映画「神童」感想

 さて、漫画原作映画ということで。さそうあきら原作、萩生田宏治監督、映画「神童」

 ……なんだろう、このむかつき。いや、いい映画だった。いい映画だったよ。萩生田監督は前作に引き続いていい絵を撮ってくれたよ。でもなんだか無性に腹が立つ自分もいる。これは映画ファンとしての感想と原作ファンとしての感想が衝突しているからだろう。それが、良いけどつまらないという複雑な事態に至っている根本である。その点を察してほしい。
 冒頭はとても期待が持てる内容だった。ボートの上に寝そべって自然の音を感じるワオ、唐突に現れてぬいぐるみを取るからボートに乗せろとやってくる奔放なうた。ちゃんと音を大事にしている、さらにぬいぐるみ、ちょっとボートが揺れただけで池に落ちてしまったうた、二人の今後の関係も含めて全要素の芽が詰め込んである。そしてタイトル登場、BGMも思わず口ずさみたくなる心地よさ。こりゃすげー映画が始まるぞ、という予感は、中盤以降消えていくんだけど、それでもこの期待感は、うたを演じた成海璃子とワオを演じた松山ケンイチの二人の魅力により増幅された。冒頭〜タイトル、本編すっ飛ばしてラストシーン、ここまでなら何回も観たい。
 原作で小学生だったうたは映画では中学生に設定しなおされる。友達どころか野球友達もいない・というかそもそも野球するシーンは微塵もなく、ただ体育の授業でバスケをするも母親からの言いつけで指を怪我する恐れのあることは禁じられており、バスケットボールを片手で掴んで持ち上げてちょっかい出してくる男子に向かって投げつけるという描写にとどまっている。この一場面だけでもうたの力強さ負けん気の強さは十分あるわけで、あー、ちゃんと原作をまとめているなって感じではあった。しかし、ワオとの再会は不可解である。商店街の八百屋の息子という設定はそのままだが、練習中のワオに下校中のうたが出くわすのである。通学路なんである。そんなうたが、今までピアノの音に反応しないわけがないんだが、まるでこれが初めてって感じでワオの家の前に吸い寄せられていく。なんか脚本の詰め甘くね?という不安が沸いてきた。いや、そもそも不安は公開前からあったんだよな。脚本は向井康介山下敦弘監督と組まなきゃ何も作れない無能・居丈高にあえて無能と言わせていただく・「リンダリンダリンダ」で何か勘違いでもしたのか、あれは山下監督だから生まれた奇跡であって、向井の才によるところではないのだ、私は映画「青い車」(脚本が向井)の悪夢を忘れてはいない(ちなみにその時の感想がこれhttp://d.hatena.ne.jp/y-shirabyoushi/20041122 今読み返すとぼろくそにけなしてるな……ごみんに)。映画「天然コケッコー」が山下監督と聞いて、脚本が向井じゃありませんようにという願いが叶ったら、「神童」に潜り込んでいやがった、くそっ。ビターズエンドさん、プロデューサーさん、脚本家選びはもっと慎重にやってくれよ……。
 まあ、とにかく再会して、うたはワオを音大受験のためにピアノを教える。この交流を通してワオに好意を抱いていくことになるうただが、映画でも同様にうたのワオに対する気持ちが彼女自身の表情や動きによって描かれる。不要なセリフを排したのはいいとして、さて例えば原作でワオと相原の関係を悟ったうたが初潮を迎える場面のような、性に関わる描写はかなり抑えられている(一応ワオとカノンが抱き合ってるのをうたが目撃するシーンはあるけど)。うたが自分の気持ちに気付くよりも前に身体が感応するってのは、原作で非常に重要視されている設定だけに、それはもちろん、うたが言葉を覚えるよりも前に楽譜が読めたという天才性にも通じているんだから、中学生の設定にしたことでそれが描けないのであれば、何か代替となるシーンが必要だと思う。映画では、うたが上級生に告白されるシーンから連想されるものとして描かれる。これが効を奏しているかを判断するほどの力は私にはないけど、ここで池山(バスケットボールをぶつけられたのも彼)という映画オリジナルの登場人物が注目されることになる。彼がうたに好意を持っていることは明らかで、からかうのも原作の中ノ瀬とうたの関係を踏まえてのことだろう。ラストへ繋がるための設定として、うたが耳が聞こえなくなる設定として、とても大切な役割を担っている。
 原作のキーポイントが音である。映画でも音は重視されているし、BGMにもそれは現れている。だが、これが映画という媒体になることで原作で軽く非難されていた閉じ込められた音楽を抱えざるを得ない矛盾が生じてしまった。ワオ「でも 音の深さってその場にいないと感じることができないもんだとオレは思う」、御子柴教授「音楽はそんな小さな箱からうまれるもんじゃない」。フィルムに焼き付けられた音楽は、確かに広い映画館で聴けばそれなりのもんだろう。ワオの当初の恋人・相原を演じるプロの演奏家である三浦友理枝は指の動きだけ別撮りする手間もなく、実際の演奏がスクリーンに映され、おそらく劇中の演奏シーンでもっとも迫力あるものだろう。でもやっぱり、その場の音じゃない。だからこそ原作は音を感じさせる表現が駆使された、結果的に音楽の表現に結びつき、ラストの感動を引き立てるんだが、映画は冒頭以外、この音に関わる場面が薄れていってしまう。だから音を感じるってことが映画ではあまりない。代わりに盛り上がるのが演奏シーンなんだけど、所詮は演出に過ぎん。まあ、成海璃子が様になってるんで見入ってしまうが。だからというわけではないと思うけど、音を失うってことが単なる一悲劇として描かれてしまった印象が強い。劇中では、どこまで難聴になったのか判然としないものの、彼女の悲しみが音ではなく人間関係によって修復される過程(というかラスト)は、確かにまあこれからのうたの未来を思えば心地の良い余韻を残す。だけど、そこから音が抜け落ちている、音楽じゃなくて音ね。父親との関係を象徴的にすることで、ワオとの関係も特別なものになった、それはわかるよ、感動的だ。原作の感想で私自身が書いた「音を通じて触れ合うふたりの親密な関係・恋人でもなく父子のようでもなく兄妹でもなく、音が取り持つ絆が最後に「感性」によって結ばれる性差・年の差・才能の差を凌駕した純粋な交歓」と自分の文章を引用するのは恥ずかしいが。だってパンフにも二人の関係は「恋人でもない、兄妹でもない、ぎこちなくて愛しい関係」て書いてあるんだもん。でも亡き父(演じるは西島秀俊。この人は何やってもいいわ)の存在を強調することで、ワオの立場は父に近いものになっていってしまい、ラストで決定的となる(と私は感じた)。そこまでいかなくとも、うたの中で不在だった父的存在・音を奏でることの美しさを教えてくれた存在とでも安直に言おうか、そこにワオが居座る。これがためにワオは父代わりという誤読もやむをえないと思った。
 では音を失う意味は何かって言ったら、音は聞くものではなく身体で感じるものだ、という映画と原作の冒頭に通じる訴えだ。原作は最後までそれを貫き通した。失聴、聴覚障害者が音を身体から感じる場面、音によって再び心を通じ合わせていくうたとワオ、身体に響き渡る振動こそが本当の音楽だとでも言わんばかりの、そしてラストの演奏。映画はしかし音楽におぼれていく。……いや、おぼれていったのは鑑賞していた私自身だろうか……
 耳の異常を序盤から少しずつ描写することで、ストーリーは、いつ彼女が壊れてしまうのかという予感を常に孕むことになる。淡々と静かな交流が続きながらも(演奏シーンは激しいけどね)、どこか緊張しているのもこのためだ。わがままに生き、母を困らせるうたがどこかもろい・儚い印象さえある。音楽に関わる描写では、ワオが受験を前に動揺少なからず落ち着かない勢いで試験会場から飛び出してしまう、原作と同じ場面のようにワオが割りと動的にどたばたするならば、うたは内に秘めたものをなかなか開放しない。相原を見送る会場で男の子を突き飛ばし、男の子にだったらピアノをやってみろと挑発されながらも演奏せず、山場となるオーケストラとの演奏でも、あたふたするのは母やワオだ。音楽に対しては常にどっしりと構えている、「私は音楽だから」というセリフの説得力は映画も抜群である。それが音を失って彼女は普通の少女になった。ここには小学生にぬいぐるみを奪われてからかわれたり池山にちょっかいを出されたり、友達がいない変人という側面だけが残る。水面をそっと撫でるうた。カメラはそれを水中から映す。音が聞こえなくなったんだ、ということを象徴するシーンである。
 やがてうたは歩き始める。うたが心配でついていく池山。道路に飛び出しそうになるうた、手のひらにペンで字を書いて意思を伝える池山、この辺でもう失聴が明示される。けれども、歩き続けるうたの姿は、この物語が一体どこへ向かってしまうのかという不安を呼び起こしてしまう。オケとの演奏を山場にし、直後に倒れたうた。つまりカタルシスを得た途端に、物語が俄かに迷走するのである。大いに戸惑ったし、もうひとつ山場があるのだろうか、といろいろ劇中外の思惑が混ざりこんできて、正直冷めてしまった。
 ラストシーンの連弾は、父と出来なかったことがワオによって果たされることもあり感動的であった。でももし、ここで冒頭に立ち返るならば(いや、実際はうたのセリフによって立ち返るんだけど)、やはり音を中心にしてほしかった……音を通じて出会った二人が音楽によって繋がると書けばなんかしっくりきてしまうけれども、違うんだ、原作ファンにとってはこれじゃないんだよ。音であり二人の表情なんだ、原作ラストの二人の交歓を見よ! あれなんだよ。映画でも出来るはずだろ、大観衆の中からすぐにワオだけ見つけてしまううたと見つけられたことを感知するワオ、こんだけで二人の結びつきの強さがわかるってもんだ。確かにワオがうたの行き先を悟ることで、心の交流は補完されているけれども、うーむ、複雑な感情なんだよな。感動しつつ、いい映画だなーと思いつつも、この納得できない気持ち。わかっているんだよ、理不尽な理由だけど。だから最後に言おう、これだけは原作ファンとして言わなければならない。
 失聴したうたが演奏する曲はショパン舟歌 嬰ヘ長調 Op.60」、これ以外ありえん! せめてエンドクレジットで流せよ!
Zimerman plays Chopin Barcarolle Op. 60