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2011-01-06

[]2011 読書日記1冊目 『ロマン主義講義』 アイザイア・バーリン 01:36 2011 読書日記1冊目 『ロマン主義講義』 アイザイア・バーリンを含むブックマーク

初めてバーリンを読んだ。文体は独特で今まで読んだことのないものであったが、それなりに読みやすかったと思う。バーリンヨーロッパを斡旋したロマン主義運動を定義づけることの困難さを前提としながらも、ロマン主義の父祖と呼ばれる思想家哲学者たちの思索の過程をめぐることによってロマン主義というものを叙述していこうと試みる。そして何人かの思想家ロマン主義的要素、もしくはロマン主義に影響を与えたであろうその思索を順に挙げていくことでバーリンロマン主義者に共通するものを浮き彫りにする。それは強靭な意志と決定的な構造の欠如である。自然科学の絶対性を猜疑の眼差しでもって眺めるロマン主義者は因果性が支配する世界に強く反発する。すべては自身の意志によって創造されるのであって、絶対的で普遍的な原因結果の鎖など存在しないと主張するのである。これは表現主義と呼ばれる運動であろうが、彼らが表現しようと試みている物が、実は決して完全には表現され得ないというところがロマン主義表現主義の特徴であろう。表現の過程において終着点として完全な表現が置かれてしまうことは、つまるところ、何か普遍的な真理、もしくは絶対的なものを人間は捉える事が可能であり、それを正しく表現することも可能であるという事態を招いてしまう。これはロマン主義者が一番忌み嫌った状態である。しかし、彼らは因果律が支配する世界ですべてが必然的に、我々の意志とは関係のないところで発露する現実を激しく斥ける。だから、彼らは決して表現し終えることのできない自身の生というものをひたすら、いわば暗闇の中で表現し続けなければならないのである。その運動、行動そのものが人間らしく生きているということの証なのである。だからロマン主義者は屈服することのない意志を前提として、すべては運動の中で、いわば歴史相対的にその場で創造されると主張するのである。

次に決定的な構造の欠如であるが、ロマン主義者は先にも述べた絶対的で普遍的なものを嫌う性格を持っている。だから、彼らにとっては現実を支配する絶対的な構造などというものも幻想以外の何物でもないのである。それは彼らに多く見られる古代ギリシア讃美にも見て取れる。一見古代ギリシアという過去の理想的な状態を現代にも適用しようと試みる運動であるようにロマン主義運動は見える。しかし、ここで重要なことは、彼れらが決して古代ギリシア的な理想郷を現実に再建できるとは思っていないということである。ロマン主義者がすべて古代ギリシアを讃美するわけではないが、彼らが古代を持ち上げるとき、そこにある意図はそうした理想を現実化することではなく、理想に向かって行動し続ける活気のようなものである。ひどく曖昧な表現であり、なおかつ的を得ていない可能性が高いが、彼らが決して辿り着き得ない理想を夢見て、しかもそれに到達しえないということを前提としていさえいる状況で、何か満足を得ているとするならば、それは理想に向かって四苦八苦しているという自己陶酔とそれに伴う活気ではないだろうか。つまり、彼らは古代ギリシアに絶対的普遍的な構造を見ているのではなく、有機的な社会、今となっては決して打ち立てることのできない理想的な社会を夢見て、時代的なものを創造し続けるための対象として古代ギリシアを眺めているのである。だから、彼らは時として古代ギリシアを現代に再建しようと試みる普遍主義者であると看做されているのである。もちろん中には普遍主義的な事を主張する人もいるであろう。しかし、バーリンが本書で前提としているロマン主義者はそうした普遍主義的な性格を有してはいないと思う。というのも、彼が本書の最後で自身の政治哲学を披露した際に見られたように、彼はロマン主義の予測不可能性、浮遊するような行動にこそロマン主義の特性を見ているからである。バーリンはあらゆる問題に対して解答可能性を有するという観念を否定するロマン主義的性格を取り上げて、そうした解答不可能性がもたらす理想の両立不可能性から自由主義、寛容、品位といったものが生じるとロマン主義と自身の政治哲学をアクロバティックに接合してみせる。だから、彼がロマン主義を論じ、そこから自身の政治哲学を展開させるためには、ロマン主義者は反普遍主義、反合理主義でなければならなかったのである。しかし、そこで疑問として浮かんでくるのは、ロマン主義者はどこかで普遍的なものを創造し得ると信じていたのではないか、という不遜な疑念である。彼らはいわば相対的にその場その場で何かを創造し、行動することを標榜していたはずではあるのだが、もしかしたら、どこかでそうした創造が理想と一体化することを夢見ていたのではないか、ということである。これは僕の主観性を抜け出ていない疑念であるのだが、はたして人は決して辿り着かないとわかっていながら、それに向かって浮遊し続けることに何かを見出すことはできるのだろうか。そこでは少なからず、理想に到達可能であるという意気込みとしかしそれでいて、到達可能性が低いという現実に対する諦念とがひしめきあっているのではないだろうか、と僕は思うのである。だから、バーリンが前提とするどちらにもつかずに浮遊し続けるロマン主義者というものはある種恣意的であると感じてしまうのであろう。しかし、これはバーリンに限ったことではなく、ロマン主義運動を説明するうえではある種常識化していることである。啓蒙運動期の反発としてロマン主義運動を捉えると必然的に反合理主義、反普遍主義的な潮流であるとロマン主義運動は説明される。それはよくよく考えると全く自然なことで、僕の疑念が的外れなのかもしれないが、浮遊し続けることに対して人間は苦しみを感じないのだろうかと考えた時、ロマン主義運動を決定不可能性や予測不可能性という性格を持つ運動であるとだけ捉えるのは、少し浅薄であるのではないだろうか。ロマン主義運動を啓蒙期前の合理主義的精神の発達の時代、つまり自然科学が発達したデカルトの時代から綿々と続く合理主義的精神に対する反発という点で捉え、彼らはすべては説明可能であるという独断論的な物言いに対して嫌悪し、それに対して決して表現しえない自然、人間の生というものを対置した結果、浮遊することを肯定するに至ったのだと考えるならば、彼らが積極的に浮遊することに何かを見出しているとは言いづらいのではないだろうか。そこには合理主義的精神に対する確かな反発、嫌悪がある。しかし、それが積極的に対立を浮遊する行動を選択するようにまで移行するかと思うと、それはなんだか違うような気もする。彼らはあくまですべてを説明できるという態度に嫌悪したのであって、何もかも説明しきれないと主張したのではない、と僕は思う。だから、ロマン主義運動を積極的に決定を避ける運動であるとか、絶対的なものを忌避する人たちの思想運動であるとだけ説明することは、避けなければならない。そこに合理主義的精神に対する嫌悪としかしそれでいて、すべては相対的であるとは思えないある種の合理性との衝突を見出すことは、無理があることなのであろうか。


小さな疑問はあったが、すごくよくまとめられていて良書であると思う。ロマン主義入門書としても非常に優れていると思った。

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