーリーがありました。Tさんが読んだ本には、その最後のページにしおりが必ず挟んでありました。そして、自分が疑問に思ったページの一つ一つにもしおりが挟んであるのです。Tさんが何を思いながら本を読んでいたのか、まるでそこにいるかのように伝わってきました。
本は学生時代のものから亡くなる直前のものまで、ほとんど残されていました。そんな中、私は本棚の奥から一冊の本を見つけました。アインシュタインの自伝「自伝ノート」。発行されたのは1978年。その本には、Tさんが通っていた30年前の中央大学の生協のカバーがかけられたままでした。

「全然気づかなかった。きっと、こういう本をきっかけにして、兄はアインシュタインに憧れていったのね」
Mさんは感慨深そうに本を眺めていました。私はこの本が遺品として処分されてしまうことに深い哀しみを感じました。せっかく、遠い親戚に触れることができたのに、それが失われてしまうような、言いようのない哀しさでした。
「もし良かったら、この本を僕に譲ってもらえませんか。誰かの手に渡らせるようなことは決してしません。もし、この本に会いたくなったら、いつでも連絡をくれればお返しします」
Mさんは快く本を譲ってくれました。
「ホントはね、今月で全ての遺品を整理してしまおうと思ってたの。でも、こうやって泊まりこんで部屋の片付けをしてるとね、残されたものの一つ一つが兄を形作ってるように感じられたの。兄が亡くなってしまったってことは、これは二度と作られることのない部屋なのよね。そう考えたら、一つ一つをきちんと自分が見て、納得してから処分したいと思って、実は部屋はもう3ヶ月私が借りることにしたの。それで、ここのものを処分するかどうかは、また3ヶ月後にきちんと考えることにしたの」
私はMさんに心から賛成しました。初対面の私でさえ、まるで会ったことがあるみたいに、Tさんの人柄が感じられる部屋でしたから、ご家族ならその思いはなおさらのことでしょう。Tさんはまるで誰かのために準備してたみたいに、生きていた痕跡を残していました。信じられないことに、部屋にある蔵書をどこで注文して、いくらで買ったか、リストや納品書を全て年代ごとに保管していたのです。家計簿も毎月つけていたものが全て残っていました。Tさんを知る作業は、いくらでも続けることができそうでした。

でも、Tさんは既に亡くなってしまった方。別れをきちんとしなければならないことも事実です。一端の出会いを感じただけの私にとっては、その苦悩や辛さは、想像をすることも難しい。死してなお、出会いを感じさせてくれた遠い親戚から、生きていることの大切さを学んだような気がしました。