Googleの政治性?

脇田健一氏(環境社会学者)のブログで知ったんだけど、Google Earthでは、なぜか広島市内のうち原爆ドームの含まれる部分が低い解像度になっているらしい。

http://blue.ap.teacup.com/wakkyken/360.html

こういう事実を見ると、実際には何の意図もないのかもしれないが、Googleを無批判には使えなくなるなあ。うーん。まあ、そうは言っても、便利だから今日も使うわけだが。

グーグル八分」といって、何らかの事情によって特定のサイトがGoogleの検索結果から削除されてしまうこともあるらしい。やっぱり、こういう政治的な問題はあるんだなあ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E5%85%AB%E5%88%86

しかし、もう少し考えてみると、Googleに何らかの政治的意図があって、それで何か困ることはあるのだろうか*1

昔からの地図にしても、軍事基地の近くでは道や都市をずらして表記して、基地の正確な場所を分かりにくくするとかいう話を聞いたことがあるような。国土地理院だって信用できるわけではない。そもそもこの世にある情報は、行政にせよ企業にせよマスコミにせよ、何らかのバイアスがかかっている。いかなる情報にもバイアスがあるという心づもりこそが、何よりも大事である。

では、Google固有の問題は?

Googleだけがインターネット検索や航空写真を独占していると、確かに問題はありそう。でも、それって国営メディアの情報独占とあまり変わらない、古典的な問題だよね。法規制があるわけではないから、ある程度信頼を喪失してくれば、他社がシェアを奪う余地はありそう(ただ、現状ではYahoo!よりは遙かに信頼できる気がするが)。

Googleに固有の問題は、情報の品質保証のやり方なのかな。

  1. 従来(行政、マスメディア、昔のYahoo!)=積極的な品質保証:得られたデータをきちんとチェックしてるから、信用してね。
  2. Google=消極的な品質保証:ロボットの検索結果をそのまま出しているから信用してね。

もちろん、従来のやり方が必ずしもすぐれているわけではなくて、そこには検閲の問題がつねに孕まれている。歴史教科書とか、東京新聞以外の大新聞にはなぜか載らない記事とか。ただ、従来のやり方の場合には、行政・マスメディアの品質保証の不備を積極的に攻撃することができる。あるいは、恣意的なコントロールをしていると非難することができる。

これに対してGoogleの場合には、基本的にいじくってないと言うばかりなので、なかなか攻撃する糸口がつかめない。機械に向かってバイアスがあるとか言っても、なんかむなしい。しかも、グーグル八分のように、実は限定的なケースでは検閲を行っている。ここに、おそらく問題の一端がある。

でも、これだけだと、たとえば求人情報誌とあまり変わらない。あれもとにかく企業から情報を集めて、怪しい情報でもそのまま掲載している。両者の違いは、求人情報誌については、誰もそれが「世界の鏡」(そのまま写し取ったもの)だとは思っていない点にあるのかな。求人情報誌がそのまま就職市場のわけではないし、そこに掲載されている情報がそのまま事実とは限らない。それに対して、Googleはインターネットの世界をそのまま写し取っていると主張しているし、皆が多かれ少なかれそう思っている。

世界の鏡であると主張するものとしては、他にマスコミや辞典・事典などがある。Googleはある面でこれらの機能を同等以上に果たすことで、その代わりの位置におさまっている一方で、マスコミや辞典・事典などが負っていた積極的な品質保証を放棄している点で特徴がある。

ただ、積極的な品質保証と消極的な品質保証は相互乗り入れもしている。

  • 「積極」による「消極」の利用:コーパスを使った英英辞典とか。将来的にはGoogleもこういう目的で使われるようになりそうな気がする。
  • 「消極」による「積極」の利用:実際の検索結果では、上位に来るのは積極的な品質保証をしている(情報が偏っていると非難しうる)サイトである。Wikipediaとか。

だからといって、両者が平和に共存していくとは限らず、かつて知識人とマスコミの間で起こったのと同型の争いが、今度はマスコミとインターネット検索の間で起こりそうな気もする。

  1. 大昔:世論=知識人(ハーバーマス的世界)
  2. ちょっと昔:世論=マスコミ、その中の一部門が知識人(丸山真男的世界)
  3. 最近:世論=インターネット、その中の一部門がマスコミ(ニュース配信という通信社的機能に限局される?)、別の一部門が知識人

それと同時に、かつての通俗マスコミと知識人の戦いと同様に、マスコミとインターネットのどちらが世界の写像としての地位をえるかの争いが続くのかもしれない。ついこの間までは、マスコミ(新聞、テレビ)も入ってくる情報を、消費者の関心に追従して、そのままたれ流す存在として認識されていたわけである。

考えてみると、いわゆる知識人(評論家、活動的な学者とか)は、さっそく情報発信の方法をマスコミ経由からインターネット経由に移しつつある気もするなあ。

参考。ラザースフェルドLazarsfeld*2の知識人vsマスメディアの議論。『質的分析法』(岩波書店)という本の第3章に書かれてます。

ラザースフェルドの「横取り理論」

  1. これまで知識人は大衆に余暇と財政力を与えるべく運動してきた。
  2. その目的は、大衆に知識と教養を身につけさせることだった。
  3. その成果として、大衆は以前よりも多くの余暇と財政力を持つに至った。
  4. しかし、大衆はその余暇と財力をマスコミ(テレビを見るなど)に使った。
  5. そのため、知識人は大衆を「横取りされた」と感じ、マスコミを嫌っている。

ちなみに、たぶんこれは知識人をからかうためのネタで、ラザースフェルドもあんまり真剣に論証する気はなさそう。

*1:ここでは、「Googleによって皆の思考法が変わる」系の問題はとりあえず考えないことにしよう。たとえば、鳥の目の視点ばかりが強調されて虫の目の視点が失われる(脇田先生のブログ)、Googleでえられる情報がすべてだと思ってしまう、階層や秩序のある情報整理・思考ができなくなる(べたーっと検索型の脳味噌)など。

*2:ラザースフェルドはオーストリアに生まれ、第二次大戦ごろにアメリカに移住した社会学者。アンケートを配って集めて統計分析して、人々の考えていることを明らかにする、という意識調査の手法を開発・完成させたのが最大の業績です。