------------------  夢を持つ


ある昭和ヒトケタの人の話・・・・・なかなかのご託宣でした。
近頃、職場での人間関係や職場での自分のポジションを気にするばかりで、仕事を楽しみながら、自分の仕事が社会の中でどの様な意義をもち、あるいは、自分の夢の実現の為に今何をすべきかを考えて仕事をする人が、少なくなったように感じる。
ニートやフリーターで生活ができて、ある程度の収入があって、波風がなく楽しく暮らせればそれで良いらしい。自分の将来や仕事に目標がないので、関心事は、現在の職場の中で仲間はずれにされないことと、職場の中にとりあえず自分の立場があること。
しかし、個々人の社会での存在意義が希薄で、職場の対人関係の中にしか存在がないので、お互いの関係がほころびるとどうしようもなくなる。
そんな小さな職場でのイザコザに精を出している彼らを見ると嘆かわしくなる。


現代のいじめや逆恨み等の事件のルーツも、このあたりにあるのかもしれません。
大きな夢がなくなると、関心は身の回りの小さなことに向かう。小さなコミュニティーに居場所がなくとも、その先にある大きな社会に繋がっている感覚があれば生きていけます。
自分の夢の先にしか、社会と繋がる道はありません。
かつては、夢をかなえるまでの過程に、社会に認められるまでの間に、修業や徒弟制度という教育するシステムがありました。(学校という教育システムには責任がついて廻らないので、余程強い意志が無いと、何も覚えることはできません。)徒弟制度は封建制度の中の前近代的な修業システムではありますが、修業中は「半人前」というモラトリアムな肩書きが与えられ、社会的責任からある程度保護されていました。その間に、仕事に習熟すること以外に多くのことを覚えました。修業は仲良しクラブではないので、気の合う人もいれば合わない人もいます。職場での人間関係を嘆くよりも、気の合わない人ともうまくやることを自然に覚えました。
しかし、現在では昔ほど習熟が必要な仕事が少なくなり、修行や徒弟制度がなくなり、同時に職業意識を身に付ける機会も失いました。


「私は、この仕事のプロフェッショナルです。お客様によろこんでいただくのが私の仕事です」どんな仕事でも、人様からお金を頂くというのはそういうことでしょう。コンビニのアルバイトをしていても、お客様の先に社会に繋がる意識をもてれば良い。
しかし、いつからか働く人の関心事は、お客様とその向こうに広がる社会ではなく、職場内での給料の額と人間関係になってしまった様です。


問題の多くは「夢を持つ」ことがなくなったことに原因がありそうです。
フランスの様に「夢を待てない時代の閉塞感」に対して、「俺達にも夢見る権利を!」と暴動を起こせるような素直なエネルギーがあれば状況はまだましです。
日本のニートに関しては、悲しいかなカトラーさんの心配には及びません。
彼らから聞かれる言葉は、「皆で一緒になって暴動なんてありえない。僕は他のニートとはちょっと違って、夢を探しているニートだし・・・。」とカッコつけるのが関の山でしょう。
本音は「夢なんてなくても食えるし、夢を持ってそれをかなえるのもめんどくさい。」のに、自分探しと称して、自分で自分を個性化している彼らは、社会から見れば滑稽なだけです。団塊の世代ジュニアが、大学に8年間通ってモラトリアムな時間を過ごした親達と同じことをしているように見えます。彼らを「時代の閉塞感」と時代感覚で容認し、状況を煽っているマスコミの態度にも違和感を感じます。
「夢を持つ」事ができないのか、飽食な時代に自分の「夢」を決断できないのか、そんな言い訳は聞きたくありません。
いつの時代でも、夢を持つのは、自分自身であり、夢をかなえるのも自分自身です。簡単に言えばこれだけのことなのに、何か別のことに問題が摺りかえられている感じがします。